丹後の地名

掛津(かけづ)
京丹後市網野町掛津


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京都府京丹後市網野町掛津

京都府竹野郡網野町掛津

京都府竹野郡島津村掛津

掛津の概要


《掛津の概要》



日本海に面した、鳴り砂(鳴き砂)で有名な琴引浜と太鼓浜があるところ。
掛津村は、江戸期~明治22年の村で、もと三津村の枝郷で、慶長検地郷村帳に「三津村之内掛津村」とみえる。カケの湊・掛の浜・懸の浦などとも見える。はじめ宮津藩領、享保2年からは幕府領、宝暦9年からは宮津藩領。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年島津村の大字となる。
文化11年(1814)配札と修行の途次当地を通った野田泉光院は、「日本九峰修行日記」の同年7月23日条に次のように記す。
「夫より琴弾浜へ出る。真砂浜幅十五間長さ三丁計り、其内十間に五間計の間を歩行すれば「ぎうぎうすうすう」と鳴る、又杖にていらうても其音あり。尤も天気続きて砂の乾きたる程音高しと云ふ。又、大鼓浜は其浜続きにて一丁位東にあり。此の大鼓浜は僅か二間四方位、歩行けば「どんどん」と鳴る、是れは砂の底に石の穴ありと云ふ。」
掛津は、明治22年~現在の大字名。はじめ島津村、昭和25年からは網野町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《掛津の人口・世帯数》 206・59
《遊の人口・世帯数》   236・81

《主な社寺など》

白滝(しらたき)古墳がある。7世紀前半の円墳と思われるが全壊の状態。そのほか掛津1号墳・2号墳がある。

白滝神社
白滝海岸にある。
白滝神社(掛津)
丹後大震災(昭2)で社殿は全壊した。鳥居も折れた、その根元だけが今も残されている↓。参道の両脇に石柱の↓ように2本残っている。島津村では掛津と溝川の被害が大きかった。掛津は50戸ばかりの集落だが27名も亡くなっている、主に火災であるが、この神社の山も砂山であるが、これが崩れている。
白滝神社(掛津)
折れた鳥居

案内板

『丹後国竹野郡誌』
 〈 白瀧神社 村社 掛津字西山鎮座
 (神社明細帳) 祭神 大物主命
  創立不詳、宝暦七丁丑年仲春廿一日故地遷宮 享和三癸亥年再建
  一社 殿 梁行三尺一寸五分 桁行三尺玉寸五分
  一上 屋 仝 二 間 半     仝 三   間
  一籠 屋 仝 四   間     仝 二   間
  一境内坪数   八百三十五坪
  一氏  子    百五戸
(境内の北東に泉井あり宝暦七年遷宮ありたるに泉水湧出せしにより霊水の称あり)
境内神社
 日吉神社
  祭神  大山咋命 天湯川板挙命 須佐之男命 刑部麿古親王 外 二座不詳
  創立不詳、往古より當村琴引早尾社、武大神社、行武社、門松社、松山社鎮座有之當社へ合祭
 稲荷神社
    祭神 宇賀魂命
    創立 不詳
 旧宮址は白瀧の瀑より東南に距ること一町余なり<    〉 

『網野町誌』
 〈 白滝神社 掛津字西山鎮座
 祭神 大物主命(大国主命の別名)
 由緒 創立不詳、宝暦七丁丑(一七五七)仲春廿一日改地遷宮享和三癸亥(一八〇三)再建(「神社明細帳」)
注一 当社の近辺に「つづき原」という小字名があり、そこには七世紀前半の横穴式石室を持つ「白滝古墳」(上巻二二〇ページ参照)がある。
 二 また当社の神は、さざえのカラに乗って漂着されたという口承がある。
○境内神社七社
早尾神社 祭神 天湯川板挙命
武大神社 祭神 須佐之男命
日吉神社 祭神 大山咋神
行武神社 祭神不詳
門松神社 祭神不詳
松山神社 祭神不詳
稲荷神社 祭神 宇賀魂神(「神社明細取調書」)<    〉 


『網野町誌』
 〈 コラム
旧『町史草稿』に
(1)「伊予の国から吹き流されて今は掛津の白浜に」
「今は掛津の白浜なれど、ところ恋しや伊予の国」という唄が残っているようではあるが、その事実の伝説口碑はどこにも発見されない。浜詰の御来屋神社、三津の仏像のように同じく西から流れて来た伝説である。-
という記載がある。この俚謡は『白滝さん』をうたっているのである。そこで今回伊予の国=愛媛県の長浜町字白滝に注目、同町教育委員会にこの俚謡の心当たりを尋ねたが、これという回答は得られなかった。往昔、「伊予」は「四国全土」を指していうこともあり、「伊予」即「愛媛」と即断することは却って当たらないかもしれない。
(2)『熊野郡誌』に「田村大字平田の七神社」は、掛津白滝神社の分霊を祀る、とあり、また「川上村大字市場の七社神社」は、田村七神社を分霊したと記載がある。
(3)右の事例からも想像できるように、かつて白滝神社は当地方の有名神社だったのであり、峰山のこんびらさん、浅茂川の川すそさん、竹野のいつきさんと肩を並べる「大祭」が行われていたという。
それは春・秋いずれかの彼岸の中日のことで数十の露店も立ち並び、「近在の人々がたくさん参ってにぎやかであった。」と旧『町史草稿』は結んでいる。(掛津区・松尾弥一郎氏談も参考とした)<   


浜田神社
遊漁港へ降りる途中にある。
『丹後国竹野郡誌』
 〈 浜田神社 無格社 掛津字遊幸神ケ岡鎮座
(神社明朝帳) 祭神 須佐之男命 佐田比古命<   

『網野町誌』
 〈 濱田神社 字遊幸神ケ岡鎮座
  祭神 素佐之男命・佐田比古命(「神社明細帳」)(注「神社明細取調帳」では山口神社を並記して祭神を佐田比古命とする)
 由緒 不詳、明治二〇年の区文書にも社名の記載あり。(稲岡正純氏談)
注「濱田神社」については、島根県隠岐島西郷町にも、かつて同名の神社二社があり、現在は他社と合祀されているという。(『西郷町誌』)<   


曹洞宗掛津山海蔵寺
海蔵寺(掛津)
右手の観音様は「鳴き砂観音」というそう。

『丹後国竹野郡誌』
 〈 海蔵寺 曹洞宗 字掛津にあり
 (丹哥府志) 掛津山海蔵寺 曹洞宗
 (同寺調文書) 元は言家なれども何寺の末寺なりしか不詳、現今は曹洞宗にして智源寺末なり、本尊は華巌之釈迦如来を安置す.開山は智源寺二世橘州和尚にして、開基は元和三年三月梅岩舜貞座元なり
長和三年の頃より長禄三年頃迄字椿原に在りて言家なり、薬師及二天の偶像を安置す、元和三年堂宇佛像を大通の地に移し、正徳二年昔寺屋敷(現小字墓の下)に精舎を創建し海蔵寺と称す、文政六年四月一日火災に罹り精舎烏有に帰す、故に寺境を東之丘に奠め現在の精舎を建築す、干時中興二世之和尚良嶽鶴栄大和尚之代口碑に掛津村は掛津浦前浜と云ひ舊跡は(前浜現琴引浜の前浜)の南麓椿原にあり、大化年間人家十なり爾来長和年間には人家も増し一小党宇を建設したるに創まるといふ.<   

『網野町誌』
 〈 掛津(かしん)山海藏寺 曹洞宗 掛津
本尊 釈迦牟尼如来
<由緒・伝承>
(同寺調文書)当山については苦から次のような言い伝えがある。
掛津は掛津浦前浜といい、旧跡は前浜(現在の琴引浜駐車場料金徴収所付近)の南麓、椿原にあった。大化年間(六四五~六五〇)には人家が一〇戸にすぎなかったが、長和年間(一〇一二~一〇一七)には次第に人家も増し、一堂宇を建設した。これが海蔵寺の起源である。
注 長和三年(一〇一四)のころから長禄三年(一四五九)ころまで、本寺は字椿原にあり、薬師如来および日光・月光両菩薩が奉置されていた。
 海蔵寺は、もとは言家(ごんけ)(=真言宗)であった。しかし、何寺の末寺であったかは不詳である。現在は曹洞宗で智源寺末であり、開山は智源寺二世橘州宗曇大和尚で、元和三年(一六一七)三月に梅岩舜貞座元が開基した。その年堂宇と仏像を大道(ルビ・だいどう)(現・松尾弥一郎氏宅付近)の地に移し、正徳二年(一七一二)に墓の下(以前の寺位置)に精舎を創建して海蔵寺と称した。
注 承応元年(一六五二)の「龍献寺古文書」や天和二年(一六八二)の「丹後国寺社帳」に〝掛津村・海蔵寺″と寺名が記載されている。
しかし、文政六年(一八二三)四月一日の火災により寺は全焼したので、寺の境内を東之丘に定めて、中興二世良嶽鶴栄和尚の代に寺を現在の位置に建築した。
注 『竹野郡誌』に書かれている東之丘とは小字墓の下の東側の丘のことであろう。海蔵寺は所在が小字川原四九-二から墓の下までとなっており、堂宇は川原四九-二に建っている。掛津地区で東之丘といえば国道一七八号線の東側の丘を指すことになるが、その地に海蔵寺が建立されていたとは考えられない。
 昭和二年(一九二七)三月七日、奥丹後震災により同寺は全壊、全焼した。境内の被害も甚大で、墓石もほとんどすべてが倒壊した。当寺の墓石材は、多くの寺でもそうだったように、付近の山から切り出したものが多く柔らかであったので、墓碑の刻字も判読さえできない状況であった。「過去帳」なども焼失したので、信頼できる諸資料を基礎にして苦心を重ねて新しく編成された。また、昭和五年(一九三〇)に応急的対策として本堂が再建され、その本堂はそのまま現在(平成七年)に至っている。
注一 昭和三〇年(一九五五)ころに同寺から旧『網野町史』編さん委員会に寄せられた回答によれば、開山は智源寺十七世啓山忽柔大和尚(文化一〇年-一八一三・八月二四日没)となっており、旧『網野町史』には橘州宗曇大和尚(万治四年-一六六一・三月一六日没)と啓山忽柔大和尚とが並記されている。
 二 口伝によれば、海蔵寺の椿原旧跡は民宿H荘の東側山腹付近であったと判断されている。同荘が建築されるとき、その周辺からたくさんの五輪塔が出土したという。<   


掛津海岸・琴引浜海岸(国指定天然記念物及び名勝)
「日本の白砂青松百選」「残したい日本の音風景百選」「日本の渚百選」に選ばれている丹後が誇る景勝地。
琴引浜海岸
掛津海岸
鳴き砂の浜として有名で、掛(懸)の浜・懸の浦ともいう。丹後天橋立大江山国定公園、山陰海岸ジオパーク内になる古来の名に高き名勝の地。鳴き砂の浜は日本国内にも所々にあるが、これほどの規模のものはそうない。
琴引浜
東は遊の海岸に接し、西は小浜の万畳の鼻まで約2kmに及ぶ。
これは↑一番東側から見たもの。琴引浜の東半分だけが写っている。
太鼓浜から西半分↓
琴引浜
全体を一度に写すことは、万疊の岩の先まで行けたらあるいは写せるかも知れないが、空撮がいいよう
↓坂根正喜氏『心のふるさと丹後Ⅱ』より
ちょうど反対側の西側からの空撮で、両方が見える。
琴引浜
海岸のほぼ中間にある白滝神社鎮座の岬の先は太鼓浜という。
神社の下に細川幽斎の歌碑がある、その先の浜が太鼓浜↓
細川幽斎の歌碑
根上がりの 松に五色の 糸かけ津
 琴引き遊ぶ 三津の浦々 (細川幽斎)

名に高き 太鼓の浜に 鳴神の
 遠くも渡る 秋の夕さめ (細川ガラシャ)

先に岩礁があって、砂州でそれと繋がっている。
太鼓浜
こんな案内がある。
太鼓浜
太鼓浜
叩いてみたが鳴らぬ、踏んでみたが鳴らぬ(涙)。キュキュの音はするが、太鼓が鳴らぬ
温泉
この浜には露天温泉がある。感動もの。ちょうどよい湯加減、少し塩っぽいとか。ここから夕日を眺めるのがいいという。(この温泉は冬期は波高く砂で埋まってしまいます、鳴き砂保護のため石鹸などの使用は禁止されてます。湯が川になって海に流れ出しているところを掘って自分専用の温泉にしてもよい)
琴引浜
砂は花崗岩由来だが、岩は違う。少しグリーンぽく見える岩はグリーン・タフ、海底でできた凝灰岩とか。1500万年前のものとか、しかしその火山は今も地震となり、温泉ともなってわき出している。まだまだ生きとるみたいである。
第三紀の砂層からなる小丘陵が海食を受けて弓形の浅い入江をなす。琴引浜は砂浜がよく乾燥した時に歩くと琴を弾くような微妙な音が生じる、通称山子(やまご)の浜と呼ばれる太鼓浜は、乾いた表層部を取り除いて踏むと太鼓を打つような音が聞こえると言われている。
太鼓浜は元来は小浜の地籍に属していたが、掛津の集落との共有地として売却されたころから呼称の争奪があったといわれており、今でも地名の混乱がよく見られる。
現地の人に聞いて確かめたところによれぱ、今は上のように呼ばれている。太鼓浜は上の写真の場所で、これだけのもの、砂の下は岩だそうで叩けば太鼓の音がするとか。その西も東も琴引浜で踏めば「きゅきゅ」の音がする鳴き砂の浜である。(太鼓浜の砂も背後の松林の中の砂も、場所によって鳴くところがある)
琴引浜海岸
海岸の砂は風で背後の丘陵地に堆積され何層かに渡って大砂丘というかちょっとした山状を呈している、風で飛ばされてこんなに高くなるのかと思うほど高い、砂も積もれば大山となる、10万年前の砂丘という。背後の砂丘の高さはこの写真の3倍以上はある↑外国の砂漠の映像など見ていれば、風だけで何百メートルとかの砂山になっているよう、こうした山もあるよう。
ここにはハマナスが自生する、黒松も多いが人が植えたものか、残念にもよく枯れている。丘陵の砂は珪酸の含有量が多く、ガラス工業用に採取される。
夏は海水浴場としてにぎわう。掛津の浜一帯はだいたい有料駐車場になっている(ちょっと写真写すだけです、ならば季節によってはあるいはタダにしてくれるかも)
琴引浜
琴引浜の清掃活動
高校生たちだろうか、こうして一生懸命浜を美しくしている、遊ぶだけで、平気でゴミをほかしたりはしないよう願います。


『網野町誌』(図も)
 〈 琴引浜の鳴り砂
〝水精浜(字小浜)龍虎の岩の次、浜のいきご水精の如しというにあらず、実に玲瓏たる玉砂なり〝
 琴引浜は〝太鼓浜前後六七丁の間足を引いて砂を磨る、其声琅然として微妙の音あり、羅状元の金微巧奏蝉声細玉斡軽調鶴管清という一聯を急歩緩歩の間に記し得たり、実に天地の無絃琴なり〝と琴引浜の鳴り砂を表現している。(「丹哥府志」)私たちがこの浜を歩くと「クック」あるいは「キュッキュッ」と心地よい音を出す。
 こういう鳴り砂は我が国のあちこちに分布しているが、島根県琴ヶ浜・宮城県十八鳴(くぐなり)浜、そして琴引浜のものがよく鳴るといわれている。外国ではシナイ半島・ミシガン湖・シャープレーン湖・ネバダやアーカンサスの砂漠(アメリカ)・スコットランド西海岸(イギリス)・タウクム砂漠(ソ連)・敦煌の鳴沙山(中国)・ハワイのカウアイ島や南米チリなどに分布している。
 鳴り砂の条件を三輪氏は、(1)石英質の砂粒が主体をなしている場合に限られ、石英以外の鉱物が存在しないこと、(2)砂粒の表面に石英質の砂粒からできた微粒子や、他の鉱物や生物(貝や藻など)の微粒子が付着しないこと、としている。琴引浜は波が荒く、砂の斜面の角度が大きい時には水底の砂は激しく巻き上げられて渦巻き、強力な洗浄作用が働くといわれる。琴引浜はこういう自然の浄化作用をもった最も美しい海岸なのである。
 なぜ発音するかについては、たくさんの砂粒がお互いにこすれ合った時に発生するという摩擦説、砂粒と砂粒との間の空気が圧縮され、音波のものである疎密のものとをつくるという摩擦振動説や空気噴出説、すべり面説などの諸説があるが、砂層に加わる外圧が砂層の崩壊を起こし、これが周期的に繰り返されることによる砂層の振動が原因だともいわれている。
 私たちは自然が与えてくれた最も美しく、最も美しいものから発せられる音をもつ琴引浜を、町民の誇りとして守っていかなければならない。しかし最近は、自然の浄化力の減少もさることながら、観光・リゾート化の中での大勢の人の来浜、食べ残しやごみ類の放棄などマナーの悪さは砂粒への微粒子の付着を増し、油や化学製品からの汚れは自然の浄化力以上の汚染力をもっている。平成一年一二月に起こった伊根町沖での油輸送船の座礁による油の流出事故は、漁業はもちろん琴引浜への汚染が心配された。<  〉 

鳴り砂の浜は、この図よりもっと多くあるらしく、全国200何箇所とかともいわれる。舞鶴の三浜海岸も鳴く所があるとか。琴引浜の周辺でも何ヵ所かあるともいう。護岸工事でセメントの浜になったり、海洋汚染される以前は本当にそうだったらしいが、今も鳴くかどうか。
砂浜の上を歩くと「キュッキュッ」と音がする。この音はどこかでも聞いたことがあるぞ、と思えど、思い出せず。砂がよく洗われていてこそ発する音だそうで、汚れると音はしない。
琴引浜の砂
花崗岩に含まれていた石英(水晶・クォーツ)が擦れ合う音という、このあたりはその石英がおおく、粒が揃っていて汚れがない。タバコの煙でも鳴らなくなるという、本当かどうか確かめたろかいな、と思ったがそんなことはできない。
まだ若い頃この鳴き砂の上でキャンプをしたり花火を打ち上げたりした記憶があるが、現在はそうしたことは勿論としてタバコを吸うことも禁じられている。(キャンプ場は松原の中にある)
砂が鳴く声を聞いてくだされ。↓




与謝野夫婦の歌碑
与謝野夫妻の歌碑
たのしみを 迎えかねたる 汝ならん
  行けば音をたつ 琴引の浜  (寛)

松三本 この陰にくる 喜びも
  共に音となる 琴引の浜    (晶子)

とある。昭和5年ここに揃ってやってきたという。右から4人目5人目。



琴引浜鳴き砂文化館
琴引浜鳴き砂文化館
集落の入口にある。
宝貝が貰える。財宝とか貝偏の漢字が多いところからかつては彼の地では貝が貨幣として使われていたといわれる。南シナ海とかあのあたりが産地で、古くは倭人もそうだったかも知れない。琴引浜の貝は微小貝というきれいな海でしか生息できない、顕微鏡下の貝である。
琴引浜鳴き砂文化館


あそびの浦
「丹後旧事記」に「掛の湊の東にあそひの村なり」とある所。海岸線は第三紀層の丘陵を刻む浸食谷の谷口が沈水した結果、形成されたラッパ状をなしている。両岸は高さ10~20mの海食崖で囲まれ、入江には防波堤が築かれている。現在は第一種漁港になりイカ釣りなどの小漁船が入る。
これがまた難解地名として話題になるが、いまだ正解がないようである。
遊集落
『郷土と美術79』(1982)
 〈 「古代地名めも 中嶋利雄」

あまり知られていないかもしれない。京都府竹野郡網野町の海岸部にある。字掛津のうちに遊谷(あそびだに)、遊坂(あそびざか)等がある。さきの建部と同様わたしにはよくわからぬことであるが、国史大辞典(吉川弘文館)をみると、古代職業部の一種に、天皇の殯宮に侍して霊魂の復活、死者蘇生の呪術を行うものに遊部がある。「折口信夫全集」(第二○巻)には「上代葬儀の精神」という好論文があって、魂振り、鎮魂の意義についてのべられている。「遊び」とは鎮魂の歌をうたい、舞踊をすることをいい、鎮魂術を施すものが「遊部」ということになるようである。「柳田国男全集」(第一二巻)には「大白神考」というのがあって、おしらさまは中世手くぐつと同じであるが、おしらさまを祭るとはいわない、これを「ほろぐ」とか「遊ばせる」というらしい。ここ丹後の北のはし近くの「遊」の地の生活が古代の都とどのような関係をもっていたかということは、さきの「建部」の場合と同様よくは分らない。分ったとしても現在住民の家系とは何の関係ももたないだろう。しかし土地の歴史をさぐるうえでは充分気にとめておかねばならないことであろうと思う。
この「遊」について「宮津府誌」(「丹後郷土史料集第二輯」所収)巻之四、名所之部に「与謝ノ海」の解説として興味深い見解を示している。要点はこういうことである。すなわち「橋立図記」(「丹後史料叢書」所収「丹後与佐海名勝略記」を指すのであろう-中嶋)に次のように記されている。
  与佐ノ海は、伊祢浦より宮津まで凡そ五里の入海で、北を望めば、右に黒崎、左に鷲ヶ尾が門闥を開いた如くで北海第一の湊である。それを貝原益軒は、諸州巡りに、東の入海(外の海)を与佐の海といい、西の海(内の海)を阿蘇の海とよんでいる。これは「丹後風土記」から引用しているらしいが、この説はおかしい。阿蘇の海の阿蘇はあそみのことであって、これは遊の浦のことに違いない。だからそこは竹野郡のことで与佐郡ではない。
 つまり「宮津府誌」の編者(小林玄章ら)は、「橋立図記」の編者が、貝原益軒の内海=阿蘇海論を批判して阿蘇海=遊の浦(竹野郡)説を立てているのを支持しているが如くうけとれる。これはまことに興味あることでアソというのはアソブ(ピ)の音節の脱落とみるわけである。なおこれに関連していえば、大和国高市郡の「遊部郷」の遊部川を「大和志」にはソブと訓している(平凡社「奈良県の地名」)という。これも母音脱落の例でこういうケースは多くある。このことから私は次のようなことを考えてみる。それは、伊根町本庄宇治の曽布谷(又そびたに)、 同じく日出、平田のソブ谷、ソブ田等もアソビに関係がないだろうかと。こんごの検討課題としておきたい。ただ一とついえることは、アソビ(ブ)というものはもとより丹後にだけ存するというものでもないし、また丹後のうちにあっても竹野郡一か所にしかないというものでもあるまい。だからここ府中にもアソがあっても一向に構わないということである。
 「建部山」と「遊」については、これが古代地名であろうという推測をのべただけで具体的な解明は何もできていないので申しわけないが丹後の地名研究のひとつの課題として出してみたことをおことわりしておく。 (一九八二、七、一五)<    〉 

丹後郷土史界の超重鎮の中嶋氏ですら解けないようだが、実はもっと簡単で、もっとワレラのルーツと関係深いもっと重要な弥生か古墳時代の地名である。
ソフルの転訛と見ていいと思われる。神奈川県小田原市の曽比(そび)という所があるが、これに発音上の意味のない接頭語アが付いたものがアソビ。本来はアソビルといったと思われるが最後のルは脱落したのであろう。
三重県松阪市に肥留(ヒル)という所がある、これもフルの転訛かと思われる。隣の福井県大飯郡高浜町に韮畑(ひるばたけ)、ニラバタケと呼んでいることが多いが、本当はヒルバタケだが、ここもそうかも知れない。
アソビのビも脱落すればアソで天橋立の内海・阿蘇の海とも意味はまったく同じである。
曽布谷二郎氏だったか浦島太郎と弟とか、このソブは鉄でなかろうか。
アソという地名はあちこちにあって大切な意味のある地名のようである 、どこかの副総理氏も麻生氏、だからソフル氏である。
アソビの浦
今見れば何かちょっと狭い浦だけど(失礼)、古墳時代だったら、これくらいがちょうどよかったと思われる。ワレラのご先祖たちが流れ着き上陸したであろう浦である、その「不審者」たちの末裔がわれらジャパニーズである。


《交通》


《産業》


掛津の主な歴史記録

丹波国浦掛水門
「日本書紀」雄略天皇二三年条の一番最後に書かれているが「丹波国浦掛水門」とみえる地を当地に比定する説がある。久美浜の浦明とする説もある。「水門(みなと)」は川の河口部を呼ぶようだから、佐濃谷川の流れ込む浦明が本命かも知れないが(小学館本の訳によれば)
 〈 さて、征新羅将軍吉備臣尾代は吉備国に行き、家に立ち寄った。後に付き従った五百人の蝦夷らは、天皇が崩御されたと聞いて、互いに語り合って、「我が国を統治なさった天皇は、すでに崩じられた。時機を失ってはならない」と言って、すぐさま集結し、周辺の郡を侵攻した。そこで尾代が家から駆けつけ、蝦夷と裟婆水門で出会い、合戦した。そして蝦夷らを射たが、ある者は踊り、ある者は伏せ、うまく矢を逃れて、どうしても射ることができなかった。そこで尾代は弓弦を空打ちして、海浜の近くで踊り伏す者二隊を射殺した。二つの胡ロクの矢がすっかり尽きたので、すぐに船人を呼んで矢を捜させた。
船人は恐れて逃げ去った。尾代は弓を立て、弓筈を持って歌を詠んで、
道にあふや 尾代の子 天にこそ 聞えずあらめ 国に
は 聞えてな
(遠征の途中で戦っ た尾代の子よ、その戦いぶりが、宮廷 には伝わらないだろうが、せめて故郷 の人々には、知られてほしいものだ)
と言った。歌い終って、自ら数人を斬り、さらに追って丹波国の浦掛水門まで行き、残らず攻め殺した〔一本に、追って浦掛まで行き、人を遣わして残らず殺させたという〕。<   

「蝦夷」というのは、今で言えばアイヌ人か、それとも広く東北人か。津波や原発だけでなく、大和の侵略にも苦しめられ続けた様子が隠蔽されずに記録されている。その後継政権では十分な支援などは口先だけのことであろう。また東北も含めてそれより北側は倭人の領土ではなかったことがわかる、倭人には「北方領土」などはない、氷点下40℃にも下がる千島が倭人領であったりするはずもない。彼ら蝦夷人の地であったのだが、その後裔には現在は倭人の国会で一議席も確保されていなく、その意見は完璧に無視され続けている。最低でも男女各一、計2議席くらいは参院でもいいからアイヌ民族指定席で空けておかなければ彼らの声が国政に反映される道がなくなる。それもせずに彼らの地を倭人領土というのもおかしな話でなかろうか。かの地を地盤とした国会議員は一人もいません、かの地の意見が国政に反映されることは過去現在一度もな~い、そうした仕組みはな~い、しかしワシらの領土だ、昔の昔からずっとそうだったと教科書にそう書くが、その主張の問題点には一切触れない。倭人よそれは強盗の論理である、国際社会で通用する主張であろうか、ワシらは多数者だから少数は無視するはどこかの政権がその路線だが、それは反民主的権力主義強盗の考えである、数学と異なり歴史は百%正しいとする答えは多くはない、よくてもせいぜい八割程度の正解でしかない、それも心得ず倭人政府の一主張が間違いがないあたかも絶対の真理であるかのようにテメエらの子に教えるのが本当によいことであろうか。
倭人の領土に倭人が勝手に組み入れたのは明治以降の話である。もちろんロシア領でもない。アメリカなどはなかったからその領土てあるはずもないし、中国領でもない。誰の領土かといえば彼ら「蝦夷」のものであった。彼らの選択でどうするかを決めればよいであろう。大事に扱ってくれた倭人につきたいといえばそうすればいいし、奴隷にしくさったうえに放射能までばらまきくさった倭人は御免だといえば、そうすればよい。
なぜ吉備から丹後へ逃れてきたのか不明だが、北の方こそ故国だと考えていたのか。


『丹哥府志』
 〈 ◎掛津村(遊村の次)
【白滝大明神】
【掛津山海龍寺】(曹洞宗)
【掛の浜】(懸の浦、懸の浜)
新続古今 霜深き芦の枯葉は折れ伏して  いつくか懸の湊なるらん
 (津守国量)
     よしさらは磯の苫屋に旅ねせん  波懸津とて濡ぬ袖には
 (仁和寺法親王)
【太鼓浜】
凡八九間の處、足これを踏み手これをうつ其音韻々?々として太鼓の如し。
懐中日記 名に高き太鼓の浜に聞秋の  遠にも渡る秋の夕さめ
 (忠興妻)
【琴引浜】
太鼓浜前後六七丁の間、足をひいて砂を麿る其聲涓然として微妙の音あり、羅状元の金微巧奏蝉聲細玉衿軽謂鶴管清といふ一聯を急歩緩歩の間に記し得たり、実に天地の無絃琴なり。
【しら滝】(太鼓浜の西、白滝大明神の下にあり)
滝の高サ一丈余り、山の半腹より水流れ出て岩に添ふて滝となる。滝の源川にあらず、小浜村の湖水爰に流れ来るといふ。
【根あがり松】(白滝の上、出図)
【一年栗】(根上り松の西、小浜村へ越る道の東、出図)
樹の高サ五六寸より一二尺に至る、春宿根より芽を出し其歳に実を結ぶ。
【万畳の鼻】
万畳の山は掛の浜より網の浜に跨る其崎を万畳の鼻といふ、山の半腹に道あり、潮低き時は海磯にそふて岩石の間を行く亦奇観なり。
【万畳の岩】(万畳の山の下)
二間に一間半斗りもある磐石二尺斗相隔て縦横に相並ぶ、其数幾許ある事を知らず、其磐石の間に潮を通ず、山よりこれを望めば畳に椽あるが如し。
【龍虎岩】(万畳の次、出図)
隻岩相対す其状龍虎の如し。
【水精浜】(龍虎岩の次)
浜のいさご水精の如しといふにあらず実に珍瓏たる玉砂なり。
【柴石の浜】(水精浜の次)
石を破りてこれを見るに其肌に木葉を印す、其形状尤も明らかなり、葉の裏なる者あり葉の表なるものあり、葉の表は其理くぼみ葉の裏は其理高し、葉の類元より一ならず栗の葉あり椎の葉あり又艸の葉あり、草の葉は尽披蕨の類なり(披蕨和名ガンクソ、青洲府志に見へたり。)
【緑青石の浜】(柴石浜の次)
石の色緑青の如し。
【樋越】(緑青の石の次)
万畳山の下を掘りて小浜村湖水の水を爰に流す、其間凡五丁これを樋越といふ。一年栗より樋越に至る凡六ケ条皆小浜村に属す、然れ共前段の次なれば合せ記す。 

『丹哥府志』
 〈 ◎遊村(三津村の次)
【遊の浦】
三津の浦より遊の浦、掛津浦、太鼓浜、琴引浜、根あがり松、五色浜、皆つづきの處なればこの六ツの名處をよみ入れて狂歌をよめる
根上りの松に五色の糸かけ津  琴引き遊ぶ三津の浦浜  (玄旨法師)
打よする見るかひありて与謝の海  遊の浦にころもへぬへし
家集  浮海松を道の引手に拾ひてや  遊ふの浦に日をくらすらん  (玄旨法師)
【平野嶺】(以下八カ所は遊覧の場所)
【いもかし場】
【うね島】
【なごらの浜】
【行者山】
【たぶの浜】
【平場】
【川の尻】
浜と海との際に東西凡二丁余りある磐石あり、其磐石の内に溝の如く掘れたる處あり、波濤岩にくだけて其掘れたる處に落込み東西へ流るる川の如し。<   




掛津の小字一覧


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『丹後国竹野郡誌』
『網野町史』
その他たくさん



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