別所(べっしょ)
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京都府舞鶴市別所 京都府加佐郡池内村別所 |
別所の地誌《別所の概要》 別所は舞鶴市の南部。伊佐津川支流・池内川流域の山間谷中に位置する。 別所村は江戸期〜明治22年の村名。同22年池内村の大字となる。 当地から北東の上根・白滝・寺田にかけて鉱脈があり、かつては銀・銅・硫化鉄を掘り出していたが、現在は廃坑となり、地内の高由里・ 《人口》148《世帯数》50 《主な社寺など》 氏神は今田の倭文神社 曹洞宗桂林寺末常光山高福寺 『丹後国加佐郡旧語集』 〈 桂林寺末。堀、別所、布敷、三ケ村ノ寺 〉 『加佐郡誌』 〈 常光山高福寺、曹洞宗、慶長十五年創立、池内村 〉 『丹哥府志』 〈 【常光山高福寺】(曹洞宗) 〉 『丹後国加佐郡寺社町在旧起』 〈 別所村 常光山高福寺、曹洞宗、桂林寺末寺なり、堀、布敷、別所、三ケ村の菩提所なり。 真久シンキュウ山安養寺、円隆寺末寺、真言なり。 〉 『まいづる田辺 道しるべ』 〈 …この外に古い寺として高福寺の裏辺りに小字「寺西」「寺尾」「寺奥」「寺奥東」などの寺屋敷を示す地名があり、ここに古くよりお堂らしきものがあったといわれ、慶長十五年(一六一○)ここに広福寺が開創されたという。大日如来を本尊とする天台宗の寺であったが、その後衰退し、享保七年(一七二二)希乾和尚によって寺名を高福寺と改め、曹洞宗として中興され現在に至っている。(渡辺裕次氏寺社史料) この様に別所は池内谷の中では最も早く寺院の開基が見られ、ここに早くより集落が発生し、池内の中核を成していた所であったのではなかろうかと推察されている。 〉 真言宗円隆寺末真久山安養寺 『丹後国加佐郡旧語集』 〈 円隆寺末 〉 『加佐郡誌』 〈 真久山安養寺、真言宗、元禄五年創立、池内村 〉 『丹哥府志』 〈 【長久山安養寺】(真言宗) 〉 『丹後国加佐郡寺社町在旧起』 〈 別所村 常光山高福寺、曹洞宗、桂林寺末寺なり、堀、布敷、別所、三ケ村の菩提所なり。 真久シンキュウ山安養寺、円隆寺末寺、真言なり。 〉 大空神社 三柱神社 《交通》 府道池辺京田線 《産業》 別所の主な歴史記録《丹後国加佐郡寺社町在旧起》 〈 別所村 常光山高福寺、曹洞宗、桂林寺末寺なり、堀、布敷、別所、三ケ村の菩提所なり。 真久山安養寺、円隆寺末寺、真言なり。 〉 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 定免七ツ九分 別所村 高百七拾九石九斗五升九台 内弐拾壱石三斗七升三合 万定引 八石御用捨高 高福寺 常光山 桂林寺末 堀 別所 布敷 三ヶ村ノ寺 安義寺 真久山 円隆寺末 権現 安養寺持 〉 《丹哥府志》 〈 ◎別處村 【権現】 【長久山安養寺】(真言宗) 【常光山高福寺】(曹洞宗) 〉 《加佐郡誌》 〈 池内村。もと大内郷に属していた。現今は今田、堀、池ノ内下、布敷、別所、上根、寺田、白滝、岸谷の九ケ字から成っている。 池内の名は夙に知られている。今其起源を調べて見ると字上根に船つなぎといふ岩がある。昔大雨の時谷中に水を湛えて湖となり船を浮べた事があった。其時此岩に船を繋いださうである。今此処に船つなぎ弁財天が祭ってある。此湖は後に民家が次第に増して此村をなしたのであるから池内谷といったのであるとのことである。 〉 《舞鶴市史》 〈 舞鶴鉱山 池内地区の別所、寺田、上根、白滝と、この地方一帯に分布する。鉱種は銀、銅、硫化鉄鉱であり、鉱床の走向はN五○〜六〇E、傾斜七度〜八度Sとある。鉱床の母岩は、輝緑岩ないし輝緑凝灰岩で、小規模な層状、合銅硫化鉄鉱床である。別所の暮谷(くれだに)坑、高油里坑を主として戦国末期から大正年代にかけて採掘していた。 〉 《まいづる田辺 道しるべ》 〈 別所(べっそ) 別所は鎌倉時代に畿内及び西国の各地に簇生された地名といわれ、舞鶴市内にもいくつかの「別所」の地名が見受けられる。 丹後の国に於いて「別所」が初見されるのは、大毘盧遮那経疏巻一八一巻の奥跋に、 「丹後国普甲山別所御房にして書写了 康和四年(一一○二)五月十五日 叡尊之(楞伽坊黒印)」 (古写経綜?) この「別所」は普甲寺別院のことであろうといわれている。 別所の地名については、学者の間で種々の説があげられているが、いずれも確たる根拠は無い様である。 ここ別所の場合の地名については、地元の伝承によると、 「江戸時代別所から寺田にかけて鉱山の採掘が行われ、特に別所は鉱石の産地として重宝がられ、時の大老酒井忠清(前橋藩主、綱吉の時の大老)から別の直轄地とされたことから「別所」の地名がつけられた」という。 別所の大空神社には、大老職を罷免され、憤死した酒井忠清がお祀りされているとも伝えられている。 往古、別所は五郎山の崩壊によって池内川が堰止められ、池になったといわれ、その後池の堰を切り開き新田の開発が行われたと伝えられているが、そのことを記する史料と思われるものに、笶原神社の伝記の中に「天平宝字丁酉年(七五七)春二月於丹後国加佐郡大内郷廃山薦池以開新田焉」と記録あり。(文化財めぐり) 当時大内郷であった池内谷の山を崩し池を埋め立て新田を拓いたと記している。 このことを裏付けさせる当時の政府の施策に、養老七年(七二三)政府は「三世一身法」を施行し、全国に新田の開墾を奨励している。 この法律は、口分田(六才以上の男女に田地を給与する)の確保のため開墾を奨励したもので、新しい土地を開墾した者には三代まで、荒れた旧耕地を開墾した者には一代の間、その土地の私有を認めるもので、別所に於いても、おそらくこの法律にもとづき、池を埋め立てて新田の開発が行われたものと考えられる。 この他、別所の歴史を象徴するものとして古い寺院がある。 同村小字八幡田にあった真久山安養寺は、奈良時代の天平十二年(七四○)に行基(諸国を歴遊し、道、橋、布施屋、お堂などを造り行基菩薩とあがめられた僧)により創建されたと伝えられる真言宗の寺があり、池内谷では最も古い寺といわれている。 この外に、通称「寺山」(東谷)と呼ばれる山腹に安養寺持の寺院があったと見え、村の記録によると、「真久山安養寺福寿院持」と書かれており、寺山に福寿院があったらしく、大空神社の境内社である。「薬王神」の棟札の中にも、 享保二丁酉載別所中之建立 薬王神 奉勧上安養寺瑞泉院 阿闍梨隆盛 敬白 とあり、福寿院の他に瑞泉院など数棟の寺院が寺山にあったのではないかと推察される。 この寺の存在を裏付けるものとして、土中から発見された「無銘の焚鐘」「宝篋印塔」と多くの石仏があり、寺の跡地とおぼしき平地や石垣が見受けられる。 同寺跡より一段高い場所に現在大空神社が祀られている。この社は、かつて福寿院と同一境内にお祀りされていた社であったと思われ、地元ではこの社を「権現さん」と今でも呼んでいる。 社のお籠堂(釈迦堂)に「真久山安養寺大空権現」と記された木札がある。 このことは大空神社が往昔、安養寺が祀る権現社であり、本地垂迹(神仏同体)の寺院であったことが知れる。 大空神社は明治十年の京都府地誌によると、祭神に織比売神を祀るとあり、明治の初頃に祭神が変わったのではないかといわれているも、その理由は不詳。 大空神社の境内社の中に行者社があり、安養寺が、かつて修験道とかかわりをもっていた寺であったことも窺われる。 小字八幡田にあった安養寺は明治初年無住となり、加悦谷方面に身売りされたと聞き、東谷(寺山)の福寿院が廃寺となった時期は不明であるが、梵鐘を地中に埋め、忽然とその姿を消した謎は今も不明であり、今一つ、寺山には不思議ないい伝えがある。 「白い椿の花が咲いたら黄金千両」 白い椿の花が咲いたら木の下に黄金千両が埋まっている。 この外に古い寺として高福寺の裏辺りに小字「寺西」「寺尾」「寺奥」「寺奥東」などの寺屋敷を示す地名があり、ここに古くよりお堂らしきものがあったといわれ、慶長十五年(一六一○)ここに広福寺が開創されたという。大日如来を本尊とする天台宗の寺であったが、その後衰退し、享保七年(一七二二)希乾和尚によって寺名を高福寺と改め、曹洞宗として中興され現在に至っている。(渡辺裕次氏寺社史料) この様に別所は池内谷の中では最も早く寺院の開基が見られ、ここに早くより集落が発生し、池内の中核を成していた所であったのではなかろうかと推察されている。 江戸時代の耕地開発について地元の記録によると、「別所、布敷は昔は池であったが、享保七年(一七二二)徳川吉宗の新田開発政策により、池の水を抜き田を耕したであろう」と記されているが、果たしてそうであったのか、当時の耕地について調べた処、慶長七年(一六○二)八月京極高知によって実施された慶長検地によると、別所村の村高は、 村高 二○三石五斗七升 とあり、耕地面積については史料が無く不明である。その後牧野藩時代、文化三年(一八○六)の田辺藩土目録によると、 村高 一七九石九斗五升九合 田方 十町六反五畝弐拾三歩(一三七石余) 畑方 九町弐反九畝四歩(四二石余) とあり、慶長検地の方が田辺藩目録より逆に村高が二十三石余り多くなっている。このことは、慶長検地以降別所の耕地面積は余り変動していなかったものと思われ、慶長時代には既に約二十町歩の田畑があったものと推察される。 参考までに現在の別所の耕地面積をお聞きした処によると、約十三町歩あるといわれ、耕地面積が江戸時代より減少しているのは、農業経営の変貌により効率の悪い田畑は耕やさなくなり減少せしと聞く。 これ等耕地の歴代記録を見れば、かって別所や布敷にあったといわれる池は、慶長時代には既に耕地であったことが窺われ、前述でのべた如く奈良時代頃より池が埋め立てられ、耕地として拓かれていったものと推察されるのである。 延享三年(一七四六)の史料によると、別所村の農家戸数は三十八戸とある。 * 往昔、別所集落内には古道及び旧道の三筋の上林街道が通っていたといわれ、その内の古い道は、布敷の墓地下を通り別所の高福寺前に出てくる。この古道は別所の墓地前から、往昔小字八幡田にあった安養寺門前を通り、別所集落の高所づたいに、上路の久手源三家前に祀られている地蔵さんの所に出てくる細い道が、最も古い道であったといわれている。今一つの旧道は、布敷の上路より別所へ越える丘陵に祀られている、石室の地蔵さん前を通り別所の高福寺前に出る。これより小字横山の山麓つたいに村内の下路、中路、上路を通り、村はずれより池内川右岸に沿って遡り赤橋を渡り岸谷、上林へと街道は続く。 この他に上林街道と呼ばれる近道がある。 この旧道は、村内の下路橋辺りから池内川を渡り、五郎山の山麓つたいに小字大谷の地蔵群前を通り、再び池内川を渡り、赤橋よりのぼって来た上林街道と合流している道で、上林方面に行く近道となっていた。 この上林街道は、現在舞鶴自動車道の建設工事が進められており、近く消滅する運命にある。 さて、別所集落内を通る上林街道は、村はずれより池内川右岸に沿って遡って行くと赤橋の所に出てくる。 ここで道は左右に分れ橋袂に古い道標が立っていた。 道標には、 右 かんばやし 左 ま川のを 天保十二年辛丑 とあり、左の道は上根、寺田に至り、「ま川(つ)のを」道は上根より峠を越えて松尾寺に詣でる古い道があったといわれている。 「永延年間(九八七〜九八九)花山院西国順幸の御遍路は、国境真倉より池内川を遡られ、今の池部(行永)に越へ与保呂小学校前より堂奥青路に出て小倉へ幸し給ひしとかにて、後永く西国巡拝の順路たり。地方唯一の往還たりしが如く」(倉梯地史) 赤橋袂に立てられていた道標は、心ない人のために紛失し今は無く、往古の西国順礼道であっただけに誠に残念である。 地元の人の話によると、赤橋附近は山が川まで迫り、道は険悪で通行には大変難渋せし所と聞く。 この辺りの川泥の中より炭化寸前の杉やケヤキの古木が発掘されており、へドロの溜まっている所もあるという。往昔、この辺りまで別所の池があった痕跡ではないかと憶測されるも定かではない。 さて、上林街道は赤橋を渡り池内川の右岸に沿って谷間の道を遡る。途中、五郎山麓を通って来た近道と合流し、赤僑より約七百メートルばかりのぼると道端に一体の道分地蔵が祀られている。 地蔵さんには、 右 やまミち 左 上ばやし とあり、右の山道は草が生い茂り判りにくいが川へ下って行く道があり、この山道は対岸の山中へと続いている。 対岸の山は、かつて江戸時代初頭より採掘されていた別所暮谷鉱山であり、この鉱山からは銀、銅、硫化鉄などが産出され、大正時代までは採掘されていたが廃坑となっている。 「左 上ばやし」道は、これより更に、池内川に沿って約千メートルばかりのぼると、やや開けた場所に出てくる。 ここで池内川と白滝川とが合流しており、この辺りの地名を白滝の小字出合という。街道もそれぞれの川に沿って左右に分かれている。この岐路にも追分地蔵が祀られている。 地蔵さんには、 右 きしたに村 左 志ら滝村 文化十四年 (一八一七)丑九月二十八日 とあり、ここ出合は、落武者が隠れ住みし所であったと伝えられており、地元の伝説として次の様な話を聞く。 「源氏に追われた平家の落武者が出合まで落ちのび、ここに住みついたが追跡をおそれて更に奥地へ逃げた」 (岸本庄三郎氏) 岸谷の岸本与冶氏(九十一才)の話によると、 「当家の先祖である岸本与兵衛さんが、この出合に住んでいたといわれ、当時出合には数軒の家があったらしく、その後出合の人々は岸谷と白滝に分かれて移住する。移住の際、宮山に祀られていた観音さんは岸谷へ、山王さんは白滝に移され、それぞれの村でお祀りされ今に至っている」とのこと。 現在出合には人家は無く、若干の耕地があるのみ。往昔、ここに住んでいた人々の墓石が散乱しており、山裾には二体の地蔵さんが往時の歴史を忍ばせている。 〉 別所の小字別所 五郎 アンザ 仲田 岡ケ畑 白垣 大谷 家下 西ノ下 棚田 森ケ谷 大杉 上路 東谷 西谷 仲筋 下路 八幡田 横山 堂谷 猿子谷 小谷 若林 ミトカ 由良谷 暮谷 古屋 木割場 大ダハ 登尾 高由里 大杉ノ一 井上 家上 舞谷 寺尾 寺奥 寺ノ西 寺奥東 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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