寺内(じない)
付:瑞光寺 |
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京都府舞鶴市寺内 京都府加佐郡舞鶴町寺内 |
寺内の地誌《寺内の概要》 西舞鶴市街地中央部で住宅・商店・会社などの混在する地域。高野川河口左岸に位置するが、ずいぶんと説明しにくい所である。右の地図で確認して下さい。浄土真宗本願寺派不動如山瑞光寺があり、その寺内町で、地名は慶長5年の田辺城攻めに際し、瑞光寺の明誓上人が門徒を集めて細川氏に加勢、のち恩賞として町家100余軒を拝領したことに起こると伝える。 高野川に大橋が架かるが、大橋は城下里程の基点として大手門に続く橋で、城内へ入る者や松尾寺巡拝者の入口でもあった。西口は袋小路の町割が残る。中央に松陰の飛地があり、北部を東西に国道175号が貫通。細川時代から地子銭免除の町屋であったという。 寺内町は、江戸期〜明治22年の町名。田辺城下の1町。享保12年の丹後国田辺之図による町家は、118間四方・家数98軒。寛保3年には85軒(竹屋町文書) 田辺町方の宗門改めは例年3月4日の当町瑞光寺で行われた。「丹後旧語集」によれば、瑞光寺の北に袋町と称する狭路があったが、のち開墾されて畑となったとあり、これは寺内町から松陰町にかけて竹屋町が開墾したものという。 明治2年舞鶴町。同22年舞鶴町の大字となる。昭和13年からは舞鶴市の大字。 《人口》220《世帯数》91 《主な社寺など》 浄土真宗本願寺派不動如山瑞光寺 《交通》 寺内の主な歴史記録《京都府の地名》 〈 瑞光寺 (現)舞鶴市字寺内 旧田辺城下の西部、高野川の左岸、港町であった竹屋町に対する広大な地域が寺領で、その中央に位置している。 山号不動如山、浄土真宗本願寺派に属し、本尊阿弥陀如来。文禄三年(一五九四}細川藤孝(幽斎)の建立になり、江戸時代には境内地一万余坪、「三千坪は門内、七千拾余坪ハ門外寺内町」であった(旧語集)。 開山明誓は若狭小浜(現福井県小浜市)の城主京極高次の家臣楠伊賀正重の子で、俗名源五という。剃髪して僧となり、細川藤孝に招かれて田辺に来て、藤孝の子茶智丸を教え、藤孝の妹(寺伝では娘佐知女という)を妻とした。藤孝が明誓のために一寺を建立したのが瑞光寺である(同書)。 慶長五年(一六〇〇)藤孝が石田三成勢に攻められた田辺籠城の折、明誓は門徒を集めて城の搦手を守り、藤孝はのちその賞として町家一〇〇余家を割いて寺領として与えたという。寺伝によれば江戸時代、田辺町方の宗門改は当寺で行われたといわれる。 〉 《丹後国加佐郡寺社町在旧起》 〈 本寺西本願寺一向宗瑞光寺 開基 明誓官位代々一家 後鳥羽院御宇文禄三年細川幽斎これを建つ 幽斎甲三男茶知丸一向宗門の出家になさしめんと欲し宣なる師道なし依って若州小浜の明誓と云う博識の僧招待あり子弟結縁せしむと雖も茶知丸出家得道なくて武芸を励みたまう 様々諌言を尽くすと雖も更にその甲斐なしに依り子弟の縁を切りて返却す 仏縁無者はちから及ばず瑞光寺は明誓これあるべき旨、寺内の町屋を認められ 境内壱万十四坪寄附の状の下賜すなり 本尊阿弥陀如来 定朝作 鐘楼堂惣門あり 〉 《丹哥府志》 〈 【不動如山瑞光寺】(寺内町、一向宗) 開山明誓上人は元若狭小浜の城主京極高次の家臣楠伊賀正重の子なり、俗名源五郎といふ、剃髪して僧となり浮業を修す、是時に当り細川幽斎田辺の城にあり明誓を招きて其子茶智丸の師たらしむ、又其女を以て之に妻はせ為に一寺を建立し瑞光寺といふ。慶長五年小野木縫殿介田辺を襲ふ時、瑞光寺の明誓黒皮綴の鎧に頭形の兜を着し二尺五寸の太刀を帯び、左に長刀を携へ右に銀の采配を持ち、白練の幟に不動如山と題し(明誓は武田信玄の姪なり、よって不動如山の字を用ふといふ)多く門徒を集めて出て加りたり幽斎是を見て大に喜び是を搦手に置く、後に其賞として町屋百余軒を以て瑞光寺に賜ふ、今其町を寺内町といふ(一説に町屋を瑞光寺に賜ふは文禄四年三月十四日なりといふ、是により其は其賞にあらん)。今其寺に楠公の旗及幽斎の手跡あり。 【金屋山仏性寺】(一向宗、奈間、金屋谷)。寺記云開山明誓上人は若州小浜天か城主内藤伊賀守の五男なり、剃髪して僧となり浄業を修す。天正年中細川幽斎之猶子となしつゐに瑞光寺を建立す、瑞光寺の開山なり。元和年中京極高広田辺より宮津に移る。於是明誓上人二男某に瑞光寺を譲り嫡子順誓と同しく宮津に来り一寺を建立す。今の仏性寺是なり。其蔵宝に川上の名號といふものあり、一に蟻巻の名號といふ、親鸞上人の筆なり、事は世屋の庄木子村の条下に出す今之を略しぬ。 〉 『舞鶴』 〈 不動如山端光寺 大抵の寺院は山に倚って建てられて居るがこの寺院のみは眞宗だけあって舞鶴町寺内の平地に宏壮な輪奐をもって建てられて居る、開山は楠氏だといはれ代々の住僧楠を名乗り菊水の紋所と細川家の九曜の紋所とを併用して居る、寺の什宝として楠公懸樹の旗がある、蚕蝕腐朽して今はその全班を見ることは出来ぬが一見古色蒼然五百年前の物と鑑られる、僅かに判じ得られるところに 山吹水の紋散 梅宮御護 菩提寺 菊乗寺 當手三萬八千騎 右旗 正成(華押) とあり又次の系譜が残って居る、 橘氏平岡本系 本號楠本国河内。住國三河。旗文化吹水。氏社梅宮。菩提寺菊乗寺。夫橘氏者公孫之裔。公家之良。武門之長也。我正成主一振策扶天子之御軍以降忠名不朽於千歳。子孫之顔色殊于他姓。今時平岡者其正統一流之眼目。記系以使氏名不失於天下。(中略) 天文二癸木十一月十一日 楠 正友(華押) 副諸兄公之尊像寄納之誌 〉 《まいづる田辺 道しるべ》 〈 京街道は大橋を渡り、橋西の寺内町を通って行くと、現在の「ひろっぱ」(広場)に出る。 江戸時代は、ここで道は突き当たり右へ折れ「コの字」型の道を通って、新町・堀之上町(堀上)へと通じていた。 このように城下町の道は遠見遮断の見透しのきかない「T字」型・「L字」型の道や、細い露地みちが多く作られていたのは、城を防衛するために考えられたものであろう。 「ひろっぱ」の「コの字」型道路も同様、防衛上の理由によるものと思う。西市街地には、今もこうした道路が処々残っている。 「コの字」型道路は明治に入り、寺内より新町へ通り抜ける道が作られ、中に四軒が取り残され、一時「中ノ嶋」と呼ばれていたが、その後、家も取り除かれ、現在のような広場が生まれ、人々から「ひろっぱ」の愛称で今も呼ばれている。 藩主が参勤交代する時、城下町の通路に、なぜ橋西の山手道を通ったのか疑問であったところ、幕府の巡見使(将軍の代替えごとに全国の政情・民情を視察する使者)が、福知山廻りで田辺に来る際、必ず通った道筋は、藩主が参勤交代で通った山手の道筋と、全く同じであった。 京口番所−朝代−紺屋−新−大橋−本町(三政規範) 当時、山手道は、城下に出入りする本街道であったと判断される。 一般庶民の「京みち」は、おそらく「コの字」型通路より、堀の上町−組町(京口)−引土町−円隆寺町を通ったものと推測される。 〉 寺内の小字寺内 寺内町 島崎関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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