丹後の地名

波美(はび)
福知山市大江町


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京都府福知山市大江町波美

京都府加佐郡大江町波美

京都府加佐郡河守町波美

波美の概要




《波美の概要》

波美は大江町の中央部、由良川左岸に位置する。北の矢部山からの支脈が由良川へ突きだしたその先端の小山の西側に集落がある。由良川はここでおおきく蛇行する。北は金屋村、南は川を隔てて千原村。由良川の氾濫による被害を多く受けている。洪水時には周辺部が浸水し島のように孤立することがある。
享保2年から4年まで京都代官所が丹後国内の幕府領支配のため、京都代官所の波美村代官出張陣屋を当村新井家に設置した。新井家は仮陣屋として使用された時のまま残った。今も同家には御用御絵符・御城米幟・御用掛札などが残る。
波美村は江戸期〜明治22年の村名。波美は明治22年〜現在の大字名。はじめ河守下村、明治23年河守町。昭和26年からは加佐郡大江町の大字、平成18年からは福知山市大江町の大字。


《波美の人口・世帯数》181・59


《主な社寺など》

三ノ宮神社境内には古墳後期の円墳があり、宮山を中心とする一帯には古墳群(宮山古墳群)。昭和四〇年(一九六五)頃桑園造成の際円墳三基が発見された。
鎮守は三宮神社
大江中学校
浄土真宗本願寺派金蔵寺
『大江町誌』
 〈 金蔵寺
 由緒 「開基見説 寛文十三癸丑年七月九日創立ス以前不詳」(明細帳)と簡略であるがこれを補うものとして、「当寺開闢由来並世代記」と題した綴本がある。(新井家蔵)
(註) この書は本寺開創の約百年後の寛保三年、第三世〜住持順説によって整理されたもので、住持は、開基由来が寺になかったため、村人を集め伝承や書留(浄誓手跡)を得て忠実に書記したと断っている。やや文意のとらえ難い点があるが要約、以下のとおり。
 波美村は「当寛保三年ヨリ九十六年以前迄ハ村中残らず禅宗ニテ 浄光寺且那」であったが、「慶安元年(一六四八)頃初テ浄土真宗ニ帰入…祖師聖人之御一流江改宗仕候」かくなった来由を尋ると改宗発起となったのは、福知山領内荒河村から当村忠右衛門(後法名教誓)に嫁した「くら」その人である。(幼名かね。嫁してくら、尼となり法名妙久という。「この金蔵(カネクラ)二字ヲ以テ初発ノ庵名金蔵庵、…次で金蔵寺」を得たという)
 妙久の生家は浄土真宗蓮正寺門徒で他力金剛の信心堅く、一心決定之行者として、その教化は夫にはじまり隣人村民に及んだ。「御法儀の沙汰ヲ致シ皆々聴聞シテ終ニ一在所浄土真宗ニ改宗ヲ望」み、すなわち「宮津仏性寺殿へ取次ヲ頼ミ御本山エ御願、慶安元年(一六四八)頃初テ浄土真宗ニ帰入ス 金蔵寺開闢之来由是也…宿善開発の機、善知識の御勧化ノゴトク偏ニ不思儀ノ事也」としている。
 沿革 最初一一間四方の庵に御身一幅を安置し村中拝んだが、十四、五年を経て第一世見説を招き現寺地に五間に三間の道場を建立した。
 (註) 「明細書」届出の創始年寛文十三年は、本文の慶安元年から二五年後である、恐らく本山から寺号認証の時を届けたのであろう。
 什物 御絵伝四幅 奥書仏性寺門徒丹後国加佐郡川守庄 波美村金蔵寺 寄進 見説妙園 教誓明光  〉 


《交通》


《産業》

波美の主な歴史記録


《丹哥府志》
 〈 ◎波美村(金屋村の南)
 【付録】(八幡宮、一ノ宮、稲荷社、祇園社、愛宕社)  〉 

《大江町誌》(地図も)
 〈 金屋、波美地区の条里 金屋から波美にいたる舌状丘陵の西部に位置する。宮川の扇状地と由良川左岸の氾濫原から成る標高七・一〜一○メートルの水田地帯に分布する。方位はN1°Eで、宮川対岸の河守条里の延長として線引され、A、B線の延長を北限線にとっている。
 この地区は、由良川と宮川の攻撃斜面にあたるため、耕地の乱れが激しく、特に宮川の扇頂、扇央部に位置する、関、下河原、一本松地区には遺構を検出することができない。それに対して、宮川が由良川と合流する、波美揚水桟場から波美村落にかけての下流域に分布する。遺構がみられる耕地には、(15)畑ヶ谷、(16)小堀田、廻り田、(17)七反出、(18)アゲシ (22)ゆりの坪 (23)中の坪 (24)大坪 (27)宮の坪 (30)番止などがあり、面積一六町が検出できるが(26)堂の下の南に六反田の遣存名があり、金蔵寺から西にのびる農道にその遺構が検出できるので、空白地区に六町を追加することができ、面積二二町の地割が実施されていたと考えられる。
 「和名抄」郷名で金屋は有道郷、一方の波美は川守郷に比定している、太田亮の「丹波、丹後」(日本国史資料叢書)があるが、条里形態からすれば、金屋、波美は同郷のもので、川守郷域の条里と考えるのが妥当である。したがって、川守郷域には面積四九町が施行されており、そこには数多くの条里村落が立地していたことになる。ところがこの河守郷里には、住民の氏神というべき、延喜式神名帳に登載の格式高い神社(式内社)が鎮座していない点に大きな疑問を感じるのである。これについては今後の調査に待ちたい。

大正期。波美 川辺の突端部削取り工事は難工事であった。この土石は、現波美橋の上手にあった河道跡埋立てに使われた。船越は、幅一一○メートル、延長一五○メートル、切り下げ高三メートルの工事が施行された。  〉 


条里復元図



一宮神社一宮神社(波美)
『大江町誌』は、
 〈 一宮神社から五宮神社までの五社は、神社明細帳ではいずれも祭神不詳となっているが、丹波道主命の五子を祀ったのだという伝承が残る。  〉 

案内板に、
 〈 一宮神社
 大江町内で、創祀の時期が古いと考えられるのは、一宮から五宮までの神社であるが、そのうち二つが波美にあるということは、二つが非常に早くから開けていたところであったからであろう。
 この一宮神社の伝承としては、大昔、波美と上野が一つの村であった時代の氏神だったというものがある。この一宮神社の前面一帯の田は、条里制遺構であるこをが確認されている。条里制というのは、奈良時代から平安時代の前半にかけ班田制にもとづいて、農民に一定の耕地を支給したときの土地割のことである。
今に残る「ゆりの坪」「宮の坪」「六反田」「番止め」などは、条里特有の名称である。試掘調査の結果、条里の遺構は、現在の田の面より約一・五メートルの深さで確認されており、ものすごい土砂の堆積があったことがわかる。
 こうした条里制遺構が確認されたということは、当時、すでに条里集落が成立していたことを裏付けるわけで、一宮神社は、そうした人々の祀ったお宮であったのであろう。  〉 


三宮神社三宮神社(波美)
案内板は、
 〈 「河守盆地を囲むように、一宮神社(波美)・二宮神社(天田内)・三宮神社(波美)・四宮神社(河守)・五宮神社(在田)が鎮座している。祭神は、丹波道主命(たにはみちぬしのみこと)ともその五子とも伝えている。この丹波道主命は、日本書紀ではヤマト国家が、諸国平定のために派遣した四道将軍の一人として丹波国へ派遣されたとされるが、最近では、古代丹後の豪族であったのではないかといわれている。「丹後風土記残欠」にある・土蜘蛛、陸耳御笠(くがみみのみかさ)を、川守郷で討ったとされる日子坐王(ひこいますのみこ)の子と位置づけられている。三宮神社案内板
 三宮神社の本殿は、一間社隅木入春日造という形式で柿(木村を細く削りとった板)葺き、元禄十一年(一六九八)の建立になるもの、当時この地方きっての棟梁であった宮津の富田市郎左衛門盛康の手になるもの洗練された力強い装飾が見事である。背面の妻飾りの蟇股は、足が内側に曲がる丹後風のもの、町内における貴重な神社建築である。」  〉 

《大江町風土記2》
 〈 お宮のとりあい
一ノ宮はんを金屋と波美がとりあいした。金屋の田地に建っとるで金屋のお宮だといい、波美の方を向いて建っとるで波美のお宮だといいあいましたが、今は波美のお宮になっています。(河守小 新井とみえ)  〉 

一宮と三宮があるのだから、河守郷の中心は波美(含・上野)や金屋の周辺だったことになる。これらは縦穴古墳の上に建てられているのでないかという感じもする神社で、たぶんこの現地の首長が祀られていると思われる。そこがハビすなわち蛇というのだから、金属と関わった人々でなかっただろうか。

《図説福知山・綾部の歴史》
 〈 大名に睨みをきかす波美の御陣屋
 由良川の河谷は、河守盆地をすぎると急に狭くなる。河守盆地は長大な由良川の最後の遊水地であり、宮川の流れを集めて、河道は大きく屈曲する。
 波美は由良川水運の監視にはもってこいの場所であり、さらに田辺藩・宮津藩の境に位置し、綾部藩・福知山藩の動向を知るにも好適の戦略地点であった。ここが天領であったことの意味がよくわかる。
 『御料所旧記』によれば、宮津藩は寛文六年(一六六六)に藩主であった京極高国が領地召しあげとなったあと、次の藩主永井尚征が入封するまでの三年間、全領御蔵入りとなり、幕府直轄領となって生野代官所の支配下に入るが、このとき波美に出張陣屋が置かれたとある。
 それから五〇年後の享保二年(一七一七)、波美は再び天領となる(以後、明治まで天領であった)。このとき現在の新井家に三年間、陣屋が置かれた。陣屋とは、郡代や代官など幕府の役人が常駐したところで、天領のみならず、近隣の大名にも睨みをきかす幕府直轄の役所である。
 今でも新井家には当時の遺構の一部が残っており、とりわけ正門は陣屋建築を偲ばせてくれる。拝領品や文書が数多く残されており、当時のことを知る上で貴重な資料である。中でも寛文六年の「波美村明細帳」は、いわば波美村の村勢要覧で、当時の農民たちの暮らしの跡が手にとるようにうかがえる。
(村上政市)  〉 



波美の小字


波美(ハビ) ナリ竹 上平 下平 石田 舟越 沖田 中田 上地 下地 大門

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『大江町誌』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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