京都府宮津市松原
京都府与謝郡宮津町松原
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松原の概要
《松原の概要》
市街地の南東部で、北の京口から続く大手川右岸、川に沿って以前の京街道が南北に走り、主としてその東側に家並みが続いている。
松原は、江戸期〜明治22年の地名で、町家地と武家地からなる。町家地は松原町、宮津城下職人町組の1町。武家地を松原、また松縄手とも称していた。松原町は元禄4年に、本町から職人町へ町組変更をした。元禄16年の御城下絵図に町並みは南北130間余、道幅は3間。宝暦年間も同。家数は寛文6年45軒、元禄16年46軒、宝暦年間40軒余、明治21年31戸。
寛文6年の京極氏改易時の幕府の上使出迎えには当町を含む松縄手道400間余に1、100人が集まったという。
文政5年の宮津騒動では職人町名主・組頭が人足をつれて、松縄手には御幕を張り、宮村道には高張手提灯を差出したという。維新後松原町、明治22年宮津町の大字となる。
松原は、明治22年〜現在の大字名。はじめ宮津町、昭和29年からは宮津市の大字。
《松原の人口・世帯数》
《主な社寺など》
《交通》
《産業》
松原の主な歴史記録
《宮津府志》
松原町
南北百三十間半 幅三間 家数四十軒餘
職人町分家数合貳百七軒 内 百貳拾六軒 職人町 参拾壱坪軒 木之部町散田
四拾六軒 松原町散田 四軒 大久保町散田
職人町北南長サ三百三拾六間三尺貳寸 但シ万町境ヨリ切戸橋路や甚右衛門家迄同切戸橋迄三間四尺 但シ町積リ五町三拾六間三尺貳寸 京街道長サ万町境ヨリ上ノ夜番所迄七拾八間四尺溝貳間ハ職人町へ入ル口 但シ道幅四間 田町へ入ル
道幅貳間
職人町長サ四拾四間 但シ惣かうしや善右衛門家前ヨリ京街道界迄道幅貳間四尺
紺屋町長サ七拾貳間貳尺五寸内貳尺五寸溝幅 但シ万町境ヨリ紺屋忠右衛門前迄也
田町ノ長サ六拾七間内水道一ツ壹間半 紺屋町へ出ル道幅壹間 柳町へ入ル道幅貳間
松原町北南百三拾間半 町積リ貳町拾間半
大久保町長サ四拾五間
木之部町長サ四袷五間 切戸町ヨリ入ル道幅壹間四尺五寸
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同書の永浜宇平氏の註に
京趣侯拝領高の内から宮津築城に要せし御用地及び御城下町経営に依って地子地に変換されて、元の御高を喪つたものは下宮津千九百五拾武石九斗壹升の内から、御踊地四百五拾六石八斗六升三合と、町地子地貳百拾八石五斗六斗貳合都合六百七拾五石四千貳升五合なることは、一般に知られてゐるけれども此の高のどれだけが御用地の何所に充てられたか.又何町が何石分を敷いてゐるかに就ては余り知られてないやうだから「地方秘鑑」中より抜萃して大要を示して置かう。
略
此の記録の調査年次が何時か判らぬけれども後に引用する宮津事蹟記寛文初年以前の記載と符合するより推してそれ迄のものなることは疑ひない、抑も元和末年御用地が先づ御曲輪内外と川西との三團地に計割せられ、其れに件ひ御城下町が基本町六ヶ町を設定されて寛永初年御城の築造と共に経管にかゝり本町から波路町を管轄し、白柏町から葛屋町(今の蛭子町)
を川向町から漁師町を割き、亜いで白柏町の白柏分から河原町を又川向町の川向分から杉末町を割いて街衢を整備しなほ不足を告げて場末の小散田地を敷いて松原、木ノ辺、大久保などの町をこしらへて職人町の管に入れ金屋谷を万町に籠ノ谷(今の小川町)を魚屋町に吹屋谷(今の万年町)池ノ谷を白柏町に組入れてある所から見れば、御城の繩張以後三十年内外にして(城廓は十年)城下町も略ぼ今の形に出来上ったことが察せられる。即ち縦横に街衢が拓け右記載の御曲輪内(今の鶴賀町)は凡て機密で此の当時未だ公開の費料なきも川東の侍屋敷は波路、惣ロ、二十人町(今の安智)外側、中ノ町、吉原、京口、馬場先などの街筋が通り、川西侍屋敷には京街道、大久保、柳町、文庫町(今の柳縄手)片原町、島崎などの町々が定まり、職人町には田町、紺屋町(今の宮本町)鍛冶町、稲荷町、切戸町また魚屋町には東堀川に沿ふて追掛町西堀川の裏に籠ノ谷に通ずる横町など何れも此の頃まで完成したものと見るべきだから、御高は既に無くなり、町地子が決定されてゐたに違ひないが地子のことは後に述べる。
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《丹後宮津志》
宮津町=本町・魚屋・新浜・宮本・万・金屋谷・小川・白柏・河原・住吉・漁師・杉末・川向・宮町・蛭子・池ノ谷・万年・万年新地・鶴賀・波路・波路町・安智・外側・吉原・中ノ町・京口・馬場先・松原・京口町・木ノ部・京街道・大久保・柳縄手・島崎。世帯数2212。人口9190。 |
関連項目
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