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河原(かわら)
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河原の概要《河原の概要》 市街地の西部。市民体育館の国道を挟んだ向側になる。北西向きに走る2本の通りを中心とする古い商店街で、北は白柏・住吉に通じ、東は海だったが、最近は埋め立てられている。昭和初年までは通称「がわら」とか「がわらまち」と呼んだという。 河原町は、江戸期〜明治22年の町名で、宮津城下白柏町組の1町。白柏町の触下。白柏町の東に南北に並行した2本の町筋がある。町筋は元禄16年・宝暦年間ともに南北93間余。家数は宝暦年間40軒余、明治維新前86軒、明治19年74軒、同21年67戸。海浜に位置していて新地築き出しが盛んに行われ、文化14年須津村浅七が指導者となって魚屋町と当町の裏浜手に新地築き出し普請を実施した。町中の男子は残らず徴発されて大手川尻の出洲の砂を運んだという。完成した新地は西新道(西新浜)と名付けられ、町屋が順次移転したという。明治22年宮津町の大字となった。 河原は、明治22年〜現在の大字名。はじめ宮津町、昭和29年からは宮津市の大字。 ![]() 《河原の人口・世帯数》 《主な社寺など》 回船業・酒造業を営んだ三上家住宅(重文)→ 粋な黒塀、見越しの松に…という古い歌を思い出してしまうが、三上氏は近江商人なのだろうか、屋敷内に大きな樹を植えると屋敷が湿るそうで、普通は嫌がられると、坂根氏から聞いたことがある、キラキラチャラチャラ俗悪の現在のアメリカべったりの商人文化では、その対極にあるこうしたぐっと極端に押さえた文化はマネもできそうにもないか(失礼)。仇なすがたの洗い髪、そんな女性がいれば引き立つがと、思わずキョロキョロするのが、…。 通りにもう何軒かあれば、名所となれることだろう。「新しいモンができても、古い良いモンが無くなって行くで、ナンにもならん」などと言われる、大事にしたい。 《交通》 《産業》 河原の主な歴史記録《丹後宮津志》(地図も)
![]() 現地の案内板
関連項目![]() ![]() |
![]() ![]() 資料編の索引
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『宮津市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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