猪蔵神社(いのくらじんじゃ)
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京都府舞鶴市西方寺 京都府加佐郡加佐町西方寺 |
猪藏神社の概要《猪蔵神社の概要》 由良川左岸に流れ込む支流・岡田川の中流域。岡田中小学校(休校中)があるが、その隣の少し小高い所で「出舟陵」と呼ばれている所である。丹後風土記残欠の「伍藏社」。「室尾山観音寺神名帳」の「正三位猪鞍明神」とされる。 イノクラという所はあちこちに見られるが何のことであろうか。「水の湧く鉄の谷」かも知れない。「猪藏一宮大明神」の神額が架かっている。 縁起の伝えるところによれば、天武天皇白鳳元年(「白鳳」という元号はなく、白雉のことといわれる。よく神社などの縁起に見られる私年号。白雉元年とすれば650年だがそれは孝徳天皇の時代)。江州粟津が原で合戦の時、武勇の神・香取大宮、鹿嶋大宮の両宮より、当地に歓請したある。 「江州粟津が原の合戦」は滋賀県大津市の瀬田橋の近くで、壬申の乱時の最後の決戦・「瀬田橋の戦い」(672年・7・22)のことを指していると思われる。壬申の乱といえば、高市皇子が志楽の阿良須神社に来られたとの伝承もある。 忍壁皇子の奏上により一宮の名を賜ったという。忍壁皇子(刑部皇子)は乱の最初から天武とともにあった。猪蔵神社が「一の宮」で、西飼神社(地頭)が「二の宮」である。(さらに高津江が三宮で、河守が四宮という) もとからこの地にあったのではなく、もう少し川上の岡田川と平川との合流点にあったという。1160年8月の洪水で流されて、1162年に現在の出舟山に再建されたという。境内には神泉があり「舟陵の霊水」と呼んでいる。 境内社に三宅神社があるのも興味深い。忍壁皇子の話と何か関係があるのかもー。 猪蔵神社の主な歴史記録《丹後国加佐郡寺社町在旧起》 〈 西方寺 猪蔵一宮大明神 河原下見谷大峯八大今剛童子 村中氏神に仰ぎ奉る 夷堂あり 〉 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 西方寺村 高弐百五拾九石三斗壱升三台 内弐石壱斗三合三勺 万定引 六石御用捨高 猪倉一ノ宮明神 西方寺村 河原村 ノ氏神 〉 《丹哥府志》 〈 ◎西方寺村(下見谷村の北、是より由良村へ出る) 【猪蔵明神】 【桂宮明神】 【付録】(荒神、山王社、八幡宮、観音堂、地蔵堂) ○平村(西方寺村の枝郷、是より与謝郡今福村へ出る) 〉 《加佐郡誌》 〈 祭神 経津主尊 武甕槌尊 由緒 天武天皇白鳳元年江州粟津原で合戦の時武勇の神下総国香取郡香取大宮、常陸国鹿島郡鹿島大宮の両殿から当地野田の向ひ出舟ケ陵に勧請し速に震襟を安んじ奉らんことを立願した。尋て忍壁皇子の奏上によって一宮神社の名を賜ったと云う。 長治二年酉六月天火の為に社殿は焼失した。其時御神体は境内の大槻の枝に懸けて避け給ふたと伝られる。嘉承元戌年夏再建した。其他の伝来は詳かではない。 本社境内に神泉がある。水面麗鏡の様で四時増減することがない。世俗に舟陵の霊水と称ふ。 境内神社 大川神社(祭神 五元神) 三宅神社(祭神 火武主比神 (素盞鳴尊 稲蒼魂命) 〉 「舞鶴市内神社資料集」(渡辺祐次編)所収の(神社調査書) 〈 京都府加佐郡岡田中村大字西方寺小字出舩陵鎮座 一 村社 猪蔵神社 祭神 経津主尊 武甕槌尊 二柱 由緒 天武天皇白鳳元年江?粟津原ニテ合戦ノ時武勇ノ神下総国香取郡香取大社常陸国鹿嶋郡鹿嶋大神此ノ両殿ヨリ当地野田野ノ向ヒ出舩ケ陵ニ勧請シ速ニ宸襟ヲ安ンジ奉ランコトヲ立願スト ??忍壁王子ノ奏上ニ因リ一宮大明神ノ号ヲ賜リタリト云フ 長治二年酉年天火?祠宇焼失セリ其時神体ハ境内ノ大槻ノ枝ニ掛リ避ケ給ヒタリト云フ 嘉永元年戌?再建其後亦元文五年申六月再々建現存ス 本社境内ニ神泉アリ其清キコト麗鏡ノ如ク四時増減スルコトナシ世俗是ヲ称シテ舟陵ノ霊水ナリト賞セリ 皇室及武将トノ関係ナシト雖モ地方トノ関係ニ至リテハ近郷ニテハ最モ崇敬厚ナリ古来ヨリ維新前迄ハ本社一ノ宮ト称シ字地頭ノ氏神ヲ二ノ宮字高津江ノ氏神ヲ三ノ宮字河守ノ氏神ヲ四ノ宮ト称シ来リ 社格ハ明治五年豊岡県ヨリ村社ニ指定セラレタリ 明治四十五年六月七日京都府告?第二百??号ヲ以テ幣帛供進及会計法適用ノ指定ヲ受ケタリ 大正二年十月京都府名建札建設許可アリ 例祭 十月九日 特別祭日ハ鹿島九月一日 香取四月十四日 両神宮ノ祭日ニ倣フ 特殊ナル神事 毎年例祭ノ当日ハ近村青年者角力ヲ興業ス 亦三年ニ一度秋ノ彼岸ニ於テ府社大川神社ノ祭礼ト同時ニ氏子各字左ノ如キ?込ヲ棒呈ス字西方寺ヨリハ徳川時代ノ大名行列ヲ模シタルモノ即チ大鳥毛大小羽熊鎗其他建道具等数組大太鼓ハ十歳前後ノ男子数人衣服ヲ揃テ之ヲ?ク 字河原字下見谷ヨリハ篠踊リ振物等ヲ捧ケ 字岡田由里ヨリハ??略ズ西方寺同様ノ大名行列ヲ為ス 〉 《ふるさと岡田中》 〈 猪蔵神社 猪蔵神社は舞鶴市字西方寺出船陵に鎮座する。天武天皇白鳳元(673)年、江州粟津が原の合戦の時、武勇の神下総国香取郡香取大宮、常陸国鹿嶋郡鹿嶋大宮の両宮より、当地に勧請し、速に国家の平安宸襟を安じ奉らんと立願する。忍壁王子の奏上により一宮大明神の称号を賜ったという。 長治二酉(1105)年六月、天火によって祠宇焼失したが、御神体は逸早く境内の大槻の枝に難を避け給うた。折柄比翼の白鳩が大空より舞い降りて、御神体に寄り添って守護したという。 社殿は翌年嘉承元(1106)年夏再建された。その後、永暦元(1160)年八月一三日、暴風雨となり、社は岡田川と平川の合流点にあり、洪水のため流出し置田河原に止まったと記録されている。当時小嶋家別家内記という者、廻国を終え帰国中にて、廻暦中は宮島等の経験もあり、特に神事に厚く百方奔走して、応保二(1162)年出舟山に社殿を建立した。境内には神泉あり、水清く麗鏡の如く四季増減なく、世俗これを舟陵の霊水という。年を経て社殿の痛み甚しく元文五(1740)年再々建し、文政二(1819)年より五年に石積みを完成、同十一年赤鳥井を再建、舞堂は天保年間、郷倉は文政(1820)年間、拝殿は明治四十五年に創建され現在に至る。 この社は近郷では最も古く一の宮と称し民草の崇敬篤く、西飼の社を二の宮、高津江の社を三の宮・河守の社を四の宮と称し、豊岡県より村社に指定、明治四十五年京都府令第四八九四号を以って幣帛供進の指定を受け、大正二年神社名建設許可があり、標柱、石鳥井等建立する。 境内社として大川神社・三宅神社あり、三宅社には荒神社と祇園社・稲荷神社がある。昭和四十年字内の六社を迎えることになり、山王神社・愛宕神社・秋葉神社・妙見宮・八幡神社の五社を一宇に分祀、稲荷神社は三宅社の稲荷社に合祀した。 春は四月十日、秋は十月九日を例祭日とし、春秋共に村長の幣帛供進、宮司の祝詞奏上が神代ながらの雅楽を奏じて行われ、春は大酒宴の宮講が行われた。秋は徳川時代の大名行列玄関振りが笛太鼓で賑やかに練り込み、下見谷・河原が氏子として参加していた当時は太鼓踊りも奉納され、角力は昭和中頃まで行われた。 〉 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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