有道郷・有路郷(ありじ)
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京都府福知山市大江町北有路・南有路 京都府加佐郡大江町北有路・南有路 京都府加佐郡有路上村北有路南有路 |
有道郷の概要《有道郷の概要》 有道郷は「和名抄」の丹後国加佐郡10郷の1つ。高山寺本の訓は「安里知」の訓注がある。 比定郷域は大江町に有路の地名が残り、この地を中心にした地域と考えられている。 北有路の阿良須神社は「延喜式」神名帳に記される「阿良須神社」に比定される。 下流の三河、高津江は大川神社の氏子で、こちらは志託郷と考えられている。 中世も有道郷で、南北朝期〜室町期に見える郷名。 「洞院公定公記」永和3年3月16日条に「山名三川守代官号桂男参、以経永聞之、丹州有道年貢事申侯、先日始来申、凡不慮幸也、比興々々、不可及外聞、可隠密、但年貢沙汰已前、更不足信用」 「丹後国田数帳」に「一、有道郷 五十二町六段一歩内…」。 年次不明確だが、何鹿郡物部の豪族・上原氏に、織田信長から次のような下知状(綾部市渡辺家蔵文書)が出されていた。 丹州本知並丹後国在治(有道)郷上下寺社本所付諸奉公方任御下知之旨不可有相違之状如件 十月十四日 信長(朱印) 上原右衛門少輔殿 これは朱印の形から永禄11年(1568)頃のものと考えられている。という。 この地名は古墳時代に遡るものであろう。 『姓氏録』、右京。三間名公に、 意富加羅国王子。名都努我阿羅斯等。亦阿利叱智干岐。 とある、大加羅の王子、都怒我阿羅斯等、亦名を阿利叱智干岐。この阿利叱智のシが脱落してアリチとなったものと思われる、有道は天日槍一派の開発になる地か。 有道郷の主な歴史記録《丹後風土記残欠》 〈 有道郷 本字蟻道 有道ト称ル所以ハ、往昔、天火明命ガ飢テ此地ニ到ッタ時。往ニ随ヘテ、食ヲ求メテ螻蟻ニ連行サレタ所以ニ、穴巣国ニ在ル土神ヲ見タ。天火明神ハ食ヲ請フタ。土神ハ歓喜テ種々盛饌ヲ奉饗シタ。故ニ天火明命ハ土神ヲ賞シ、且、爾後ハ蟻道彦大食持命ヲ以テ称ト為スベシト詔シタ。故ニ蟻道ト曰フ也。亦、蟻巣ト云フ神祠ガ有ル。今、阿良須ト云フハ訛レルナリ。(以下七行虫食)< 〉 《和名抄》 〈 有道 訓注:安里知(高山寺本)< 〉 《注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録》 〈 一 有道郷 五十二町六段百一歩内 十七町六段三百五十三歩 二ケ村 上ノ大方殿 卅四町九段百八歩 四ケ村 山名有道殿< 〉 《地名辞書》 〈 有道郷。和名抄、加佐郡有道郷。今有路上村、有路下村是なり、志託郷の西南に接す、又由良川の両岸に跨がれり。延喜式阿良須神社は上村の十倉明神即是なりと云ふ、有道と云ひ阿良須と云ひ、例少き名なり、高山寺本安里知と注す。< 〉 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『大江町誌』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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