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丹波の

寺町(てらまち)
京都府綾部市寺町


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京都府綾部市寺町

京都府何鹿郡綾部町寺

寺町の概要




《寺町の概要》
田野川と由良川の合流点。昭和30年代から急速に宅地化が進む。自治会は寺町東と寺町西に二分している。由良川筋から質山の稜線までの地域。
高野山真言宗那智山正暦寺がある。南部山麓に大谷神社が鎮座する。
寺村は、江戸期~明治22年の村。はじめ綾部村の枝村、のち分村独立。綾部藩領。綾部組12村のうち。明治4年綾部県を経て京都府に所属。同22年綾部町の大字となる。
寺は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ綾部町、昭和25年からは綾部市の大字。同28年寺町となる。
寺町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。


《寺町の人口・世帯数》 998・398


《主な社寺など》

大谷神社

ちょっとばかし狭い道を入って行く、案内板がある。
大谷神社の由来
本殿 大谷神社は、寛永九年(一六三二年)に九鬼氏来綾の時に設立されたものと伝わっている。
祭神は、日本神話の須佐之男命をお祀りしている。
須佐之男命は古来天王と称し農家は牛の神様として崇敬されている。そのため戦前までは天王さまと敬愛の心を以って呼ばれていた。
小宮様 夷 神社・・七神社の一つ 商売繁盛の神
    粟島神社・・病気平癒と幸福・安寧の神
    塩寵神社・・安産の神
    車折神社・・対人関係の向上・就転職成就の神
    杵の宮神社・・収穫を祝う神
    稲荷神社・・五穀をつかさどる倉稲魂を祀る神
    愛宕神社・・(本殿南裏に鎮座)雷神を祀り・
防火の守護神

正暦寺の鎮座の神・・(昔から寺村の氏神)
通称、鎮守堂と呼んでいる。神礼は熊野権現であり、千手観音を祀り千の慈手・慈眼をそなえてあまねく衆生を済度するという変化観音である。
毎年一月二八日祭礼が行なわれ総代がお供え、お参りをしている。    平成二十九年五月


大谷神社(寺)
祭神 須佐之男命
 古来天王と称し、農家は牛の守護神として崇敬している。
(『綾部町誌』)


高野山真言宗那智山正暦寺

東側の由良川側が正面のよう、景観は抜群ながら、しかし山陰本線を越えねばならず、ヤバイ。

車など今は西の方から入るようになっている。

  鎮守堂↑        本堂↑   庫裡→
国道173号を南ヘ坂を登って向かうと、峠の頂上に須知(すち・しち)山トンネルがある、その山頂に当寺は最初はあったという。トンネルができ街道が整備される以前は質山峠といったが、ドスンバラシイ峠道だった。しかしこれが京街道であった、綾部・園部間に今の鉄道ができるまでは、京都方面へ行くにはこの道しかなかった、参勤交代の殿様もこの道を行ったという。
須知は船井郡丹波町に須知(しゅうち)という所があるし、けっこうあちこちにある地名である、日本とはそうした国である。敦賀へやってきた大加羅国の王子、都怒我阿羅斯等(于斯岐阿利叱智干岐)の斯等や叱智のことである。福知山市興の式内社・阿比地神社の祭神はアリシチ(アリヲチではなかろう)、このシチも同じである。
『青銅の神の足跡』は、「須珍は古代朝鮮の人名で須智、叱智、設智、朱智、臣智などとも記され、『魏志』「東夷伝」の中の「韓伝」に「各長帥あり。大なる者自らの名を臣智となす」とある。」としている。
人名というか、彼らの大親分の称号であろうか。今も「○人親王」とか聞くとワタシはフト勝手にこの事を思い出して、このヒトはシトだろうかと思ったりする。
この須知山に渡来人達(たぶん天日槍系の鉱山開発者)がいて、この寺より先行して綾部の方ヘも降りて来て、それが綾部ということで一部は再編されたのかも知れない。寺町とか呼ばれる以前は、この地はたぶん須知とか呼んだのではなかろうか。


那智山正磨寺 真言高野山谷上宝城院末   綾部
開発一条院御宇正暦二年 年号ヲ以寺号額ヲ賜フト云 本堂五間四面 本尊観音春日作 脇立在 丹波巡礼二番 何鹿郡一番札所 始ハ是ヨリ一里程去リ南高山アリ 名ヲ須知山ト云 此頂ヲ霊山嶽ト云七堂伽藍ノ地 空也上人比峯ニ観音安置スト云 其後麓ノ中堂ト云所ニ移 又今此桜戸ニ遷スト云 高五石寄附アリト 鎮守熊野権現社 鐘有 坂ノ中惣門アリ
(『丹波志』)

正暦寺 綾部町寺にあり、那智山鏡智院といふ。真言宗にして、高野山谷上宝城院末に属す。正暦二年、年号を以て寺号とす。徳川時代鎮守は熊野権現にして、寛文十二年九鬼式部少輔当寺の衰徴を救はんため、高二石を本宮権現領に、高三石を那智観音領に寄進したり。本寺蔵兆殿司筆涅槃像一幅、明治三十七年に国宝に指定せらる。
(『何鹿郡誌』)

正麿寺(寺)
宗派 真言宗宝城院末
本尊 聖観音菩薩
那智山鏡智院と号す。藩記に、
観音堂古来田野村霊山に有之、然るを須智山へ移す。今其の所中ノ堂という、其後此所へ移すよし。三山を表して北に本宮新宮の名あり。東に川の流れかさねの滝あり。
とある。由緒は天慶年間空也上人の開基にして、須知山頂上霊山に観音堂を創建したのに始り、後中興開基聖楽上人須知山の大岩口の中ノ堂に移し、七堂伽藍全備の密教弘通の道場となった。
寺伝によれば正暦二年旱魃打続き、人民の苦しみ甚しかったので、聖楽上人は雨を天に祈ったところ、忽ち霊験あり、沛然として降雨があったという。即ち朝廷これを聞召し、特に功を賞して年号を寺号に賜ひ、須知山正暦寺と改め、勅願寺に準ぜられた。この由緒から江戸時代まで雨乞の祈祷を以て有名であった。
 降って治承年間、丹波国が平氏の所領になるや、平重盛綾部の地に巡遊し、この地の景勝を愛し、紀州熊野に似ていたから熊野に因んで三山になぞらへ、熊野神社を勧請したと伝え云う。今境内の鎮守は熊野本宮となっており、鎌倉時代の作と思われる千手観音像が祀られている。
 寛永年間九鬼氏が薄主として入部するや、当寺の衰運を嘆き、累代熊野別当を家系とする九鬼氏の因縁によって那智山号を与え、鎮守本宮権現に二石、観音領に三石の寺領を寄進し復興に努めた。其の後文政年間堪信上人が弥勤院の跡に現在の伽藍を改築した。
当寺の寺宝として旧国宝兆殿司筆涅槃像及び美術鑑査状を交附され覚鑁上人作と云ふ不動明王木像一体がある。
又観音堂は丹波国札所の二番で、
 三熊野をこヽにうつして那智の山
   後の世照す慈悲のみのりに
又郡西国の一番の札所で、
 何鹿や如何に名付て那智の山
   滝も綾部を波にのるらん
と歌はれている。
(『綾部町誌』)

正暦寺と雨乞 寺伝によると正暦二年(九九一)、天下は旱天がうちつづき人民は苦しんだので、聖楽上人が雨を天に祈ったところ、験あってにわかに降雨があった。時の天皇がこれを聞かれてその功を賞し、年号の正麿を寺号に与えられ、勅願寺に準ぜられたという。こうした由緒があってか、九鬼藩では雨乞の祈祷を正暦寺で行うことにしていた。
年号をもって寺号にしたのは、弘仁十四年(八二三)の延暦寺をはじめとするが、その後に数か寺の例があり、いずれも官寺的な寺院である。正暦寺は天慶年間(九三八~九四六)、空也上人によって須知山の主峯霊山に創建された須知山鏡智院の後身で、中興の聖楽上人がいまの地に移したという。
本寺には鎌倉時代後期の作で、兆殿司筆と伝える仏涅槃図(重要文化財)や、那智山の本地仏で鎌倉時代初期の作と考えられる千手観音像(市指定文化財)・覚鑁上人作と伝える不動明王像などがあり、古い由緒を物語っている。
(『綾部市史』)





《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


寺町の主な歴史記録




伝説







寺町の小字一覧


寺町 土取 寺野 山椒 上石 遊舟 山根 植松 寺下門田 須知山 堂ノ前 農屋敷 小山 大谷 角場 須知山 カトヲ 遊舟

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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