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丹波の

夷(えびす)
京都府福知山市夷


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京都府福知山市夷

京都府天田郡上川口村夷

夷の概要




《夷の概要》

佐々木川の谷と大呂川の谷の間にある。立原・野花から夷の峠を越えて日尾に出るのは昔の「出石街道」であった。今は下小田から入るよう改修されているので、通る人はあまりない。
大呂集落

古代には川口郷(和名抄)、中世には河口庄に属した。
夷村は、江戸期~明治22年の村。野花村の枝郷。はじめ福知山藩領、延宝5年からは上総飯野藩領。万延元年、飯野藩領にも五千石騒動と呼ばれる強訴が起き、その際に当村仁兵衛は打毀にあっている。翌文久元年に、大庄屋・村役人ほか43名が摂津国浜村の藩役所に呼び出されて入牢吟味のうえ頼母子講金の賦課を承諾させられ、当村は7両の負担を仁兵衛以下6名ではたしたという。明治4年飯野県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年上川口村の大字となる。
夷は、明治22年~現在の大字。はじめ上川口村、昭和30年からは福知山市の大字。


《夷の人口・世帯数》 68・23


《主な社寺など》

有徳神社
有徳神社(夷)
大信寺の境内から登る、「宇徳神社」と神額には書かれている。参道途中の獣除けフェンスが閉じられていた。
宇徳大明神  夷村
祭神     祭礼  
古老ノ伝ニ云宇徳三社ト云習ス八幡太郎義家加茂次郎義綱新羅三郎義光ヲ三神トシテ祭ル由古来ノ伝之
本社三尺四方 境内除地
天神社  同村 上ノ垣ニ建
本社三尺四方
(『丹波志』)

村社 有徳神社  同村字夷小字堂ノ上鎮座
 祭神 源義家、義綱、義光三人の霊を祭ると云、もと大信寺の鎮守たりしを此所に移し奉りて氏神とすと年代不詳
 社殿    境内 二百四十歩  末社 稲荷神社、蛭子神社
 祭日 十月十七日 土用入ノ日   氏子 廿九戸
(『天田郡志資料』)

社前に鎌倉権五郎景政を配祀するともされている。宇徳・有徳というのは分限者のことで、お金持ちのこと、徳のある人、ブをわきまえた人がお金持ち、カネに使われその奴隷に成り下がり徳などとは無縁になった今とは逆だが、鍜冶で産をなした片目の鍜冶神を祀る社と思われ、当地もまた鉱山や金属精錬鍜冶の地であったことによると推測される。片目の影政を祭神にしているのはそうしたことであろうが、河内源氏の三兄弟がなぜ祀られるのか、関係ないのか、あるいは夷という当地の地名と何か関係があるのか…


臨済宗妙心寺派天寧寺末妙高山大信寺
ながく急な石段を登る、立派な山門は市文化財。同じく市文化財の木造十一面観音坐像が伝わる。
大信寺(夷)

妙高山大信寺 禅臨済宗 夷村
  大呂村天寧寺末開山愚中禅師
     薬師堂四間四面除地
(『丹波志』)

妙高山 大信寺 (臨済宗) 同村字夷
 本尊 地蔵菩薩  開基 玉岫珍公禅師 (丹波志愚中和尚)
創建 延文元年(実は正平十一年、延文は北朝の年号なり)
檀家   財産
郡新四国第三十八番の札所なり。
(『天田郡志資料』)

薬師堂


大信寺木造十一面観音坐像 (福知山市字夷)
本市にのこる数少ない十一面観音像の中で最古、最高の遺品として後世に伝えのこしたい作品である。
 通常は本面の上に十ないし十一の小面をもつのであるが、本像はすべて後補である。
 像高五七・八センチの坐像で、現在境内の観音堂に安置されている。典型的な藤原末期の定朝様の仏像で、柔和なやさしさが満ちあふれており、両腕先、天衣、裾前などに後補の部分もあるが、その作風は洗練されている。
 十一面観音信仰は奈良時代後期より平安時代にかけて地方にもその広がりをみせているが、この像の存在は当地方にもかなり古くから信仰されていた証拠と言える。
  昭和四十七年五月 福知山市指定文化財に指定。
(『福知山市史』)

*まちの文化財〈1〉*洗練されたバランス感*木造十一面観音座像(福知山市夷・大信寺)*
 福知山市西部、国道9号から車で五分ほどで、もう世間の喧騒(けんそう)も届かない山里になる。その奥に大信寺がある。本堂の横、古びた小さなお堂の中のミニ伽藍が安置場所だ。
 姿は小振りだが、ヒノキ材を用いたふくよかな顔だちや涼しげな目元を表現した繊細な彫り、全体の構成を貫く洗練されたバランス感は、平安時代末期の定朝様の典型とされる。
 大江文道住職(48)によると、明治二十一年、さらに奥にあった慈眼寺という尼寺から観音堂とともに移されたという。「人徳のある住職がいて、信仰厚い寄進者がこの地に像をもたらしたのだろう。寺の格式も高かったと思う」。そのやさしさ、温かみは、尼寺での長い年月で身につけたとさえ感じられる。
 地域の人々は、古くから「観音さん」と呼び、親しんできた。今も、四月の春祭りや八月の千日参りには地区民総出でまつる。大江住職も、観音堂の裏に石垣を積み排水路を掘って湿気を防ぐなど、保護の努力を続けている。「像の本格的補修もしたい。末永く地域の人たちと一緒にいてもらいたいから」。大江住職の熱意と、地区民の愛着が、観音像を守っている。
〈メモ〉像高57㌢、膝部幅41.3㌢、同奥行29.5㌢。同種観音像では福知山市内最古。昭和47年5月、市指定文化財。
(『京都新聞』(97.4.3))


《交通》


《産業》


夷の主な歴史記録



 金山街道を後へ戻り、野花から音の出石街道へ出る。野花部落を通り抜け山道を進むこと寸時で夷部落へ行く。この街道筋は昔は中々賑かで、特に野花には茶店旅人宿などか立ち並んでいたとのことである。今は上川口駅から、山陰街道を横切って佐々木川沿ひで山谷を通り三岳村へ通じてゐる。四方山で包まれた小盆地のこの部落は、質朴な純農村で、戸数わずかに三十農業、養蚕の他林業製炭業を以て生業としている。 村の北の山の中腹に有徳神社がある。祭神は新羅三郎義光、八幡太郎義家、加茂二郎義綱の三人で、元は妙高山大信寺の鎮守であったか、後世になって村民の敬仰するようになり、遂に氏神となったのであるという。創建は延宝貳年である。
 この氏神様と隣合って妙高山大信寺という禅宗臨済宗の寺がある。今を去る五百六十余年前即ち延文元年の建立で、玉岫禅師の開基である。御本算は地蔵菩薩である。玉岫禅師は天寧寺の開山愚中禅師の高風を慕い、後同人の閑居に起居して、愚中禅師を開山に仰いだ。後、幾星霜を経て、一時は衰えたか十三世定巌和尚が、堂宇を再建し、済宗和尚、又山門鐘棲を建設して以来漸衣隆昌となり、現時の黙獄外和尚に至ったのである。黙外和尚は書道の大家として、その名近国に知られ、又其徳風は本村民の敬慕する所である。


『原日本考(続篇)』
エビス神のエビスに関しては、在来、戎、夷、胡夷、恵比須等の文字が与へられ、低劣野蕃な異民族を意味するエビス、エミスの方には、蝦夷の文字を宛ててゐる。この両者が同じものであるか、偶然同音の言葉が存在してゐるのであって、両社間には何等の開係も無いのか、在来の学者も解決を試みんとした人があり、中で故喜田貞吉博士の蝦夷をカイと読み、エビス神を大国主命と見た有名な所説もあるが、依然として両者の関係もエビスそのものの語源も明瞭でない。

従ってエビスとは勿論よい意味は含まれないが、優強なる同一民族内の者に対しても言ひ、問題は吾れに飽くまで頑然と敵対反抗する事が中心の意味である。こゝでエピスなる言葉の本来の意味と見做すぺきものを吟味するに、筆者の所見では此のエは母音イと同じく、日本語上では意味のない接語で、結局此の語の根蝶はビスであると見て、へシ、ヒソ、ビソ、ユピソ等の語類に是れは通じ、鉄と云ふ意味であると諒解する。従って是れを人に就いて言へば、エベスとは鉄を使ふ者と云ふ事になるのである。
 日本民族の先発部民は、神武天皇の御東征以前遥かに日本列島沿岸を伝ひ、鉄を求めて北上してゐた。彼れ等は航侮に熟練し、原始的な技術だが製鉄法を知り、低度ながら階段耕作を営んで生活してゐた。但し奥に行くに従って生活状態は粗野卑賎で、追々に当時の中央地方で発達する文化から迫ひ越され、蒙昧低劣を以て目せられる事になった。エピスと云ふ言葉は転換し、その状態の民を言ふ様に成ったのも必然の推移であった。
(『天田郡志資料』)

エビスという地名はあちこちにあるのだが、たいていはその地にエビス神社があったり、あるいは商店街で雅名として用いられている比較的に新しい地名ようであまりたいした意味はないようだが、当地はそうした軽い意味ではないかも知れない。
海人族の神は元々はエビス様だが、その関係か。あるいはあえて推測するならば、祭神の河内源氏の三兄弟(頼朝や尊氏の祖でもある)は蝦夷の裔という安倍貞任らと闘っていて(前九年の役)、当地夷の地は東国の蝦夷と何かの繋がりのある地なのかも知れない。片目の有徳神、金持ちの片目の鍜冶屋神を祀る採鉱冶金の地だから、あるいはそうした業務の奴隷的労働力としてその俘囚たちがここへ連れてこられその労働に従事させられていた、かも知れない、そうした歴史のかすかな痕跡なのかも知れない。
蝦夷を低俗野蛮と見るのはあくまでも皇国史観の自分ほどスンバラシイ、エライものはなく、ほかは野蛮人で、鬼・土蜘蛛・ヘビ・オロチの類でムシケラ・害虫でしかない、侵略しようが焼こうが奪おうが殺そうが拉致しようが、何しても勝手放題とする、カレラの立場からの根拠なく勝手に舞い上がったクソどもによるおハナシである。
今の米帝史観だが、古来よりこの史観しか持たないどこかの国では太古からの支配層の伝統精神のようなもので、これが国内でもかつて行われた、国内のなびかない海人族へ、そして国外であった東国の蝦夷たちへ、そして最近では朝鮮や中国へその手を伸ばした。
カレラのこうした伝統的倫理と、それに無批判に追従する民々がこの国を誤らせた、今からでも修正して正していこうとしなければまたまた繰り返すことになる。
しかし総理大臣・海軍大臣だった米内光政も安倍貞任の末裔であると自負していたし、安倍総理の父親もよくワシらは蝦夷の裔だと言っていたと伝わる。単に政治的パフォーマンス発言なのか真偽のほどは不明だが、反王権の勇猛な勢力のホコリをこめて彼らはそう言っていたようとされる。言うだけではアホでもするが、しかしそのツラすら汚してはいないか強い米帝と大資本によりそうだけしかできない、いいなりの誰かさん、ならびにその一統連中…

有徳神社の祭神と採鉱冶金に関する民俗学的考察
金山・川口・金谷・夜久野方面に有徳神社という宮が存在する。すなわち旧上川口村字夷の有徳神社は源義家、同義綱、同義光を祭り、旧上夜久野村字板生の有徳神社は進雄(すさのを)命を祭り、その末社に鎌倉神社と称し、鎌倉権五郎景正を祭る祠がある。また旧下夜久野村字千原に矢取神社というのがあって祭神は日本武尊となっていて、鎌倉権五郎の仇、鳥海与三郎の霊が白鳥となって同地へ飛来したといい伝えている。これは日本武尊の霊が伊勢の能褒野から白鳥となって、大和や河内に飛んで来たという記紀の伝説と類似するもので、いわゆる「白鳥伝説」の一つであろう。
 一方市内字田和の有徳神社は、鎌倉権五郎景正及びその母が祭ってあると同社に標示してある。なぜこの地方にほとんど無縁の義家や景正を祭っているのであろうか。この地方では次のような俗信もある。昔田和の神と千原の神が戦いをし、田和の神は目を射られ、その矢を抜いてやった千原の神は逆に怒られて腰を射られたというので、後世千原の神に矢を供えるようになったといい、近代でも田和の人と千原の人とは結婚することを忌むというのである。また田和の神は古来眼病治癒の神として人々が参詣し祈願したという。(現今はその習慣は絶えている)
 元来田和の有徳神社は、字宮垣の一宮神社の分霊を一条天皇の正暦五年(九九四)に、田和が宮垣から分離した時に移し祭ったものという。そして一宮神社は、貞観三年(八六一)に出雲大社の祭神大己貴神の分霊を祭っているのである。それがどうして鎌倉権五郎をまつるといい、また「目の神」となっていったものであろう。
 古語拾遺によれば、忌部氏の祖に天一目命というのがある。天一目命は日本書紀の一書に曰くというところでは、天目一箇命とかいて作金者(カナタクミ)となっており、名のごとく採鉱・冶金をつかさどったものとなっている。この地方では古代において相当金属鉱物を産したらしく、その鉱山業に従事する部民が、この天一目命を祭ったものであろう。実際田和(宮垣)にはごく近代でも銅山が経営された。田和には鉄滓もあるし、額田は泥形(にかた)に通じ冶金に関係する地名ともいわれる。丹後の浜詰にも鉄滓が出るし、中郡五箇村の藤社の末社には金屋神社があり、天一目命を祭っているという。旧上川口村字上小田の三吉野神社は金山彦命(鉱業神)を祭り、下夜久野の三柱神社の末社に鍛冶神社がある。こういうわけでこの天田郡西北部一帯は古代における冶金・鍛冶に関係が多いことがうかがわれよう。
 もともと採鉱冶金の術は他のそれと同じく朝鮮から伝来したものらしい。最近は木炭と共に鉄鉱を焼いたが、後に石や粘土で炉を造り、蹈鞴(たたら)(「ふいご」のこと)でもって強い風を送ることが行われるようになった。(応神紀に韓鍛治 卓素入朝のことが出ている)こうして新しい朝鮮の技術の輸入により、天目一箇命のことは忘れられ、ただ漠然と、「目一つ」ということのみが強く印象づけられて残り伝わったのであった。
 ところが後三年の役に源義家に従った鎌倉権五郎平景正というものが、金沢柵を攻めた時、敵の矢が景正の眼にあたったが、景正は自らその矢を折って、別の矢で敵を射殺し、冑をぬいでたおれた。矢はまだ眼に立っていたので、戦友三浦為継が足で景正の顔を踏んで矢を抜こうとしたところ、景正は立って刀を抜き、人の顔に足をかけるとは何事ぞと為継を殺そうとした。為継はその失礼を詑びて跪いて矢を抜いたという。関東武士大中臣氏がこの地方の地頭に補せられて、この地方に来てからこの武勇伝が地方にも喧伝されたので、片眼となった権五郎と、天目一箇命が混同されて、権五郎が冶金の神に間違えられたものである。
 なお一般に、金谷とか金屋とかいう地名は採鉱に関係がある場合が多いということは、香取秀真著「日本鉱業史資料」にも書かれており、また天目一箇命の子孫は主として剣を作る家柄となったもので、命やその子孫のことは播磨風土記や姓氏録にしばしば出ている。
(『福知山市史』)




夷の小字一覧


夷(エビス)
赤 阿多倉 稲置場 幾佐田 入井坂 因幡 上ノ垣 梅ノ貝 後ケ岶 夷小田前 枝ケ谷 檜原 岡 奥ノ山 押ケ谷 大良 於名田 於名寺 鍛治屋地 消尾畑 毛蔵 小西 荒神ケ谷 才ノ木 申酉 下ノ坂 下ノ池町 清水ノ元 シデノ木 曽尾木谷 立道 滝ノ段 田和中 茶屋ノ前 地主ノ元地蔵 天神ノ下 天神ノ浦 寺坂 峠 寅丸 堂ノ上 堂ノ下 堂ノ前 堂ノ奥 土居ノ元 中生 中ノ下 中主 西ノ谷 野花 橋ノ本 浜突場 花岶 八部地 平野 広久川 深田 深田ノ上 松林 松尾 宮ノ上 溝ノ下 道ノ下 無瀬ノ下 森貝 森元 山田坂 山ノ口 柳久古 由利道 小田前 下ノ段 梅ケ岶 阿多倉 因幡 梅ノ貝 梅ノ岶 上ノ垣 後ケ岶 檜原 枝ケ谷 岡 奥ノ山 押ケ谷 大良 鍛冶屋地 絹屋畑 毛蔵 小西 荒神谷 申酉 下ノ坂 下ノ池町 シテノ木 立道 茶屋ノ前 地蔵 地主ノ元 天神ノ浦 寺坂 寅丸 峠 堂ノ上 堂ノ下 堂ノ奥 浜突場 西ノ谷 花岶 平野 広久川 松林 宮ノ上 溝ノ下 森元 山田坂 柳久古 由利道

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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