丹後の地名

池姫神社
(いけひめじんじゃ)
舞鶴市布敷


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京都府舞鶴市布敷森田

京都府加佐郡池内村布敷森田



池姫神社の概要

《池姫神社の概要》



池姫神社は舞鶴市の南部、池内川を遡った中流域・布敷に鎮座する神社。布敷・別所・上根・寺田・白滝・岸谷の六か村の氏神、祭神は市杵島比売神。竜神・水の神様で、雨乞いの神様であった。日照りが続くと、万燈籠ともして般若心経をあげ、十日後には、振物か笹踊りを奉納する。そして十日たっても雨が降らなければ、「石引き」といって池内川原で重さ五〜十トンもある石を修羅に乗せて、約百本の枕木の上を、四、五百人でお宮まで引っ張ったという。この社は「室尾山観音寺神名帳」の正三位千滝雨引明神と伝わる。
池姫神社(舞鶴市布敷)
今ではあまり知られていない神社であるが、きわめて詳細な記録がたくさん残されている。そのまま引かせてもらおうと思う。同社境内に掲げられた案内には次のようにある。

 〈 池姫神社
祭神 市杵島比売神
此の神様は「古事記」にある宗像三女神の一柱で安芸の宮島厳島神社の祭神で水の神様航海守護の神様弁財天の社として全国各地に祀られている。
抑 当地池姫大明神は旧名千滝雨引神(センタキアマビキノカミ)と号(正三位の社であって祭神は龍神である。往昔草昧の時、龍蛇この奥谷に棲み土地の人偶々之れを見るに恐怖のあまり疾病にかゝる者が多かった故に口谷の開墾をする時も敢えて奥谷に入る者は無かった。
そこで土地の人は大変これを心配し衆議して手力雄神に祈ったところ神の霊夢に「これは我が力の及ぶところでない、素盞嗚雄神に祈れ」とお諭しがあった。それから土地の人は更に滝水に身を清めて七日七夜の間素盞嗚雄神にひたすら龍神の祟りを免れることを祈願したところ不思議にもそれから龍神は神徳を感じて滝水の下に隠れその影さえ顕すこと絶えて無くなった。それからは土地の人は奥谷の開墾にも成功したが此際水田に水を引くの便宜に奇瑞のあるばかりでく偶々旱魃に会っても此の神に祈れば必ず雨に恵まれることが出来たので「是は龍神が素盞嗚雄神稲田媛之命の神意を克く奉じて田畝に水を灌く事を司どり五穀成就を助けるもである」と皆にこれを称え信仰は益々厚くなった。
昔時は素盞嗚雄神稲田媛之命を上の山に祀り滝の下に此の神を齋き祀ったのであるが人皇四一代持統天皇の五年卯辛六月(西暦六九〇年)大洪水のため両社共流失した。その後この地に再建され雨引の社として布敷の名と共に池内に永く存することゝなった。  〉 


龍や大蛇。手力雄神、素盞嗚命、稲田媛、天狗。五郎滝、五郎岳。
石引きというのか綱引き、笹踊り。……
鉱山の地でこれら神事が本当に農民の雨乞い神事かはかなり疑問と私は思うが、歴史学・民俗学を総動員しても、普通はそのようにのみに考えられている。この神社の氏子はも一つ氏神があって、その倭文神社との関係も考えてみなければならない。
与保呂や城屋と似ているのも考えてみるべきと思う。


池姫神社の主な歴史記録


《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 池姫大明神 堀・池之内下村・布敷・別所・白滝・岸谷・上根・寺田 右八ケ村氏神毎年順番振物踊狂言ヲ勤。本祭ハ六月十五日夜祭。踊リ有リ。  〉 


《丹哥府志》
 〈 【池媛大明神】(祭八月)
【五老の滝】
五老の滝は池姫大明神と相隔つ僅に三四丁、凡歳旱する時は則ち池の内八ケ村相集りて五老の滝より大いなる岩を引て宮の傍に至る、如斯する時は雨降るといふ、蓋滝の上は川なり、其川岩にせかれて流るる事能はず、よって昔は沼なりといふ、其沼に大蛇すみて人を害す、於是磐別命其岩を開きて流を通し其大蛇を捕へ是を斬る、後に其蛇祟りをなす、よって是を神に祭り池姫大明神といふ、於是其岩を取る時は必ず雨降る、蓋其亡魂なりと伝ふ。  〉 


《加佐郡誌》
 〈 布敷には池姫神社がある。今田以外の八ケ字の氏神である。之は参考一に記した湖に棲んで居た大蛇に毒を入れた人形を食はせ退治した後其骸を祭ったものであるといはれている。

村社  池姫神社(池内村字布敷小字森田鎮座)
祭神  市杵姫命
由緒  不詳であるが本社社記と称する古記があるから左に之れを写す事にする。
 仰当池姫神社は旧名千瀧雨引神と號へ正三位の社であって祭神は龍神である。往昔草昧の時龍蛇此奥谷に住んで居たが、土地の人偶々之を見ると恐怖の餘り疾病に罹るものが多かった。故に口谷の開墾をする時にも敢て奥谷には入る者がなかった。そこで土地の人には大変之を心配し衆議して手力雄神に祈った所、神の霊夢に是我が力の及ぶ所でないから宜しく素盞鳴尊神に祈れよと御諭しがあった、これから土地の人は更に瀧水に身を清めて七日夜の間素盞嗚雄神に只管龍神の祟りを免れて奥谷の地開墾が成就することを祈願したのに、不思議にも夫れから龍神は神徳に感じて瀧水の下に形を蔵して其影さへ顕はす事絶へてなくなった。是から土地の人は奥谷の開墾を成功したが此際も水田に水を引くの便宜に奇瑞のあるばかりでなく、偶々歳の旱するに曾しても此神に祈れば大雨の来ないことがなくなったので、識者はこれは龍神が素盞嗚雄神稲田媛の命の神意を克く奉じて田畝に水を灌く事を司り五穀成就を助けるものであると称へたから、なる程とそれからは土地の人の信仰は益々厚くなった。昔時は素盞嗚雄神稲田媛の命をも地を卜して上の山に祀り瀧の下に此神を齋き祀ったのであったが、入皇四十一代持続天皇の五年辛卯六年に洪水の為めに両社共に流失してしまった。其の後再造したのであったが、世変り星移って素盞嗚雄神の社は其跡ばかり口碑に止め雨引の社は布敷の名と共に地内に永く存する事となった。そして此谷の在る限りは後人が雨引の神を信仰する前に素盞嗚雄神及稲田媛命の御神徳を仰ぐ様にしなければならぬと昔日鍵取福地某の古書にあるのを見たが、近時享保二十年乙卯八月水害に罹って其留書も流失したのであらうと
ふ侭に後考の為のに私記して置くのであると云ふ。
     元文二年丁巳八月祭日
                      磯田閑水老人手記
  〉 


《舞鶴市史》
 〈 雨乞い
日照りが続き旱魃の害が生ずるようになると、どこの村でも雨乞いの神事がおこなわれた。初めは氏神や村内の水神に般若心経をあげ、さらに大旱魃になると、近在の名社や高峰(弥仙山・赤岩山など)に鎮座する諸神に参拝したり、山頂たとえば青葉山(登尾)や丹波との境界山(与保呂)で大火を燃やすなどして、雨乞いを祈願した。
 行永では、村はヒナカ(半日)休みにして、丈夫な男子はオミセンサンにお参りし、この代参者を残った村民はこぞって見月峠(行永)の下まで出迎えに行った。池内や与保呂地区では、池姫神社に雨乞いの願をかけておき、村中総出で大岩を山から境内まで石引きした。
 人びとの祈願がかなえられて待望の降雨があると、村内では雨喜びといって、半日ないし一日の作場止めをして休んだ。
 なお、年中行事としての雨乞いの火祭りは各地でみられた。東神崎・西神崎では、子供たちが七月十七日の祇園さんの日に、海岸で竹の小屋組みを沢山こしらえて、家々から提供された麦藁で屋根をふき、小屋の中へは浜に打ち上がった流木を積みこんでおいて、竹の先につけた葦の松明で小屋に点火して燃やした。このとき子供らは一斉に「雨をくだされ祇園どの」とわめき続けた。

五老の滝   (布敷)
 五老の滝は池姫神社からわずか数百メートルの所にある。日照りの続く時は、池ノ内八ヵ村から村人が集まって、五老の滝からお宮まで大きな岩を引くと必ず雨が降るといわれている。
 この滝の川上は岩でせかれて流れず、昔は沼であったといい、その岩を取ると必ず雨が降るのは、その沼の主といわれる大蛇の亡魂のためだと伝えられていた。

池姫神社祭礼笹踊歌

  〉 



『市史編纂だより』
 〈 〔池姫明神注釈〕
      専門委負 西村尚
 市史、名説編の分担執筆中に派生したことを略述して、ご教示を仰ぎたいと思う、極くささいなことであるが、信仰の伝播(でんぱ)ないしは信仰圏と集落形成といえば大げさで、書き進めたがら私見もまた何らかの考察に至るといつた態のものとたろう。
 市史史料編所載の「丹後国加佐郡旧語集」(以下旧語集とい)中巻、上根村の項には、老民のロ碑が採録されている、すたわち、 上根村に船繋と云石有 昔五呂ノ嶽大雨に而抜崩る 其時谷中湖となる舟を浮へり仍而名有此所に船繋弁財天を崇め・・・・此所ニ大蛇住り或人謀にて張寵にて人形を作り内に毒を入池上辺りに置大蛇出て呑之忽に死す 頭ハ八面之鷹となる是志鳥明神也 体ハ池姫明神と崇夫より八ケ村氏神と云々・・・・

まず、〃船繁の石〃であるが、石に関して船曳(ふをびき)の石などという類も各地に散在し、地名では船岡、船山・船越等と実に多く、おおむね山間僻地に分布する。この地名の付近の河川も特に水運に便するものとは判断されない場合が多い。上根の例でもそうであるが、山村におけるこれらの伝承の理由は何であるのかが問題である。先に結論を述べるなら、信仰、それも磐座(ばんざ)信仰(自然崇拝)と関係があるように思われる。上根の例でも〃石〃の上?に弁財天を祭ったというから、〃石〃の信仰とは無縁ではあるまい。
 さて、船と石と信仰の問題であるが、古代エジプトの〃太陽の舟〃は今日広く知られるところで神の乗物が舟なのであった。わが国においても、伊勢の皇大神宮の祭神天照大神は〃御舟代〃の中に斎((八つ)き奉られているし、他の神社にもその例は多く、神殿のトピラに〃船型錠〃が用いられるのも偶然のことではたく、御神体を納める〃舟代〃と関係があるはずである。
 上根の例は〃船をつないだ石〃の意味であるがその伝承の奥にすでに埋没した信仰上の原形があろう。此所に船繋弁財天を崇めたのであるが、本来は弁財天を祭ったものとは思われない。ご承知のとおり弁天は古代インドの仏教以前の信仰を祖型として、谷川のせせらぎの神格化であって、弁天が女神であり、しかもびわを持つ必然性も容易にうなずけよう。このことから単に水の神ないしは市杵姫等と習合し、池塘(ちとう)や池の浮島に祭られて〃蛇身〃〃龍体〃に象徴され、〃娘〃に化身する。しかも蛇龍に関する伝承上の多くの例は〃水〃と〃農耕〃に深くかかわりをもっており、卑近な例では雨引神社(城屋)の創建と揚松明起源説が挙げられ、代表的なものに出雲神話の八岐大蛇の伝説が想起されよう。(ちなみに雨引神社の古型は磐座祭祀であろう。学生時代にレポートにまとめた)。
 このような事例から判断して、単に〃舟をつなぐための石〃ではなく、より原初的な型態として〃石〃自体を神の憑り代(よりしろ)としたものではなかったか。そして、神霊の乗物としての〃舟〃の発想を根底に、舟の浮かぶ水の霊から弁天が信仰対象に形象化されたと考えられようか。
 水神が蛇、龍体であることは先にのべたが、はたして、この伝承にも〃五呂ノ嶽大雨に而抜崩る其時谷中湖となつた池に大蛇がすむことを伝えているが、この大蛇を毒殺すると〃頭ハ八面之鷹となる是志鳥明神也〃という。
 志鳥明神は、字今田の〃倭文神社の祭神(天羽槌雌神)をさしている。旧語集に倭文ヲ幟二ハ小鳥八社明神ト書リ〃(今田の項)とあり、コトリではなくシトリであり、〃子鳥〃の例もある。表記が問題なのではない、ことばは過去のの文書が示すとおりである。〃八面〃は倭文祭祀集落の数と関係があろうか、あるいは聖数としての〃八〃なのであろうか、なお、倭文神社の祭神は山陰方面に多く分布し、本貫は鳥取県といわれる.(このことは名説編で記述した)。
 つぎに〃体ハ池姫明神と崇〃めるのであるが、先にもふれたように磯田閑水の池姫神社(布敷)の由緒があり、「編さんだより」(bQ0)において与保呂にも同工異曲の伝説があることは初めて知った。旧語集の与保呂村の項に、氏神を池姫明神と明記しているから行保呂の「蛇切岩の伝説」(宮森光衛氏より採録)は、その起源説であろう。
 与保呂説は手力雄尊の威力によって龍神(蛇神)を石に封じて生ずる農耕生活への恩恵である。ここに手力雄尊が登場するのは記・紀の天岩戸開きに関しての印象からの発想であろうか。一方、池姫神社縁起は、手力雄神が脇役であって素盞嗚命神、稲田姫が宣揚されており、肝要の池姫明神(龍神)は二神に従属する型をとっている。
 この縁起については、まずこのように考えられる。手力雄神の取扱いには疑問が残るが、〃磐座〃の祭祀としての〃水の神〃が蛇。龍神であって、手力雄神のつかさどるところの分掌範囲ではないから、縁起の伝承としては脇役にまわることになつた。素盞嗚神、稲田姫はその性格から〃農耕・治水〃の神であり、素盞嗚神は記。紀神話のごとく明らかに大蛇退治は治水(蛇神を隷属(れいぞく)させる)の象徴化である。稲田姫は穀霊の神格化である。したがって、閑水が記す緑起に〃池姫(雨引)を拝む前にニ神を崇めなければにらぬ〃としたのは、農耕社会における信仰の知恵であって、信仰上の合理化が施されていると考えてよい、しかし、現今ではニ神の信仰は消滅したかに見える。そこで考えられるのは、原初的には池姫(龍神にシンボライズされる水の神)、を中心とした磐座祭祀があり、盤座中心の祭祀が次の段階に発展(宗教上の)した時に、磐座の意味を失ってしまったが、新しい説話を生み出すことによって、なお原初的な意味を残した。新しい説話は素盞嗚神、稲田姫をさす。つまり、盤座(水の神としての蛇・龍神)・・説話の発生(磐座の信仰消滅・素盞嗚神、稲田姫の登場)・・社殿祭祀の過程を経ていると考えられる。
 以上、大変ざっばくな考察で、飛躍やすきも多いのが気がかりてあるが、大筋においてはほぼ間違っていないと思う。それに冒頭において述べた課題が一つも解決されていない。羊頭狗肉のそしりを免れ得ない。
いや龍・蛇をめぐつての一考察であるから龍頭蛇尾となつた。おわび申し上げて課題の件は他日を期したい。  〉 

『丹後の笹ばやし調査報告』(府教委・昭52)
 〈 布敷・笹踊
    名称 笹踊
    所在地 舞鶴市布敷
    時期 十月第三日曜日(休止)
 布教で十月の第三日曜日に行われる氏神池姫神社の祭礼に、笹踊が奉納されてきた。
 笹踊は、シンブチ 一名、太鼓持 四名、笛 三〜四名、音頭とり 一名の構成で、音頭は家主がすべて出てうたい、踊子も兼ねたらしい。シンブ・太鼓侍は、ジュバンにカルサンをはき、手甲をつけ、八尺のタスキを掛ける。ともに少年の役で、シンブチは小学五、六年生、太鼓持は同一、二年生とする。シンブチは手に笹(長さ約一メートルの竹て、枝に踊歌の文句を書いた短冊をつける)、および金と赤の紙を巻いたムチを持つ。太鼓持は締太鼓を左手に下げ右桴一本でそれを打ちつつ踊る。笛役その他は大人の役で、決った服装がなく自由な支度でよい。役はすぺて村の集合で決めるならわしである。
 奉納は宮の舞堂(まいど)で行われる。
 シンブチを先頭に一列になって「宮入り」し、その最後で図のような位置につき、新発意・太鼓持は片膝付きの姿勢をとる。ほどなく新発意が立ち、右左と横歩きしなから「……太鼓の頭しっぽりちょうと所望申す」と口上を述べ、元の位置姿勢に戻って「ハアトロ(笹の枝の上を打つ)トンノーシャン(下を打つ)」と口拍子を入れると、音頭が出され、全員の合唱となり、「……ヤー一踊りハアトロトン」て立ち上って音頭に合わせて太鼓を打ちつつ踊る。踊るといっても位置を変えず、右足出す−左足踏む−右足戻すというだけの動作をくり返す。こうして一節が終ると、シンボチの口拍子が入り、太鼓持はその間、もとの姿勢に直り、「……シャントロローノジャン」の終りで、シンボチが一つ飛び上るのと同時に立ち上り、その場で一回転して太鼓を打ちはじめ、音頭が続く。「姫子踊」はこのくり返して、これはその他の曲もさして変らないという。
 この笹踊は祭礼のほか、雨乞いなどにも踊ったこともあると伝えられている。
 池姫神社は布敷をはじめ周辺八ヶ村の氏神でもあって、古くはその祭礼に村々から振物や踊が奉納された。そのことについて『丹後国加佐郡旧語集』は「池姫大明神。堀、池之内下村、布敷、別所、白滝、岸谷、上根、寺田、右八ヶ村氏神、毎年順番振物踊狂言ヲ勤。本祭ハ六月十五日夜祭、踊リ有リ」と記述している。各村について追跡調査はやれていないが、一種の惣鎮守祭として賑ったことが知られるとともに、このあたりの振物や笹ばやしか近世初頭にもさかのぼる伝承であることを考えさせる。その意味で、音頭とともに踊り場にねり込んでゆく「宮入り」の形式が注意されよう。
 ここも残念ながら昭和三十六年を最後に休止されたままである。復活への努力を期待したい。
 なお、ここでも振物が行われてきた。やはり組太刀型で、年令順に二人ずつ組み、棒・刀・ナギナタ等を振りあるいは切り組む。幼児が棒を振る「露払」以下、「小ナギナタ」「大ナギナタ」「野太刀」「間抜」「関棒」「警護」があった。  〉 



《まいづる田辺 道しるべ》
 〈 池姫神社と石引き 雨乞いの石引き
 布敷村内には、池内八ケ村の氏神として池姫神社がお祀りされている。
 祭神には大蛇(竜神)が祀られ、年によって日照りが続き、稲作の不作となると百姓達にとっては死活問題であり、こぞって氏神に雨乞いの祈祷を行うのである。
 それでも、なお雨が降らないとなると、池内九ケ村が相い集まり、最後の雨乞神事である五郎の滝の大石を村中総出で池姫神社まで石引きを行えば、必ず雨が降ると古来より信じられ、昭和初期まで、旱魃の年には雨乞いの石引きを行う神事が池姫神社で継承されてきた。
 この様に池姫神社には古来より大蛇にまつわる伝説が伝えられ、これを裏付される史料及び地元伝説を記して見る。
 最も古い史料としては、紺屋町の笶原神社に残る史料の中に出てくる伝記に、
○奈良時代の天平宝字元年(七五七)秋七月
 古老がいうのには、
「昔この池の中に大蛇がすみ、人々に害を及ぼした。そのため毎年この池に生贄を捧げて大蛇をなだめていた。時に、一人の娘にこの生贄の役が当たった。娘は懐に利刀をひそませ、大蛇が呑みこもうとした時、娘はその刀で大蛇を刺した。大蛇を殺すことができたが娘も毒に当たって死んだ。
 このことは直ちに神祇伯石川朝臣年足卿に報告された。卿は娘の霊を祀るために社を創設し、これを地主神とし生贄霊社(いけにえのみたまのやしろ)と名づけた。
 この年に山を切り崩し、池を埋め、新しい田を拓いた」と記している。(文化財めぐり)
○元文二年(一七三七)丁巳八月
 磯田閑水老人の手記によると、
「当社の旧名は、千瀧雨引社と号し、祭神に龍神を祀る。
 往昔、草昧(天地の開けはじめ)の時龍蛇此奥谷に住み、土地の人偶々之を見て恐怖の余り疾病に罹る者多し、土地の人は大変心配し、手刀雄神に祈った所素盞鳴雄神に折れとの御諭があり、瀧水に身を清め、七日夜只管龍神の祟りを免れ奥谷の地を開墾成就することを祈願したところ、不思議に龍神は其影さえ顕さなくなり、奥谷の開墾が出来る様になる。素盞鳴雄神を山の上に祀り、瀧の下に此神を斎き祀った。 人皇四十一代持統天皇五年辛卯六月に、洪水により両社共に流水、その後再建された。
 昔、鍵取福地某の古書にあるのを見たが享保二十年(一七三五)乙卯八月水害にて留書を流失し、後考のために私記して置く」(加佐郡誌略記)
○享保二十年(一七三五)に書かれた旧語集には、
 「昔この池の湖に住んでいた大蛇の遺骸を祀る」とあり、
○天保十二年(一八四一)に記された丹哥府志によると、
 「五老の瀧は、池姫大明神と相隔つ僅に三、四丁、凡歳旱する時は、則ち、池の内八ケ村相い集りて五老の瀧より大いなる岩を引て宮の傍に至る。
 如斯する時は雨降るという。蓋瀧の上は川なり、其川岩にせかれて流るる事能はず、よって、昔は沼なりといふ。その沼に大蛇すみて人を害す。於是磐別命其の岩を開きて流を通し、其の大蛇を捕へ是を斬る。後に其蛇祟りをなす。よって、是を神に祭り池姫大明神という。
 於今、其の岩を取る時必ず雨降る。蓋其亡魂なりと伝ふ」
 この外に岸谷には次の様な伝説もある。
 「岸谷の鬼住池に住む大蛇が人々に害を及ぼすため、岸谷の五衛門が弓で大蛇を退治し、其の頭部を池姫神社に祀る」と地元では伝えられている。
 このように、池姫神社には古くより数々の大蛇伝説があり、我が国では古来より、水田耕作や農耕儀礼にもとづき、竜神は水の神として崇められ、水害や旱魃は竜神のしわざとされ、恐れられ、旱魃の時には、竜神、水神に雨乞いの祈願をすれば必ず雨が降ると信じられてきた。竜神は又、岩や石とも結びつき人々の信仰を集める様になり、池内の雨乞いによる石引きについても、五郎の滝の大石を池姫神社まで引く神事は、雨乞石に祈願すれば必ず雨が降る信仰にもとづくものであったのか。
 或いは、五郎の滝の大石を取ることにより池の水が無くなり、池の竜神を怒らせて雨を降らせる石引きであったのか。
 これ等の伝説については定かではないが、いずれにしても、この様な珍しい雨乞いの石引きが行われている所は、ここ池内以外では見聞されず、当地にのこる唯一の無形文化財と思考され、往時の石引きの実態が知りたく調査していた処、幸いにも布敷の川崎隆先生の祖父川崎与三郎氏が昭和十四年に行われた雨乞いの石引きの様子を詳細に記録として残されており、なお当時の写真もあり、川崎先生のお許を得たので記載する。
 旱魃は日照りの仕業と考えられ、神に降雨を祈願する風習は古来より我が国では行われていた。
 江戸時代田辺藩では日照りが続き凶作ともなれば、百姓は勿論のこと藩に於いても死活問題であるため、日照りが続くと村々ではお宮へ参り雨乞いの祈願を行った。藩に於いても被害が深刻化すると村々に対し雨乞いの祈祷を促すと共に、藩主みずからも雨乞いの祈祷を行っていたことが史料などにより明らかになっている。
 池姫神社に於ける雨乞いの石引きが行われた起源については定かではないが、江戸時代に遡ることは間違いなく、川崎隆氏が所有されている昭和十四年に行われた池姫神社に置かれていた数多くの大石写真からもそのことを窺い知ることができます。
 これ等の大石は、その後池内川の河川改修により埋められ今は見ることはできないが、現在川の中に二個の大石があり、石引きされた石ではないかといわれている。
 池姫神社の石引きが昭和十四年九月十日、池内九ケ字(村)によって行われたのを最後に途絶えてしまっており、今ではこの石引きの様子を知る人は地元の古老だけとなる。
 この最後の石引きについて川崎与三郎氏が書き留められた詳細な記録にもとづき、当時の石引きの状況を記述させていただく。
 昭和十四年の歳は、六月頃より九月まで日照りが続き池内の各字(村)では、それぞれの村宮に振物を奉納して雨乞いの祈願を行っていた。
 布敷に於いても川の水が無くなりはじめると「線香番」と称する水引きが行われていた。これは線香の火が消えるまでの間自分の田へ水を入れる番をすることであり、この間にも村人達は、池姫神社に万灯篭、太刀振などを奉納し雨乞いの祈祷を行った。
 それでも尚、雨の降る気配が無いとなると、池内九ケ字(村)では、いよいよ最後の頼みである五郎ノ滝の大石を池姫神社まで引く雨乞いの儀式を行うことが決められる。

九月九日 今日も炎天なり、各字(村)より役員十名が集まり、池姫神社の上流約六、七百メートルの所にある五郎ノ滝に於いて、音頭取が二人乗れる重さ数十トンの大石二個を選び、ご神意の御神籤によりその内の一個が選ばれる。
 村の衆は、各村より藁を持ち寄り、太さ四〜五センチ、長さ数百メートルの石を引く綱を作る。この外に石を運ぶ台、修羅を神木である樫木を伐って来て作り、運搬に必要な「テコ」「コロ」なども準備す。
九月十日 今日も炎天なり、いよいよ石を引く日である。
 各字からは、子供から大人に至るまで男衆は鉢巻、フンドシ姿で涸れた河原にぞくぞくと集まってくる。
 女の人達は飯出しやお茶の接待にかかる。
 綱を引く子供達は先頭に、後方は大人達が引っ張る。
 音頭取の二人は、注連縄が張られた大石の上で鉢巻を締め、扇子を振りかざして音頭の掛声をかける。
 「ヤーレ綱の衆、テコの衆も」
 「ハー ヨイトセ」
 「ヤーレ 気合いを揃えて頼むぞよ」

音頭取の大きな掛け声は周囲の山々にこだまし、さすがの大石も揺れだす。
 音頭取の掛け声は益々高まり、これに合わせて綱を引く男衆も力が入り全身の力をこめて引く。
 応援している人々も綱引きと一体となり、音頭に合わせて必死に掛声をかける。
 「あ、 動き出したぞ」
 「ハー ヨイトナ」
 「あ、 動くぞ」
 「ヨイトヤサ」
石を引く河原には、村々から集まった人、人であふれかえっていた。
 綱を引く人々の顔は、赤くなる者、青くなる者など様々であり、掛け声は、益々河原に響きわたっていく。
 さすがの大石も少しずつ揺れるかと思えば動き、動くかと思えば止まり、ジリジリと、少しずつ、少しずつ進む。
 やがて池姫神にたどり着くと、神社では、天狗の面を高だかと差し上げ、法螺貝を吹きならし引石を迎えてくれる。大石は定められた宮ノ池畔に安置される。
 その後皆んなで神社に詣で雨乞いの祈祷を繰り返し奉納して神事は終り、降雨を待つばかりとなる。
 この石引きは、年によっては数日かかったこともあったといわれる。

 九月十三日 九ケ字の雨乞いが神に通じ大雨が降る。
 村中挙って降雨を喜び合い本日は村中お休みとなる。

 江戸時代以降の田辺に於ける旱魃状況と雨乞いについて参考までに記して見る。…略…  〉 

『舞鶴市内神社資料集』所収『神社旧辞録』
 〈 池姫神社  祭神 市杵島姫  (祭 旧六月十五日) 同市字布敷
 池内谷の惣鎮守。往時はこの谷五老嶽が抜け布敷より奥が大湖水当時よりの神と云ふ。祭神市杵嶋姫についてはさきに宗方三女神の項で種々記したが、茲では弁天様として角度を換えて拝したい。
「イチキシマ」姫とは勿論斎嶋イチキシマの主神の称であるが、美しい姫ともよめる。
七福神中、紅一点の弁天様は別嬪様である。この梵天は龍女と唱えられ本地垂迹説で市杵島嶋姫とり常に陽龍神に乗っておはす。易卦の地天泰の神姿である。地は上行し天は即ち下行して和合して万物敷くと、
竜は天を司り慈雨は時に従ひて万遍と、地母神之を受けて万穀繁茂する故にこの神祈雨の神とも唱うる。水分神的農耕守護神である。憶ふに弁財も市場交易の神性と農作物の豊穣も弁済の意と睹る。当神社々記には故名千滝雨引神と唱へ正三位の社とみえる。寺記の雨引社二社中一社は当社に比定。  〉 



『舞鶴市内神社資料集』所収『我が郷土』(池内尋常高等小学校)−昭和七年
 〈 池姫神社
一、所在地 字布敷小字森田
二、祭神  市杵比売神
    池内村字九字の中今田を除いた八字の氏神
三、由緒
不詳であるが、本社社記と称する古記に依ると、抑当地池姫大明神は旧名千滝雨引神と称へ、正三位の社であって祭神は龍神である。往時草昧の時龍蛇此奥谷(岸谷方面と考へらる)に住んでゐたが、土地の人偶々之を見ると恐怖の余り疾病に罹るものが多かった。故に口谷を開墾する時にも敢へて奥谷には入る者がなかった。そこで土地の人は大変之を心配して衆議して手力雄神に祈った所、神の霊夢に是我が力の及ぶ所でないから宜しく素盞鳴雄神に祈れよと御諭しがあった。これから土地の人は更に滝水に身を清めて七日夜の間素盞鳴命に只?龍神の祟りを免れて奥谷の地を開墾し成就した、ところが不思議にも夫れから龍神は神徳に感じて滝水の下に形を?して其の影さへ顕すこと絶えてなくなった。水田に水を引くの便宜に奇瑞のあるばかりでなく偶々歳の旱するに会しても此の神に祈れば大雨の来ないことがなくなったので、識者はこれは龍神が素盞鳴雄神稲田姫命の神意を克く奉じて田畝に水を漬ぐ事を司り五穀成就を助けるものであると称へたから成程とそれから土地の人の信仰は益々厚くなった。
昔時は素盞鳴雄神稲田姫命をも地を卜して上の山に祭り滝の下に此の神を斎き祭ったのであったが、人皇四十一代持統天皇の五年辛卯六月に洪水のため両社共に流失してしまった。其後再建したのであったが世変の星移って素盞鳴雄神の社には其の跡ばかり、口碑に止め雨引の社は布敷の名と共に池内に永く有する事となった。そして此の谷の在る限りは後人が雨引の神を信仰する前に素盞鳴雄神及び稲田姫命の御神像を仰ぐ様にしなければならぬと鍵取福地某の古書に書かれてゐたが近時享保二十年乙卯八月水害に罹って其の留書も流失したやうである。
四、社格 村社
五、行事 祭典 十月十七日
     石引き
石引きは旱魃つづく年、雨を呼ぶために行はれる特別行事にして其の祭典は近郷にひびく。此の前に行はれたのは六七年前にして、それ以後は旱魃なきため行はれてゐない。(昭和七年五月記)

岸谷の文楽人形  大正初期ごろまで、池姫神社の祭礼に奉納されていた。太刀振・カツコウ踊あり。  〉 



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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