丹後の地名

二俣(ふたまた)
福知山市大江町


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京都府福知山市大江町二俣

京都府加佐郡大江町二俣

京都府加佐郡河守上村二俣

二俣の概要




《二俣の概要》

宮川の中流域に位置する。並行して主要地方道綾部大江宮津線(宮津街道)が走り、北部で府道二俣三河線を東へ分岐。自治会は1〜3区に分かれている。二俣村は江戸期〜明治22年の村名。天正8年細川藤孝・忠興領、慶長6年からは宮津藩領。
文政5年宮津藩全藩の惣百姓一揆で当村庄屋武左衛門宅が打毀にあった。同22年河守上村の大字となる。同28年福宮バスが福知山から普甲峠を経て宮津まで開通した。
二俣村は江戸期〜明治22年の村名。二俣は明治22年〜現在の大字名。はじめ河守上村、昭和26年からは加佐郡大江町の大字、平成18年からは福知山市大江町の大字。

《二俣の人口・世帯数》375・100

《主な社寺など》
鎮守は八幡神社
向山神社
稲荷神社
猿田彦神社
愛宕神社
岡神社
河田神社
承応3年開基の曹洞宗本禅寺
美鈴小学校

《交通》
府道綾部大江宮津線
KTR「二俣」駅
和紙伝承館(二俣)
《産業》
北原村、高津江村とともに和紙製造が盛んで、明治以降も大江山鬼障子紙として京阪方面に出荷された。
現在は「大江町和紙伝承館」がある。希望すれば和紙を作らせてももらえるそうである。
手仕事で丁寧に丁寧に作られるので、今の時代にはもったいないような上質すぎる紙、「安けりゃいい」の風潮に流されて、多くが生き残るのはかなり困難かも−。


二俣の主な歴史記録


《丹哥府志》
 〈 ◎二俣村(天田内村の次、宮津街道)
【慶聚山本禅寺】(曹洞宗)
 【付録】(八幡宮、観音堂、立会社、稲荷社、愛宕社、荒神)  〉 

《大江町風土記2》
 〈 お宮の引越し
俊明校の校門からまっすぐ上ったところに八幡さんがあります。そこには元猿田彦神社(立合さん)と外宮のニノ宮さんとがまつってありました。そこへ河田株の人達が河田谷へやってきました。そして自分達の氏神として八幡さんをまつったのです。ところが八幡さんはお参りも多く繁昌するのて二人の神さんは腹が立ってきたのです。それで猿田彦の神は川の向うの山すそへ、二ノ宮さんは外宮さんの下へ引越しされたということです。  (あるおじいさんのはなし)

これはお宮さんがけんか別れしたのではなく、あとからきて八幡さんをまつった河田氏がだんだん勢力ができてきて、前から住んでいた人たちが衰えてきたことを示すものでしょう。このようにお宮は昔の人たちの生活の中心になっていました。それで後の方になると時にはお宮のとりあいもおこりました。

楠木屋
私の家の屋号を楠木屋といい、家の庭に楠木さんというほこらがまつってあります。これは頼光さんが大江山の鬼たいじに来られたとき、家の人と、となりの人が道あんないをしたので、そのときもらったものだといいつたえられています。そのころにはこのあたりには二軒だけしか家がなかったそうです。そのとき道あんないをしたお礼に何かやりたいが.何もないのでこの木の株をあげようといわれたので、持って帰って大切にしておいたのだそうです。そしたらだんだん石のようになってきました。それが楠木さんにまつってあるのです。おまつりは八月十五日ですが、二月の節分には丹波の方からお参りしてん人もあります。(俊明小4 馬谷ひふみ)  〉 

猿田彦神社はKTR「二俣」駅の裏山にあり、二宮神社は外宮の近くにある。

二俣の小字


二俣(フタマタ) 向山 丁河原 寺谷 馬谷 河田



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『大江町誌』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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