公庄(ぐじょう)
付:斎宮神社 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
京都府福知山市大江町公庄 京都府加佐郡大江町公庄 京都府加佐郡河西村公庄 |
公庄の概要《公庄の概要》 公荘とも書いた。由良川左岸に位置し、河守より2キロばかり上流のKTR「公庄」駅や体育館などがある所である。谷河川が由良川に流入する。山ぎわを国道175号(宮津街道)が走り、集落は主に国道北側にある。国道・鉄道の南側は水田である。自治会は公庄上・公庄下に分かれる。 公庄村は、江戸期〜明治22年の村名。天正8年細川藤孝・忠興領、慶長6年から宮津藩領、享保2年からは幕府領。 幕末の「但州湯島道中独案内」に「公庄村天津より一里、福智山よりの船着なり、時節によりここより福智山へも舟あり、さだまれる事なし」とあるという。 公庄は明治22年〜現在の大字名。はじめ河西村、昭和26年からは加佐郡大江町の大字、平成18年からは福知山市大江町の大字。 同じ地名は網野町にもあり、何か意味がありそう。岐阜県郡上(ぐじょう)郡は、美濃国武儀郡から分かれた郡だそうで、その武儀郡の「上の方」にあるからこうした名になったという。当地は加佐郡の「上の方」にあたるかも知れない。竹野郡はどうだろう。 →公庄の国道のすぐ脇の町民体育館とその前に設置された由良川の水位計。 一番上は「昭和28年9月の台風13号の洪水水位で+15.77m」 その下が「平成16年10月の台風23号の洪水水位で+15.04m」とある。 体育館が高床式なのはその洪水対策であろう。ここはたぶん非常時の避難場所だろうから、こここが水没しては意味がない。舞鶴の志高あたりもこれを見習うとよろしかろう。堤防ができても安心はしない方が賢明と思う。 《公庄の人口・世帯数》229・89 《主な社寺など》 天満神社 熊野神社 肥後神社 斎宮神社(祭神:竹野比売或いは麻呂子親王) 臨済宗妙心寺派少林寺 『大江町誌』 〈 少林寺 寺伝 「加佐郡誌」(大正四年刊)には、聖武天皇の天平十四年僧行基の創建という寺伝を載せている。大正初期にはこの伝承が生きていたと思われるが、今日ではこの伝承そのものが定かでない。もとの寺は現在地よりもさらに谷の奥地に境内があったとし、天和二年(一六八二)の丹後国寺社帖には、公庄村真言宗少林寺、山伏持性院(現在は臨済宗)とあるのは上記の寺伝とかかわる伝承であろうと思われる。 明細帖の記載では「元禄七甲戌年創立、開山一笑禅慶大和尚、文化二乙丑年中興開山桃嶺祖恭和尚」とする。なお、焼失した堂を行者堂と称し近くに熊野神社が存在するところから修験道に関係があるとの説もある。 沿革 昭和三十九年一月火災により、鐘楼を兼ねた楼門を残し全焼し記録なし、火災直後に民家を購入移築して庫裡とし、同四十三年本堂を再建。 〉 《交通》 国道175号線 KTR「公庄」駅 《産業》 《斎宮神社》 『大江町誌』は、 〈 公庄の伝承は、鬼賊征討からの帰途、麻呂子親王の従者公庄伊豆之進顕忠が、この地に来て脚気を患い、公庄の姓を賜わってここにとどまった。顕忠は病没したが、一族が伊豆姓を名乗って、ここに住みついたというものである。ここ公庄の氏神斎宮神社にも麻呂子親王伝説が残り、「同神社由来記」(安永八年、「氏神由来並屋台寄附名簿」として木板に墨書)によると、同社の祭神は麻呂子親王であると明記されている。この斎宮神社は、一説では竹野郡の斎宮神社をここに遷し祀ったもので、祭神は竹野姫命だとも伝える。竹野郡の斎宮神社は丹後町にある延喜式内社竹野神社のことであるが、大江町の伝承と非常に似通っているので、「丹後町誌」「伝承と麻呂子親王」を抄記しその概要を紹介する。 竹野の里は、丹波大県主由碁里が国府としたところで、由碁里の女竹野媛は開化天皇のお妃となられたが、のち年老いて郷里竹野の里に帰り天照大神を斎きまつって奉仕したので、竹野の宮を斎宮と呼ぶようになった。現在本殿に大神を祀り、かたわらの摂社に竹野媛を祀る。次の崇神天皇の六年天照大神と草薙剣を加佐に移し奉る時、皇女豊鋤入媛は御神領を捧げまつられた。竹野神社の由来に祭神として天照大神・竹野媛・建豊波豆羅和気君(開化天皇の皇子)・日子坐王・麻呂子親王を祀る。 となっている。 また同じ「丹後町史」の「斎宮大明神縁起」には、 (前略)河守の庄から 三上ヶ岳までせめのぼり遂に平らげることができた。ところが、すばやい一人の鬼の魁土車 (土熊)を討ちもらし、のがれるのを今の竹野まで追いこめ、岩あなに封じこめて討ちとったのである。その岩が今の立岩であったと伝えられている。人々は、この賊どもの平定されたことを喜びあい、これこそ神仏の恵み、親王のおてがらとほめたたえ、親王を敬い、死後北狭の守として大神宮のおそばに塩干、松千三神を合わせて三社の大神として竹野神社の境内、若宮殿に斉き祀ったのである。(後略) 公庄の斎宮神社と竹野郡の斎宮神社はどうかかわるものであろうか。この伝承は相当広い範囲に語られたものとみえ、丹後名所案内にも同様の言伝えを紹介している。 〉 「室尾山観音寺神名帳」に従二位伊津岐明神がある。この神社のことではなかろうか。 ビタミンB1不足で脚気になるというが、ここはそういうことでなく、足が悪いということで、公庄氏は鍛冶屋と思われる伝承である。その公庄氏は伊豆姓を名乗るという。公庄には今もたくさん伊豆サンがある。 竹野神社の境内には伊豆神社がある。これは宮司・桜井氏の祖先を祀ったもので、古くは丸田神社と呼んだもののように思われる。 鍛冶屋・マラタ・マラコ・イズ等とは実は何でもない同じもので、伝説的にいえばオニではないのかと思われてくるのである。 オニがオニ退治をしたという話で、退治された者と退治した者は実は同じという伝説のセオリーがここでも成り立ちそうに思われる。 イズと言えば出石を思い起こすが、彼らは元をたどれば天日槍の一族と思われるのであるが、そうすれば公庄は舞鶴の具重や九社と同じように古い地名で、クシフルの転訛と考えられる。 天日槍一族の竹野神社一族(旦波大県主油碁理一派、開化妃・竹野姫一派)とでも呼ばれる人々が早くから大江山を開発していたことを伝えると思われる伝承であり、彼らが最初の統一大和政権の屋台骨を支えたと思われる。 麻呂子親王に従う四勇士は、岩田・河田・久手・公庄と伝わる、今もこの姓は、だいたい河守あたりが中心かと思われるが「山のオニ」「川のオニ」ともなってずいぶんと手広くこの周辺の開発に当たっていたものと思われる。 「室尾山観音寺神名帳」には加佐郡正三位郡立明神がある。網野町の公庄に竹野郡郡立神社があり、実は与謝郡にもある。 『丹哥府志』は、 〈 【郡立大明神】 丹後旧記云。元明天皇和銅六年夏四月丹波五郡を割て丹後の国を置く、始め郡を分つ時先づ加佐郡河守庄より始めて竹野郡網野庄に終る、両所に公庄村を置く蓋し始終を示すなり、其終る處に一社を建つ蓋し帝を祀るなり、延喜式に云ふ生王部神社是なり、今郡立大明神といふ。 愚按ずるに、公庄といふ村の名は此両所にかぎらず往々是をきく、いまだ必ずしも郡分に限らず、但神の名に郡立といふは少し珍らしく覚ゆ、され共実に元明帝を祭ると旧記の據審ならず。 〉 公庄の主な歴史記録《丹哥府志》 〈 ◎公庄村(蓼原村の次) 【宝雲山少林寺】(真言宗) 【付録】(持性院、薬師) 〉 《地名辞書》 〈 補〔丹後〕○宮津府志、也足軒説曰、旦波国の内加佐・与佐・竹野・熊野の四郡を割き新郡を立て丹波郡と名付く、此五郡を丹後国と云なり、此国分国なるが故に神社の郡違多し、国造以後のことを知らずして撰集なしたる延喜式は大野の神社、多久神社、揆枳神社を竹野郡とし、三重の神社を与佐郡に出せし類なり、是皆丹波郡の神社也、和銅の国造は加佐郡より検地し竹野郡に終る、依て両郡を公庄に定め諾良帝の供領とせしなり、和名抄に国府加佐郡と記す、加佐は神社のかななり、又竹野郡公庄村に元明天皇奉崇郡立神社といはひ祭る。 〉 《大江のむかしばなし》 〈 竹切り爺 公庄 勝井 正巳 むかし、爺いがうちのそばの竹薮でカーンカーンと竹を切っとった。そしたら向こうからお殿さんが行列をつくってやって来てのう、 「そこで竹切っとる者は誰じゃ」 「日本一の屍こき爺い」。殿さんは、 「これはおもしろい。ここへ来てこいてみい」と言うと、爺いが竹薮から出てきて尻をまくって、 「シジュウガラ、フンガラモンガラ、ヌカフンデスッポンピー」ちゅうて。殿さんはおもしろいで、 「もう一遍やってみい」言うと、また、 「シジュウガラ、フンガラモンガラ、ヌカフンデスッポンピー」とやったら、殿さんが感心してのう、 ほうびをようけもろての。 それ持って帰ったら、隣の爺いがほうびをほしなって、殿さんの帰ってくるんを待っとって、竹薮でまたカーンカーンと竹を切っとったら、殿さんが、 「そこで竹切るもんは誰じゃ」 「日本一の庇こき爺い」 「ここへ来てこいてみい」。ほしたら、隣の爺いが黒い尻をくるっとまくって、気張ってみたけど、ちょっとも出えへんので、殿さんが、 「まんだか、まんだか」言うてのぞいとったら、爺いが気張って、真っ赤になって気張った拍子にピリッと実が出てしもた。殿さんは怒って刀でスパッと尻を切ったら、隣の爺さんは痛い痛い言うて泣きもって帰ったげな。 〉 公庄の小字公庄(グジョウ) 下嶋(シタシマ) 落谷 公庄谷 浪桑 奈小路 シボウ 野田 蛸田 樋ノロ 谷河 落谷 横谷 下山 六箇 稲荷 鯖谷 関連項目 |
資料編のトップへ 丹後の地名へ 資料編の索引
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『大江町誌』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Link Free Copyright © 2008 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com) All Rights Reserved |