丹後の地名

堤(つつみ)
京丹後市弥栄町堤


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京都府京丹後市弥栄町堤

京都府竹野郡弥栄町堤

京都府竹野郡吉野村堤

堤の概要


《堤の概要》



竹野川東岸の、旧弥栄町中心地溝谷の一つ手前の一帯。
中世、丹後御檀家帳に、「つゝみの里」と見える。田屋氏・田中氏など11名があげられている。
近世は堤村で、江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、のち幕府領久美浜代官所支配。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年吉野村の大字となる。
堤は、明治22年~現在の大字名。はじめ吉野村、昭和8年弥栄村、同30年からは弥栄町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《堤の人口・世帯数》 604・196

《主な社寺など》

いもじや古墳

三柱神社
三柱神社(堤)

『丹後国竹野郡誌』
 〈 三柱神社 村社 字堤小字サト鎮座
(神社明細帳)祭神 稚産霊命 保食神 稲倉魂神 猿田彦神
  創立年月詳ならず、祭神猿田彦神は當区辻堂に在りしを明治二年合祀せしものなり、字堤区の氏神にして明治四年五月村社に列せられ、同九年四月建替へたり  〉 

『弥栄町誌』
 〈 三柱神社 字堤小字サト鎮座(神社明細帳)元村社
祭神 稚彦霊神 保食神 稲倉魂
神配 神猿田彦神 饒速日命(田中神社)
もとは三宝荒神といったが明治二年久美浜県当時神社三柱神社と改められた。創立は明らかでないが堤区の氏神として明治四年五月村社に列せられ、同九年四月再建されたものである。
 猿田彦神は当区辻堂にあったものを明治二年神社整理の際、同神社境内に合祀された。
境内神社
田中神社 字堤小字サト鎮座
祭神 饒速日命
 創立年月日その他由緒不明であるが、言伝えには昔芋野石上神社が大洪水の時濁流にのって漂着し、この地に留まったので宮を建立し祭祀されたものという。もとの社地は小字サト府道間人峰山線の傍で諸車の通行等激しく神社境内として不適当な地であったが、昭和十八年土地改良の際、三柱神社境内に遷宮し祭祀された。
社地は竹野川の清流に添い、老樹よく生い繁り、ことに社頭の二抱に余る欅の老大木は当社の沿革の古さを物語っている。  〉 

曹洞宗堤福山徳昌寺
鐘は享保17年の刻銘で、弥栄町最古のものという。
徳昌寺(堤)

『丹後国竹野郡誌』
 〈 徳昌寺 曹洞宗  字堤にあり
(同寺調文書)今を去る凡二百五十餘年前 後西院天皇の御代将軍徳川家綱の時代明暦二年三月の創立にして橘州和尚之れが開山なりと云ふ、観世音菩薩を本尊とす、其後文化九年八月に至り?明和筒之をを再建せりと云ふ、  〉 

『弥栄町誌』
 〈 堤福山徳昌寺 堤
本尊 観世音菩薩 曹洞宗
 同寺は昔火災があったとかで文献はないが、吉野村誌稿に、今をさる三百年前、後西院天皇の御宇、徳川家綱将軍のころ、明歴二年三月の創立で、橘州和尚の開山である。その後文化九年八月に至り、瞬明和尚の代に再建された(約百六十年前)とある。  〉 


浄土真宗本願寺派道場寺

『丹後国竹野郡誌』
 〈 道場寺  眞宗 字堤小字下岡にあり
 (吉野村誌稿) 真宗本願寺の末派にして阿弥陀如来を安置す、享保元年四月僧専了の開基に係ると云ふ、  〉 

『弥栄町誌』
 〈 道場寺 字堤
本尊 阿弥陀如来 真宗
吉野村誌稿によれば、真宗本願寺の末寺で、享保元年四月(約二百五十年前)僧専了の開碁なりという。その他不詳。  〉 

堤(籠屋・こや)城跡は三層よりなり、頂上本丸跡は約二畝歩。北側の谷をこやが谷という。
永正13-14年(1516-17)の丹後一色氏と若狭武田氏の戦争の際は武田方はここまで攻め込んでいる。

『丹後国竹野郡誌』
 〈 堤城
(実地聞書)字堤小字城の腰にあり、三層より成り頂上平地は長方形にして広さ二畝歩許あり
 石垣の跡、土手、通路等の跡あり、今荒神社を祀る、
(丹哥府志) 松田越中守城
(丹後旧事記)天正十年正月十三日廻状を以て三郡の諸将を弓木城に集む
  竹野郡  堤城主 松田越中守  〉 

『弥栄町誌』
 〈 堤城
城主 松田越中守
字堤小字城の腰にあり、三層より成り、頂上平地は約二畝ほどある。通路等その面影を残している。丹後旧事記に堤の城主松田越中の守とある。  〉 


《交通》


《産業》


堤の主な歴史記録

丹後国御檀家帳
 〈 一 つゝみの里       田屋新左衛門殿
 田屋甚介殿        田中弥太郎太夫殿
 彦八殿          治郎太郎殿
 弥太郎殿         彦治郎殿
 小太郎殿         治部三郎殿
 孫介殿           又三郎殿  〉 


『丹哥府志』
 〈 ◎堤村(芋野村の次)
【三宝荒神】(祭九月八日)
【堤福山徳昌寺】(曹洞宗)
【松田越中守城墟】  〉 


『京丹後市の考古資料』
 〈 愛宕神社古墳群(あたごじんじやこふんぐん)
所在地:弥栄町堤小宇小屋ヶ谷
立地:竹野川中流域右岸丘陵上
時代:古墳時代前期~中期、室町時代
調査年次:1996年(弥栄町教委)1997年(府センター)
現状:全壊(農地)
遺物保管:市教委
文献:EO74、Cl21.F180
遭構
愛宕神社古墳群は、標高78~80mの丘酸尾根上に築かれた1~3号墳の3基からなる古墳群である。1号頃は、調査直前まで愛宕神仕の社殿があった場所にあり、一辺約20m、残存高1.3mを測方墳である。葺石、埴輪はない。南北に主軸を持つ1基の埋葬施設を持ち、二段墓壙の中に組合式木棺を直葬している。墓壙は長辺約7.0m、短辺約2.6m、深さ約1.0mで、木棺の規模は長さ約6.1m、幅は0.6~0.7mで仕切板により3室に分かれる。
2号墳は、後世の削平により墳形や規棋は不明であるが、南北に主軸を持つ2基の埋葬施設が検出されている。第1主体部は二段墓壙で推定長4.2~4.3m、同幅1.5m、第2主体部は推定長2.6~2.7m、同幅0.6~1.0mの墓壙をもち、いずれも木棺直葬である。3号墳も削平されているが、南北によ軸を持つ長辺約3.8m、短辺約0.9m、深さ約0.3mの墓壙の中に舟形木棺(長辺3.3m、短辺0.4m、深さ0.3m)が埋葬されている。このほか、中世墓が1基発見されている(小屋ヶ谷遺跡)。
遺物
1号墳の組合式木棺の主室からは、銅鏡2面(斜縁四賦鏡と型式不明鏡片、いずれも舶載鏡)、鉄刀1口、玉類(勾玉4、管玉18、ガラス玉196)、竪櫛(大4、小3)、水銀朱が出土したほか、北副室からは農工具類(直刃鎌1、有肩銭片)とガラス小玉が、南副室からは鉄剣1、竪櫛3、刀子1が出土した。2号墳の第1主体部からは小刀1が、5号墳主体部の棺内からは鉄剣、鉄製鍬先、ヤリガンナ各1、棺外からは鉄鏃14が出土した。また中世墓(小屋ケ谷遺跡)からは鉄製釘、小刀などが出土している。
意義
古墳群の時期は、1号墳が4世紀後半、3号墳が5世紀前半であり、2号墳は3号墳に近い時期と考えられる。1号填は埋葬施殻の木棺が長大で3室に分かれる構造を持ち、棺内の副葬品が豊富であることが特徴としてあげられる。特に、主室の副葬品は被葬者の四辺に配置され、このうち玉類は勾玉とを組合せ、装身具としてていねいに置かれている一方、ガラス玉はばらまかれていることから、埋葬儀礼の実態がうかがえる。また、2面の銅鏡は、被葬者の足元にあたる棺の南東隅に、鏡片は8片が故意に分割され重ねられた状態で鏡面を被葬者に向げて仕切板に立て掛けられており、銅鏡の副葬形態を示す貴重な一例である。  〉 


 〈 城の越横穴(しろのこしおうけつ)
所在他:弥栄町堤小字城ノ越
立地:竹野川中流域右岸丘陵裾
時代:古墳墳時代終末期
調査年欲:1974年(不時発見)
現状:全壌
遺物保管:丹後郷土資料館
文献:F050
遺構
城の越横穴は、災害復旧のための土砂採集中に不時死見さきれたものである。石材などは発見されなかったため、横穴墓の可能性が高い、なお周辺には、ほかに古墳、横穴墓は存在しない。
遺物
須恵器杯、平瓶、短頸壺、台付長頸壷、土師器壺が合計21点ある。須恵器杯蓋は、内面に受部を有するものである、杯身は、丸底で口縁部が椀状に内湾するものと、平底で口縁部が外反するものがある。土師器壺は、口縁部が内湾する小型のものであり赤色塗彩するものである。なお須恵器杯身のうち1点には、底部外面に墨書「上」がある。
意義
出土した土器はおおむね7世紀中葉に位置づけられ、横穴墓出土の一括資科と評価できる。竹野郡は、丹後地域の中で横穴墓の事例が少ない地域であり、単独で立地する横穴墓として貴重な事例と言える。また墨書上器「上」は、一字のみであるが、丹後地域において7世紀代の文字使用を示す資料として貴重である。  〉 


『京都新聞(97.7.23)』
 〈 *花?の紋様ある銅鏡出土・弥栄の愛宕神社古墳群*縁の内側に帯状に*2-3世紀製造か*
 京都府竹野郡弥栄町堤の愛宕神社古墳群を発掘調査していた府埋蔵文化財調査研究センターは二十二日、全国でも出土例がない、カニのツメかチューリップの花のような紋様がある鋼鏡一面が出土した、と発表した。他の紋様などから、二世紀後半から三世紀前半の鏡と見られ、樋口隆康京大名誉教授(考古学)は「似たような紋様を探せば、中国のどこから出たとか、時代などを特定できる材料になる」と期待している。
 国営農地の造成に伴い、同センターが今年四月から1号、3号、4号墳を発掘調査。鋼鏡は、四世紀後半に造られたとみられる一辺約二十㍍の1号墳(方墳)から出土した。
 鋼鏡は直径約十四㌢、厚さ三㍉。龍と虎の絵が彫られていて、斜縁二神二獣鏡か斜縁四獣鏡とみられ、縁から約一㌢ほど内側に、長さ約九㍉、幅四㍉の、わが国では初めての紋様が帯状に並んでいる。
 八片に割られ、重ねられた状態で木棺の主室部分(長さ一・九㍍、幅六十五㌢、深さ約五十㌢)に葬られた被葬者の足元から、見つかった。頭など上半身周辺には、勾(まが)玉や菅玉のほか、鉄刀(長さ八十七㌢)一本が置かれていた。
 鏡は、頭など上半身部分周辺に置かれることが多く、同センターは「意識的に割られて足元に置かれるのは府内で例がなく、全国的にも珍しいが、その意味については不明」としている。
 竹野川を挟んで、1号墳の南西約二㌔には重文「青龍三年(二三五)」銘鏡が見つかった太田南古墳があり、樋口名誉教授は「竹野川流域が中国と密接な関係を持っていたことを物語る資料」と話している。
 現地説明会は二十五日午後五時から行われる。  〉 


堤の小字一覧


堤(つつみ) アラキ イチノミヤ イジダニ オイノシロ オオギリ ヲテツボ カキガタニ キコリダニ ココリダニ コヤガタニ コミナミ コフリダニ サト シモガワラ シミズダニ シンズ シヨウブダニ ジヨウガタニ シモオカ シロノコシ スミダ ソラジ トビタニ ナガタニ ニジウワリ ネリサガ ヒラタ ヒラノ フキノタニ ミハカ ヤマサキ ヨコタ クダリサカ シンズダニ

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『弥栄町誌』
その他たくさん



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