本(ほん)
付:鎮守八幡神社 |
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京都府舞鶴市本 京都府加佐郡舞鶴町本 |
本町の地誌《本町の概要》 西舞鶴の中央部で、市民会館の前の道の国道を越えた西続きの商店街である。本町通りを中心にして両側の高野川までである。本町と呼ぶくらいであるから、旧城下町の中心であった。 西を高野川が北流し、西北端に大橋が架かる。中心を東西に走る本町通に対し東から丹波通・平野屋通が南北に交差している。 「丹後旧語集」によれば、天正年間細川氏の田辺築城にあたり「大手本町辺最初に築き、平野屋町・本町角の家山本又左衛門という者、町屋建初の由」とある。大手門(復元された物が二之丸の「城門」)前のメーン・ストリートに作られた城下町のはしりで、細川氏時代から本町として地子銭免除の町屋であったという。享保12年の丹後国田辺之図による町屋は、東西148間・幅3間、家数53軒。 今は普通は「 本町は、江戸期〜明治22年の町名。田辺城下の1町であった。 明治2年舞鶴町に所属。同22年舞鶴町の大字となる。昭和13年からは舞鶴市の大字。明治29年舞鶴町役場が北田辺より当地に移転した。 《人口》128《世帯数》58 《主な社寺など》 《交通》 国道27号線 本町通り 本町の主な歴史記録《丹後国加佐郡寺社町在旧起》 〈 蝋燭屋、提燈張、仕立物屋、薬種屋、蕃匠、木挽、乗物師、畳刺、両替所、呉服売、桧物師、桶屋、傘張、酒、味噌、酢、醤油、豆腐、蒟蒻、萬小間物様々家職これあり中に日傭の奴忽形ち変る事を思ひて 黒髭を洗へばもちの市が父 すえぬ灸の後もおかしく 《市史編纂だより》(52.3) 〈 細川幽斎を祭った神社 専門委員 野村 幸男 西地区、字平野屋の原田運動具店北側の小路とそこから本町に出る角(下図参照)に八幡神社という小さな祠がある。この八幡様に、細川幽斎が火伏の神である秋葉神社とともに合祀されている。 我が国において、近世の城下町では、その城の建設が町屋の設立をうながして今に至っているものが多く、町民は最初の築城者に感謝して、神に祭っている所が多い。舞鶴市の中で、西地区が舞鶴湾沿岸の、農漁村から、市街地に変化したのは、自然の理でもあるが、細川氏の田辺城築城が、その時期を早めたことはいなめないであろう。 細川幽斎が田辺の地に築城した理由としては、 『丹後田辺府志』によれば、 「(前略)信長公の主恩厚縁過分にして、丹後国を拝領ありし事なれば、不意の逆徒ある時は、片時もいそぎ江州阿辻(安土)城にも馳着絵うべきこころ、次に宮津城には、一色左近、一色五郎相続て在居せしが、彼党先祖一色左京詮範に劣らざる勇気萬人にすぐれしものどもにや、たやすくあけわたすべき気性にあらざるゆへ、先大内に閑居し給ひて、八田村は四神相応の佳地なりと、前は溝を朱雀にとり、後丘陵を玄武にあて、左の長溝を青龍に配し、右なる修路を白虎に備て、海磯によりて宮津方奥郡の通路と相考へ(中略)市街を縦横にひらき、八田村を田辺と名をあらためらる(後略)」 とある。けだし、京滋と丹後を考えた場合の、舞鶴市の古今に変わらない地理的位置の良好さを看取したものと言えるであろう。 また市街地の建設について『丹後旧語集』によると、 「当城者細川公縄張の由、門より東南の方、円満寺村之田畑也、西北の方塩入浜築立、大手本町辺最初に築、平野屋本町角の家、山本屋又左エ門と云者町屋立初の由後丹波屋嘉右衛門家近の地形築町屋建城の南東は深き沼に而、丹波川、池内川、伊佐津川流合大沼にて堅固也…」とある。 西地区の旧家、土井市兵衛氏所有の八幡神社の棟札によれば 華勧請、八幡大菩薩地主神 泰勝殿前兵部徹宗玄旨 また別の木札には 八幡宮祠堂建立之記 明治十年丁丑六月。本町平野屋町二跨り土地四百六十九坪及其地上ニ建設アル家屋全部ヲ、西野嘉右衛門ヨリ購求ス、此地内八幡宮ノ祠堂アリ、并セテ吾家ノ有トナル、伝云、此地慶長之昔、細川氏舞鶴城ヲ築造田辺市街(明治二年舞鶴ト改称)構成ノ時町人頭山本又左衛門ニ下賜スル処依テ謝恩ノ為、此地内ニ八幡宮ヲ祭祀シ幽斎細川公ヲ合祀スト、吾家ノ有ニ帰セシヨリ又秋葉山ヲ合祀シ祠堂ノ修繕ヲ加フル事数回今年吾家第四代清安還暦賀辰ノ前年ナルヲ以テ境内ヲ改修シ祠堂ヲ新建セリ、蓋一ハ敬神ノ微意ヲ表シ、一ハ家運ノ長久清安ノ永寿ヲ祈リ奉ル所ナリ 明治三十六年発卯十二月十九日御遷宮土井家 第五代市兵衛清容謹録 (ここにある西野嘉右衛門は、丹波屋嘉右エ門と同一人物か、同じ家系の者であろう)。 更に今一枚の棟札には 維時寛政七年…… 地主祠 年号記板 丹田辺本 西埜加右衛 と書いてあるから、幽斎を祭った八幡宮の土地は山本又左ェ門から寛政のころには西野嘉右衛門に移っており、それが明治十年土井家の所有に帰したのである。 土井家 永代記録巻一 に 十年六月 一金六百五円 平野屋町上組西側並ニ本町通にて貸家八幡小路共惣合(セ)テ廿壱戸西野嘉右衛門ヨリ買得とある。 以上により、細川幽斎が田辺城築城の際の町屋の建設と、最初に街づくりを行った町人の努力、その恩に感じて、幽斉を祭った事情の一端を知ることが出来る。 現在土井氏により丁重に祭られているが、私はこの神社が市民にとっても大切な文化財として、尊崇されるべきだと考える。 〉 平野屋通りに面した原田商会(原田スポーツ店)さんのすぐ北側の狭い路地を入った所です。 《まいづる田辺 道しるべ》 〈 田辺城下町 天正八年(一五八○)細川藤孝侯が田辺へ入国後、田辺城の築城に取りかかると共に、城下町の町造りに取り組む。まず藤孝侯は、城下の繁栄を計るため商業を盛んにすべく楽市楽座制度を取り入れる。 即ち、戦国時代以前まで行われていた朝廷、公家、社寺などが行う独占営業権課税制度を改め、商品の流通を図るため、誰でも自由に営業できる様に他国より商人、職人を城下に集めて住まわせ、地子銭免除の町屋を作り城下の繁栄を図る。 田辺城下町の形成については、丹波、若狭方面より商人、職人を招き、まず本町、平野屋に住まわせ城下の基盤を作り、その後丹波町、竹屋町、広小路が作られ城下町の骨格ができ上がる。 城下で地子銭(土地に対する税金)免除の処遇を受けた町内は、橋東地区では本町、平野屋町、丹波町、竹屋町、漁師町(魚屋)、職人町の六町内。橋西地区では、寺内町、新町、紺屋町の三町内であった。 当初は本町九町が地子銭免除の町に指定されていたが、その後堀上町が寛保三年(一七四三)の記録によると地子銭免除の町に追加されており、本町十町に改められている。 田辺城下町の成立について、旧語集に次の様に記されている。 「当城は細川藤孝侯縄張之由、中門より南東の方、円満寺村田畠也、西北の方、塩入の浪(築地のお蔵辺り)を築立、大手本町辺最初に築、平野屋町、本町角の家山本又左衛門と云者町家立初之由」 これに依ると、本町と平野屋町の角に城下で初めて山本又左衛門なる者の家が建てられたことが知れる。 又左衛門は、当時城下町の町人頭として町屋の形成に大いに貢献したため、藤孝侯より土地が与えられ、又左衛門はその謝恩として平野屋町(原田家の裏)に八幡宮を祭祀し、細川藤孝侯を合祀して祀る。 この社は今も同地にお祀りされている。 山本又左衛門の出身地について旧語集によると、「此所に初めて家を建し、山本又左衛門は、村上仙人の末子、生国は丹波山本也(綾部市梅迫)地侍(土着の武士)の由」とあり梅迫の出の人であることが判る。 ・本 町 前述の通り、城下で最初に開かれた町屋。 寺社町在旧記によると、日傭頭を始め藩のご用人足、両替屋、ローソク屋、堤灯、傘の製造、食料品の販売等々三十余種の業種が営業しており、同町はお城へ続く目抜き通りで参勤交代の通り道でもあった。 家数 五十三軒(享保十二年) 町長 東西一四八間(約二六九メートル) 道巾 三間(五・四五メートル) 〉 《舞鶴ふるさとのやしろ》 〈 舞鶴(田辺)城を初めて築城した細川幽斎をまつる神社があるーといっても、このことを知っている人は極めて少ない。平野屋通の原田運動具店と北側の超車場の間の細い路を入り、左に折れて本町通りへ抜ける人家の裏に、小さな祠がある。鳥居には「鎮守八幡宮」の額がかかっている。 西地区の旧家、土井市兵衛氏の所有で、棟札には「奉歓請、八幡大菩薩地主神、泰勝殿前兵部徹宗玄旨」と祭神が書かれ、玄旨とは細川藤孝(幽斎)のことである。同家の「八幡宮祠堂建立之記」には、幽斎が城下町をつくるとき、町人頭の山本左衛門に下賜した土地で、山本家はここに謝恩のため、八幡宮をまつり、幽斎公を合祀した。明治十年、土井家がこの付近の土地家屋を買い、火伏の神、秋葉神社を合祀した由来が書かれている。現在も毎年九月には、土井家がお祭りをしている。(「舞鶴市史編纂だより」の要約)。 平野屋通と本町通の交差点付近の商店の路地に細川幽斎を祭神とする八幡神社に秋葉神社を合祀した祠があり、棟札にはこの地ははじめ細川氏から町人頭山本又左衛門に下賜したところと記してある。地内に伝わる太神楽は氏神朝代神社(朝代所在)例祭の神輿巡行の3番目に供奉する由緒を持っている(角川地誌・平野屋)。 〉 本町の小字関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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