京都府福知山市大呂・上小田・下小田・上大内・下大内・野花・立原・十二・夷
京都府天田郡上川口村
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旧・上川口村の概要
《旧・上川口村の概要》
上川口村は、明治22年~昭和30年の自治体。大呂・上小田・下小田・上大内・下大内・野花・立原・十二・夷の9か村が合併して成立。旧村名を継承した9大字を編成した。
明治44年国鉄山陰本線が開通し、下小田に上川口駅設置。昭和30年福知山市の一部となり、村制時の9大字は同市の大字に継承された。
遺称としては上川口小学校↓やJR西日本の上川口駅がある。
旧・上川口村の主な歴史記録
上川口村
上小田、下小田、十二、立原、野花、夷、下大内、上大内、大呂の旧九ヶ村を併せて上川口村といふ
村の大部分は牧川の両岸に治ひて山陰街道東南より西に通せり、只野花より右折して上下大内、夷の谷は古の出石街道に当れり、尚山を隔て、大呂村あり、山陰線上川口駅あれば交通便利なり、役場、小学校は野花にあり、立原は前にある如く元小宿駅なれば今なほ人家立ち並び日常の用を弁ずべし、此所に郵便局あり、本村の戸数四百九十、人口二千七百余人と云。
一、成願寺村 支 新宮 高三百廿四石二斗 綾部領
古寺址ありといへど由緒伝はらず、
二、日ノ尾村 支 一ノ宮 高 千十一石四升 綾部領
中古、分ちて村といふ、元緑には日ノ尾村と出づ、
三、一ノ宮村 支 戸倉 高 四百八十六石一斗(日ノ尾村に越高あり) 九鬼十郎左ェ門領
本村
四、日ノ尾村
高 二百九石六斗 内 百七十五石七斗 綾部領
三十三石九斗 九鬼十郎左ヱ門領
一ノ宮より夜久郷、畑村へ越ゆる峠を笹波峠といふ、東より西へ趣ゆ、即ち龍ヶ城の北なり、上り凡廿丁下り凡十丁、畑村の内小畑に出づ、
五、上佐々木村、 小野原といふ、
高 九百九十九石丸斗三升四合 保科越前守領
本村の高の内、四百廿八石二斗余は中佐々木分なり、佐々木は本は三個と云、即ち上、中、下佐々木なり、但馬国、久畑市場村まで、一里十四町三十間牛馬通ず、但し登尾峠国境迄、廿四丁四十間、又、丹後国西谷村迄.廿八丁牛馬可通、但し神宮寺峠国境まで十六丁、
六、下佐々木村 古、上佐々本ノ支
高 四百二十石六升六合 保科越前守領
七、北村(今喜多に作る)
高三百四十七石 保科越前守領
上川口村
東光庵
其の昔、蛇が住んで居ったと言ふ天寧寺、今でも此のお寺に詣りますと、蛇の池と言ふのがあります。和尚さんにお願ひすると、蛇の落して行った鱗だと言って大人の親指の爪位のものを、二三枚見せて下さいます。そんなお寺や、親孝行でお上がら褒美をもらった幸右衡門さんのお話や、何でも大分音何處かの城のお姫さまが自分の城を攻め落された時、逃げても逃げても追っかけられて、とうとう蛇になったと言ふ蛇ヶ谷。そんな話か沢山傳へられてゐる上川ロ村に、次の様なことが、村の人々の間に信じられてゐます。
上川ロ村の先づ眞中と思はれる辺に、上大内と言ふ小さい部落かあります。昔此處に東光庵と言ふ小さな庵かありました。此の庵には、立原の或人か奉祀された立派な、薬師如来様かありました。そして、此の如来様をお守りする爲めに、庵主さんが一人住んで居られました。神々しいほどすんだ顔や姿の美しい庵主さんでした。庵主さんは顔や姿の美しいばかりでなく心もそれはそれは美しい人好きのするほんとうに親切なお方でした。とりわけ此の部落の人々に対しては親切でした。
「まあ、この寒いのに下駄もはかないで……」
「え、はなをが切れたの、だってはだしではからだに毒ですよ。どれ、私がすげてあげませう。」
と言った様に小さい子の下駄のはなをでもなほしてやる。ついでに土も落してきれいにふいてやらといったぐあい。それに学校もない昔です。お寺へでも行かないことには、いろはのいの字も習はれなかったのです。だから、文字など知らぬと言ったらそれこそ一字も知らない子供か大勢ありました。庵主さんは、こんな子か遊びに来た時や、ひまな時にはわざわざ呼び集めていろはからむづかしい漢字までも教へてやるのでした。こうした親切が、しらずしらず子供等に庵主さんを好かせました。いつも庵主さん庵主さんと言って、したはれて居る庵主さんでした。
此の庵は坂の中程にあったのです。庵の上の方にもまだ五六軒の百姓家かありました。秋になるご」、稲を一ぱい積んだ車を引いて此の坂を上らねばならぬ家です。庭の掃除などして居て、こんな車を見ると、きっと庵主さんは、
「重いでせうね。たりにはなりませんが後を押しませう。」と言っておしてあけるのが例でした。
「いつもいつもほんとにすみません」こう言って大人の人達は喜びました。
「よく出来た庵主さんだ」こんなに言ってほめる人もありました。
「ほんとに親切な方だ」こんなに心から感心する人もありました。
或秋の晩のことです。庵主さんは、薬師様に晩のおつとめをしてから--これか毎晩のお仕事なのですが--夕飯をいただかれました。夕飯の後庵主さんは、色々の仕事をすませ十時頃おやすみになりました。おやすみになるとすぐこんな夢を見られました。庵主さんは夕方庭の草に水をやらうと思って庭へ出られました。庭には百日草やコスモスやききやうや色々の花が沢山作ってありました。この草花か残暑の爲元気なくしほれてゐましだ。しかし庵主さんが水をやられますと、それらの草は急に元気対いて来ました。しほれて頭を地に向けて居た茎は眞直にちよんと立ちました。ひからびた色は見る見る内に活々と緑がかってきました。庵主さんはそれを見てほほ笑んでゐられました。最後にコスモスに水をおやりになりました。あざやかな夕空に浮び出てゐるコスモスの花の美しさは何ともたとへやうがありません。庵主さんは余りの美しさにうつとりとなってゐられました。その時急に此の村の西北の山から御光がさして来ました。初はなぜまぶしいのだらうと不思議に思はれたのでしたが、よく見るとそれは山から御光がさしてゐるのだといふことに気がつきました。その夜は、かうした同じ夢を三回見られたので、自分ながら不思議に思はれて、翌朝起きると急ぎ庭へ出て、西北の川を眺められたのです。するとどうでせう。西北の山から御光かさして来るではありませんか。あの七色の美しい虹の様な御光が。
「まあ何て不思議なことでせう。私まだ夢でも見てるんぢやないかしら」
と目をしばたたいて見入りますが、やはり五光かさして来る様に思はれて仕方がありません。しかし、自分の目がどうかしてゐるのかも知れないと思って、其の日は他の人には何にも告げないで居られました。するとその夜、又前と同じ夢を三回みられました。翌朝目がさめると顔を洗って直ぐ庭に出られましたが、昨日の朝と同じやうに西北の山から御光がさして来るやうです。その夜、又同じ夢を三回見られました。翌朝西北の山を見ると、相愛らず御光がさしてゐる様でなりません。ちようどそこへ、畠へ行きがけのお百姓が鍬をかついで出て来ました。庵主さんは直ぐ此の不思議をそのおぢさんに話しました。お百姓は庵主さんの言はれる通り西北の山を眺めました。
「おゝ、さうさう、たしかに光ってゐます。御光がさしてゐます。これは不思議だ。光ります。光ります。」おぢさんは此の不思議を博へる爲め、近所の家へ急いでかけ出しました。それから間もなく村人は、手に手に鍬やすぎを持って御光のさしてゐると思はれる方角へ急ぎました。行って見ると、御光のさしてゐるのは寺岶と言ふ山の一ヶ所でした。それは佛様の一部分が地上に現れてゐるのでした。早速堀出して見ると、りつぱな阿禰陀様でありました。
村人は此の立派な阿禰陀様を東光庵にまつり、庵主さんが毎日毎朝此の阿弥陀様と薬師様とのおつとめをすることになりました。庵主さんは一生此庵に住んで長生をしられましたか、それはそれは仕合せのよい一生だったと申します。数年前火事のために庵は焼けましたか此阿捕陀如来と薬師如来とは新に建てられた東光殿におまつりしてあります。
(『天田郡志資料』) |
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