過去は忘れて 戦争でも始めよう!
誰が敵だかわからない

福知山20連隊と南京事件

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 福知山二十連隊による南京大虐殺



 
(12)より



 南京は国父・孫文の陵(中山陵)もあり、何と言ってもこれまでは首都であった。敵に取られると国民に与える心理的影響が大きい。防衛するかどうかと中国ではもめた。精鋭部隊は上海でほぼ壊滅、25万ともいわれる戦死者を出していた。軟弱な新兵を急遽かき集め水増ししても防衛はムリというのが一般的な判断であったという。
毛沢東の実践論矛盾論はこの年の夏にすでに書かれているが、毛沢東に限らず中国政治家はずいぶんと長いスパンで考えて、我らは勝つと確信している。日本人とは思考の次元が違う、稚拙な見通しと戦略の日本では長期戦は絶対に勝てそうにもないと思えるほどに皆がすぐれた哲学者のように構えている。
全体的には重慶まで引いて立て直し長期戦に備えるという基本方針であった、南京では名目的抵抗に留めて撤退する、あるいは一定期間だけ徹底抗戦するか、しかし蒋介石は南京固守作戦を決定した、そんなことをいうてもと、多くの幕僚は反対で、誰も指令官を買って出るものはなかった。ムリを買って出る者はよほどの者か状況が見えもしない実力もないくせに思い上がった者であろうか。守る側も攻める側も双方が指令官の資質を欠いていたために、大きな犠牲が出たといわれる。


 日本軍は一斉に南京に殺到する。12月4・5日にかけて16師団(京都)と9師団(金沢)が東の句容県へ、114師団(宇都宮)は南の栗水県へ、6師団(熊本)と国崎支隊はもう一つ南の高淳県に突入した。
南京防衛軍は前線部隊・後方部隊ならびに雑兵や軍夫なども合わせて約15万。
日本軍は陸から総勢20万近く、空から支那方面艦隊航空部隊の第1空襲部隊が、長江から遡江部隊が南京に向かって両岸の要塞・砲台を攻撃しながら進撃をはじめた。上の図にあるようにぐるっと完全に包囲する作戦であった。
包囲網の中には、防衛軍のほかに近郊区に100万以上の住民と難民、南京城区に40万〜50万人の市民および難民がまだ居住し、あるいは避難していた。
攻略軍の砲の射程内に入ってきた8日から9日にかけて、蒋介石政府首脳はじめ、南京市長など市首脳、ドイツの軍顧問や軍の首脳もすべて南京を脱出した。
8日に攻略軍は降伏勧告文を届けたが防衛軍は回答せず、南京死守のため、陣を許可なく離れたり、長江渡河するのを厳禁する「背水の陣」を敷いて固守する。

 
11日12日は日本全土が「南京没落」の祝賀提燈行列で涌いていた。東京などは40万人にもなったとか、しかしこれは誤報に踊らされたもので、まだ城壁前の激戦が続いていて、攻略軍は城内に入っていない。
11日には防衛軍に撤退命令が届いていた。大津波みたいなもの、敵わぬと見たら逃げるが勝ち、三十六計逃げるに如かず、そんなことばがあるが、体裁などかまわずに逃げるべきときには逃げて身の安全を保ち、のちの再挙を図るのが最上の策といわれる、こんな場合は名将ならそうしたのだろうが、防衛軍司令部は機敏な対応に遅れた、ここでの一日の遅れが大きな被害を出す事になったと言われる。退くことを知らない必勝の信念だけで犠牲を拡げてはなるまい。日本もあと半年敗戦の決断が早ければ300万犠牲の半分は救われたといわれる。南京も愚将だったかも知れないが、それならどこかの国はそれ以下の愚将ぞろいだったということになる。

12日夜、南京防衛軍指令官はじめ司令部が地図で言えば北の長江沿岸の把江門から脱出した。袋のネズミでぐるっと取り囲まれているため、ここしか脱出口はなかった。下関から長江を1.5`ばかり渡り浦口に逃れる、そこからは鉄道がある。
指揮系統を失った防衛軍はパニックを起こして南京から逃れようと把江門に大挙して押し寄せた、それを追って南京市民も押し寄せた。
把江門を守る防衛軍は勝手に退却してくる部隊があれば、発砲してでもくい止めよとの命令を受けていたため、同士討ちもはじまり、死体と瓦礫の山がここで築かれた。
南京城内にいた中国戦車隊も逃れてきて、沮止しようとする部隊を実力排除したため、門は開かれた。城壁を乗り越えたりこの門を通ったりしてここまで撤退したのはよかったが、さて長江を渡る船がなかった。この狭い場所の数キロにわたって敗走兵や避難民がひしめいた、北からも南からも日本軍が攻めてきた。どうするか、真冬の零下の長江に飛び込み1.5キロを泳いで渡るしか道はない。実際木ぎれをもって飛び込んだ者も多く長江はそうした者で一杯なったというが、それは自殺行為であった。

 
防衛軍兵士たちは急遽召集された新兵が多かった。どこへも逃れられないとすれば、あとは兵器を投げ捨て軍服も脱いで一般市民と同じようになりすますことであった。
(1)に、
南京攻略戦を取材するために戦火の南京に留まっていたF・T・ダーディン記者は、こう報じている。.

 日曜日(一二日)夜、中国兵は安全区内に散らばり、大勢の兵隊が軍服を脱ぎはじめた。民間人の服が盗まれたり、通りがかりの市民に、服を所望したりした。また、「平服」が見つからない場合には、兵隊は軍服を脱ぎ捨てて下着だけになった。軍服といっしょに武器も捨てられたので、通りは、小銃・手榴弾・剣・背嚢・上着・軍靴・軍帽などで埋まった。下関門(把江門)近くで放棄された軍装品はおびただしい量であった。交通部の前から二ブロック先まで、トラック、大砲、バス、司令官の自動車、ワゴン車、機関銃、携帯武器などが積み重なり、ごみ捨て場のようになっていた。(『ニューヨーク・タイムズ』三八年一月九日、『アメリカ関係資料編』)
かくして12日深夜には、南京軍の抵抗は完全に瓦解した。


 13日の朝から各部隊に割り当てられた南京城内外の担当地域に「残敵掃討」が行われる。
先にも引いたが中島今朝吾16師団長が書いている。
一、斯クテ敗走スル敵ハ大部分第十六師団ノ作戦地境内ノ森林村落地帯ニ出デ、一方鎮江要塞ヨリ逃ゲ来ルモノアリテ、到ル処ニ捕虜ヲ見、到底其始末ニ堪へザル程ナリ
一、大体捕虜ハセヌ方針ナレバ、片端ヨリ之ヲ片付クルコト、ナシタル共、千五千一万ノ群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ、唯彼等が全ク戦意ヲ失ヒゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノゝ、之ガ一旦掻擾セバ始末ニ困ルノデ部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ、乍併戦勝直後ノコトナレバ中々実行ハ敏速ニハ出来ズ 斯ル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ、参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ
―、後ニ到リテ知ル処ニ依リテ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約一万五千、大平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理ヤンモノ約一三○○、其仙鶴門附近二集結シタルモノ約七八千人アリ、尚続々投降シ来ル
一、此七八千人之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ、中々見当ラズ、一案トシテハ百二百ニ分割シタル後適当ノヶ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ

歩兵第三十旅団長佐々木到一少将は、陸軍きっての中国通で、南京攻略にあたっては、歩兵第三十八聯隊と、歩兵第三十三聯隊第一大隊などを指揮して佐々木支隊となり、南京城の北側にせまって下関にむかい退路遮断にあたった。その日記に、

この日、我が支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したものならびに各部隊の俘虜を合算すれば、我が支隊のみにて二万以上の敵は解決されている筈である。(中略)午後二時ごろ、概して掃蕩を終わって背後を安全にし、部隊を纏めつつ前進、和平門にいたる。
その後、俘虜続々投降し来たり数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば、兵隊ならずとも「皆やってしまえ」と言いたくなる。
白米はもはや一粒もなし、城内には有るだろうが、俘虜に食わせるものの持ち合わせなんか我が軍には無い筈だった。

12月13日だけでも16師団は2万以上の捕虜を「殺処理」したようである。
殺さなければ、殺されるという戦闘行為中に殺したというのではない、戦意を失って投降してきた者たちであり、捕虜として処遇すべき性格の集団であった。
捕虜に食わせる気などは最初よりない。ロシアのラーゲリは悪かった、といわれるが、自国兵士と同じ食糧をくれた。日本軍の中国捕虜の扱いはそれよりも千倍も悪かった。そんな都合悪い歴史は何も語られないのである。


 20連隊兵士の日記も語る。(4)の20連隊の一少尉の日記。
十二月十三日
将校斥候として中山門附近の敵情偵察に赴く帰途地雷にかかる。貴重なる生命を犠牲にせしこと申訳なし五時二十分なり何の悪日ぞ、而し此の日南京へナダレを打って入城せし日なり、恨みは探し南京。十三日の日又なく、自分は微傷だにせぬが尚恨めし(以下地雷爆発による戦死者四名、戦傷者三名火葬残置兵五名の氏名が記されているが、省略)。
四遺骨と共に夜を共にす(このあと、現場見取図とメモあり、省略)。
十二月十四日
野戦銃(重)砲の掩護にゆく
投降者二百余名 死刑に処す
一匹 余自ら一刀両断、
手ごたえ小気味よし 血を吸うた業物の切れ味格別なり 白旗を翻えすもの次第に多く続々投降す、其の数二千以上、一万。

(5)に、20連隊機関銃中隊上等兵は、
十二月十三日
「昨夜、夜通し砲撃の音がしている。朝方から砲銃声の音が絶える。さてはと思っていると前進命令。中山門に向かって前進スベシ″さあ入城だ。直ちに整列出発前進して政治学校までくると、ここで大休止だとの話である。」
「西山を一回りして下りてくると、壕内に敗残兵がいた−と大勢の人たちが集まってヤイヤイ云っている……」(北山日記)
 北山氏はいまも、その中国兵の容姿をはっきりおぼえている。
年齢は十七、八歳か。鼻すじが通った色白、紅顔の若者であった。中山陵に立てこもり、最後の防衛線をきずいていた学生義勇軍メンバーの一人と見受けられた。
 若者は白の中国式じゅばんを着ていた。じゅばんの襟に、「抗日救国聯合合」と赤い字で書かれてあった。祖国を日本鬼子の侵略から守れ!と最後まで立てこもったのであろう、悪びれたようすもなく眉を上げて地面にすわっていた。
「このガキ……どないしたろ」
取りかこんだ兵士の一人がいった。
「手エや足……一本ずつ切り取ったれ」「いや、そんなのあかん。火イつけてじわじわと焼き殺してしまえ!」「おう、それがええわ。火あぶりや」兵士たちの輪が残忍な笑いにわいた。たまりかねて北山上等兵が輪の中に入った。
「ぼくが…銃殺してやる」
一思いにバッサリ息の根を止めてやるのが、せめてもの情ではないか……そう考えて銃殺役を買って出た北山上等兵に、戦友らの怒声がとんだ。
「なにいうてんのや、こいつらのおかげで戦友がどれだけ死んだか、考えて見ィ。ただ殺すだけでは、腹の虫がおさまらんわ!」
「そや、そや」
兵士らの輪は、北山上等兵を強く排撃した。排撃することによって、復讐と血の興奮がいっそう高まっていく。
北山上等兵と戦友のはげしいやり取りの空気で、それと察したのだろう。若い中国兵捕虜は、大声で何かを叫ぶとともに、右手で自分の喉をさした。ここを射ってくれ……そういっているらしい。
だが、機関銃中隊の兵士らは、付近から木片や紙くずを集め、火あぶりの準備をはじめた。喉を指さす若い中国兵の声は、哀願の度を増した。
兵士らは若者の両手足をしばった。
「おい、いこうや」
北山上等兵は同僚の川崎政雄上等兵をうながし、輪から抜け出た。背後でどっと喚声が上がり火刑がはじまった。−−
「少しの抵抗もせず、ここを撃って殺してくれと、喉を示して哀願するのを寄ってたかって虐殺するのは、日本兵の恥である」
この日の北山日記は、吐き捨てるような調子でつらぬかれている。

南京大虐殺の修羅場−敗残兵掃討がはじまった。
第三機関銃中隊は、九二式重機八銃を装備していた。五、六百人ごと分割″した無抵抗・丸腰の捕虜を、数分間で射殺する能力をもったMG中隊は、敗残兵掃討の前面に出た。
南京占領の翌日−十二月十四日の北山日記は、つぎのように書いている。
「今日は入城だろう。三時頃から起きて、ワイワイ騒いで準備する。いつ迄たっても、命令が来ない。昼食後、山本、田辺といっしょに城内へ入ってみる」
「中山門、相当に砲撃が加えてある。鉄の扉に記された十二月十三日午前三時四十分、大野部隊占領″の文字。手を握って喜び合う。いまだ城内は残敵掃蕩の最中らしい」
「徴発は一切厳禁。仕方なく引き返す。新聞社通信社の自動車が幾十台となく城内へ入る。空軍も掃蕩に協力、空を旋回している」
「午後二時、戦銃隊は紫金山の残敵掃蕩に行く。午後十二時過ぎ、掃蕩から帰る。八百名ほど武装解除したらしい。みんな、一人残らず殺すらしい。敵兵も、よもや殺されるなどとは思っていまい。学生が主力らしく、大学生など沢山いたという」
「生かしておけば、ずいぶん世界文化の発展に貢献する人もあるだろうが、惜しいものだ。尊い生命が、何のチュウチョもなく失われていく。戦争の酷裂な姿をつくづく感じる」

(3)に、
「昨日入城式があったんだよ。大野部隊代表として第一大隊が参列した。お前たちもいなかったけれど、入城式に参加したことになっているよ」戦友はこういった。
「あたりまえだよ。最後まで戦闘に参加したのだし。命令で負傷者の収容に残ったのだから」
私たちが広場に集合して歩哨配置から宿舎割に時を過しているうちに、突然捕虜収容の命令が来た。捕虜は約二万人だという。私たちは軽装で強行軍した。
 夕幕が足元に広がり、やがて夜の幕が下がり、すっかり暗くなって星がまたたいても歩いていた。
 三、四里も歩いたと思われる頃、無数の煙草の火が明滅し、蛙のような喧噪をきいた。約七千人の捕虜が畑の中に武装を解除されて坐っている。
 彼らの将校は、彼ら部下を捨て、とっくに逃亡してしまい、わずかに軍医大尉が一人残っているだけである。彼らが坐っている畑は道路より低かったので、一望に見渡すことができた。
 枯枝に結びつけた二本の、夜風にはためく白旗をとり巻いた七千の捕虜は壮観な眺めである。
 あり合せの白布をあり合せの木枝に結びつけて、降参するために堂々と前進して来たのであろう様を想像すると、おかしくもあり哀れでもある。
 よくもまあ、二個聯隊以上もの兵力を有しながら何らの抵抗もなさず捕虜になったものだとも思い、これだけの兵力には相当な数の将校がいたに違いないが、一名も残らずうまうまと逃げたものだと感心させられる。我々には二個中隊いたが、もし七千の彼らが素手であるとはいえ、決死一番反乱したら二個中隊位の兵力は完全に全滅させられたであろう。
 我々は白旗を先頭に四列縦隊に彼らを並べ、ところどころに私たちが並行して前進を開始した。
 綿入れの水色の軍服に綿入れ水色の外套を着、水色の帽子をかぶった者、フトンを背負っている者、頭からすっぽり毛布をかぶっている者、アンペラを持っている者、軍服をぬぎ捨て普通人に着がえしている者、帽子をかぶっている者、かぶらない者、十二、三の少年兵から四十歳前後の老兵、中折帽子をかぶって軍服を着ている者、煙草を分けてのむ者もあれば、一人で誰にもやらないでのむ者もあり、ぞろぞろと蟻のはうように歩き、浮浪者の群のような無知そのものの表情の彼ら。
 規律もなく秩序もなく無知な緬羊の群は闇から闇へこそこそとささやきつつ、歩いていく。
 この一群の獣が、昨日まで我々に発砲し我々を悩ませていた敵とは思えない。これが敵兵だと信ずることはどうしてもできないようだ。
 この無知な奴隷たちを相手に死を期して奮戦したかと思うと全く馬鹿らしくなってくる。しかも彼らの中には十二、三歳の少年さえ交っているではないか。
 彼らはしきりにかわきを訴えたので、仕方なく私は水筒の水をあたえた。これは一面彼らが哀れにも思えたからである。休憩になると、彼らは再三こうたずねた。
「ウォデー、スラスラ?(私は殺されるのか)」
彼らにとってもっとも重大なことは、今後いかに処置されるかである。彼らはそれが不安でならないといった顔付きである。私は、顔を横に振って、この哀れな緬羊に安心を与えた。
夜が深まるにつれて冷えびえとした寒気が増した。
下キリン村のとある大きな家屋に到着し、彼らを全部この中へ入れた。彼らはこの家の中が殺りく場ででもあるかのように入ることをためらっていたが仕方なくぞろぞろと入っていった。戦友のある者は、門を入っていく彼らから、毛布やフトンをむしりとろうとし、とられまいと頑張る捕虜と争っていた。
 捕虜の収容を終わった私たちは、コンクリートの柱と床だけ焼け残った家に、宿営することになった。
 翌朝私たちは郡馬鎮の警備を命ぜられた。私たちが郡馬鎮の警備についている間に捕虜たちは各中隊へ二、三百人ずつあて、割りあてられて殺されたという。
 彼らの中にいた唯一の将校軍医は、支那軍の糧株隠匿所を知っているからそれで養ってくれと言ったとか。
 なぜこの多数の捕虜が殺されたのか、私たちにはわからない。しかし何となく非人道的であり、悲惨なことに思えてならない。私には何となく割り切れない不当なことのように思える。七千の生命が一度に消えさせられたということは信じられないような事実である。
戦場では、命なんていうものは、全く一握りの飯よりも価値がないようだ。
私たちの生命は、戦争という巨大なほうきにはき捨てられていく何でもないものなのだ−と思う、戦争にはげしい憎悪を感じる。


(12)に、
畝本正巳「証言による「南京戦史」(5)(『偕行』一九八四年八月号)には、つぎのような証言が掲載されている。
「第十六師団の歩兵第三十八聯隊副官児玉義雄氏の述懐。
 聯隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として「支那兵の降状を受け入れるな。処置せよ」と電話で伝えられた。私は、これはとんでもないことだと、大きなショックをうけた。
 師団長・中島今朝吾将軍は豪快な将軍で好ましい御人柄と思っておりますが、この命令だけは何としても納得できないと思っております。
 参謀長以下参謀にも幾度か意見具申しましたが、採用するところとならず、その賣任は私にもあると存じます。
 部隊としては実に驚き、困却しましたが命令やむを得ず、各大隊に下達しましたが、各大隊からは、その後何ひとつ報告はありませんでした。激戦の最中ですからご想像いただけるでしょう」
 さらに、さきにあげた第三十八聯隊戦闘詳報第十二号の俘虜七二○○に該当する俘虜についてかたっているものと思われる独立攻城重砲兵第二大隊第一中隊観測班長沢田正久氏の証言が、つぎのように載せられている。
 「俘虜の数は約一万(戦場のことですから正確に数えておりませんが、約八千以上おったと記憶します)でしたが、早速、軍司令部に報告したところ、「直ちに銃殺せよ」と言ってきたので拒否しましたら、「では中山門まで連れて来い」と命令されました。「それも不可能」と断わったら、やっと、「歩兵四コ中隊を増援するから、一緒に中山門まで来い」ということになり、私も中山門近くまで同行しました。(中略)
 ちなみに、私が陸士〔陸軍士官学校〕を卒業する直前の昭和一二年六月、市ヶ谷の大講堂で飯沼守生徒隊長から記念講演「捕虜の取扱いについて」を聞き、捕虜は丁寧に取扱わねばならないと教えられました。その生徒隊長は、いま、上海派遣軍の参謀長であります。卒業後僅か五か月の今日「直ちに銃殺せよ」とは、一体誰が決定し、誰が命令を下したのか。当時、私の胸が痛かった印象は、従軍中はもとより今日に至るまで、私の脳裡から離れません」
 畝本氏の「証言による「南京戦史」」は、「大虐殺説の虚像を反証する」ため、陸軍士官学校の同窓会誌『偕行』に一九八四年四月号から一九八五年二月号まで連載されたものである。だが大虐殺などなかったという証言ばかりでなく、右のような大虐殺否定論にとって不利な証言もあえて載せられている。軍や師団が捕虜の集団的殺害を命令もしくは指示したことは、うごかしがたい事実であろう。




南京陥落の提燈行列(弥栄町・昭和12年) 日中戦争の緒戦では戦勝続きで人びとは勝利を喜んだが、次第に戦局の悪化を受けて戦時下の厳しい暮らしがはじまってゆく。
(『舞鶴・宮津・丹後の100年』より キャプションも)




【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
そのほかたくさん。


(1)『南京事件』(笠原十九司・岩波新書・1997)
(2)『生きている兵隊』(石川達三・中公文庫・1999)
(3)『わが南京プラトーン』(東史郎・青木書店・1987)
(4)『隠された連隊史』(下里正樹・青木書店・1987)
(5)『続・隠された連隊史』(下里正樹・青木書店・1988)
(6)『中国の旅』(本多勝一・朝日文庫・1981)
(7)『南京への道』(本多勝一・朝日文庫・1989)
(8)『福知山連隊史』(編纂委員会・昭和50)
(9)『舞I地方引揚援護局史』(厚生省・昭和36)
(10)『京都の戦争遺跡をめぐる』(戦争展実行委・1991)
(11)『なぜ加害を語るのか』(熊谷伸一郎・岩波ブックレット)
(12)『新版南京大虐殺』(藤原彰・岩波ブックレット)
(13)『完全版 三光』(中帰連・晩聲社・1984)
(14)『蘆溝橋事件』(江口圭一・岩波ブックレット)
(15)『語りつぐ京都の戦争と平和』(戦争遺跡に平和を学ぶ京都の会・つむぎ出版・2010)
(16)『言葉の力』(ヴァィツゼッカー・岩波書店・2009)
(17)『土と兵隊・麦と兵隊』(火野葦平・新潮文庫)
(18)『満州事変から日中戦争へ』(加藤陽子・岩波新書)
(19)『国防婦人会』(藤井忠俊・岩波新書・1985)
(20)『南京事件の日々』(ミニー・ヴォーリトン・大月書店・1999)
(21)『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』(小野賢二他・大月書店・1996)
(22)『銃後の社会史』(一ノ瀬俊也・吉川弘文館・2005)
(23)『草の根のファシズム』(吉見義明・東大出版部・1987)
(24)『天皇の軍隊と南京事件』(吉田裕・青木書店・1986)





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 福知山二十連隊と南京事件
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東史郎氏の「北支戡定戦日誌」
『地獄のDECEMBER-哀しみの南京− 』舞I公演


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