丹後の地名

引土(ひきつち)
舞鶴市引土



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京都府舞鶴市引土

京都府加佐郡中筋村引土

引土の地誌




《引土の概要》

引土は西舞鶴の中央部。JR西舞鶴駅の西側に位置するかなり広い範囲である。高野川流域の住宅地・商店街・耕地が混在する地。
西舞鶴駅前通り
昭和3年ごろの舞鶴駅(現在の西舞鶴駅)前の通り(絵はがきから) 正面の一番奥に見えるのが舞鶴駅(現在の西舞鶴駅)。手前の左から右への道は、現在の国道27号である。左側の建物群は昭和20年の建物疎開で撤去されたので、駅前通りは見ちがえるように広くなった。(『ふるさと今昔写真集』より。キャプションも)

地名の由来は、湿地帯に引き土をしたことにあるともいわれる。北部が城下町にかかった名残で、北端から高野川沿いの旧京口番所付近までを「町引土」、以南を「村引土」と呼んでいる。
当村には京道が走り、城下口にあたるため、北部は町場化が進展して引土町・引土新町・朝代町が成立、京口見張番所が置かれ、京橋から松縄手へかけては藩主参勤交代時の町役人らの送迎場所となった。
農家のほか足軽屋敷があり、また大工・鍛冶などの職人が多く住んでいたしいう。小字半田には「半田焼」という窯があった。ここから出た製品破片は天目茶碗のものが大部分を占めるが、ほか抹茶碗・皿・水指・壺などのものもある。京焼系茶陶と伊万里系磁器が同一窯体で焼かれており、操窯年代は早くて文政期の後半、歴史的背景を考慮すると天保期と考えられている。という。
引土村・引土町は江戸期〜明治22年の村名・町名。同22年中筋村の大字となる。昭和11年舞鶴町、同13年からは舞鶴市の大字となる。
現在の京橋(舞鶴市引土)
《人口》1299《世帯数》550(中引土・東引土・舞引土の合計)


《主な社寺など》
天狗岩古墳(三基)
茶臼山古墳(四基)
茶臼山古墳のある地には、近世初期、長沼小太夫が城を築いていたと伝える。
茶臼山には中世一色氏の地頭長沼小太夫の山城と古墳があったが、土地取り工事のため崩壊した。
真言宗御室派慈恵山円隆寺。(国重文の木造阿弥陀如来坐像・釈迦如来坐像・薬師如来坐像・不動明王立像・毘沙門天立像。市文化財の多宝塔・薬師如来坐像・不動明王二童子像があり、いずれも平安期〜鎌倉期の作)
高野川左岸の平地に長沼小太夫の廟所と伝える若宮神社
八幡神社(祭神誉田別命)。旧語集に「九社明神 八幡トモ 六月十三日祭 夜角力踊」。
西舞鶴高校

《交通》


《産業》

引土の主な歴史記録


《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 引土村
京橋より真倉境まで道法二里、並松あり京街道なり、八幡九社明神、若宮八幡、長江小太夫城城跡あり。九社明神の事右七社の外、倉谷朝禰明神、田辺町朝代大明神これを合わせて九社と云ふ。郡中東西と分れること伊佐津川限り、西の町在を西方と云い、又川東の在々を東方というなり。
  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 定免七ツ三分
引土村 高五百八十九石四斗五升四合
    内四拾五石八斗八升五勺 万定引
    三十石御用捨高
 古城 長沼小太夫
 九社明神 八幡トモ 六月十三日祭 夜角力踊
        四郎ヵ鼻孫太郎 
森の内稲荷社有 赤崎新兵衛 此三狐ヲ祝由
        高畠弥蔵
 若宮八幡宮 伝説ニ小太夫廟所ト云
 京橋 町ノ入口ニ掛ル橋也 橋ノ向松畷ナリ 此辺を八丁縄手ト云 伊佐津村ヨリ内田地八丁有トモ云 引土村公文名村辺街道縄手を飛廻る火あり 小太郎火と云伝ふ 鞠程の火飛事逸く高く成又早成 或時職人町裏堀端にも飛来る 或時松本半左衛門弓ニ而是を射たれ共替る事なし 前々ハ度々出たれ共今ハ出事稀なり 火の出る所ハ当村小太郎の宮ヨリ出ると云習す されども所之者も小太郎之宮をしらす  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎引土村(町より次、以下七村これを中筋の郷といふ)
【九社明神】(祭六月十二日)
【田辺小太夫城墟】(田辺一の長沼に作る)
田辺小太夫名は季武、大内の庄に居るを以て大内季武ともいふ、二人に非ざるなり。一色氏に属して軍功多し、建武の頃足利尊氏に従ふて九州に渡る、後に与謝郡須津村の山に居る。或曰。田辺小太夫は福寿にとみてめでたき人なり、今田辺の名是より起るといふ。  〉 

《加佐郡誌》
 〈 引土は今舞鶴町に属している引土、京口、朝代、新と共に皆当字であったが明治八年に分離したものである。東南の茶臼山は一色氏の臣、長沼庄太夫(或は長江小太夫)とて細川氏の臣、沼田小兵衛に討たれたものの城址である。  〉 


『中筋のむかしと今』
 〈 引土
 引士村はもともと町家と村とを包含していて、戸籍はすべて引土である。市や郵便局の行政で呼ぶときや配達物の明瞭化のために、明倫校区の引土を「引土」(または旧舞鶴町の引土で「舞引土」)と呼び、中筋校区の引土を「中引土」(旧中筋村の引土)と呼んでいるが、便宜上の呼び方である。昭和十六年折原町内(現・京橋町内を含む)の分離、同五十一年には府道志高西舞鶴線を境に東側を分離して「東引土」町内ができた。現在の中筋校区の引土の総戸数は一九○戸である。
 中筋平野周辺の丘陵には後期古墳時代の横穴式石室の円墳が点在し、引土の茶臼山に四基、天狗岩に四基存在したことから、その頃には祖先が定住していたと思われる。また、茶臼山には城趾(郭)があり、一色氏の臣長沼小太夫が細川氏と対抗したとあり、応仁の乱の頃からこの地の山岳は戦乱に関わっていたと推測される。
 明治十五年の取調帳などによると、引土には現在地の「八幡神社」、「若宮神社」、「虚空蔵菩薩」、「地蔵さん」のほかに、愛宕山の南裾野の高畑に「山の神」と「高畑神社」が、権現山に「稲荷神社」があった。山の神は権現山に移されていたが、昭和十二年に山の神および不動権現、牛頭天王は八幡神社の一画に移された。また、天狗岩に小男稲荷神社があったが、明治二十三年に茶臼山に移転され、昭和十六年折原町内の分離に伴い、折原が祭祀することになった。
 江戸時代の引土村は、北は桂林寺の下(現、八幡橋通り下)から田辺城の堀端までの地域であり、京口・朝代神社や円隆寺付近などの町屋(職人や商人や下級武士など)と現在の引土の村(農民)とを包含した地域であった。高野川にかかる京橋が引土の町屋と村との境付近にある。京口からこの京橋を渡り、京田を経て上杉へと続く京街道になっていた。現在は支流の出雲谷川にかかる橋となり、その名を留めている。また、番所があったことを示す石標が近くで見つかっている。この他に天狗岩の東南の山麓を通り、高野の由里へ抜ける街道があった。これは真壁峠を越える河守街道である。
 高野川は引土で西に向かって大きく蛇行し、若宮神社の西側を北へ向かって流れていた。昭和二年に瀬替えが行われ茶臼山橋から円隆寺橋まで南北を直線にする大工事が行われた。その後も川幅は何度も改修され、川岸のねこやなぎや杭もなくなり、現在に至っている。井根(水田へ配水するための川の井せき・取水口)も高野川に三ヶ所あったが、戦後宅地化が進み水田がわずかとなり、現在は一ケ所だけである。
 現在の村周辺の竹薮はすべて段々畠の名残りをとどめ、また、城の堀近くの田は低地で深田であった。引土の農民は相当貧しく、しかも過酷な労働であったと想像される。
 江戸時代の引土村は、米の他に大豆・ゴマ・麻生・真綿・茶を生産し年貢としていたようである。大正以降は、梨・桃・ぶどう・柿など果実の栽培も盛んで、柿を皇室に献上した記録がある。また、この頃から温床栽培を行い、きゅうり・なすなどの夏野菜を他村に先駆けて早い季節から生産していた。果実の栽培とは別に「引土梨」と呼ばれる梨の大樹が、昭和の中頃まで地区のところどころの屋敷周辺にみられた。 また、年末には「お飾り」といわれるワラ細工(しめかざり)を作って売り歩いた。引士は城下に近く「隠し田」もならず、生活が苦しく、特に城主の計らいで独占できることになったとの説であり、初めはこどもだけが売り歩いたそうである。
 村には各戸に牛小屋(馬舎)があり、飼育している家と農繁期にだけ牛を借りる家があった。また各戸に機織り小屋があり、木綿の着物は自家製であった。明治十四年に舞鶴製糸が、その後、大正九年郡是製糸が誘致され養蚕が盛んになり、当時は天狗岩裾野にはかなりの桑畑があり、養蚕農家も相当数あった。
 明治三十八年、舞鶴町に舞鶴青年団が結成され、引土の青年団は町屋と共に「引土革新会」と名付けられていた。また、地蔵さんの一画に青年団の集会所が設けられ若者の集まりの場であった。
 大正十一年には加佐郡中部処女会が創設され引土処女会も加入した。昭和八年には引土消防組が結成された。大正十二年には府立舞鶴中学が現在の西舞鶴高校の地に完成した。戦後、西舞鶴高校の校庭が南側へ拡張され、また西側に市民グランドができ今日の形状に成った。昭和九年五月に茶臼山のふもとに塵瑛焼却場(処理能力七・五トン(八時間稼働)炉二)が建設され一本の煙突がそびえていたが、都市化が進むにつれて不燃焼物がばい煙とともにとび散るのが問題視され、同四十七年十二月、市焼却場の統廃合により廃止された。
 昭和十三年に天狗岩のふもとに共済病院診療所が建設され、同二十六年に共済病院の西分院となり、その後廃院されていたが、平成十二年新たに衣替えし、老健施設「すこやかの森」がオープンした。昭和十六年に天理教山陰大教会が、同五十四年に創価学会文化会館が完成した。
 引土には「山の神さんの祭り」、十三参りで知られる「虚空蔵さんの祭り」がある。また、大峰山参りを行う引土行者識や愛宕講・大師講などが盛んな時期もあった。「半田焼き」のかま跡があり、文化・文政期から磁器を、幕末期には陶器を製作していたようである。町屋と村の境付近に金屋と呼ばれる鋳造所があり、藩の大筒(大砲)や愛宕さんをはじめ近傍の寺院の釣鐘を製作していた。(「引土村の鋳物師」の項参照)
 昭和二十八年の十三号台風で出雲谷川が氾濫し、川周辺の家屋が土砂浸水の被害にあい、同三十九年から四十三年にかけて出雲谷川の全面改修工事が施行された。また、このとき高野川も水があふれ出し、茶臼山橋付近でも堤防の決壊の恐れがあり、村総出で土のうを設けた。さらにその場所への流れを和らげるため、ロープで吊り下げた竹を土手に沿わして流し決壊を阻止した。
 昭和二十九年水道埋設開始、同四十年幹線道路舗装、同四十二年放送設備、平成七年下水道埋設開始など着々と近代化が進められた。また、公民館は旧軍施設の解体材で村の農作業場として建設し、それを流用していたが老朽化により、昭和六十三年二月、同じ場所に新築された。 [引土歴史編纂委員会]  〉 

引土の小字


引土 引土町 堂園堂 寺ノ奥 黒田 鉄砲町 折原 湯ノ口 河原田 中ノ堂 平田 京橋 笹浪 横枕 古八丁 鍵町 両官田 糠ケ坪 赤川 木バシ 若宮 餅安 上島 城ケ鼻 横田 静池 西縄手 古ブチ 半田 八田谷 前川 城ケ越 八田ケ鼻 八田峠 出雲谷 尺間 善防 スガ谷 大谷口 金吹 滝谷 梅ケ谷 住敷 赤崎 又谷 正法寺 黒田 田圃 天狗岩 天ケ谷 高畑 スガ尾 宮ノ上 権現 カマ田 権現山 苧コキ川 田原田

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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