丹後の地名 越前版

越前

金山(かなやま)
福井県敦賀市金山


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福井県敦賀市金山

福井県敦賀郡粟野村金山

金山の概要




《金山の概要》
旧国道27号(県道225号・敦賀美浜線)の国立医療センターのあるあたり、南の野坂山にも広く金山地籍である。
「滋賀県物産誌」は「文安五年、井ノ口谷洪水ノ為メニ崩レ村落過半埋没シテ原野ニ帰セリ、今所謂鞠山・折戸・片野ノ原是ナリ、当時此難ニ逢フ者居ヲ村ノ西北ニ転シ、自ラ西山谷を開墾シテ田畝トナス、於是乎金山村ハ東西ノ二ツニ分レタリ、ト云フ」と記す。
中世の金山郷は、室町期~戦国期に見える郷名で越前国敦賀郡のうち。「華頂要略」巻37に「照泉院<或松泉院、寺領 金山郷〉」と見えて、当郷は青蓮院の院家照泉院領であった(天台宗全書)という。応永11年(1404)9月22日の津保守心安堵状(西福寺文書)に「野坂庄金山郷内田地弐段」と見えて、当時の金山郷地頭である守心がこの地を西福寺に安堵している。室町期を通じて郷内には本御所侍名(1町)・貞清名畠(4反)、国方名内大田・関神田(2反)・宮山上(180歩)・畠(90歩)・力王丸(180歩)・三月田(180歩)・屋敷(1所半分)・久乃於(3反)などの西福寺領があった(西福寺文書)。同29年3月17日の斯波義淳西福寺寺領安堵状に「金山郷内関」と見えることから、当郷は関まで含んでいた。慶長国絵図には金山村と見え、高1,194石2斗8升。
近世の金山村は、江戸期~明治22年の村名で、敦賀郡のうち。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)からは小浜藩領。享保12年(1727)の家数106 (高持58・無高45・寺3)・人数557(男258 ・ 女294 ・ 出家5),馬17 ・ 牛6。「雲浜鑑」によれば家数99・人数406。当村は越前と若狭の国境近くに位置するため福井藩初代藩主結城秀康によって口留番所が置かれた。また小浜藩領となってからは藩の米蔵が置かれ、三方郡内の耳若・山東郷・西郷24か村の年貢米が収納された。金山村は野坂村とともに茶の産地として知られ、「敦賀志」には「此村よりも茶を製し出す、同し哥ケ谷と称す」とある。
明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」によれば戸数107 ・ 人口500、牛10・荷車(貨物運搬用)7、産物は莚7、500束・菜種5石・麻10貫一葉煙草47貫・繭140貫・生糸8貫400日・製茶812斤・櫨実60貫・桑葉3、300貫・桐実100石。同22年粟野村の大字となる。
近代の金山は、明治22年~現在の大字名。はじめ粟野村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西7町・南北6町、戸数99、人口は男258 ・ 女236。

明治29年当地に第18旅団司令部と歩兵第19連隊が置かれた。明治31年銀・銅、同36年亜鉛の試掘が行われた。昭和36年一部が桜ケ丘町となった。


《金山の人口・世帯数》 1017・368


《金山の主な社寺など》

金山彦神社

旧国道27号に沿って鎮座。天長3年(826)の創建と伝えられ、もとは六社大明神と称した。祭神は金山彦大神、境外末社として日吉神社・常宮神社・井口神社がある。同社の神事について「敦賀郷方覚書」に「正月十八日御供神酒ヲソナヘ氏子共神哥ヲウタヒ田植ノ真似ヲスル、四月十日神楽ヲ奏シ湯ヲ上ル」とある。明治9年村社となる。
『敦賀郡神社誌』
村社  金山彦神社   敦賀郡粟野村金山字宮畑
位置と概況 本區は若狭街道に沿ひ、東北は十町にて莇生野區に、南方は八町にて野坂區に、東方は櫛林區に西は關區に隣してゐる。敦賀三方間の定期自動車及び馬車等頻繁に往来し、又敦鶴鐡道粟野驛は隣區野坂にありて、交通至便の地であるのみならず歩兵第十八旅團司令部及び歩兵第十九聯隊の所在地として本部中敦賀町に亞ぐべき最も重要の地位を占め、郵便局あり、旅館・割烹店・其他各種の店舗軒を並べ、俗に澤と稱する兵營前は一小郡市をなしてゐる。井ノ口川は區内を横断し、これを堺としで本區と朶區の澤とに分れ、澤には商家多く本區は主として農家である。金山の地名については確證はないが、昔時の鉱山跡ありといへば、之に因んだ地名なるべく、又氏神も其の當時の守護神であつたであらうと信ぜられる。氏神金山彦神社は區の中央北部に位し、境内は若狭街道に沿ひ、平坦な社域は街道よりも低く、盆地的地形であるが、これ往昔神社の西南方は天災地變の爲め土地陷沒せしものゝ如く、又道路は車道に改修された結果、境内よりも高くなりたるものにあらざるか。土地の變動に就いては、今尚それを物語るべきもの數尺の地下より發見することありと。文安五年(凡五百年前)井ノ口谷崩潰、土砂流出の天災がありたから或は其頃であらう。域内と道路とを高さ四尺の石垣で境界して尊厳を保ちてゐる。鳥居を入りて進み床割式の拝殿を經て、更に歩を進めば、高さ約三尺の石垣で正面を堺し、その中央に三級の石垣を設けてある。この土に本殿は南面して鎭座し給ふ。社地の周圍には畠地を隔てゝ人家が點在してゐる。本殿前面東側には幾百星霜を經たかと思はるゝ郡中に知られた大なる銀杏の名木がある。其の他社域には小樹雜木尠きもタモ・椎・欅等の老幹古樹甚だ多く、蒼々たる深緑は千歳の色を罩め、就中タモの大樹は根元二・三尺の所より四幹に分れあれば俗に四つタモと呼んでゐる。幹圍實に四丈に及び爲めに神社に一層の尊厳を加へ、又郷土の誇りでもある。
祭神 金山彦大神
由緒 按ずるに、當社の社傳に徴するに天長三年の創立にて、國史所載の名社である。即ち文徳實録に『嘉祥三年甲午十一月朔乙未進越前國金山彦神階從四位下』とある。この神階の事は是れ即ち當社であるが、往昔氏子と神職との間に意見の確執があって相和せず、遂に神職は御神體を奉じて美濃國に走り彼地に金山彦大神を奉齋したので、氏子等は一日も氏神様無くては相濟まずと、隣區野坂の六社明神を奉齋したが、明治維新の際、再び金山彦大神を奉齋するに至ったのである。明治九年十月十七日村社に列せられ、大正元年八月神饌幣帛料供進の神社に指定せられた。
祭日 例祭 五月十日(元舊四月十日) 祈年祭 三月二十日 新嘗祭 十一月二十八日
特殊神事 古式祭 毎年二月十八日古式祭と稱し、(近年の祭名)御田植式の行事が行はれてゐた。俗に「ダノセ祭」と呼び夜間行はれた。何れの田植祭も普通晝間、神社境内で行はれるのに、當區のそれは夜間民家で行はれて来た、これには次の様な祭典及び儀式が行はれるからである。
 當日午前九時に當家(當家とは此の行事を行ふ家を云ひ當人は其家系を云ふ)で、風呂に入りで斎戒沐浴し、當人の中で獅子舞に心得のあるものが、獅子頭を冠り、當家の門前にて、悪魔拂の舞を行ひ、それより笛・太鼓の合奏で、舞ひながら氏神鎭守に參進するので、その行列の先頭には當家の主人は裃を着して神幣を捧持し、次に神職は狩衣を着し、次に當人五人は羽織袴で、次に太郎治(ダノセ行事の指揮役)は烏帽子直衣の姿で、次に區長・氏子惣代は羽織袴であつて、神職・區長當家の以外は、神饌を接持して靜々と進むのである。神社に着すると祭典を執行されるが、祭式等には特殊的のものはない。この神社參拜の笛・太鼓の音を聞きて「今ち宮參りだ」と區民は、神幣を拜せんものと順路に行列を迎へるのである。祭典が畢って、當家に歸るのは、午後一時頃であってそれより直曾式がある。この直曾式は神職、當家を主賓としで婚禮儀式の樣に獻酒が行はれ、夕方まで素謠等がある。從っで田植式は夜分に行はれる樣になるのである。
御田植式行事 區内の青年八名が、素襖を着し、二人宛四組に分れて、苗代〆より種蒔・植付・稻苅に至るまでの作業の大體の摸擬をするので、一名の田長即ち指揮役の太郎治(太郎治は本人が辭するまでは交代しない)と數名の大夫とがある。此の日は御田植式を拜せんとて、當家には區内の老若男女は勿論、隣區の人々等が寄り集ふ盛儀の行事であった。然して「當家渡し」と云ふ式がある。これは當家の全責任を果して、抽籤にて明年の當家が決定されると、その家へ當家を渡す式で、獅子頭を冠つて、舞ひつゝ先頭に進み、當家渡しの主人は裃姿で神幣を奉持して、明年の當家へ行くのである。明年の當家主人は、同じく裃姿で、順路の辻まで出迎ひてゐてこゝで授受が濟むのである。これにて、本年のダノセ祭は終了したので、この當家渡しの式にも、當人等の賑々しき餘興があったのであるが農村として意義深い。此の御田植式も、惜しむらくは数年前中絶したのは甚だ遺憾である。我國は神國であり、瑞穂國であり、神事を先にし、人事を後にするのが我國の特異性であつて、此の神事行事は、我が國で最も古い特殊神事に屬してゐて農村に相應しい、良俗美風の舊慣で、郷土発展の資となり、基ともなるものなれば、古き歴史あるかゝる神事は、些々たる經濟や理屈で軽々に存廃を決しではならぬ、よろしく之を永久に保存せしむる樣にしたいと思ふ。當時の田植歌の一節を後の追憶に茲に記して置く。

十七夜 九月十七日(元舊八月十七日)十七夜と稱し、青年等が神社の境内で角力並に盆踊を行ふのである。戸數も多いのと近郷の交通便利のよいのとで他區の青年等も集りて、大き衣笠鉾を中心に囃の太鼓に合せで、大きな圓陣を作りで踊るのである。『踊り踊るなら三十が盛り、三十過ぎればその子が踊る』と云ふ様な調子で青年等は盛に踊り、花編笠を被うて變裝などするものもありて郷土の藝術味を年一度の恒例の十七夜によつて、おぼろげながら存續してゐるのである。

境外末社
日吉神社 祭神 大山咋命
常宮神社 祭神 神功皇后
井口神社 祭神 大山祗命

公孫樹 往昔より神木と稱してゐる。幹圍二丈五尺高十八間一本「敦賀志稿」に「此の社の左に銀杏の大木あり、圍三丈許高五・六丈、其の枝より杵といふものさがりて土に入り本木の周圍に五・六本あり、婦女乳汁乏しきものは此木に祈ると云、萬葉集なるちゝの實は此木の實をいへる成るべし。銀杏のかたち乳頭の如く、又白く乳汁の如きもの出、婦人の乳出ざるもの此木を煎じで服すれば乳汁出ると云々」とあり、福井縣より天然記念物に指定せられてゐる。
神社附近の舊蹟 金山城趾 朝倉の臣一向宗僧徳萬坊の居城にて城趾には愛宕神祠がある。百餘間の壕趾及び井戸一箇所今尚現存すると。その山麓を俗に門前と呼んでゐる。

境内のイチョウとハゼの木は市天然記念物という。境内に大きな切り株があるが、これがその大イチョウであろうか。
西安無 南安無 東安無という小字がある、安無はアナシ(穴師・阿奈志・鉄穴師)のことであろうか、その彼らが祀った社であろうか。


八幡神社
金山城跡にあるという。


曹洞宗西洪寺

西洪寺はもと莇生野村幸松寺末。


真宗大谷派竜水山量泉寺

当寺は延宝3年開基、寺の由緒書によれば開基以来蓮如の自筆名号を本尊にしていたが、正心の代に東本願寺13代宣如から木仏と寺号を許可されたという。もと敦賀無量寺の末寺であったが文化13年東本願寺の直末となったそうである。
開基は関地正昌。文明3年(1471)6月、近江海津福寿寺で本願寺蓮如より名号を受け、この地に一宇を創建したのに始まるという。文禄2年(1593)教如より阿弥陀仏画像を与えられ、寛永10年(1633)寺号を許された。
『敦賀郡誌』
西洪寺、金光山曹洞宗、志比永平寺末。 量泉寺、眞宗大谷派、東本願寺末、開基關地正昌、文明三年六月、江州海津福壽寺にて蓮如より名號を受けて、此に一宇を創立す。文祿二年、教如より阿彌陀佛晝像を賜はり、寛永十年三月、寺號許可。 廢寺、常福寺、曹洞宗、莇生野幸松寺末。


金山城趾
地内の北西の徳万坊山上に金山城跡がある。越前金山城


歩兵第19連隊跡

コンクリート製の歩哨舎、営門の門番兵がここに詰めていたのであろう。これは昔からある。昔からというか、↑その道がまだ国道27号線だった頃、ここを走っていて、これを見かけて「アレ何だろう」と思っていたものである。ポリボックスのようでもあるが、あんな物はほかでは見かけたことがない。国立病院がすぐ近くなので、陸軍の何かかな、くらいに考えていた。車から降りて見てみると「陸軍歩兵第十九聯隊 営門歩哨舎」と書かれている。
明治29年当地に第18旅団司令部と歩兵第19連隊が置かれた。当初は金沢第9師団に属し、岐阜県下1市12郡を管轄したが、同39年から京都第16師団に所属し、管轄地域は若狭一円、敦賀郡、近江6郡(伊香郡・東浅井郡・阪田郡・犬上郡・愛知郡・高島郡)となった。また同31年兵営西側に敦賀衛戍病院が開設された。なお,この兵営建設をめぐって建設予定地の井ノ口川右岸の原野・畑地は井ノ口川の放水池の機能も果たしていたため井ノ口川の改修問題が県会などで取り上げられ、河川の付替え・拡大工事が大正2年に竣工した。戦後連隊施設は進駐軍の兵舎にあてられ、昭和22年市に払い下げられ市営住宅が建設され桜ケ丘町となった。また敦賀衛戍病院は国立療養所敦賀病院、国立病院機構敦賀医療センター↓となっている。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


金山の主な歴史記録


営門から少し団地の中へ入ったところに、敦賀連隊史蹟碑がある。
碑文に、
世界戦史に勇名高い歩兵第十九聯隊は明治十九年名古屋に創つて同三十一年この地に転営し昭和十五年歩兵第百十九聯隊亦こゝに生る
岐阜滋賀福井等の健児こゝに鍛心練武し明治以来の諸戦役に悉く出て征きて勇戦再び還るらざりし殉国の士は壹萬余名を算ふ
時流れ星移るも我等先人の挺身の偉業と祖国愛の精神を永く後世に遺さんと志し国運の隆昌と世界平和を祈念してこゝにこの碑を建てる

『新わかさ探訪』
敦賀連隊跡 若狭のふれあい 第140号掲載(平成15年10月25日発行)
*戦争の歴史を伝える 当時の歩哨詰所や塀垣
 敦賀市の桜ヶ丘住宅団地は、かつて敦賀連隊があったところです。団地の入り口の横に、人の出入りを監視した歩哨詰所と「陸軍省」と刻まれた小さな石柱が今も残されています。また、敷地の北西側、井の口川や旧丹後街道沿いには当時の塀垣が現存。すでに終戦から半世紀以上が過ぎ、戦争の記憶が薄れようとしているなかで、敦賀連隊の歴史を今に伝えています。
 この地には、日清戦争後の明治31年(1898)年に陸軍の歩兵第十九連隊、昭和15年(1940)には歩兵第百十九連隊が置かれました。これらを併せて「敦賀連隊」と総称し、福井県嶺南地方と滋賀県、岐阜県から召集された人たちが入営しました。
 当時、営門を入ってすぐ右側に連隊本部があり、広い営庭を囲むように幾棟もの兵舎や将校集会所、酒保(日用品等の売店)などが建てられていました。将校は連隊の外に設けられた宿舎から騎乗登営し、今の福井銀行粟野支店のあたりに、そのための馬小屋がありました。敷地の一角には、周囲を土手で囲んだ煉瓦造りの弾薬庫も。桜ヶ丘住宅団地の南西側にある現在の国立福井病院の前身は、敦賀連隊発足と同時に開設された陸軍の病院で、当初は敦賀衛戍病院、のちに敦賀陸軍病院と改称されました。
 明治の連隊設置以降、その前を通る旧丹後街道沿いには、旅館や写真館、食堂、呉服や時計などの商店が立ち並び、兵隊の利便のために郵便局も設けられました。当時の郵便局の建物は今も残っています。
 明治33年(1900)の創業で、陸軍御用達を務めた坂田写真館の谷繁さん(終戦時9歳)は、「敦賀聯隊史蹟保存会から記名簿を預かり、連隊跡を訪れた人に当写真館で記帳をしてもらっていますが、高齢化とともに戦友会も人が少なくなり、記帳にみえる方は年々減っています。戦前、私の父は連隊内の酒保で毎日のように写真を撮っていました。戦場から帰らぬときの遺影にするための写真です。酒保と家との間を行き来して写真乾板を運ぶのが私の役目でした。毎年、桜が満開のころに軍旗祭という記念日があり、その日だけは家族や一般の人も連隊の中に入ることができました。普段は身内でも面会が許されず、『田舎からぼた餅を作ってきたが渡すことができない』というので、出入りを許されていた私たちがこっそりと持っていったりしました。終戦に近いころは、年のいった兵隊さんばかりで、日曜などには奥さんたちが子供連れで大勢面会に来ていました」と当時を振り返ります。
 地元沢区の藤田一雄さんの手記によると、昭和19年(1944)年に敦賀連隊はビルマ戦線に出征し、総員3800人のうち、帰還した人は657人だったといいます。翌年8月、日本の無条件降伏で戦争は終わり、敦賀連隊は半世紀の歴史に幕を閉じました。
 敗戦後、連隊兵舎には、アメリカ軍部隊が進駐。空襲で焼失した旧制敦賀中学校の仮校舎に使われたり、焼け出された市民の集団住宅としても利用されました。その後、連隊跡は桜ヶ丘町に、教練・演習などを行った練兵場跡は、ひばりヶ丘町として住宅団地に生まれ変わり、今日に至っています。


金山の伝説






金山の小字一覧

金山  原田奥 北原田 原田 中道 中ノ谷 上下前 歌ケ谷 関ケ前 下前 横枕 小辷 辷り坂 西安無 南安無 東安無 坂丸 琵琶首 山花 音花 山崎 沖田 畔野内 永畑 麹花 柿ノ木 小鍋谷 西財木 南財木 財木 三札山 坂尻 山越上 脇城 五良戸 池ノ谷 明前 山王谷東 山王谷西 北京尾 彼う谷 墓降り 聖り林 京尾 土神ノ木 鞠山 下神ノ木 反橋 炭焼 墓ノ前 竹中畑 鳥城 向野 田ノ下 御名 友佐 後田 内海途 宮畑 御名城 下向野 牛岩 金鋳場 宮野下 外海途 山越畑 莇生野越 莇生野道 北沢 南沢 向林 野坂畑 北大沢畑 南大沢畑 南沢田 江町 東沢田 五反田 西外鳥 東外鳥 野畑 大曲り 南木崎道 三田 野畑尻 神田道 中堀 砂子 東三田 木寄道 鰻穴 溝 溝尻 池田 西野神腰 東野神腰 野神腰 深山 山越谷 彼う山 山王 赤峽 影山 一ノ谷 切谷渕 熊原 山ノ神 井ノ口


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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