富室(ふむろ)
付:般若寺 |
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京都府舞鶴市富室 京都府加佐郡加佐町富室 |
富室の地誌《富室の概要》 富室は舞鶴市の西部。由良川左岸に位置する。由良川の支流富室川の流域。舞鶴側から行くなら志高の先、採石場の越した所の信号機のある交差点から北へ狭い道をはいるか、志高から西へ峠を越えて入る。村の中央に中津峠があり富室は普通は東側の集落・中村をいう、西側の集落は般若寺があってこちらは普通は般若寺と呼ばれている。 富室は、江戸期〜明治22年の村名。富室は明治22年〜現在の大字名。はじめは岡田中村、昭和30年加佐町、同32年からは舞鶴市の大字となる。 《人口》71《世帯数》28。 《主な社寺など》 曹洞宗恵光山般若寺 八幡神社 新枝神社 般若寺 曹洞宗慧光山般若寺は天和2年(1682)の丹後国寺社帳にその名がみえる。六ヵ村(富室・西方寺・河原・岡田由里・下漆原・下見谷)の檀那寺であった。 案内板 〈 慧光山 般若寺(曹洞宗) 開創年代 延宝八年(一六八〇) 本 尊 釈迦如来(座像) 伝法開山 華梁霊重大和尚(桂林寺十七世・「田辺府志」三巻を著す) 法地免許 貞亨三年(一六八六) 開基檀越 南部弥左衛門家 本 堂 文化十年(一八一三)・工事着手(一八〇七) 観音堂 文政十年(一八二七) 昭和五十五年(一二九八〇)再建 山 門 天保十五年(一八四四) 庫 裡 不明(本堂建築以前の本堂) 平成四年(一九九二)再建 開山堂 大正九年(一九二〇) 平成七年(一九九五)再建 当寺の前身は天台宗に属し、その間創年代も十世紀に遡ることが、現存する巻物「般若寺聖観世音記」(元禄十六年・一七〇三)により知れる。 「般若寺聖観世音記」に「般若寺の開基は恵心僧都なり、本尊の釈迦如来は恵心僧都の作にして云々」の一節あり。 恵心僧都(九二四〜一〇一七)は天台宗の高僧なれば、当初は天台宗に属し、場所もこの地より南方二〇〇米余りの「フルボ」(古坊か?)の谷に位置せしものか。時移り、隠山普月和尚(当寺二世・華梁霊重大和尚の弟子)が衰微せしこの寺の再興を発願し、土地の郷士・南部弥左衛門家の後援を得てこれを成就す。爾来三〇〇余年なり。 加佐郡三十三所霊場 第二十一番 般若寺聖観世音菩薩のご詠歌 心なきふしいのとこに夢さめて 谷に般若の声をきくらむ 平成十年八月吉日 岡田中むらつくり委員会・ふるさと再発見キャンペーン 〉 『ふるさと・岡田中』 〈 曹洞宗慧光山般若寺(富室) 慧光山般若寺は慧心僧都の開基であると伝えられている。比叡山延暦寺良源伝教大師より十八代目座主慈慧大師の教えを受けた慧心僧都は、平安時代の末期学徳一世に高く各種の著書を残し、中国においては、皇帝の帰依を得たほどの高僧である。慧心僧都は比叡山横川慧心院にいたので、慧心僧都といい、俗姓卜部氏、名を源心という。 現在の寺の下手、南方約二百メートルの所に古坊と呼ばれる谷があり、そこにはかなりの規模の石垣跡があり、この地に寺院を開基したと伝えられている。当時は天台宗で、本尊は慧心自作の釈迦像を安置した。これが般若寺の元の位置であり、元寺である。 草創以来三百年、変遷あってついに衰微してしまった。隠山普月禅師が当地を訪れた時、廃寺同様の当寺を見て、由緒のある般若寺の再興を決意し、元禄癸未七月九日、当地に移り住んだ。時の大庄屋南部豊後守の後裔南部弥左衛門慈光と図り、同氏の後援を得て精美な伽藍を作り当寺を再建した。 加佐郡誌によると、当山は曹洞宗の禅刹であり、応永八(一四○一)年開創の桂林寺(舞鶴市紺屋町六九)の末寺に当たり、四門主の一つである。般若寺の開創年代は延宝八(一六八○)年で、初代には隠山和尚の師である桂林寺十七世霊重大和尚をすえ、隠山和尚は当寺の二世として住職となると記されている。 隠山普月大和尚は、桂林寺華梁霊重大和尚の高弟で生国は不明であるが、師である霊重大和尚が播州の生まれで、豊岡の帯雲寺より桂林寺に移っていることと、隠山和尚自身が隠栖の地として出石を選んでいることの二点を考え合わせるとき、出生の地はおそらく但馬と思われる。 このように般若寺は田辺藩の禅刹の支院であって、十七世華梁霊重大和尚まで開法の道場であった。そして、その嗣隠山和尚の手によって中興が成り、それ以来、百年余を経て堂宇の朽廃甚だしくなり、文化元(一八○四)年甲子六月十八日、檀家に造営を図ったところ、境内が狭隘であるので縦十間余、横二間余、周囲三十間余の石垣を組み、境内を広げる一方、これまで建物全体が西向きであった本堂・庫裡等を南向きに再建することになった。その棟札によると、 表 文化十年、城主 牧野豊前守以成公、 奉再建 客殿・庫裡 癸酉三月二十八日 現住九世即道、大庄屋 西方寺村 上野弥市良 他庄屋年寄 文政十年 十世和尚により裡堂(観音堂) 天保十五年 十一世和尚により山門 大正九年 十七世和尚により開山堂 昭和廿六年 太平洋戦争時供出した焚鐘再建 昭和五十三年 東堂新築 昭和五十四年 普山式 十九世 正応英俊(現) 昭和五十五年 観音堂再建 昭和五十六年 消火設備完成 水槽消火栓等 昭和五十八年 本堂屋根葺替 など連年、大事業を遂行し、現在の威容に整えた。 歴代住職 (住職名) (没立年月日) 伝法 華梁霊重 享保一二・ 五・ 七(一七二七) 二世 中興隠山普月 享保二○・ 三・ 九(一七三五) −略− 附記一 般若寺二世隠山普月和尚は剛毅の僧で次のような話が残っている。 田辺藩主二代目牧野英成公治世のころ、藩内各寺院の住職に召集がかかった。十二月八日は僧侶にとって大変重要な釈迦尊の式道会法要の日であった。普月和尚日く「いかに藩命といえども甚だ不当である、僧侶にとって法要こそ第一である」と登城を拒否したので、和尚は詰問を受けたが、どこまでも藩の不当を主張して譲らなかった。 また、駕籠に乗って桂林寺へ上山の途上、藩公のお駕籠と出会っても下りることもせず、そのまますれ違ったことあり、藩公「般若寺の和尚か、そのまま捨ておけ」と、特別おとがめもなかった。 なおまた、江戸時代の寺院は、藩政の一種の出先機関としての機能を持っていた。桂林寺は丹後一円の曹洞宗の寺院百数か寺の統括寺院であり、京極家の宮津藩転封に伴って智源寺が建立された後も、末寺三十七か寺を持つ中枢寺院として、特別藩政との関わりが深かった。それ故に霊重和尚の後継者として桂林寺に住わなくてはならない立場にあった普月和尚は、気骨のある人であり、藩の要職にある家臣達から心よく思われていないと慮り、自分が桂林寺にいては藩との間もうまくいかないであろうし、ひいては末寺全体にも迷惑をかけることになると、由良の松原寺より香那叶連和尚を桂林寺の十八世として迎えた。そして兄弟子の自分(普月和尚)が般若寺にいたのでは何かと遠慮があることであろうと、般若寺を退山し、出石に向かったのは正徳二(一七一二)年であった。 兵庫県出石郡但東町唐川にある禅定寺は般若寺の末寺であって、現在では同町吉祥寺の住職に兼務してもらっている。桂林寺の末寺にはこの禅定寺から住持された僧侶が数多くあり、後の世に至るまで隠然たる力を持っていたことが分かる。すなわち、桂林寺第十九世普頑大和尚(般若寺三世)は普月和尚の弟子であって、後年禅定寺に隠居している。その他桂林寺廿一世、三十世、般若寺五世、八世の和尚も禅定寺の世代の中に見られる。 けれども、昭和六十年代の今日、建物等は跡形もなく、禅定寺の名前だけを残し、無縁塔や世代の墓碑、二百メートル余の幅広い通路がわずかに住時を偲ばせている。檀家は普月和尚に供をし、出石の地に永住をした山崎三助という人の末裔三戸のみで、如実に栄枯盛衰を物語っている。 附記二 聖観音像(般若寺縁起より) 丹後国中にも三十三ケ所霊場を定め般若寺第一寺なり。 祖峯禅師此寺に因縁ありて、行脚の亭に留りて宗論す。名藍あり信心の男女歩を運びたるも、未だ観音像なく之を歎く。洛西普門寺の住侍?渓禅師是非を聞きて、聖徳太子真作の長さ一尺五寸の観音立像を寄附す。此僧は寛文年中(西暦一六六一〜一六七三)に洛陽の居士本緒浄空居士仏門に帰依して、圓通大師を信心して怠らず、一日伏見の里に行く道にて、老法師に逢い、法師居士に向ひ汝に観音の像を与えん、聖徳太子刻み給える所なり、信々拝すべし、居士安座して法師を怪しく思い、包みたる絹を開けば此像光明を放って有如何なる由緒有給ふやと、言わんとして仰ぎ見るに法師は行方知れず、居士正しく正身の太子なりと虚空を拝して戴き帰りぬ。扨梵檀に移し拝礼せんとする。 何国にて失ひけん相落ちて無し。驚き悲しみて引返したるに、法師に逢った所の藤中にあり、いとゞ貴い事かなと帰り、全体具足し奉る。居士ツラツラ思ふに、我先に心の中に眼中に玉を入れ補ひ奉りたく思えど、太子刻み給ふに凡手加えん事恐れ多き事と思いたれど、太子にうかがいければ玉眼にすべき由と出たり、頓て玉を以て補い奉り且夕礼拝常に仏国住生を願奉る。元禄三(一六九○)年七十二歳にて終わる。 居士に男子あり幼少より沙門となり、実元沙弥と云。彼仏像を附言のまゝ普門寺へ寄附浄空菩薩の為に、住時謝し奉る事数年なり。 普門寺安置の本尊運法彫刻赤旋檀大悲の像なり。此像まします事長物成に似たり、般若寺に本尊なければ何事か是に如かん。浄空居士の冥福増長を祈らんに彼方こそ勝れんと祖峯禅老に投施す。禅老禅躍頂戴して、般若寺に奉り巡礼堂本尊と崇む。 般若寺巡礼歌 心なき ふすいの床に 夢さめて 谷に般若の 声や聞くらん 曹洞宗慧光山般若寺 山門棟札 天保十五甲辰星 田辺城主牧野河内守源節成公治世 大日本国北陸道丹後洲伽佐郡岡田富室之邑、慧光山般若寺 現住十一世 量山欽誌 大庄屋他庄屋、年寄、大工 附記三 戦後三十年、般若寺住職は大勢の訪問を受けた。それはかって戦争中、当寺に疎開で来ていた児童の成人した姿であった。みんな手を取り合って再会を喜び、思い出を語った。尽きない思い出にも時は容赦なく過ぎて、やがて別れがやってきた。幾度も振り返り、手を振るかつての学童に住職は涙ぐみいつまでも手を振った。 爆撃頻々二十春 学童遠去夢親々 豈知敵国敵将窟 終戦皈還拝紫宸 終戦以来三十年 学童再会悦希縁 千朽万才祝無事 雨惜皈心般若嶺 十八世 智馨徳芳 〉 《交通》 《産業》 富室の主な歴史記録《丹後国加佐郡寺社町在旧起》 〈 富室村 恵光山般若寺曹洞の禅 桂林寺末寺 知識なり 八幡社あり 〉 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 定免八ツ八分 冨室村 高百四拾石壱斗七升三合 内弐石弐斗五升七勺 万定引 四石御用捨高 八幡宮 富室 般若寺 谷ノ氏神 般若寺 慧光山 桂林寺末 和尚寺四ヶ寺ノ内也 富室 西方寺 河原 由里 下漆原 下見谷 六ヶ村ノ寺 開山恵心僧都 本尊釈迦如来 観音縁起 丹後国中ニモ三十三所霊場ヲ定般若寺モ其一寺也 然共観音大士ノ尊像未無之去共名監(ママ)成ヲ慕上信心ノ 男女歩ヲ運フ 爰ニ祖峯禅者此寺ニ因縁有テ行脚ノ 序ニ暫ク掛錫ス 此寺ニ大士ノ無キヲ思嘆ス 洛西 普門寺ノ住職為溪禅師聞之聖徳太子ノ裏作ノ長一尺 二寸ノ大士立像ヲ寄附ス 此像ハ元来寛文年中ニ洛 陽ノ居士本然浄空ト云人仏門ニ皈依シ殊ニ円通大士 ヲ信シ不怠一日伏見ノ里ニ往キ帰ル道ニ老法師ニ逢 法師居士ニ向テ我観音ノ像ヲ与ヘン聖徳太子ノ刻給 ヘル所也信拝有へシト 居士終ニ見ヘス怪ク思フ内 包ヌル絹ヲ披ケハ尊像光明ヲ放給フ 如何成由結(緒カ)有 テ我ニ授給フヤト云ントスルニ法師忽然ト行方不知 居士渇仰信拝シ正敷正身ノ大士現シ絵フト難有猶虚 空ヲ再拝シ抱帰リヌ 焚檀ニ移シ拝膽スルニ何所ニ テ失ヒケン頂相落テ無シ 大ニ驚キ斯ル感応ニ逢シ 身ノ如何成宿業有ルニヤト悲ミ過来ル道ニ尋行テ覓 ム法師ニ逢タル所ノ叢中ニ頂相有イトト貴ク急キ帰 リ全体具足シ奉リヌ 居士ツラツラ思フニ我先ニ眼 中ニ玉ヲ入レ補ヒ奉ラハト心中ニ密ニ思ヘリ 然トモ 大子ノ御作ナルニ凡手加ン事恐レ思ヒシ大士ハ疾ク 知シ召シ頂相落給フカ是非計リ難シ 敬テ御鬮ヲ窺 ントテ御鬮ヲ決シケレハ玉眼ニ為スヘキ告ヲ得タリ 頓テ玉ヲ以補ヒ奉リケレハ猶如生旦夕礼拝常ニ仏土 往生奉願元禄三年七十二才ニテ終リヌ 居士若カリ シ時ノ男子有是モ幼年ヨリ沙門ト成実元沙弥ト云 彼像ヲ附属シ三年過テ彼像ヲ普門寺ニ寄附シ浄空菩 提ノ為ニス住持諾シ奉事数年也 普門寺ノ本尊ハ運 法カ彫刻赤梅檀ノ大悲ノ像也 又此像御坐ス事重物 成ニ似タリ幸ニ般若寺ニ尊像無ケレハ猶浄空居士ノ 杲位増長ヲ祈ンニ彼方コソ勝レント 祖峯禅者ニ投 施ス禅者喜躍頂載般若寺ニ奉リ順礼堂ノ本尊卜崇ム 一方福ヲ植ルノ場卜ナシ侍ル 元禄十六林鐘十八日 沙門艮以敬?于洛西長遠禅者 〉 《丹哥府志》 〈 ◎富室村(志高村より西へ入る) 【八幡宮】 【恵光山般若寺】(曹洞宗) 恵光山般若寺は恵心僧都の開基なり、本尊釈迦如来は即ち恵心僧都の作なりといふ。 【付録】(新枝宮、荒神、山神) 〉 《加佐郡誌》 〈 岡田由里、富室、西方寺、河原の四ケ字は中古猪熊村を成していたものである。)、159(応徳元年久田美村の城主村上陸奥守岡田庄を配して、猪熊村、熊之美(見)村とし、猪熊村は又字由里、西方寺、富室、漆原の四字に分ち、熊之美村は地頭、大俣、高津江の三字に分った。所が寛治元年に改めて、由里村、富室村、西方河原村、下漆原村、上漆原村の五箇村を以て猪熊村を配する事とした。そして後更に仁治元年西方寺村の内字河原、下見谷、寺尾を以て河原村と称し、一村を配する様にしたのである。 〉 伝説など 《舞鶴の民話5》 〈 富室のあたり (岡田中) 岡田川と由良川の合流点に、東川から流れこむ谷川の最奥に散在する集落が、富室である。 室というのは、三方が壁で一方に出入口があるものをいう。富室は三方山に囲まれ、由良に通じる道が出入口になっている。毎年のようにやってくる岡田川、由良川の出水にも安全な地帯である。深田、中津名、両星など肥沢な水田に恵まれ、人々は稲作に勢を出していた。 昔は湿田も好都合で富み栄える村で、富室と名をつけたものだろうか。 中村には、貝形、加居等の名があり、由良下市の国道横にらん岩(子生名)と呼ばれる水成岩があるが、この地にも多くの貝がらの化石がみつけ出される。志高との境、間峠にはイガミという地名があるが、この地も多くの貝がらの化石がみられるのでこの名がついた。 冨室と下漆原が出会う近くを六良という。源平の争いがしれつだったころのことであろう。源頼朝が伊豆に兵をあげたが敗れた。 木曽義仲が木曽から兵をあげ平家をやぶり、京に上がったが、兵たちがぬすみをし、女をなかし都の治安が乱れたことにより、後白河法皇が頼朝に義仲追討の院宣を下された。源氏同士の戦となった。源氏の勇者亀井六良が傷ついてこの地にたどりつき、野に下ったと伝わる。 この勇者が村のため畑をひらき、水をひき、豊かで平和にしたことから、村の字名を六良と名付けた。亀井一族はこの地で野に下り、百姓となった。富室に亀井の姓が多いのは、そのためである。 〉 富室の小字富室 小蔦 六郎 中村 西谷 イガミ 西ノ前 間峠 板迫 猪ノ鼻 壇 田尻 深田 中津倉 両星 岸本 古坊 宮ノ奥 小滝 野谷 朽深田 般若寺境 伝右衛門畑 《ふるさと・岡田中》 〈 富室 富室 室というのは三方が壁で、出入口を有する室をいう。富室は三方山に囲われ、由里に通じる道が出入口になっている。岡田川、由良川の出水にも安全な地帯で、深田、中津倉、両星等、肥沃な水田に恵まれ、人力で稲作をした昔は湿田も好都合、洵に富み栄える村で、富室はその名の通り富室と名付けられた。 中村には貝形、加居等の地名がある。由里下市の国道横に礫岩(子生石)と呼ばれる水成岩があるが、この地も多くの貝殻等が露出していたので、このような名称がついたと思われる。志高との境、間峠にはイガミという地名もあるが、昔の断層が地表に出てきて、その層の起伏から名付けたものであろう。真奥を野谷といい、共有山の性格が強く野山として長い間柴草を刈り取った山地である。 般若寺は昔、岸本と言ったが、寺の創建から般若寺といわれるようになった。古寺のあったところを古坊と言っている。 富室と下漆原が出合う近くを、六良という。源平の争いが熾烈であったころ、源氏の勇者亀井六良、傷ついてこの地に辿り着いて野に下ったと伝えられ、この人名が六良と地名になったのである。その後、亀井の一族はまた永く富室に止まったので富室にはその姓が多い。 八幡神社の前を宮の前、その奥を宮の奥といい、滝のある所を小滝という。それから野谷に続いている。 〉 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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