伊佐津(いさづ)
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京都府舞鶴市伊佐津 京都府加佐郡中筋村伊佐津 |
伊佐津の地誌《伊佐津の概要》 伊佐津は西舞鶴の中央部。JR西舞鶴駅の付近である。駅やその西側も伊佐津だが、主に東側の伊佐津川までの地域である。 地名の由来は、京極高知の時、池内・真倉両川尻が改修、合流されたが、新しい伊佐津川を東の境谷村の中を貫流させたため川の西岸に新しい耕地ができ、境谷村から分村し、これを伊佐津村と名付けたという。 ナニでもカニでも江戸時代としたがるが、伊佐とか津とかもっともっと古い地名であろう。このあたりはサ=新羅村といい、その川口に湊があったのであろう。 江戸期の物産に紙類9、800束があり、諸国へ出荷され、農間に紙漉を営んだという。明治以来製糸会社があったが、大型スーパーや商店、住宅や府・市営住宅などで宅地開発が進んでいる地である。 伊佐津村は江戸期〜明治22年の村名。同22年中筋村の大字となる。昭和11年舞鶴町、同13年からは舞鶴市の大字となる。 《人口》1262《世帯数》471 《主な社寺など》 氏神は公文名村の笠水神社 三柱神社(淡嶋神社) 鎌風呂神社 北野神社 《交通》 《産業》 伊佐津の主な歴史記録《丹後国加佐郡寺社町在旧起》 〈 越前国より高橋又兵衛と云う者来る、紙を濂退散して後(採算がとれず)又同国より三人来る紙を濂き今の紙すきこの者共の子孫成るなり。三宝荒神の宮あり。 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 伊佐津村 高四百十二石一斗六升 内拾五石四斗二合五勺 万定引 二十石御用捨高 サイフク庵 諸宗無差別持ツ 三宝荒神 村の西田ノ中森ノ内ニ有リ 当村は紙漉と百性入交り大村也 古来堺村之内也後に分れしなり 細川藤孝公御代越前国より紙漉呼寄らる今紙屋嘉左衛門先祖也 其後市郎兵衛といふ者来其頃ハ大内町に住す 伊佐津村江移由六十年以前 今百弐十三年以前 迄川東観音被祈土手の下り口に小き流れあり 紙漉弐三軒有之此者共但馬豊岡より来りし由 洪水に堤切其後何方へ行しか家なし 村の南方に女夫柳とてあり其辺ハ不耕よし子細ハしらす 小野木縫殿介合戦之時水道を留んとする百性出て防之武者一騎乗掛たり村之者熊手を掛引落討取たり 褒美として苗字を乗掛と給る今の次郎兵衛といふ者の先祖の由 〉 《丹哥府志》 〈 ◎伊佐津村(七日市村の次) 【三宝荒神】 〉 《加佐郡誌》 〈 伊佐津は大内郷に属した所で古くは境谷の一部であったが、何時の間にか人家稠密となって分離した。今は百姓と紙すき人と入交った村である。当字の紙すきの入来ったのは細川幽斎の越前五ケ荘村から呼び寄せられたのが始めである。当村は川端嘉左衛門の先祖のみであったさうである。其後六十年許を経て市兵衛といふものが大内町から更に移住して来て川東観音へ行く土居の下り口に二三軒に分れて家を構へた(此者共は但馬の豊岡から来た者との事)が今は其処に家は無い。それは洪水で堤防の切れてから退いたのであるといはれている。 〉 『中筋のむかしと今』 〈 伊佐津 狐狸の鳴く里・伊佐津 伊佐津は地名のとおり、船着き場・渡し場などの意味から、舞鶴湾の一部であったらしい。 言い伝えによると、大昔は村の中を琴川という川が流れ、辺り一帯に葦が生い茂って、夜には狐や狸の鳴き声がしきりに聞かれたという。またこの辺りを琴川と呼んでいたそうだ。 金加家の記録によれば「先祖は佐風ヶ獄の城より降り、帰農したる者にして、当時は七戸の村なりしが……」とあり、人家も少ない淋しい村であったことが伺い知れる。 田辺城築城の際、伊佐津川の瀬替えによって、境谷村は分断され広い耕地と民家が河道敷きに没収され、面積でも伊佐津村と境谷村は逆転したのである。その頃、西岸を伊佐津村、東岸を境谷村と名付けたという。因みに町内の南東部には分断された境谷村の一部が残っている。 また加佐郡誌によれば「伊佐津村は大内郷に属し、古くは境谷村の一部なりしが、何時の頃からか人家調密となり分離せり」と記録されている。 いま手元の資料から、伊佐津村の戸数の推移を見てみると、 天保の頃(一六四四〜四六) 本百姓一二軒 延享三年(一七四六) 農家戸数六五戸 文政八年(一八二五) 本百姓三○戸 水呑 二七戸 紙漉 四五戸、とある。 文政八年の戸数の中には、多分農家が重複していると思われるが、伊佐津は和紙作りが築城後盛んに行われ、城下で最も多くの紙を生産していたらしい。その後明治に入り養蚕が栄え、転業していった。 明治二十二年の村町制公布により、中筋村字伊佐津、同字境谷が誕生した。 また明治六年に作られた伊佐津村見取図を見ると、堤防上に小字名を「堤防屋敷」とした一二軒分の屋敷が地番とともに記録されている。おそらくこれは瀬替えの時、河道敷にあった民家の代替え地として造成されたものと考えられるが、同十八年の見取図にはこれが無くなっている。相次ぐ増水や決壊で取り壊されたのであろう。昭和の初めの頃まで、この屋敷の一番南端に当たる部分に、それらしき跡と竹薮があったが、現在では何も残っていない。 お水道(静渓川) 町内の中央部には、真名井の泉からほぼ直線状に「お水道」が北に向かって流れている。田辺城へご料水を引くために造られたという。この川には一切の汚水も排水も流れ込まないよう工夫されている。伊佐津村見取図を見ると上流から下流まで両岸に幅二尺(約六○センチ)程の小路と、更にその両側に同幅位の小川が切れ目なく設けられている。 明治の頃は川の要所要所に「水守」「立ちん坊」がいて、洗い物を厳しく見張っていたそうだ。村民は飲み水以外一切利用できなかったという。 昭和の初め河川改修が行われ、自然石の石積護岸からコンクリートの擁壁に改められた。いま集落地では暗渠となり、上は歩道敷きに変わって当時の面影を見ることができなくなった。一時期、川の掃除を青年団が引受け、村からの手当を団の資金に充てていた時代があった。 「きれいな川には魚が棲まい」というが、たまに見かける魚は、水が冷たいせいか色が青黒くやせ細っていた。… 昭和の大変貌 伊佐津は大正末期から昭和にかけて大きく変貌した。すなわち郡是工場の進出を始めとし、軍需の拡大による工員宿舎の大量建設、工廠造兵部の開廠に伴う引込み線の敷設、朝鮮学校、駅宿舎、縄工場などの新設、また境谷地区においては天神社、仁寿寺、共同墓地などの強制移転による移転先の受け入れなど。これらの建設と併せ各地区共に住宅化が進み、伊佐津の耕地のほとんどを失うこととなったが、今後は市街地、住宅地として近い将来繁栄して行くことだろう。 いま伊佐津の世帯数約四二○、人口一、三○○というマンモス町内へと大変貌を遂げたのである。 [水嶋正雄] 〉 伊佐津の小字伊佐津 鎌風呂 ナルト ミゾクロ東 大内上 大長瀬 溝黒 ミゾクロ西 猪馬場 菰池 コモイケ西 深田 イノババ東 コモイケ東 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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