円満寺(えんまんじ)
含:うのもり神社 |
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京都府舞鶴市円満寺 京都府加佐郡舞鶴町円満寺 |
円満寺(地名)の地誌《円満寺の概要》 舞鶴市の中央部。西舞鶴市街地の内。現在もこの地名は残るが、だいたいにだいぶにわかりにくい所で説明しにくい場所である。 だいたいは田辺城の外側北東部(西舞鶴図書館あたり)と外側南西部(裁判所のあたりから真名井商店街あたり)で、二つに分かれているが、現在でもけっこう広い所である。 現在の舞鶴警察署と明倫小学校の間に小さな森があって、そこに「 うのもり大明神は、現在のものよりずっと広大な敷地があり、明倫校敷地から市民会館あたりまでの広いものであったといわれるが、城内にとりこまれて小祠になり、のちには城の守護神ともなったが、祭日には円満寺の農民が入ることを許されていたという。 尚この神社の写真で言えばこの祠の裏側に古そうな石垣がわずかばかり残るが、それは田辺城の当時の西の石垣であるという。この先は堀で、今も細い川が流れているが、ここから東側、写真でいえば手前側が城内になる。田辺城だ城下町だと実体は残らないのにやたら宣伝をしたがる向きもあるが、当時の本物はほとんど残ってはいない、近くの本丸の石垣や明倫校の門と共に、この石垣もそうした数少ない「偽」でない本物の一部になる。 円満寺村は伊佐津川下流の西岸から高野川のあたりまでに位置する広大な地を占めたが、築城のためせばめられて、住民の多くは諸方へ移住した。残ったのは4軒だけであったという。地名の由来は、かつてここに円満寺という寺院があったことによると伝える。古くは 円満寺村は江戸期〜明治22年の村名。田辺郷のうちで田辺城築城後の残余地で知行本高からはずされた分が「慶長検地帳」に199石余見え、そのうち131石余を割いて当村が成立したと思われるという。明治22年余内村、昭和11年舞鶴町、同13年からは舞鶴市の大字。 また昭和20年舞鶴市建物強制疎開により西舞鶴駅〜大手通間の西側を撤去している。 《人口》81《世帯数》37 《主な社寺など》 うのもり神社 円満寺の主な歴史記録《丹後国加佐郡寺社町在旧起》 〈 円満寺村 田辺郷古代町分なり、これより夫米四歩掛り 〉 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 免八ツ 円満寺村 高百三十一石九斗九升二合 内四石一斗三升弐合一勺 万定引 六石御用捨高 往古当村大村なりし此村を均して今の御城築くうの森の宮氏神なり今御城中に在り 茲+鳥弟+鳥大明神なり 此村之者は此富江参詣ス 此余略ス 円満寺寺地主卯ノ宮と云伝二ノ丸北ヨリ二軒目広瀬代主税に被下土居之上に祠有り祭る曰有之主税代円満寺村之末流呼れし由 〉 《丹哥府志》 〈 ◎円満寺村 天正年中細川藤孝初めて城郭を今の田辺に築きて八田、円満寺の二村其郭内に入る、今五六軒城の傍に残りぬ。 【茲+鳥鵜大明神】(祭三月十一日、城内) 茲+鳥鵜大明神は元円満寺といふ村の氏神なり、天正年中細川氏城を此處に築くよって城内に入るなり、されども其村より祭をなす、今祇園牛頭天王を合せ祭る、祭六月十四日、昔は円満寺といふ寺ありといふ。 〉 《丹後田辺誌》 〈 円満寺村地主卯ノ宮ト云伝二ノ丸北ヨリ二軒目広瀬主税ニ被南ノ土居メ上ニ祠堂有祭ル曰アリテ主税代円満寺ノ末流呼レシ由 〉 《加佐郡誌》 〈 池内川、真倉川、高野川は其の川尻現今の如きものでなくて、池内川は七日市公文名の東を流れて、淡島神社と笠水神社との中間を少しく西に偏り、真倉川は十倉と京田と七日市との間を北に流れ、笠水神社の少しく南手で女布と高野由里との中間を東流して来た高野川に合して一面の沼となり、緩かに笠水神社の西を洗うて、北流池内川と合し、更に広い沼地を作った上今の円隆寺裏の東方を浸して、舞鶴湾に注いだのであったが、京極高知がそれを大略現今の如くに改修したのである。是まで田辺城には総堀がなかったものである。それは全く必要がなかったからであった。細川幽斎といふ書に掲げた田辺城篭城古地図の川筋は幾分危まれるのである。円満寺は今の舞鶴町の高野川以東殆んど全部を占めていたのであったが、細川氏の大内及円満寺に亙る築城の為に狭められたものである。旧此辺には朝廷の御所有地があり、田辺と言ふ一種の御用農夫が雇はれて居て此の地に住んでいたから田辺の名が起ったものでないのかと思はれる。(此項本居宣長著古事記伝を見よ)細川氏の築城早々平野屋町角に山本又左衛門といふ者町家立初めた。後に丹波屋嘉兵衛と成った由。(此項増補旧語集を見よ)併し古く開けた舞鶴町の部分が笶原山の東麓即ち今の紺屋町などであったといふ事いふまでもない。高知の池内真倉両川尻改修の際境谷村を貫流せしめられたから、河の左岸部には新たに伊佐津の名を命じたのである。 喜多は糠田村の古名がある。天正年間に細川氏が舞鶴町に築城するに当って余内村字円満寺の農民を此処に移し今の名に改めたのであるといふことである。 円満寺はもと田造郷の内であって、初めは笠水村といっていたが細川氏の築城に際して今のやうに改称を命ぜられたのである。 〉 『舞鶴市内神社資料集』所収《神社旧辞録》 〈 うのもり神社 祭神 ウガヤフキアエズ尊 同市字南田辺 古来より八田村(円満寺村)の氏神であったが、天正十年ごろ田辺城が同村のどまん中に出来て以来は城内守護神とも崇められ旧二の丸に在った。 しかし祭礼や宮参りなどは氏子でござるの特権で通行は許された。 手まり唄にある武州川越城内の天神様と同じ事で「行きはよいよい帰りは恐い」であったろう。この宮古代日向国より遷座と伝える。当時はこのあたりまで、海が湾入しており、陸海の形勝に社殿造営とある。 日向の鵜戸神社の分霊勧請か。?てこの神を信仰すると蝮の害に罹らぬとの伝承もある。 「丹哥府志」には今は祇園牛頭天王も併せ祀ると見える。 朝代神社と共に旧八田村以来旧西舞鶴町内の惣鎮守。 終りに、神右鵜屋不合葺とは記紀に、鵜生で葺いた産屋の出来兼ねるに出生の児との尊名であるが、この海人族の産屋とは現今の尚武の節句の菖蒲屋根のような祝儀的形式のものであったが、それさえ間に合はなかった急拠出生児であったとの事である。 本宮の鵜と神宮にもそうであるが、この種の神社場所は海人族の古俗から大抵は産屋を建てる海辺に所在すると云はれる。 〉 《市史編纂だより》(53.6) 〈 〔うのもり神社考〕 顧問 池田儀一郎 明倫小学校の南側に盧+鳥茲+鳥(うのもり)神社という小社がある。大変むずかしい名前で、舞鶴市民でもその読みに首をかしげる人が少なくあるまい。この神社の創建は至って古いのだが、今日では、もはやあれこれとせん索する由がないようである。然し出来ることなら、その由緒をなるべく詳しく書き上げてみたいと思って、ペンを執った。 今、私の所持する参考文献は大正元年十月に西村社堂や、氏子総代水島亀蔵以下九人の人たちによって、起草せられた「盧+鳥茲+鳥神社造営旨趣書」があるだけなので、先ずこの趣意書を骨子として、進めることにする。 注・この趣意書をそのまま転記してもよいんだが、漢文口調で読みづらいので、あえてこのよう注方法をとった。 (1)祭神 先ず祭事であるが、奉祀してあるのは彦波?武盧+鳥茲+鳥草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)(紀)神名は葺草(かや)をもって産室(うぶや)を茸(ふ)いたが、その作業が終わらぬ前に生まれ給うたという意で、神武天皇の父君にあたらせ給う方である。玉依姫は国尊の妃。この御二方のことは、「古事記」も「日本書紀」も詳記している。 (2)祭紳の御父母 祭神の御父は彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)さた御母は豊玉姫。尊の降誕に際し御父の尊は、豊玉姫の御産殿を海浜に構築せられ鵜の羽を集めて屋根を茸かせ絵うたが、まだ葺き終わらぬ間に豊玉姫は産気づかれ、御子を御出産遊ばされた。分かりやすいように、その略系を下記のように系譜に書いてみた。 天照皇大神− −彦火瓊瓊杵尊(ひこほににぎのみこと)−−盧+鳥茲+鳥神社祭神−神武天皇− (3)創建について 趣意書には大古、日向より遷座あらせられたと書いている。 注・盧+鳥茲+鳥神社は、古い神社であることに間違いはないが、延喜式神明帳にも載っておらず、従って式内社でもないところを見ると、延喜(901-922)年以降の創建ではなかろうかと、一応疑いたくなるのである。 舞鶴出身の画家で、儒者でもあった藤山鶴城さんから直接聞いた話だが、昔、同神社の境内に接した田の中から、すきにひっかかって出土した石灯ろうの台石があり、それに下記のようを文字が判読された由である。 延久三年 佐伯某敬白 延久3年は後三条天皇の時分(1071)で、源義家などが活躍した時代でもあった。そうすると延喜時代より少々新らしいが、実に古い神社であるということになる。それから、佐伯某というのは何者であろうか。これもはっきりしたことは言えぬが、史書を繰ってみると、佐伯部(さえきべ)の伴造で、佐伯連(さえきのむらじ)とか、佐伯造(さえきのみやつこ)、あるいは佐伯日祭連(さえきのひまつりのむらじ)と言ったような人名が、いくつも出て来る。これらは、古くは顕宗天皇のころ(485-487)に、日祭部の伴造になったもので、天照大神をお祀りするために設けられた品部の長であった。今で言えば神社庁の鳥瞰とでも言ったところである。前記の佐伯某が神社に仕えた神官の名であろうことは疑う余地がなさそうである。 この台石は、牛窪家(田辺藩の家老)に移され、今も同家(現戸主牛窪道能氏)の庭先にあるとも言い誓い添えられた。筆者も一、二回お庭を見せてもらったが、粗見であったため、発見する事が出来なかった。この台石が牛窪家で見つかれば、舞鶴市の一大化財とでもいうべき代物であろう。 (4)往昔の境内 大古、日向より遷座あらせられた時代の位置は、海陸の景勝に富んだ所で、広潤清楚を社殿であった。 注・日向(宮崎県)の本宮は、その名かくれもない鵜戸神宮の事である。この神宮のことは余りにも有名だからここには詳記しない。 鵜戸神宮が海浜である如く、盧+鳥茲+鳥神社も舞鶴湾に面した所に神域があったのであろう。元の加佐郡役所(今の舞鶴市民会館)近くには、松の喬木が大正ころまで群生していたが、これも盧+鳥茲+鳥神社の境内だったという古老があるし、私も同感である。とにかく、お宮はうっそうとした森の中にあったので、世人は盧+鳥茲+鳥(うのもり)というようになったらしい。 その後、天正8年(1580)細川藤孝が田辺の地に新城を築くに当って、この宏大な神域は大部分が城地として没収せられ、この神社は城中の小祠となってしまった。細川氏が九州へ転封になってからは、京極氏、ついで牧野氏がこの地に移って来て、四百年余を経た。上記三氏とも崇敬の念深く、毎年3月11日と、9月11日に春秋の祭典を執行し、城主自ら奉幣したと伝えられている。氏子が参拝する時は、城中にはいることを許された。 明治維新後は、城地も縮少されて、この神社の奉持を字円満寺の氏子がすることになったが、その当時円満寺の氏子は、わずか四戸であったと言う。明治29年には大洪水があり、老樹も幹を折られ、根をひっこ抜かれ、社殿も崩壊寸前の惨たんたる有様に注った。その後、氏子らはわずかに村社として、残存したこの神社の再建をはかり、明治天皇御即位互十年祭を期して、改築することを決議した。ところが、天皇は同45年に御崩御になったので、市民の目にとまるようを改築は出来ず、昭和の今日も一小祠として現存している有様である。 (5)顕著な神霊 前述した如く、同社は円満寺の人たちを氏子とする神社であるが、氏子は古来マムシの害にかかった者がなく、また氏子でなくても、神符をもらったり、神土を拝戴した者は、マムシかまれるようなことがなかった。こうした言い伝えが広まって、他国からマムシにかまれた人が荷車に乗ったり、人の背におぶさったりして、はるばるここに参拝し、祈祷を受けた後は、平常の如く歩いて帰ったと伝えられ、遠国にまでこの霊験が語りつがれた。また安産の神様としても有名であった。 注・安産の神様として有名になったことは、豊玉姫が御安産なされた故事を考え合わせると、まことに、合点できる。 (6)氏子総代らの池鯉鮒さん参り 筆者の岳父池田熊吉の話であるが、大正のころこの神社の氏子総代らが、愛知県碧海郡知立神社に参拝し、舞鶴市の盧+鳥茲+鳥神社は、御社から勧請したものじやないかと尋ねたところ、知立神社では、いや舞鶴の方が古くて当社はむしろ御地から勧請したもののように思う、とのことで一同はうれしいような、また心もとたい感を抱いて帰鶴した由である。 知立神社の祭神は舞鶴のものと大体同じで、かつ式内社であり、神位も貞観18年従四位上の高神位、別称池鯉鮒大明神。これらについて考えてみると、舞鶴のものより一段上の神社のようである。 (7)結城秀康の事 史書を読むと、結城秀康の母は三河池鯉鮒の神主の娘であった、と述べている。この娘が家康の住居に奥女中として、あがっていた時分に生んだのが、後生の秀康である。秀康は少年のころ秀吉の養子と言う名儀で、伏見にいたのであるが、実質は人質同然の身の上であった。秀吉没後は数奇を運命にもてあそばされ、悲劇の大名として一生を終わった。この武人のことは明治以来いろいろを交芸作品にもなっているから、一さい省略する。安産の神様も生まれた子の性格まで変えることはなさらなかったと見える。 最後に大正元年十月現在の役員らの氏名を次に褐記しておく。 社掌 西村 唯八 氏子総代 水島 亀蔵 水島喜左衛門 水島 浅蔵 橋本 政吉 谷 民治郎 山名 一二 川崎半次郎 小北 豊吉 水島新太郎 〉 《舞鶴の民話2》 〈 うの森さん (西舞鶴) 明倫小学校の江戸時代の門の前に、こんもり木のあるところ、白い砂石のひきつめた社がある。 「ふかやふきあえずのみこと」をまつっている。いつ行っても人々がお参りしている。 家内安全、子孫繁栄のご守護申すにおよばず、安産、子授けの神として、昔から多くの人々の崇敬するところである。大きな杉の木、桜の木、いちょうなどは参る人々の姿を見つめていた。 時には何かの祈りか木に傷がつけてもある、じっとその傷をおさえていると、多くの善男善女の姿が 浮かんでくる。ここには次のような昔話が残っている。 田辺の里には、ため池があり、まわりの松、杉、いちょう、やつで、びわの木があった。池のふちには、かやも生えていた。村人はこのかやをかって、わらぶきのふきかえに使っていた。 権兵衛はわらぶきを商として暮していた。春の朝だった。何を思うことなく野道を歩いていた。何か足にひっかかるものがある、わらなわでもひっかかったのかと下をみると、ぬるぬるとしたへびがまきついている。あわてるとかまれるかも知れない、ゆっくり、ゆっくり歩いた。別にへびは離れようともしない、仕方がないのでそのまま歩いた。 もうすぐ行くと、こんもり茂った森につく、あそこには石があり、そこに坐ってゆっくりしよかと歩をはこんだ。短い距離だが長い時間がかかったようだ。やがて、うの森さんについた。静かに石に坐った、下を見るとただのへびだと思っていたのに、頭の三角のまむしである。赤い舌をぺろぺろ出している、つかむ事もできない。体をかがめて下にある砂をつかんで、さらさらとへびにかけた。へびは足をまいていたのをとき、動きだした。これは不思議と又砂をつかんでへびにかけると、へびは急いで森から出ていってしまった。 権兵術はほっとすると共に両手をあわせて、うの森さんの社にお礼をいった。この話がどこから伝わったのか、うの森さんの社にひいてある神砂を家のまわりにまくと、まむしがよりつかないし、野山にたきぎとりや、草刈りに行く時、神砂を持っていくと、絶対まむしにかまれないという。これは今でも、うの森さんの神砂をとりにくる農家の人たちがあるという。 社の参道のところに白黒の砂がまかれてある。 〉 これはウガヤフキアエズではなく、祭神は蛇と思われる。これ以上の資料がなく詳しくはわからないが、面白そうな神社である。笠水という所は蛇信仰のある所でもあったと思われる。 下の案内もあった。 円満寺の小字円満寺 井根口 村下 六反坪 三ノ丸裏 横八丁 職人町裏 八丁 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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