丹後の地名

八田村(はった・やた・はた)
(江戸以前の村)
舞鶴市の西舞鶴市街地


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京都府舞鶴市の西舞鶴市街地西部

京都府加佐郡舞鶴町の西部


旧・八田村の地誌




《旧・八田村の概要》

舞鶴市の中央部。西舞鶴市街地の内。愛宕山の東麓に桂林寺があるが、その周辺一帯が江戸期以前にはあった八田村である。
愛宕山東麓から高野川の周辺あたり、東の円満寺村までの村だったと思われる。北は海まで、南はたぶん引土までではなかったかと思われる。
田辺城築城に際してこの村は城下町になるため移転させられて、現在は由良川筋の大川橋を渡った所の八田(はった)八戸地(はとち)がそれであるという。
八田はハッタと呼んだのかヤタと呼んだのか、わからないが『加佐郡誌』はヤタであったとしている。
この地名は古記録にあるだけで、現在は残らないが、ただ一つ河守街道、八田から高野村に到る峠を八田峠と呼んでいる。引土から南西側の山を越えて寿住宅の裏にでて、そこからまた山を越えて現在の高野由里集会所の脇にでてくる山道であるが、現在は通行止となっている箇所があり、もう廃道である。殿様もこの道を参勤交代に通ったのであろうが、現代人には何でまたわざわざこんな山道を通ったのかと頭を悩ますような不思議な意味のないような峠に見える。由里の集会所が、だいたい危ないような山道を少し登らなければならないが、この細い嶮しい土道を登ったのか、よほどに山道が好きだったのかと不思議に思われる。
 それと愛宕山が笶原(やぶ)山と呼ばれたのであるが、これがあるいはヤタ地名と関係があるかも知れない。

 この田辺の八田村の起源であるが、南の丹波国何鹿(いかるが)郡の八田(やた)郷に求められるのではないかとも見られている。真倉川を遡ればその八田郷の地で、彼らから見れば川を下れば田辺であったので移動があっても別に不思議な事はない。
八田郷の安国寺村の安国寺末の寺院が西舞鶴にはけっこうあることである。丹波国何鹿郡安国寺末十倉山医王寺(十倉)、丹波国何鹿郡安国寺末白雲山善福寺(京田)、丹波国何鹿郡安国寺末仏徳山西光寺(七日市)、丹波国何鹿郡安国寺末高野山宝寿寺(野村寺)がある。古い西舞鶴の中心は全部といっていいくらいに上杉の安国寺系統ということになる。
ではその何鹿郡八田郷であるが、けっこう広い所である、現在はヤタと呼んでいるが、これもヤタなのかハッタなのかハタなのか古くなればわからないのであるが、なぜそんな名があるのかと言えば、これは秦氏のハタだと太田亮は言う。
 〈 丹波の秦氏。当国何鹿郡に八田郷あり而して類聚国史に「延暦廿一年云々、丹波国人秦乙成」を載せ、また仁和三年六月紀に「丹波国何鹿郡人秦貞雄」を挙げたり。其の他、秦日佐等、此の国に見ゆ。又後世当国の田中氏はもと秦氏なりと言ふ。  〉 

 移転先の現在の八田には松尾神社がある。朝代神社の境内にも残されているが、これは「室尾山観音寺神名帳」の正二位松尾明神と思われ、松尾大社(京都市西京区嵐山)を移したもので、太奏秦氏の神社である。八戸地の白鬚神社。すでに何度も説明している通り。これらが元の田辺八田村にあったと思われるのであるが、すべて新羅系の神様である。広く新羅系の渡来人たちが住んだ所だろうと想像できることになる。彼ら天日槍系と言っていいかも知れないが後に秦氏に組み込まれたと思われる。古墳の立派さかげんから言えば丹波が元かと思われるが、特に彼らは丹波・丹後どちらから来たとかいうものでもなく、行き来のあった古代から繋がり深い両地であったと思われる。
なお、白鬚神社は上福井や上漆原にもあり、こうした地へも移転したのかも知れない。

旧・八田村の主な歴史記録


《田辺府志》
 〈 八田村地頭之事
今此處田辺といへる町地は、いにしへは八田村といひて野村民家の届せしところなり。其時此處の地頭といへるは近峯また大内倉谷に館居してあり、後花園院賓徳の比坂根修理亮といひし武人左武獄に障徼(かきあけ)して居しなり、後村上貞和の比は嶋津下野守居せり、崇光院貞治の比は沙禰信洞といひてあり。長岡藤孝此處に城郭を築き市街をひらき田辺と名づけ給へるを稽見るに、昔日田辺小太夫といひて此虎の地頭たりしが円隆寺を信敬ありて諸堂も建立ありしとなり、このゆへに其芳名を久しく伝へめでたき人なれば處の名とせられたりと見へたり。吾朝田辺といへるは紀伊国周防国にあるよし彼人是等の国より来り名氏とせられしやおぼつかなし、また古記に郷の名とも見へたり。

…次に宮津城には一色左近、一色五郎相続て存居せしが、彼党元祖一色左京詮範に劣らざる勇気寓人にすぐれしものどもにや、たやすくあけわたすべき気性にあらざるゆへ、先大内に閑居し絵ひて、八田村は四神相応の佳地なりと、前へ溝を朱烏にとり後丘陵を玄武にあて、左の長溝を青龍に配し右なる修路を白虎に備て、海磯によりて宮津方奥郡の通路を相考へ、陽を負ひて陰を前にし、大門を西方にひらき、平田をあらため高陸となし、石を北海より取、村を西山に斬り、高殿崇台営築し惣郭を険固にし、広隍を深塹となし、市街を縦横にひらき、八田村を田辺と名をあらためらる。…  〉 

《田辺旧記》
 〈 一色家御代
一 初代 修理太夫範光
 田辺の地、丹波何鹿郡に隣り上杉村の水流れて田辺城の外隍となる。足利氏は其の母方丹波上杉村より起りし家なれば、足利家が京師に幕府を開くに当りては丹波丹後が其の搦手の要衝に方るのみならず、恒久の資源地として最も大切の土地柄なれば、尊氏将軍のとき其一門一色範光を丹後の守護に補す。 足利泰氏の小公深三河国一色に住し一色を氏とす範光は公深の孫なり 範光丹後に入り八田に館を構へて始めて守護の職に就く、実に建武三丙子年八月なりといふ、八田は今の田辺の地也。  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎円満寺村
天正年中細川藤孝初めて城郭を今の田辺に築きて八田、円満寺の二村其郭内に入る、今五六軒城の傍に残りぬ。
  〉 

《加佐郡誌》
 〈 舞鶴町の古名八田村は丹波何鹿郡の農民が移住して来たから郷里の名を其侭用ひたものであるといはれている。

八田は細川藤孝が舞鶴に築城の際同町字紺屋在住の農民を移して作った所である。其氏神松尾社又八戸地の氏神白髭神社は当地移民が奉遷して来たものである。八田今はハッタと称へるが当時はヤタと言ふた、全く舞鶴町当時の名を其侭移して用ひたものである。  〉 

『角川日本地名大辞典』
 〈 はったむら八田村〈舞鶴市〉
〔中世〕南北朝期〜戦国期に見える村名。丹後国加佐郡のうち。康永4年3月4日、左兵衛尉某が「田辺郷八田村内八幡宮」に毎月朔幣祭礼料田2反を寄進しており(桂林寺文書。大日料6-9)、以後「桂林寺文書」中にたびたび村名が見られる。当村内八幡宮の地には桂林寺が存在した。同寺は応永8年の創建と伝え、当初は洞林寺と号したという。「丹後国田数帳」によれば、田辺郷199町余の知行者は細川讃州となっているが、讃州とは阿波国守護細川成之のこと。宝徳3年8月16日付の洞林寺下地目録によれば、彼は養父桂林院殿細川持常3回忌にあたって洞林寺に新田1町余(うち3反は坂根修理亮の寄付)を寄進しているが、洞林寺は持常に父心華院殿満久位牌田、満久の養父宝光院殿義之位牌田等を有しており、細川家と洞林寺との深い関係がうかがえる。また、同日付で真覚なる者が宝光院座主禅師宛てに、洞林寺免田畠のうちに新たに桂林院殿追善のための寄付地を加える旨の成之の意を伝える奉書を出しているが、真覚とは坂根修理亮であるとされている。坂根修理亮は当時、福来・倉谷・伊佐津・境谷・万福寺等に囲まれた標高240mの佐武ケ嶽山頂の佐武ケ嶽城城主で(丹後旧事記)。なお、当村は細川氏の田辺城築城に際し、その城下町の縄張りのうちとなり、住民は由良川左岸に移住、そこに新たに八田村を形成した。桂林寺は現在、舞鶴市紺屋に所在し、その付近が八田村の故地である。  〉 

《まいづる田辺 道しるべ》
 〈 引土からの河守街道は、どんな道であったか。引土の村中を流れていた旧高野川(今の出雲谷川)に沿って野村路川口道を遡り、現在の天理教の前を通った後、小字半田の森谷正男氏方の前から峠の坂道を上る。坂の上はやや平坦な道となり、元共済病院の跡地の処で道は消滅しているが、かつてはこの病院内を旧道が通り抜け、茶臼山の西方にある小字八田峠を越え、現在の寿住宅の奥へ抜けていた。これより高野由里の八田谷へ入り、タカハラ(山)の山麓、アオイ坂を越え、後山堤の上を通り、現在の高野由里集会所の処へ下りて来る道が、江戸時代の古い河守街道であった。
 この八田峠越の道は、嶮岨にして往来する旅人を大変苦しめたと伝えられているが、昔の人は、目的地へ行くためには、最も近い道を選んだと見え、山や峠には余りこだわらなかった様である。この嶮岨な八田峠を通らず、平坦な公文名村へ廻り、高野谷に入れば遠道であっても楽な様に思えるが、敢えて引土より嶮岨な八田峠を越えたのは、高野谷へ出る最短距離と時間的に早くなることを、昔の人は生活の智恵として考え行動していたものと思われる。
 八田峠道がいつ頃からあったかは定かではないが、「丹後国加佐郡寺社町在旧記」にこんな記録が残っている。
 「当山において石之地蔵を掘出してより愛宕山権現柴之菴を結ひ山上に勤請す貴賎参詣夥敷女布村の山城に森脇宗坡聞之西谷坊謀計以諸人を集る事甚其科不軽急度女布之館江可来とて便を立る。住持(住職)不及違背に罷出矢田峠(八田峠)迄往ける所に森脇居宅出火したりけれハ…」
 この記録によると、円隆寺の住職が、森脇宗坡(永禄時代・一五五八−七○)に呼び出され、八田峠まで来たことが記されており、引土村より高野谷へ越す八田峠が既に中世に存在していたことが判る。  〉 

《八雲のれきし》
 〈 松尾神社
八田村は、天正九年(一五八一)三月、細川藤孝公が領するまで田辺(現舞鶴市紺屋町附近)にあって、田辺城の築城の時、現在の場所に移住したと伝えられる。八田村が田辺にあった頃、京都、松尾大社の祭神(大山昨命、中津島姫命(市杵島姫命)を紺屋町の笶原神社に産土神として祭祀したが、移住の際、村人と共に八田の宮の谷に移し祭った。
 棟札によれば享保十七年(一七三二)神殿造営とある。
 祭日は、正月十五日、二月八日、八月八日の三回で神饌・神酒を供え氏子一同参拝した。今では元旦、三月八日春の祈念祭、十月十三日は例祭、この日は青年が太鼓をもって村内を練りこみ、昔は踊、相撲の余興もあって盛んであった。十一月二十三日は奉穀祭(例祭)が執り行われている。
 境内社は大川神社・春影稲荷神社・八坂社・三柱社・山之神社である。
 境外社は愛宕社、秋葉社が宮の谷山頂にあり、虚空さんが永禄八年頃(一五六五)猪田山の山頂に祀られた。
 小字イシに薬師さん、堂ケ裏に地蔵堂が祀られている(松尾神社の狛犬の銘は万延元年作(一八六○年)瓦製)。  〉 

《八雲のれきし》
 〈 白鬚神社
 八戸地は、もと「八咫村」といい、田辺の一村であったが、八田と同じく天正九年、田辺城の築城の際、現在地に移住した。八田村と称していたが延享年間(一七四四〜四八)分村して、八戸地村と称するようになった。田辺から移転する際、松尾神社と白鬚神社の二社を奉遷したが、八戸地村は白鬚神社を氏神として遷座した。白鬚神社の本社は滋賀県にあるが、何時の頃に勧請したのかは分からない。祭神は本社と同じく猿田彦大神を祀っている。例祭は毎年三月二十八日の春祭で練込太鼓を奉納して、氏子一同参拝して賑わったが、今日では八雲地区の祭日に合わせて十月に行われるようになった。
 境内社は秋葉神社、松尾神社、薬王寺神社の三社である。
 境外社
  荒神社=コヨリ、仏谷、土ケ市、梅谷の四か所に祀られている。荒神さんの信仰は民俗信仰の最たるものである。三宝荒神、地荒神、牛馬を守る荒神と大別されるがそれぞれの地区でそれぞれの目的で祀られたものか。八戸地に特に多くみられる。
庚申社=上ノ山にあり明和五年(一七六八)の創建と伝える。
恵比須神社=享保九年(一七二四)の創建でコヨリにある。
愛宕神社=富士、山之神社=仏谷、稲荷社=村中東に祀られる。  〉 

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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