丹後の地名

須津(すづ)
宮津市須津


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京都府宮津市須津

京都府与謝郡吉津村須津

須津の概要




《須津の概要》
須津(野田川町側から)
天橋立の内海・阿蘇海に面した一番奥まったところにある聚落。↑その奥側より倉椅山ごしに須津。
野田川の河口部、倉梯山の南麓、日本冶金工場や、丹鉄「岩滝口駅」(阿蘇の入江駅)がある。↓

須津彦神社の伝統芸能が壁に描かれている。
野田川を北に越せば与謝野町の旧岩滝町、西は旧野田川町。

須津村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。
慶応2年の洪水による半壊2軒・全壊1軒という。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属した、同22年吉津村の大字となる。
須津は、明治22年〜現在の大字名で。はじめ吉津村、昭和29年からは宮津市の大字。
今はバイパスができているが、以前はこの須津峠を越えて東南の宮津城下に通じた。

《須津の人口・世帯数》1062・337

《主な社寺など》

倉梯山一号墳・二号墳(いずれも円墳)、一号墳からは須恵器・直刀片・勾玉などが出土した。霧ヶ鼻一〜四号墳(いずれも円墳)
柿ノ木古墳、才ノ木古墳(須恵器出土)、吉祥古墳(円墳。土師器・須恵器・玉類など出土)、八幡一〜四号墳(いずれも円墳)など多数の古墳。多くは破壊され完存するものは少ない。その出土品の一部は大江山ニツケル工場・吉津小学校などに保管されているという。

須津彦神社・須津姫神社

須津彦・須津姫を祀る神社。社名からしてもずいぶんと古い古代の神社と思われる。夫婦神だから一緒にいるのが当たり前だが、仲良くされると具合が悪いと考えて、多くは権力側の介入で分けられてしまったり、一方が消される、名を変えたりして実体が変えられる、当社は実体が変えられたのかも知れないが、権力とは正面衝突することがなかったものか。
顕宗・仁賢を雄略からかくまった所だ、その時オマエらは何をしていたのだ、とか倉梯山をうまく使うよほどの知恵者がいたものか。
江西寺の裏山にある愛宕神社は、藤原保昌が慶安3年に現在地に移したといい、「北向き毘沙門天」を祀る。当社も北向きで、オケヲケをかくまっていたというくらいだから、根っから権力に背を向ける北向きなのでなかろうかと思われる。
普通は神社は南面か東面している、天子南面の太陽神に連なる支配者側体制側のグル連はこの原則である。しかしまれに北面、あるいは西面している神社がある、これには何か理由がありそうである。鹿島神宮とか諏訪大社、南宮大社、その国の一宮だが北面している。だいたいは反中央系で鉱山系の神社でなかろうか。
祭事(まつりごと)とは政治(まつりごと)であった、神社は近頃はお助け所みたいなものになってしまい、ずっと大事な地域の社会史は忘れられ勉強する人も少ないが、こうした意味でも大事なもの。
こうなっているのは何かそれなりのこだわりがあったと思われる。太陽に背を向ける北向きは、押しつけられたものかそれとも主体的に選んだものか。
須津彦神社(宮津市須津)
また与謝郡式内社の阿知江イソ部神社、あるいは吾野神社に比定する説もある。また億計・弘計二皇子が難を避けた余社郡はこの地をさすという伝説もある。

案内板がある。
須津彦神社・須津姫神社の由来
当神社は 男神女神の二神をお祀りする稀な神社です
須津彦神社は去来穂別天皇(第十七代履中天皇・在位四二七〜四三二年)須津姫神社は久呂比売命(履中天皇の皇后)を祭神としてお祀りしています
王谷(大谷・此地から西へ一粁)の地に建立されていた当社は、大同二年(八〇七年)現在の吉里の地に遷座されて村人の氏神神社となり、嘉祥二年(八九四年)社殿を再建、その軒札に 須津彦・須津姫として崇め奉ることが記されています
延長五年(九二七年)に記された「延喜式」神名帳によれば 丹後国与謝郡の小社としで阿知江イソ部神社となったと記され、これが須津彦神社と云われています

語り伝えられている神社創建の謂れ
安康天皇(第二十代・在位四五三〜四五六年)の御代・雄略天皇(第二十一代・在位四五六〜四七九年)に父・市辺押磐皇子(履中天皇の子)を殺された弘計の命(後の第二十三代顕宗天皇・在位四八五〜四八七年)は、兄・億計の命(後の第二十四代仁賢天皇・在位四八八〜四九八年)と共に与謝郡のこの地に難を避けられました。二皇子は、身を隠された御所之内の地に仮宮を造営され、是を眞鈴宮と名付けられて住まわれました、この時、祖父の去来穂別天皇と祖母の久呂比売命の御霊を王谷(大谷・東宮ヶ谷)の地に鎮め祀られた、と伝えられています。
当神社の境内には、摂社として、弘計の命は西之荒神(大西大神)億計の命は東之荒神(奥山大神)として祀られています。
(参考文献)古事記(七一二年編) 日本書記(七二〇年編) 吉津村誌 神社記録


須津神社 吉津村字須津鎭座、村社、祭神・須津彦命須津姫命、往昔大谷の東宮ケ谷にありしを後世今の地に遷したりといふ。安康天皇の朝三年冬十二月履仲の皇孫億計、弘計の二王難を此地に避け給ひ去來穂別命と久呂姫命を祀り奉りし宮なりとの傳あり。日本地理志料には式内吾野神社を當社に比定し「祀典所?吾野神社在須津村吾野地曰鈴彦明紳」と為し、丹哥府志には式内阿知江イソ部神社を當社なりとし丹後旧事記、丹後一覧集、丹後細見録等みな同じ。神社内陣に古代の尊像(写真参照)及び元文二年の社記あり須津村鎮座阿知江イソ部神社云々とあり。明治六年二月豊岡縣より村社に列せられ例祭十月四日、氏子百八十六戸、社寳御鳥羽天皇御宸筆短冊、仁孝天皇御手箱等あり。境内末杜八幡、若宮、睦合、唄和津等の小祠あり。唄和津神社は元倉椅山の王下にありしを明治七年八月今の地に移す、聞説く仁徳天皇その皇妹女鳥姫命を寵し給ふや皇后磐之姫命之れを嫉みて除かんとし、皇弟速総別命女鳥姫を救ひて丹後に走う倉椅山に匿れしも追手に追窮せられて薨じ給ひ「はし立の倉はし山はさかしみと、いはかきかねてわかてとらすも」の御辞世を遣し給ひしとて御同胞爾奪を祀り爾來唄はずの宮といふ。蓋し文字唄和津とあるも恐らく「ゴーヅ」にて地名王下といふより見れば牛頭天王を祀りしならん。
(『与謝郡誌』)

須津彦・須津姫神社の祭礼
神楽、太刀振り、笹ばやしが奉納される。






だいたい11時すぎから順次奉納される。


臨済宗妙心寺派大寂山江西寺
蕪村の寺として知られ、蕪村筆という風竹図屏風を所蔵する。案内板には、江西寺(宮津市須津)
江西寺
宮津市字須津
大寂山江西寺は、現在は臨済宗妙心寺派に属し、本尊は釈迦如来。創立の経緯や年代については詳らかではないが、寺伝によると、もと江栖庵と称し天台宗に属していたが、慶安三年(一六五〇)現在地に移転したとき、中国の江西のように風光の優れた地に伽藍を構えたことから、江西寺と改められたという。確かにこの地は須津地区において阿蘇海、天橋立を見下ろすことができる景勝の地である。
 当寺は、多くの貴重な文化財を所蔵している。近世絵画では、丹後逗留時代の与謝蕪村が描いた風竹図屏風(府指定丈化財)がある。十六羅漢像、地蔵菩薩二童子像(いずれも市指定文化財)も中世の優れた絵画資料として価値が高い。また、本堂後背の庭園(府指定名勝)は、石組により滝や屹立する崖を表現した、江戸時代中ごろの枯山水庭園である。座敷から観る春の新緑、秋の紅葉の眺めは素晴らしい。江西寺の案内板
宮津市教育委員会

大寂山江西寺
吉津村字須津の西の立にあり本尊釈迦牟尼如来大同年間平城天皇の御願により本村枯木浦に江栖庵を創建し将軍地蔵を安置す是実に本寺の濫觴なり嘉承二年住僧仁海なる本堂宇を再建するや支那江南大寂山江西寺に模し橋立江の西南に伽藍を建築せるを以て大寂山江西寺と名く而して延宝四年祖伝禅師来往し始めて京都花園妙心寺派に属す慶安三年将軍地蔵を枯木浦の海浜より現今の愛岩山に遷坐し江西寺を其麓に移轉す寺宝兆殿司筆十六羅漢画像あり。
(『与謝郡誌』)

枯木浦・倉橋山・倉橋川などの名勝。
↓中央が倉椅山、手前の海が枯木浦。倉椅川は今の野田川のことで、下の写真の手前を流れる川。
倉椅山

倉椅山
倉椅山はこんな小さな山である↑。クラハシというのは倉、高床式の倉に立てかけた梯子のような屹立した山の意味であり、垂直に近いような嶮しい山であろう、はたして本来の倉椅山とはこれであったのかと疑ってしまうのである。
枯木浦の背後の倉椅山、これは東舞鶴と同じ構図で、あるいは祖母谷の奥の三国岳が元の倉椅山で、ここに移動してきたかも知れない。枯木、倉梯、溝尻、こうした地名が両地に見られる。
「海部氏勘注系図」の海部直縣には「葬于余社郡真鈴山」の注文がある。当地のことであろうか。

さて『丹後風土記残欠』には、(加佐郡)
大内郷。大内と号くる所以は、往昔、穴穂天皇の御宇、市辺王子等億計王と弘計王此国に来ます。丹波国造稲種命等安宮を潜かに作り、以て奉仕した。故に其旧地を崇め以て大内と号つくる也。然る後に亦、与佐郡真鈴宮に移し奉る。(以下三行虫食)。
とある。その「真鈴宮」が須津神社と伝える。「安宮」は今の舞鶴市上安(うえやす・市の体育館があり、ついこの前の大相撲巡行で挨拶で倒れた市長を救命処置中の女性に、女は土俵から降りろと言って全国的な大ブーイング。スンバラシイ国のデントーというのか男どもというのか、そのサイテーぶり丸出し、こんなことだからデントーだレキシだなどと言えばアホかと横向かれるのだが、ナンボ伝統、歴史だといえども際限もなく思い上がるとこんなことになってしまう。上安はそんなことで超有名になった)にあったとされる、上安の元々の地はその体育館のある所・吉井という所だとされる。須津彦神社のあるあたりは吉里であるし、上安のスは須津のスと同じものだろうし、上安の生え抜き社は鈴木神社である。須津来か須津村(キ)か、何とも所以ありげな地名や神社である。鈴木神社は元は上安の宮谷(五老岳トンネルに入る手前に左手に入る小さな谷)にあったという。ここがオケヲケの隠棲地かも…

また『宮津市史』には、
須津城跡
須津集落南背後の標高八○メートルの尾根上に位置する。周囲には「館」の地名が残る。田辺小太夫が構築したと伝えるが、詳細は不明。…
須津神社に館を構えていたとされる一色氏時代の田辺小太夫は、名からして田辺(西舞鶴)で、引土城にいたとか大内庄にいたとも言われる。
また須津には大川神社がある、狼の狛犬があるそうで、この社は加佐郡名神大社の天一・大川神社を勧請したものと思われる。舞鶴の大川神社のあたりでもけっこう笹ばやしはあったようだが、今は一つもない。
単に偶然の一致なのか、それとも須津付近と舞鶴には何か深い関係、もうスッカリ忘れてしまっているが、中世以前にはあったものか。

舞鶴はともかく、隣だからあっても当たり前で、ないと考える方がおかしいが、当地は遠く隠岐島と関係が深いという。出雲を経由せずに隠岐島経由の朝鮮半島や中国との関係があったものか。
水若酢神社」(隠岐一宮・名神大社)

尚、背後の奥山には「鬼の岩磐」とか鬼伝説が残るそうで、スズというのはやはり金属が採れた地だと思われる。
神社の御手洗川(宮川)の底には花崗岩の砂が溜まっている。
須津は船による交易と金属生産のセンターであったと思われる。

穴憂の里
今でいえば文珠に入るかも知れないが、「二本松」の出っ張りから文珠側のあたりを「穴憂の里」と呼んだという。人家もないようだが、ホテル「北野屋」さんがあるあたりだろうか。
穴憂ノ里   今輪の崎といふ所のよし。
  宮津記に云ふ。内海和野崎の辺なり、三角五輪くずは崎など云も此辺なり。
   おとに聞くあなふの里やこれならん
      人のこゝろの名にこそありけれ  頼圓法師
(『宮津府志』)

【穴憂の里】(菩薩岩の西、今輪の崎といふ)
音にきく穴憂の里やこれならん 人の心の名こそありけれ (頼円法師)

文珠堂の西に穴憂の里といふ處あり、穴憂の里より須津村へ出る、是をとんこ廻りといふ須津村より弓木、岩滝、男山、溝尻などの数村内海にそふて相通る。
(『丹哥府志』)
穴憂は穴生、穴太、阿納とか書く地名と同じ意味で、穴穂の鉄鉱山のようであるが、江戸期にはすでに地名も意味も失われて、ワノと呼ばれていたようである。
「海辺の地名」菅谷泰昌 わの ・あなう
 阿蘇内海の中に一岬端がある。和野崎と称し其の山嘴を和野と云ひ文字は輪野吾野とも書かれてゐるが吾野は近来書き初めたものらしゐ。物の書に依ると古は穴憂の里とも云はれてゐたらしゐが渚このニッの地名を考へるにアナウアナフがワノと転訛しワノがアナウ・アナフともぢりて称せられる事は有り得ぬことでは無い。此處のワノは果してその何れの経過を辿ったものであらうか。先づ最初にアナフと云ふ地名を捉へて見るに、之れは穴夫或は穴生から出たもので坑内で働く丈夫、坑内生活者と云ふ意味であって古代に在っては鉱山採掘の事業を為した所或は夫れに関係した土地に多く名づけられてあるが文字は色々に充てられてゐる。然し普通には穴生と云ふのが尤も多く穴憂なる雅字を充てゝゐるのも此處許りではない様に記憶する。
 桃山時代あたり盛んに全国に捗って鑛山を採掘した頃には未だアナフと去ふ語はマブ−−間府即ち坑謹のこと−−なる語と共に鉱山業者間のテクニックでゞもあったが、江戸時代に及んでは「穴生の者」と云ふと築城工事に従事する下役人や其の配下の専門業者を指すことに転意して了った。余談ではあるがマブなる語は現今では近畿、川陰、北陸、東海の一部の地方に捗ってマンプ或はマンブと転訛して専らトンネルを指す方言として分布されてゐる。
 偖かく考へると和野は嘗って鑛山でなければならなくなる。私は此處の測量を遣ったり二本松トンネルを掘ったりした経験があるから其の地形や地質を知悉してゐる。然し今夫れを詳述することは憚らねばならぬが其の結果からすれば遺憾ながら其の事あった處とは想像し難いのである。仍って此處はワノであって決してアナフから訛ったものでない。雅人がワノから上手にアナウと、もぢったものであると云ふことになる。
 或はもぢったのでは無く偶合であったのかも知れぬ。私は曩年、上野に開催された名宝展覧会で雪舟の天橋図を見たことがある。之れに依ると男山や府中あたりの北岸方面が當時−−室町末期−−に於てすら非常に殷盛であっにことが窺はれる。官道浴ひの然も国衙所在の方面とて、さもあるべき事であったが之に反し須津の如き南岸方面は寧しろ北岸に対し隷属的地位にあったらしゐ。
 須津の小字八幡にあった社が嘗って男山の板列神社へ引取られて行った如きは其の一例と云へぬでもなからう。又和野崎の東方に小字袴田、彼岸寺−−ヒンガンヂと呼び彼岸地とも書かれてゐる。−−なる地が和野に相接してあるが或時代には男山方面の火葬地であったらしゐ。隷属的関係にあったればこそ斯る事もあり得ることであらう。成程それで彼岸と云ふ名も肯がはれるし、斯る場所柄なりしに依って穴憂の里と名づけられたことであらう。此の場合アナウはワノと全然別個な関係から生じたことである。然しワノと云ふ先入観念からアナウと、もぢり穴憂の字が当てられたものでは無いかと見られぬ事はない。
 和野はワノであると云ふことになると式内吾野神社の問題が提起される。即ち吾野神社は和野に鎮座ましましたと云ふ説である。元来吾野はアノとかアガノとか訓むべき字であって之れをワノと訓んでゐる例は余り聞かぬ。去れど屡々云ふが如く転訛と云ふことがあるし殊にアとワの混同は已に古代に於てすらある例である。
 然し私の知ってゐる現地の地形からしても往古に社地があった所とは思へぬ。即ち式内吾野神社の地では無いと考へられるのである。畢竟私のワノの詮策はあな憂きことに帰着して了った。
(『郷土と美術37』(昭和17・九月号))

宮津藩御用の須津鉄山
   その鉱害告発を伝える永嶋文書  松田啓三郎
はじめに
宮津市須津地区に江戸時代の末期、僅か数年間稼働しただけではあったが、古代製鉄所が存在した史実は昭和五年発行の吉津村誌が早くから伝えていたところである。(吉津村誌第三章実業第三款工業一、製作業)
製鉄遺跡は丹後地区では珍らしいのであるが、村誌編者の永浜宇平氏が明記している通り只単に古老の口伝を採録し、現場を確認した程度で典拠とすべき記録類は何一つ遺されていなかった。それは経営者小谷文四郎が事業に失敗し、家が完全に没落した為であると言うことであった。現場の考古学発堀調査もなくて只口伝だけに頼るとすると鉄山稼行時から八十余年を経ていることであり、鉄山の全貌経営の実態等疎略となるを免れず、史実の誤認部分もあり得ると思われた。しかも、村誌が記すようにその鉄山は小谷又四郎の私営に過ぎず、短期間に失敗して了ったと云うのであるから地方史上大した問題ともなり得ず、日本製鉄史から見ても和式から洋式に移る直前の出雲たたら系に属する鉄山と見做されるから特に技術史的に注目する程のものとは思われなかった。
それにしても、丹後ではめずらしい製鉄遺跡には違いないので発掘調査する価値が全然ないわけではなく、模式的なたたら組織と地下構造を見て置くことは有益であろうと思われた。
その上、時代が時代で幕閣にあって老中を勤めた本荘氏の治領下だけに先進的な反射炉をめざす遺構がひょっとして現われたらと期待したい気持ちもあったのである。たとえ失敗に帰したものであってもである。尤もそうなると蘭学が是非とも必要で、さて宮津湾から長崎へ留学した青年があったか如何か、余り聞かぬ話なのでその期待も薄かった。日本で最初に反射炉を築き大砲鋳造に成功したのは佐賀藩で嘉永三年のことであった。佐賀藩が当時唯一の西洋文化の窓口だった長崎の港に密着した地位にいたからこそであった。幕府もじっとしていられず韮山代官江川太郎左衛門に反射炉築造を命じたのが安政元年頃のことである。近畿の雄藩をもって自認していた宮津藩が天下の大勢を知らぬ筈はなく、又詳しい製鉄技術情報も集めていた筈であるから、須津鉱山の政治的意義は軽現出来ないものであった。

(一)徳光祖大庄屋の御用手控帖
ところが昭和五十五年に筆者も加わる古文書研究会が竹野郡丹後町徳光の永嶋家に伝わる徳光組大庄屋の御用手控帖嘉永二年の一冊から、須津鉄山に関する重要な記録を返見したのである。
現地の須津村では何一つ遺されていなかった鉄山稼働時の大庄屋文書であるから、信憑性は高く、思いがけない貴重な発見となった。原典を誌上に紹介するため、影写縮小版となったし、原文はなかなかの達筆で解読困難のため、吉岡五左衛門氏の訳文と附することにした。ともかく村誌の口伝による鉄山記とは異なり頗る問題を大きく孕んだ史科だったのである。

嘉平二年
    御用手控帖
      酉  正月吉日
(略)

この大庄屋文書を要約すれば当時宮津藩内の農民は須津鉄山の為に松材を主として供出を強要されていたこと、その代銀についても大いにもめていたし、鉱毒問題が重大になり被害をうける農民漁民が納まらず、庄屋に対して苦情を集中攻撃し、つき上げて来るので大庄屋も放っておけず協議の末、連名で藩に対し鉱山の廃止方を訴え出たというものであった。これは文政大一揆以来のかなり重大な場面を伝えている文書である。
そこで先ず第一に問題となるのは村誌で記す鉄山と大庄屋が問題にしている鉄山とは同一のものか、それとも別のものかあいまいなのでそれを決めねばならないことであった。名称、所在地、時期について一致するのに前名は小谷文四郎の私営鉄山であり、後者は藩営と見做される鉄山である。何故前者に藩御用の性格が全然示されないのか不思議であるし、後者があれほど強調する鉱毒問題に現地の伝承が全然ふれないのか? 不可解である。
この問題は、当時の時代的背景を考えて次のように解析するのか妥当ではあるまいか、即ち、幕末の戦雲ただよう中で鉄の相場が高くなった。小谷文四郎が一儲け企んで初めた鉄山だが天下の大勢は宮津蕃をして鉄材の獲保、を至上命令として来た。そこで領内での自主生産にふみ込まざるを得なくなったこと、幸い私営の須津鉄山が稼働しているのを奇貨として接収し、領内の農民を動員して燃料の松材を供出せしめるに至ったのであろうと。時流によって変質を遂げた鉄山だった故に二つの文献があたかも別個の鉄山について記述していろかの如く見えたのと思われる。須津村では領主の威勢を怖れて公害に対しても口を閉ざしたのではあるまいか。大庄屋文書の方は小谷文四郎の名儀は出て来ないが、大阪に積荷しているから相応の代銀を支払えと主張している点から、経営の二重構造も伺えるのである。
それにしても村誌が次のように結語を記しているのは少なからず乱暴な論理だと思う。
『須津鉄山は本村に生産せざる鉱石を材料とし、また本村及び近郊に需要の道なき鉄塊を製造する事業それ自体に於て業務の本旨に副はず、失敗に帰する寧ろ当然の結果なりと習うべし」
(1)材料の砂鉄は極言すると全国どこにでも存在する鉱物で、問題はその採集技術と環境である。宮津討近は所謂宮津花崗岩地帯であって、例えば滝上山の山机をけづり崩して日吉川に流せば、絶好の比重撰鉱湯となり得る。滝上公園の岩骨露わな山容を見て、かってそのような試行した跡ではあるまいかと筆者は常々観ているのである。又、熊野郡には高竜寺岳山麗に現にカンナ谷と称する砂鉄採集遺跡がある。(両丹地方史第十七号昭四七参照のこと)当時の久美浜代官所に対する本荘氏の関係をもってすれば、須津鉄山の精練所にその熊野郡産の砂鉄を運ぶことも充分可能だった筈である。
(2)本村及びその周辺に鉄の需用なしとは如何なものであろう。
城下町宮津には立派な鍛冶屋まちがあった。そもそもそのカジャ町と猟子町が下宮津と称された昔から伝統の町であったし、加悦町にも岩滝町にも夫々古い金屋などの伝統があった。火縄銃の名人稲富伊賀介一夢斉は単たる鉄砲打ちではなく、火薬の調剤も名人だったから、鉄砲鍛治も造詣が深かった筈である。まして宮津湾内外に七ケ所の御台場を急造し、大砲十五門を一万五千両で作ったのが安政二、三年項のことで、嘉永二年から六・七年後のことである。村誌の論断は製鉄事業を経済面からのみ見て、その怖るべき政治性に目を向けていなかったと言うことが出来よう。
徳光祖大庄屋の御用手控帖にもいろいろの弱点がある。
l、その第一は徳光祖大庄屋だけにこの重大な史料があって、傍証のないことである。署名は大庄屋共とあるので他の大庄屋、
   加悦祖大庄屋  下村 五郎助
   皆原祖大庄屋  三宅 忠兵衛
   喜多祖大庄屋  羽賀庄左衛門
   岩滝祖大庄屋  三谷 藤兵衛
   大野祖大庄屋  高橋五郎右衛門
   弓ノ木祖大庄屋 糸井 市郎兵衛
             (与謝郡史より)
その他から同様の手控帖か発見出来るとよいのだが、それが困難であり、肝心の須津村庄屋文書も宮津藩文書の中にも鉄山に関する資料は一切発見出来ていないのである。そうだとするとこれは明治維新に解体した宮津藩が焼却処分に附したからであると解釈してよいのではあるまいか。そうだと決まれば、小谷文四郎が没落したから記録類が一切遺されなかったのではなくて、佐幕派だった宮津藩の敗戦・没落によってと訂正しなければならない。おそらく、藩命によって各大庄屋共も藩と同様に焼却処分を迫られたものだと思われる。
その中で唯一人この貴重な史料を遺した大庄屋徳光祖永嶋浅治の気骨ぶりが改めて偲ばれて来るのである。
2、その第二の弱点は鉄山に関する御用手控帖中嘉永二年の五月と六月にだけ出ていて、その結末が如何なったのか、其後の様子が一向誌されていないことである。永嶋家には天保九年〜慶安四年まで十七冊の手控帖が保存されているのに、その前後それに関する史料が全く出ていないのは何故だろうか。
3、その第三の弱点は鉱毒問題について表現にオーバーな点があることである。現在の大江山ニッケル会社に見られるように、排煙の脱硫、清掃装置がほぼ完全だと亜硫酸ガスや一酸化炭素・イオウ・ちり。などを取除くことが出来、生体を害することもなくなる。昔はその点清掃装置が開発されていなかったから、どうしても公害問題はさけられなかったが、それでも鉄山は銅山とは違い、それほど激烈なものではなかったのである。しかも通常は人里離れた深山 谷で操業し、人里に及ぼす影響はその途中で大方の鉱毒も吸収される仕組みになっていた。鉄山の立地条件の原則も、「砂鉄七里に炭三里」と言う風であったのである。ところが須津鉄山は出雲から資材を運ばねばならず、海岸に接する至便の立地で農地にも、漁場にも至近距離に在ったので相当の被害を出したのは当然だが、内海の魚業が全滅というのは常識では考えられないと、その道の専門家は首をかしげるのである。(鉄鋼連盟の窪田藏郎氏ら)
近世のたたち操業で最も盛行した出雲ではカンナ流しによる大量の土砂流出がさけられず、斐伊川下流の水田地帯にどうしても被害を与えるのが常だった。その為めカンナ流しで砂鉄を採集する期間を農閑期だけに制限されていたが、(現在は全廃されて磁力撰鉱となる)須津鉄山では如何な有様であったであろうか。
多分非常時を理由に又、藩御用をかさにきて無制限・無期限に日吉川に大量の土砂を流しつづけ湾内を汚濁せしめたのではあるまいか。農民にとって山は生命の水を配る神の山であったが、鉄山は泥を流し、毒を吐きちらす鬼や大蛇の山と変えて了ったのであるから、農民が抵抗することになったのも無理からぬことなのであった。
(二)須津鉄山の現場検証
現場は丹海バス須津小学校前の停車場から国鉄の踏切を山側に横切り歩いて五、六分である。国土地理院の地図を次に掲げる。古い方は昭二四年五万分ノ一図で新らしい方は昭五三年二万五千分ノ一図である。前者には須津峠・天橋立が含まれ、現場の地点を明示するに便であり、後者は大江山ニツケル工場の臨海造成地が明示されていて面白い。◎印が須津鉄山の所在地、須津峠は東方杉の末に出ており、須津から新旧二本の登道かある。北側の新らしい道は八幡谷と言い、近く開かれるバイパスはこゝを通る。南側の旧道の方が本道だが、新道とは違って山腹を縫って走っている。
須津鉄山は須津峠の登口、夕ケ丘団地南丘陵の鼻にある。(海抜二○M)そこに登ると眼下に大江山ニツケル工場臨海造成地が広がっている。国道一七八号線から歩いても五六分の地点である。その護岸を金得浜と称し、昔砂鉄を陸あげし、製品を積出していた。今はるばるニユーカレドニヤらニツケル鉱土を運ぶ運搬船が往来している風景を眺めていると、昔の金得浜風景が彷彿として瞼に映って来るのである。須津鉄山と大江山ニツケルとは臨戦時に発足した点で性格が似ている。戦時中は国策会社として軍部をバックに総動員態勢で運営されていたが、形式的に名儀は日本治金大江山ニッケル会社社長は、森直昶氏だったのである。歴史はくり返されると言うが、権力のやり方は全く同型の轍をふむものである。
宮津藩御用の須津鉄山は名義上小谷文四郎の私営鉄谷だったことは、「殷鑑遠からず」その地理的環境が雄弁に語っていると思う。尚、須津地区は和名抄の物部郷に属している。物部氏は大和国家体制の中で兵器生産を掌握していた部であり、大江山は広義の鉄器生産に関れんしていたと思われるから、須津鉄山も悠遠な歴史的背景をもっていると言えよう。
おわりに
以上須津鉄山について即地的資料たる村誌と同村代的資料たる大庄屋文書に恵まれたので幕末の郷土史の一こまを考察してみた。独断偏見があれば御教示に預りたい。昨年来丹後王国論さえ提唱される様になって来た丹後の古代文化が政治的に王国を形成していたとすればどうしても鉄器文化が存在したことを証明しなければ済むまいと筆者は考えているので、たとえ須津鉄山が極く近世の鉄山であっても決して疎かには出来まいと思う。
後学のために現地の発堀調査を然るべき筋で実施してほしいし、宮津蕃内の各庄屋文書の中に必ず製鉄に関する何らかの記録が潜在していると思われるので、その掘り返しに留意されるよう要望してペンを置く。
(『両丹地方史35』(82.9.25)(地図も))



《交通》
国道178号線

《産業》

須津の主な歴史記録


『丹哥府志』
◎須津村(穴憂の里の西南、是道をとんこ廻りといふ)
犬堂の西須津嶺の下に岐路あり、右は文珠道なり、左に分れて嶺にかかる、是を須津嶺といふ。嶺の下に村あり、須津村といふ。宮津より一里。
【阿知江山+石部神社】(式内、祭九月朔日)
 阿知江山+石部神社、今須津彦須津姫大明神と称す。神社口実記に、丹後国吉佐倉橋山に所祭の神二座隼総別命女鳥王なりといふ。即須津彦須津姫大明神是なり。隼総別命女鳥王は応神天皇の皇子にして仁徳天皇の異母兄弟なり。日本史云。仁徳天皇四十年三月帝欲納異母妹雌鳥以爲妃使隼総別通命隼総別與雌鳥通久之不復命帝末之知親臨雌鳥室時雌鳥織機侍女歌曰。比佐箇多能阿梅箇儺?多謎廼利餓於瑠筒儺?多波?歩佐和気能己?於須?我泥。帝乃知隼総別私通意食之(日本記按古事記曰。天皇使速総別為謀女鳥主謂速総別王曰天皇難皇后之始不能納八田若郎女故吾不欸事願爲君妾即相姦同不復奏天皇偶女鳥王室女主上機而織天皇歌云女鳥王答歌)然帝素友憂且憚皇后隠忍不罪一日隼総別枕雌鳥王膝而以謂曰鷓鶺與隼?捷曰隼哉日是我所以先也帝聴而悪之隼総別舎人等歌曰。破夜歩佐波阿梅?能朋利等?箇?梨伊菟岐餓宇倍能裟奘岐等羅佐泥、帝聴而大怒曰朕不欲以私怨滅親然彼反欲社禝乎乃欲殺之(日本記按古事記曰。雌鳥王見速総別王来歌昆婆理波阿来邇迦気流多迦日玖夜波夜不佐和気佐那岐登良佐泥帝聞之欲殺速総別王)隼総別與雌鳥逃哉伊勢神宮帝勅吉備品遅部雄?播磨佐伯阿俄能胡追之曰所及即殺之雄?等追及伊勢蒔代野殺之(日本記按古事記曰。速総別王與雌鳥王逃入倉椅山行到宇陀蘇邇爲官兵所殺)
 愚按ずるに日本史に載する所は隼総別王女鳥王共に伊勢に逃れて藤代野といふ所に於て雄?等に殺さるといふ。古事記には隼総別命女烏主苫に遁れて丹波與佐の倉椅山にかくれ後に宇陀蘇邇に於て殺さるといふ。二書の説く所各異なりいまだ孰が是なるを知らず、ざれ共古事記にいふ所今丹後の口碑に存する所及神社口実記にある所と合するに似たり。具に録して参考に備ふ。
【大寂山江西寺】(臨済宗)
【枯木の浦】(村の西)
 懐中抄 枝もなく枯木の浦も風吹けは
       波の花にそ散乱るらめ      玄旨法印
     冬見れは梢に曇る夜半もなし
       枯木の島に写る月かけ      顕朝朝臣
【乳母の懐】(村の西南是より加悦撹の庄、石川、山田の二村へ道あり)
 乳母の懐といふ處は倉椅山の麓にありて四方皆山なり。昔隼総別王女鳥王と同じく丹波吉佐に遁て倉椅山に隠るといふは蓋是處なり、元より人の得て知る所にあらざれぱ乳母の懐の如しといふよって此名あり。後に大内嶺の下に移る、今異王城の跡あり。

【倉椅山】(枯木浦の西)
 日本古事記曰。速総別命女烏王苦走丹波吉佐隠于倉椅山於是速総別命歌曰。波斯多泥能久良波斯夜麻袁佐賀志美登伊波加伎加禰?和賀泥登良鎮母。又歌曰。波斯多泥能久良波斯夜麻波差佐賀斯久母伊毛登能煩禮波佐賀斯玖母阿良受
  寓葉集旋頭歌 橋立倉椅山立白雲見欲我爲苗立白雲
       五月雨くらはし山の杜鵑
           おほつかなくも鳴渡るなり
       白雲のたな引いたる倉椅の
          山の松とも君はしらすや      貫之
       霧はれぬくらはし山の秋風の
         音にや月を鳴き渡るらん       慈鎮
       倉椅の山のかひより春霞
          としをみつゝやなり渡るらん    朝忠
【不歌の宮】(倉椅山末考)
【倉椅川】(倉椅山の西、今野田川といふ)
続古今集 橋立の倉椅川にかる螢
        永き日くらし涼む頃かな     後鳥羽院
     飛螢もへこそ渡れ橋立の
        倉椅川のくらき波間に      頓阿法師
寓葉集旋頭歌  橋立倉橋川石走者裳壮子時我度爲石走者裳
 愚按ずるに、古哥に倉椅山、倉橋川とあるは大和の十市郡にある倉橋山倉橋川なるよし。さもあらんか、なれ共古事記に吉佐の倉椅山とあれば唯口碑に傳ふるのみならず吉佐にも倉椅山あるなり。今古哥をみて此は丹後の倉椅山なり、彼は大和の倉椅山なりとはよく見分けがたし。よってみだりに録して参考に備ふと云爾。
【付録】(愛宕社、若宮八幡、大西荒神、奥山荒神、田辺小太夫館跡)

「うたわずの宮」(不歌の宮)は、須津彦・須津姫神社の境内に移されている。由緒は不明。



『丹後旧事記』
速総別尊。品陀和気尊の記に曰く(応神天皇也)娶桜井田部連島垂根女糸井比売の御子速総別尊島垂根の尊は当国與謝の郡筒川の庄日量里浦島太郎が祖也風土記に見えたり、日本古事記に曰く品陀和気尊の記に曰く娶丸迩比布礼能意富美女名は矢河枝比売生御子宇遅和気郎子次妹八田若郎子女次女鳥王(以上三柱)。古事記に曰く女鳥王大鷦鷯尊(仁徳天皇)仕るを速総別尊盗出て旦波の国與佐の倉梯山に隠る。同書に曰く大鷦鷯尊女鳥王寵愛深き故皇后妬み強く姉弟連て旦波に走る與佐の倉梯山に隠れ軍して後死也霊王谿の城王落峠も此古跡也。…神社口実記に曰く丹波国與佐霊王谿城倉椅の須津彦の須津比売と奉る二神所謂隼別女鳥王なり。或は阿知江・部の神社と云。

『丹後の宮津』
古墳の多い須津
 この「あまのはしだて」の内海に流れそゝぐ野田川が遠いむかしには想像以上に大きい歴史的役割をはたしていることが、その流域にちらばる古墳の多いこと、なかには姪子山古墳のような大古墳さえあることからも、十分知ることができる。そしていまここ須津の古墳をたずね、その様式出土副葬品などから考えられる時代をみるとき、しぜんこの野田川の流域が倉梯川時代においてすでにかなりの集落であったことが知られるのである。すなわち六世紀から七世紀にはじまり、八世紀にいたって古墳時代をおはっていること、須津ばかりでなく、加悦谷全体がおおむね同じ時代ではなかろうか。
 須津では多く倉梯山を中心に、小字からいうと−
   須津小字吉祥  一個(すでに破損)
   〃 〃小路山  一個
   〃 〃 舘   一個
   〃 〃 オーバコ 一個
   〃 〃 大谷 四、五個
   〃 〃 大下 二、三個
といった状体にちらばり、多く加悦谷寄り、石川堂谷境などである。このように一地域に古墳を多くみられるところは、わが宮津市には他にないのではなかろうか。この点、市民として大いに注意すべきであり、由良の石浦附近とともに、今後さらに調査研究されねばならない。志ある人々、一日をついやして、以上の古墳あるところを探査することも、また郷土を知り、地方の歴史的根拠を知るうえに、その利益は少なくないであろう。

大寂山・江西寺
 鉄道「岩滝ロ駅」のプラットホームにたって、山の方をみるといやでも目にうつるのがこの江西寺である。踏切りをこえて旧須津部落の中央を、まっすぐに寺への道を境内にあがると、まったくびっくりするほどの景観で、よくもまあこの地所を占有したものだと、感心させられる風光である。寺伝によると浜の枯木浦に創建されたのが大同年間(八○六−八○九)で、現在の地所へあがったのは慶長三年(一五九八)といわれる。おそらく、はじめは天台宗で、現在地へ移るときに禅宗となったのではなかろうか、やはり細川の真言倒しにつながりがありそうに思える。以来、寺を焼くこと二回、古い資料は求められないが、この寺に見るべきものが三点ある。すなわち一は無名の草花屏風一双と、与謝蕪村えがくところの屏風半双である。ことに前者は無名ではあるが、光琳派のきわめて現代的な感覚で、見るものに美しいもののよさを感じさせる。蕪村の屏風は、保存上の関係からか、かなりいたんでいる。そのほか仏画に小野篁や兆殿司の筆と伝えるものもあるが、それよりか山門上に安置される「木像地蔵尊」一体は、みごとな手法で、あるいは室町初期までものぼりうる作ではなかろうか。伝、仏工定朝の作だとされている。やがて境内をさるべく、堂外にたっとき、またしても見とれるこの景観、江西寺とは中国の揚子江辺になぞらえてつけられたとのこと、まことに阿蘇の海−−枯木浦をのぞむこの風光は、いかにもと感じさせる場所である。
 寺をおりて、足を須津彦神社にむけるもよいし、古老にきいて地内の名所旧蹟をたづねるもよい。しかし、ここ旧式内・須津彦・須津姫神社は、もと「阿知江岩部神社」であるというのは丹哥府志などである。祭神は履仲天皇(去来穂別命)とその皇后(久呂比売命)であるといゝ、例の億計・弘計が丹波与佐の倉梯山にのがれてきたという伝説につながっている。いずれにしても、この土地の古さを物語り、とくに前記の倉梯山周辺にちらばる古墳地域は、宮津市内におけるもっとも重要な対象として、観光客や研究者にも便利なように施設する必要があるのではなかろうか。


『丹後の笹ばやし調査報告』
須津・笹ばやし

名 称 笹ばやし
所在地 宮津市須津
時 期 四月二十五日

宮津市須津地区の須津彦神社の祭礼に太刀振、獅子舞とあわせて笹ばやしが奉納される。
須津ではこの笹ばやしという言葉を芸能の名称にも、また曲名にも用いている。つまり笹ばやしと呼ばれる芸能には二曲あり、一曲は「笹ばやし」(露の踊)、もう一曲は「花の踊」てある。笹ばやしの曲の場合は、太刀振装束の少年三人が神前に横一列にならぶ。三人のうち、まん中の一人は「しんぽち」と呼ばれ、右手に軍配を持ち、左手には笹竹を持って肩にかついでいる。また両脇の二名は、それぞれ左手に締太鼓を、右手にバチを持つ。この三人の前にむかいあう形で大人の音頭がいて、音頭を出す。音頭のはじめはしんぽちも大鼓もしゃがんでいるが、一節のあと立ちあがり、足を前後するのにあわせて、軍配、太鼓をふりあげて打ちながらおどる。これに対して「花の踊」の場合は踊り手がかわり、やはり太刀振装束の青年(今は中学生)三人がその役につく。両脇の二人が太鼓を持ち、まん中のしんぽちが軍配を持つ事にかわりぱなしが、しんぽちの採物が桜の枝に変る。曲は「花をみたくば吉野へござれ」ではじまり、「笹ばやし」とは歌詞も曲も異なるが、踊り手の動作はかわらず、はじめ三人は坐っており、しんぽちの「ヒートン」という言葉で太鼓が打たれ、音頭が歌をうたいだす。曲の途中から踊り手の三人は立ち、足を前後させ、それにあわせて太鼓や軍配を動かす。途中に踊り手のはやし言葉がある。その文句は「ヒーヨー」「サイ」「カース」の三種類がある。「サイ」は「ワッサイ」と言うのが本来だがちぢまったものという。また「カース」の時は、その時のみ太鼓の打ち手は太鼓のふちをバチで「カカカー」と打つ。これは曲の切りの部分に用いられる。
踊り手は六十人近い太刀振の振り手の中から選ばれた六人がこれにあたる。「笹ばやし」の曲は子供か三人、「花の踊」の曲は青年(中学生)三人である。衣装は太刀振装束のままで、タッツケに晴着をつけ、かざりだすきを背中にたらすが、頭はハチマキがない。手甲、白足袋にわらじをはく。この装束はシンポチも太鼓の役もかわりがない。以前は須津地区をお寺の所から東西二つにわけ、太刀振と笹ばやしは東部が、また神楽は西部から出したが、今ではこの区別はなくなっている。
しんぽちが右手に持つ軍扇は全長一メートルに近い大形のもので、軸は竹。上部に日月が描かれている。「笹ばやし」の曲の時にしんぽちが左手に持つ「笹」は笹竹の生木でおよそ二メートルに近い。七本ばかりの枝はそのままつけられ、先端の枝のみはらわれ、その部分に白い紙の幣がつけられる。「花の踊」の曲に用いられる「花」は桜の花のついた生木で、これも二メートルほどの長さがあり、紙の幣がつけられている。祭礼の終ったあと、これら「花」と「笹」は神社で焼かれる。氏子がその一部を持って帰るような習慣はないという。
須津地区の祭礼で神社に奉納されるのは、この笹ばやしの他に、太刀振と神楽とがある。太刀振は白いかざりのふさのついた太刀を持った子供が太鼓と笛にあわせておどるもので、この宮津市北部一帯に広く分布するいわゆる大太刀である。また神楽は大神楽系の獅子舞で太鼓をのせた楽台がつく。「剣の舞」「鈴の舞」「乱の舞」「笹の舞」の四曲が伝えられている。
祭礼の打ち合せは四月十日の「こぶしがため」て行われる。練習は太刀振と笹ばやしは公民館の前のいわゆる「庭」で、神楽は青年館でそれぞれ別に行われる。前日の「よみや」は一時に公民館に集合し、二時に宮へ入って太刀振、神楽、笹ばやしを奉納する。そのあと村をまわる。よみやの晩は神楽と太刀振は別に、それぞれの踊り手の中で今年新たに加わったものの家をまわる。太刀振の新入のものは「シンブリ」といわれる。
四月二十五日の本祭は午前十時に須津彦神社で祈祷があり、神前で太刀振がふられたあと、地区内を一巡する。行列には旗、金幣、白幣弓、傘鉾、とっけつ、ほら貝、榊などがつき、太刀と神楽がつづく。途中、路上で大川神社にむけて、太刀振と神楽が奉納される。また、やはり途中の路上で愛宕神社にむけて、太刀振と神楽が演じられる。再び神前にまでもどった行列は、その直前で位置を正す。すなわち、太刀振の列を改めて、新振りを前に出し、一列になって宮入りをする振り手は神前まで太刀を振ってゆき、社殿前までくると一人ずつ一礼して振り終り、列からはなれる。太刀振が終ると神楽四曲が奉納されそのあと、一番最後に笹ばやし二曲が「笹ばやし」、「花の踊」の順におどられる。本祭での笹ばやしはこれ一回のみで、ほかに演じられることはない。祭礼翌日の「ごえん」も今は何も行われることばない。笹ばやしのいわれ、起源にまつわる話は何も伝わっていない。祭日は、かなり昔は旧暦の九月であったらしいが、現在の四月二十五日にかわったのも、そう新しい事ではないという。祭礼の主体は、以前は青年会であったが、今は部落もちにかわり、その部落も、近年は住民構成に変化が生じているとのことである。笹ばやしは、現行二曲以外は全く伝わっていない。歌詞も口伝えで歌本はなく、やっと近年になって、お師匠さんから聞いたものを文字化して練習に使っているのみである。なお笹ばやし二曲のうち、「花の踊」は戦前に復活したものだともいわれているが確認はとれていない。    (伊東久之)





須津の小字


須津
大谷奥 宮ケ谷 大谷 大谷口 大谷小外 池ケ尾 北谷 北谷奥 柿ノ木谷 釣鐘 ツリガネ小外 堂明 一本松 芋谷 松木谷 ハリノ木 榿 松ノ木谷 鍛冶屋口 鍛冶屋 大下 湊 竹原田 ミナト 下川切 庚申田 下川切庚申田 アクビ ワカナ アクヒ 牛谷 塚穴 枯木鼻 一丁町 枯木一丁町 丸反町 枯木 山峠 下宝山 流レ川 宝山 大久保 ナガサミ オノ木 油田 長ザミ ジイ田 山田 本場 タノキヲ 鍋山 谷口 反田口 反田 日ケ久保 岡 下山田 杉ケ坪 タラノ木 板ケ坪 西ノ立 家ノ奥 荒神鼻 沖田 辻寺後 フケ町 大道筋 浜垣 髪屋敷 家堂ノ立 小和田 家ノ堂 宮ノ後 館 石小谷 石小谷川原 原谷 由振谷 ?《龍のしたに石》臼 梁谷 的場 西谷 西谷口 笹ケ谷 和田ケ谷 大年 大箱 半小 川原 馬場谷 馬場ケ谷 赤坂口 赤坂谷口 赤坂谷 山ノ神 古家 谷陰 寄穴 寺砂蛾 吉詳 向小路 宮ノ前 吉里 黍 五反田浜 五反田 与謝里 椎ノ木谷 岡田 幽浦 箕井ノ手 岡田ハマ 赤道? 赤道 大石谷 大薮 大薮浜 金得浜 金得 御所内 霧山 二反田 二反田登り 小谷屋敷 中川原 小松原 犬ノ爪 溝ノ谷 溝谷口 溝谷 カセダニ 水呑場 蝮谷 蜂山 馬乗 大土 二ノ谷口 二ノ谷 トシコ 小路山 ?町 八幡谷 八幡 蟻山 ?売 ?売 八反田 一ツ山 一ソ山浜 番屋 次郎屋敷 霞口 霞 小霞 柳原 湫谷 湫 茶ヱン 田尻 中舟屋頭 神田 平 宮ノ谷 小外 柿木谷 鐘釣 向山 宝山口 山田 タラノキ 板ノ坪 権ノ堀 上岡 中西立 中西 中西谷 寺ノ下 札場川尻 寺ノ後 寺ノ尾 中舟屋 東浜 家谷 地現谷 荒神下 家堂 宮阪 宮ノ上 梨ケ岡 明ケ谷 井根口 谷陰 砂峨 吉祥 黍浜 赤通 大平 三町田 トンコ 小路ヤマ 八反段 番屋 赤崎 秋ノ谷 小谷小外口 小峠 大久保 上宝山 流レ川東側 西浜 道分レ 杉ノ坪 西ノ立 家奥 仲舟屋 家ノ堂上 荒神下 宮ノ土 梨ノ岡 井根 大薮ハマ 芋谷奥 枯木山 ジイダ ?谷 地獄谷 椎木谷 八反圃 鞦 シリカイ 倉梯山 奥山 東禅寺 須津山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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