石浦(いしうら)
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京都府宮津市石浦 京都府加佐郡由良村石浦 |
石浦の概要《石浦の概要》 舞鶴側から行くなら和江の先、由良の手前のミカン畑の中の集落である。後に由良ヶ嶽(640m)、西は由良川(その河口近く)になる。 また当地は山椒太夫の伝説地で、舞鶴市和江と接するあたりには「山椒太夫屋敷跡」の碑があり、付近には土器を伴う弥生後期の遺跡や横穴式古墳もある。 石浦村は、江戸期〜明治22年の村名。丹後国加佐郡のうちである。由良村の枝郷で元和10年に分村したという。「石浦村ハ元来由良村之内由、元和十甲年村分レ之由聞伝候」(井上金次郎家所蔵文書)とあるという。田辺藩領。 石浦は、明治22年〜現在の大字名。はじめ由良村、昭和31年からは宮津市の大字。 山椒太夫屋敷跡 ↑今の舞鶴と宮津の境目付近である。小地名に「三庄太夫」、また少し以前までは「山庄太夫」と呼ばれる屋敷もあったという。子供同士で、そこの子を「おおい、三庄大夫」と呼ぶと「何じゃ」と返事しとりましたで、はて今はどうしていることか。という。山椒太夫は何もそんなにはるか遠い過去の話ではないようである。由良ヶ嶽が由良川に張り出してきた、ちょっとした台地状のかなり広い一帯である、今は雑木林やミカン畑などになっている。地先には城嶋という小島が由良川中にある。 案内板があるが、それには、 〈 山椒太夫屋敷跡 山椒太夫は由良嶽山麓石浦の地に屋敷を構え、三庄を押領し富み栄えていたと伝説は伝えています。この山麓台地の屋敷跡は、在地荘官として交通の要地である由良湊にあって散所の民を支配し、或いはこの地の領民を駆使して特権を振るい、裕福の大分限となった山椒大夫に仮託される主人公の、千軒長者にふさわしい構想と規模をもって語り伝えられており、その周辺には山椒太夫の物見台や糠塚、それに、城島にあったと伝えられる別荘や馬馳け場などが配されています。 貝原益軒は元禄年間この辺りを旅したときに 「石浦といふ所に山椒太夫の屋敷の跡とて石の水船あり」と書きとめていますが、それは当時すでに此処の七世紀後期の古墳が全く崩壊し、石室が露出した侭で放置されていたことを物語っています。そして、この事は、石浦をはじめとする由良嶽山麓の傾斜地一帯が古くからの聚落であり、古墳時代からの複合住居址であったことを示しているとも言えます。この石浦古墳からは石櫃、土器類、鉄剣、曲玉類等数多く出土し、朱櫃を洗ったときには由良川の水が河口まで、一面に朱で染まったとも言い伝えられています。 〉 黄金よりも高価といわれる朱がそれほどにあった。それに目をつけ奪いにきたのが、日子坐王であり、麻呂子親王であり、源頼光であったということになる、−のかも知れない。 森鴎外の『山椒太夫』に、次のようにあるところである。(挿絵は岩波文庫版の表紙) 〈 こうして二人は幾日か舟に明かし暮らした。宮崎は越中、能登、越前、若狭の津々浦々を売り歩いたのである。 しかし二人が穉いのに、体もか弱く見えるので、なかなか買おうというものがない。 たまに買手があっても、値段の相談が調わない。宮崎は次第に機嫌を損じて、「いつまでも泣くか」と二人を打つようになった。 宮崎が舟は廻り廻って、丹後の由良の港に来た。ここには石浦という処に大きい邸を構えて、田畑に米麦を植えさせ、山では猟をさせ、海では漁をさせ、蚕飼をさせ、機織をさせ、金物、陶物、木の器、何から何まで、それぞれの職人を使って造らせる山椒大夫という分限者がいて、人ならいくらでも買う。宮崎はこれまでも、余所に買手のない貨があると、山椒大夫が所へ持って来ることになっていた。 港に出張っていた大夫の奴頭は、安寿、厨子王をすぐに七貫文に買った。 「やれやれ、餓鬼どもを片附けて身が軽うなった」といって、宮崎の三郎は受け取った銭を懐に入れた。そして波止場の酒店に這入った。 〉 同書では国分寺は中山にあり、安寿姫が入水したのは由良ヶ嶽内の沼となっている。 安寿姫は別に目が悪くはないようだが、その分身であろう佐渡に売られた彼女の母親は、なぜか盲目である。同書の最後は−、 〈 正道はなぜか知らず、この女に心が牽かれて、立ち止まって覗いた。女の乱れた髪は塵に塗れている。顔を見れば盲である。正道はひどく哀れに思った。そのうち女のつぶやいている詞が、次第に耳に慣れて聞き分けられて来た。それと同時に正道は瘧病のように身内が震って、日には涙が湧いて来た。女はこういう詞を繰り返してつぶやいていたのである。 安寿恋しや、ほうやれほ。 厨子王恋しや、ほうやれほ。 鳥も生あるものなれば、 疾う疾う逃げよ、逐わずとも。 正道はうっとりとなって、この詞に聞き惚れた。そのうち臓腑が煮え返るようになって、獣めいた叫が口から出ようとするのを、歯を食いしばってこらえた。忽ち正道は縛られた縄が解けたように垣の内へ駆け込んだ。そして足には粟の穂を踏み散らしつつ、女の前に俯伏した。右の手には守本尊を捧げ持って、俯伏した時に、それを額に押し当てていた。 女は雀でない、大きいものが粟をあらしに来たのを知った。そしていつもの詞を唱え罷めて、見えぬ日でじっと前を見た。その時干した貝が水にほとびるように、両方の目に潤いが出た。女は目が開いた。 「厨子王」という叫が女の口から出た。二人はぴったり抱き合った。 〉 《石浦の人口・世帯数》125・49 《主な社寺など》 氏神は住吉神社 中路神社 山伏寺(修験)舞鶴延寿院末快宝院 古跡に山淑太夫宅跡 上石浦に弥生式土器が出土した石浦遺跡があり、弥生後期遺跡とされる。 《交通》 国道178号線 《産業》 石浦の主な歴史記録《丹後風土記残欠》 〈 川守郷。川守ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王土蜘陸耳匹女等ヲ遂ヒ、蟻道郷ノ血原(今の千原)ニ到ル。先ニ土蜘匹女ヲ殺ス也。故其地ヲ血原ト云フ。トキニ陸耳降出セント欲シ時、日本得玉命亦下流ヨリ之ヲ遂ヒ迫ラントス、陸耳急チ川ヲ越テ遁ル。即チ官軍楯ヲ列ネ川ヲ守リ、矢ヲ発ツコト蝗ノ飛ブガ如シ。陸耳党矢ニ中リ、死スルモノ多ク流テ去キ。故其地ヲ川守ト云フ也。亦官軍ノ頓所ノ地ヲ名ツケテ、今川守楯原ト云フ也。其時、舟一艘忽ニ(十三字虫食)其川ヲ降ル。以テ土蜘ヲ駆逐シ、遂ニ由良港ニ到リ、即チ土蜘ノ往ク所ヲ知ズ、是ニ於テ日子坐王陸地ニ立チ礫ヲ拾ヒ之ヲ占フ。以テ与佐大山ニ陸耳ノ登リタルヲ知覚シキ。因テ其地ヲ石占ト云フ。亦其舟ヲ祀リ楯原ニ名ツケテ舟戸神ト称ス。(以下三行虫食) 〉 《丹後国加佐郡寺社町在旧起》 〈 川筋西に続いて石浦村 往古由良を割きたりと云ふ、住吉大明神ありこの村中の氏神なり、山庄太夫屋敷の跡あり。 〉 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 石浦村 高百石 内四斗四升四合六勺 万定引 拾石御用捨高 住吉大明神 氏神 山王権現 〉 《丹哥府志》 〈 ◎石浦村(由良村の次) 【住吉大明神】 【付録】(山王権現、地蔵堂、薬師堂) 〉 《加佐郡誌》 〈 由良村。由良の名は凡海郷由良庄といふことから出たものであって、由良、石浦の二ケ字から成っている。参考。石浦の名の伝説は丹後風土記川守郷の項に載っている。蓼原から土蜘を逐ふて由良の港に着いたが其後何処へいったかわからない。そこで日子坐王陸地に上り石を拾ひ之を占って其行方を知ることができたので此処を石占と名づけともいひ又一説には石浦は石の後ウラ即ち由良ケ岳北麓の花崗岩産地と背あはせの地の意味であるともいひ伝へられている。附説。小沢打魚氏の説と称する古代由良に関する史実を一二挙げて見る。一、皇孫瓊瓊杵尊が此の国土に御降臨あらせられる前、天照大神から大国主命の国土奉環の大命を伝へるべく遣はされられた、経津主、武甕槌の二神に対して、大国主命の御子建御名方命軍が由良川を界として御守りになったものである。二、… 〉 石浦の小字石浦(いしうら) 山本 関 三庄大夫 大迫 川尻 水ケ迫 植松 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『宮津市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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