在田(ありた)
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京都府福知山市大江町在田 京都府加佐郡大江町在田 京都府加佐郡河東村在田 |
在田の概要《在田の概要》 有田とも記す、また古くは 由良川右岸の、南東の山中から流れる在田川との合流域にある。 在田村は、江戸期〜明治22年の村名。天正8年細川藤孝・忠興領、慶長6年宮津藩領、元和8年からは田辺藩領。 村には古くから由良川渡舟の便があり、舟夫は渡場の舟戸小屋に起居したという。大正時代にはワイヤ式を採用して渡舟の労力を軽減したが昭和初期姿を消し、水没式永久橋が掛けられている。 在田は明治22年〜現在の大字名。はじめ河東村、昭和26年からは加佐郡大江町の大字、平成18年からは福知山市大江町の大字。 《在田の人口・世帯数》 38・17 《主な社寺など》 中世の山城跡 五宮神社 檀那寺は南山の真言宗観音寺。 地蔵堂 荒神 《交通》 府道私市大江線 府道舞鶴福知山線 在田と対岸の公庄を結ぶ「在田橋」。公庄側に堤防が作られて、通行の道筋が少し変化した。 こうした潜没橋はもうあまりなくなった。増水時には橋の通行面の上5メートルばかりまで川になる。 《産業》 在田の主な歴史記録《丹後国加佐郡寺社町在旧起》 〈 和田垣村 五の宮明神、地蔵堂あり、垣山相膳山城の跡あり。 〉 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 定免八ツ壱分 有田村 初和田垣村 高百三拾弐石八斗八升 内四石六合六勺 万定引 十三石御用捨高 古城 垣山相膳 五ノ宮 氏神 地蔵堂 荒神 〉 《丹哥府志》 〈 ◎有田村(常津村の次、古名和田垣) 【五の宮】 【垣山左膳城墟】 【付録】(地蔵堂) 〉 《加佐郡誌》 〈 参考。在田村は元和田垣村といった由、元禄十二年の郷村帖に見えている。 〉 《大江町誌》 〈 在田川 鬼ヶ城に源を発し、南山西部・在田の集落を経て由良川に注ぐ、流路延長三・六キロメートル、流域面積六・一四平方キロメートルの川である。在田川には十支川と、旧福知山鉱山の排水が流入している。この鉱山排水には多量の鉄気(かなけ)(水酸化鉄)を含んでいるので、ヒモン谷の排水流入地点から下流は、沈殿した水酸化鉄が川床一面に付着して黄赤色を呈している。いわゆる鉄気川である。 藩政時代、古坑を赤土と石灰を使って厳重にふさぎ毒水の流出を止めたので、全川魚が住むようになっていたが、明治になって宝満山鉱山が開かれて、再び鉱毒水が流れだしたのだという。(南山古老の証言) 明治十五年の南山村記録(皇国地誌編輯例則ニ據リ一村景状調査)には、 「日モン谷、光(みつ)ヶ谷にある古銅鉱の水抜穴より湧き毒水出る。金気(かなけ)川という。毒水真紅にして紅綿の如し、(稲)植付後赤くなる。これを「カエル」という。甚しきは株絶となる。水を落し、白く乾かし、石灰木灰にがり等を潅ぎ数日で元に 返す。九年に一度も豊熟得難し」 と、ある。 福知山鉱山は、大正六年に操業を開始したが、同九年には操業をやめ閉山している。閉山に際して鉱毒防止対策を行わなかったので、鉱毒の流出はますますひどくなり深刻な鉱害をまねくこととなった。 鉱毒の根源は、赤色の鉄気水ではなく、その中に含まれるカドミウムや砒素などの有害金属である。昭和四十六・四十八年度の二期にわたって、鉱毒の流出防止工事が行われ、その後下流域水田の客土もなされた。昭和四十八年以降は、府衛生公害研究所等による農作物・土壌・水質・飲料水に対する総合的な検査が続けられ、鉱害対策が講じられつつある。 〉 『由良川子ども風土記』 〈 大江町・美河小四年塩見由美子 河東と河西の行ききは、昭和三年に尾藤橋ができ、昭和二四年に在田橋ができるまでは渡し舟でした。河岸に小屋を建てて、舟頭さんが朝六時半ごろから夜九時ごろまで、一日小屋で番をして、村の人たちを渡されました。 舟頭さんの渡しちんはおぽんと正月の二回に分けて各戸から白米を出し合いました。 今のお金で二十万円ほどになるそうです。 河東以外の村の人は子供が二銭、大人が四銭、乗るたびにはらいました。(一銭は今の百円ほど)ずっと昔には村からふとんを用意して、小屋にとまられた事もあったそうです。洪水のために小屋が流されると、そのたびに村の人が出て小屋も建て直しました。うちのおじいちゃん(今、六五才)の子供のころは、渡し舟に乗ることが少なかったけれど、春と秋の外宮さんのお祭には舟に乗って行き来した事もあるし、小学校の連合運動会の時、渡し舟を使いました。でも、大勢の生徒が一ぺんには乗れないので、二十人つつくらいに分かれて乗せてもらったそうです。舟は尾藤には一そう、ろを使う舟があり、おじいちゃんがへ蚕業高校(今の大江高等学校)へ通てんころは、板の橋ができたけれど、洪水で橋がよく流されてしまったので、修理の間は、渡し舟で自転車もいっしょに乗せてもらって、学校に通いました。戦争中、橋が流された時は、村の人たちがかわるがわる舟をこいだので、なれない人はよく舟をお 客さんといっしょに流されたそうです。在田は川が浅くて急流だったので、大正時代の終りごろワイヤー(ロープ)というものに舟をかけて、流れをうまく利用しながらさおで、こがれました。その時の舟頭さんは織田政男さんという人で、今も元気でおられて、その人に出会うと渡し舟の事を思い出すそうです。 昭和二四年にできた在田橋は、洪水の時にはワイヤーでつないである橋板が、うくようにしてあり、水が引くと消防団の人が直しに行かれる様な橋でしたが、昭和三四年に今のコンクリートの橋になりました。けれども、らんかんの代わりに、細い鉄の棒をたててロープをはってあるだけで、洪水の時は水にもぐってしまう橋です。由良川の洪水さえなかったらこんなに苦労しなくてもすむのです。渡し舟は村の人たちにとって、とても大切な交通の役割をしてきたのだなあと思いました。 〉 在田の小字在田 岸根 中路 宮路 殿田 コエンド 仏谷 石座 柳ノ手 暮レ 蛭ケ谷 ヲンバタ 稗田 蘭田 六良谷 トタミ谷 籾迫 屋敷奥 浦ノ谷 宮ケ谷 舩 ヨト 町田 渡場 麻蒔 宮ノ下 仲嶋 瀬ノツメ 城段 岡阪 平岩 端ノ段 小平田 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『大江町誌』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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