丹後の地名

蒲江(かまや)
舞鶴市蒲江


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京都府舞鶴市蒲江

京都府加佐郡加佐町蒲江

蒲江の地誌




《蒲江の概要》

蒲江は舞鶴市の北西部。由良川の河口右岸に位置する。神崎の二つ川上の集落である。
北流する由良川と並行して府道西神崎上東線・KTR宮津線が走り、川と府道の間は耕地となり、線路の東側山手に集落が立地している。
由良川の中洲に当村に所属する(じょう)島があり、その低湿地は縄文時代から平安期の土器散布地である。明治11年から城島で府事業としてサケの人工孵化が行われ、一時中断したが、昭和18年まで続いた。釜屋とも記して(丹後旧語集)。地名の由来は、池に蒲が繁茂していたことによるとも、山淑太夫が塩焼きをした釜屋があったことによるともいう(丹後旧語集・加佐郡誌)。
蒲江村は、江戸期〜明治22年の村名。蒲江は明治22年〜現在の大字名。はじめは神崎村の大字、昭和3年八雲村、同30年加佐町、同32年からは舞鶴市の大字となる。

《人口》158《世帯数》43。

《主な社寺など》
曹洞宗三嶽山松林寺
『加佐郡誌』
 〈 天久山松林寺、曹洞宗、寛正五年創立、神崎村  〉 

山王神社
山王神社(舞鶴市蒲江)
集落の入口に鎮座する立派な神社。『加佐郡誌』によれば祭神は大山咋神。
『舞鶴市内神社資料集』に、
 〈 蒲江村 氏神 山王権現  (蒲江地区)
享保九甲辰年三月十二日氏神花表石ニテ致度之由相願差免
一、宝暦三癸酉年六月十二日郡代申聞蒲江村氏神社長六尺横三尺御座候処殊之外及大破候?上仮屋共近年之内建替申度旨相願候由承届願之通差免候様申付

(太刀振)
確実な記録はないが、明治の初期、舞鶴市吉原の人に師事した伝えられている。現在、吉原に伝わるものと類似しているが、操りは異なっている。
  露払い・小太刀・太刀振・せき棒の別がある。
毎年鎮守の祭日に行っているが、文献はない。
(太鼓踊り)
太鼓・小鼓の拍子で音頭を唱えるのだが、何時から伝わったものか明らかでない。一説では江戸末期ともいわれている。
(音頭)
神のおどり ふじのおどり すずかおどり 尺八おどり  (岩野勝二さん)  〉 


《交通》

《産業》


山王神社の祭礼行事


平24年は、このあたり一帯の神社の祭礼は10月21日(日)に行われた。秋晴れの最高の天候に恵まれた。
山王神社というのだから、日吉(日枝)神社を勧請したものだろうか。日吉神社の使いは猿だが、蒲江の神社の裏山も猿だられとか。
山王神社の祭礼は、本殿に向かい合う舞堂で「振物(ふりもん)」と「踊太鼓」が奉納される。平5年京都府無形民俗文化財の指定を受けている。これらの芸能も一時は途絶えたというが保存会ができ復活させたという。補助金も出るらしく衣装の新調もできたとか。
午後1時から神事、そのあと隣の公民館で待機していた奉納団は午後2時に鳥居前で練り込み、本殿へ参拝後、時計回りで本殿を回り、舞堂へと向う。
練込み(蒲江山王神社)

山王神社へ参拝(蒲江山王神社)

祭礼芸能は始めに山王神社へ、次に愛宕権現へ奉納される。
内容は同じものだが、あとの愛宕大権現は山王宮の省略型で、いくらか演目が省かれている。
まず、子供達によって大太鼓が打たれる。


新発意(シンポチ)の呼び出しで「振物」から奉納される。
シンポチは、もとは青年の役、過疎化少子高齢化のためか、本当の青年層は振物などの体力の必要な所へとられるためか、それより少々高齢の年代も村では立派な青年。軽衫(かるさん)をはき、右に金銀キンキラキンに山王と書いた大きなウチワ、左手にキラキラ紙片で飾られた笹を持ち、腰に大ヒョウタン、頭に赤ズキン。カッコウよろしく進行役兼道化役を務める。かなりの難役かと思う、優れた運動能力と高いIQと奉仕精神と地域愛と…それらを併せ持つスーパー・スターの資質が必要そう。
蒲江の「振物」は、2人1組で刀・長刀・棒を打ち合う組太刀と呼ばれる太刀振で、もとは5曲目から構成されていたという。
舞鶴はまずほとんどが「組太刀型」である、フツーは「ふりもん」と呼ばれている。お互いに切り組みを演じ、種目も多くて地域ごとの変化に富んだ演技を行っている。他方「太刀振り」型と呼ばれる多くの者が一斉に同じ動作を演ずる群舞を特色とする型は舞鶴にはないのではなかろうか。

「露払」から始まる。
小学生2人が色紙の房飾りを付けた約1メートルの赤い棒を打ち合う。衣装は着流しで白い襷と鉢巻。囃し方は大太鼓1、笛も聞こえるが、笛はどうしているのか私は確認できなかった。


次が「小太刀」
小学生が柄先に房飾りを付けた脇差で切り組む。着物に軽衫をはき、白襷、白鉢巻。


その次が「長刀」で、大人が長刀で激しく切り結ぶものというが、今回は奉納されなかったようである。衣装は小太刀と同じらしい。

そして「太刀棒」
大人が演じ、1人は太刀、1人は樫の棍棒を持って、切り打ち合う。太刀は真剣だそう。衣装は小太刀と同じもの。


最後は「関棒」
大人が樫の棍棒を持って激しく打ち合う。衣装は小太刀と同じ。



「踊太鼓」の奉納。
東西屋の口上が述べるように、「笹囃しの踊り」である。中世「風流踊」を源流にもつ今に伝わる最も古い芸能である。各地にいろいろな形で伝わるが、本来のセットのまますべてがしっかり欠けることなく伝わっている所もないよう。ここでは「ひと踊り差し上げ奉り候」と言うが、その踊りは今はないようてある。すべてを失った村々も多い中で、小さな村でここまで伝えたのは奇跡か、「神の恩寵」というものがあれば、こうしたものかも。Grace of Tangoではなかろうか。

まず東西屋(トウザイ)の登壇で、神崎の東西屋と同じように、小学生の男児、支度は裃に、白足袋、烏帽子で、日の丸の扇子を持つ。シンポチの呼び出しで舞台中央に立ち、扇を広げて口上を述る。シンポチは、笹と飾り団扇をかざしてトウザイの回りをうろつき、時に滑稽に冷やかしたりもしている。
口上は、「エヘン。東西南北しずまり候。本日吉日をもって、氏神様山王21社大権現様へ、総氏子といたし、笹囃しの踊りをひと踊りさしあげたてまつり候。おのおの様、ごゆるりとご見物なされ候。」と、言っているよう、


「踊太鼓」:神の踊り
踊太鼓は、大太鼓を前中央に据えて、それを打つ太鼓打ちの所作を主とする芸能で、太鼓打ち2人、鼓打ち2人、笛2人、音頭取り3人、歌うたい多数で構成されるという。
シンポチが曲名を述べ始まりを告げると、音頭取りが歌い出し、歌うたいが続き、太鼓打ちは左右に足を踏み替えながら揃い打ちを始め、鼓打ちも太鼓打ちに合わせて左右に動きながら打つ。いずれも少々長いので↓動画は最後まではありません。



「踊太鼓」:ふじの踊り



「踊太鼓」:鈴鹿踊り



「踊太鼓」:尺八踊り




次に、愛宕権現へ同じもの奉納される。
大太鼓
振物。露払・小太刀・太刀棒・関棒
東西屋
踊太鼓。神の踊り・ふじの踊り


蒲江の主な歴史記録


《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 定免七ツ七分
蒲江村 高三百四拾五石九斗
    内拾四石弐斗八升九合五勺 万定引
    三拾五石御用捨高
     弐拾五石免下御介抱
 松林寺 清金山 桂林寺末
 山王権現
 末社 天神 弁財天 三宝荒神 祇園
当村ノ池ニ蒲多生タル故名有 又釜屋村トモ云昔三庄太夫塩焼シ釜屋有トモ云 先御代当村ニ御茶屋立庄屋瀬左衛門座敷ヨリ廊下継キ西ノ方ニ八畳御縁側御納戸有御泊リ鷹野二被遊御入村之入口番所立昼時分物頭壱人組ノ者召連鉄砲五挺為持来番所ニ荘(在カ)リ足軽不渡番勤ム
 愛宕  〉 

《丹哥府志》
 〈 蒲江村
山王権現氏神なり、松林寺と云う禅寺あり。  〉 

《加佐郡誌》
 〈 神崎村。凡海郷由良庄に属していた。神崎の名は何物から出たか詳かでない。四所神崎半島の地形から蟹岬の意味であると説く者があるけれども信じ難い。東神崎、西神崎、油江゙、蒲江の四ケ字から成っている。参考。蒲江はもと釜屋と書いたさうだ。之は三庄太夫の塩を焼いた釜屋があったからであるといひ伝へられている。尚蒲江の文字を用ふるやうになったのは同地の古池に蒲が非常に沢山おひ茂っていたからだとのことである。  〉 

蒲江の小字


蒲江 大田 中坪 山田 日島 門崎 竹鼻 野田 上野 小徳田 小島 午ケ背 下地 奥地 川尻 フケ 中井田 竹添 下中井田 堤 和田 島崎 岩崎 城島 徳市場 大崎 石橋 里谷 別当 滝谷 地獄谷 ケブ谷 大谷 枝谷 長畑 林ケ谷 堤谷 小首 尼ケ坂 和田奥 大迫 今谷 足谷 北谷 小谷 柏ノ木

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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