丹後の地名

上安久(かみあぐ)
舞鶴市上安久


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京都府舞鶴市上安久

京都府加佐郡余内村上安久

上安久の地誌




《上安久の概要》

上安久は舞鶴市の中央部。五老岳南麓、伊佐津川の河口に位置する。相生橋や税務署のあるあたりである。
古代は大内郷、中世は大内庄に含まれていたと考えられる。はじめは安久村と称し、のち上・下に分かれたという(上安久村誌)。
安康天皇の時代に億計王・弘計王が来地した際、丹波国造稲種命らが安宮(やすのみや)を造り奉仕したと伝えられ、地名はこの安宮が転じたものともいう。
江戸初期に肥前陶工が来て「安久焼」を始めたと伝え、長浜の高倉神社にある狛犬は慶長18年(1613)彼らが奉納したもの。窯元の所在地は大和橋のたもと、吉原大師堂の近くにある壺尾谷といわれている。
五老岳はもと安久山といった。
上安久村は江戸期〜明治22年の村名。同22年余内村、昭和11年舞鶴町、同13年から舞鶴市の大字。
重砲兵大隊の跡地に残る門(日星高校や聖母幼稚園がある)
 明治31年舞鶴要塞砲兵大隊が倉谷東山寺より移転し、同40年重砲兵大隊と改称した。
のち鎮守府街道道筋拡張のため、上安久・下安久で用地12件・約200坪が買収された。同33年舞鶴要塞指令部・同衛戌病院開庁。同33年鎮守府西街道の橋梁として相生橋が架設された。舞鶴要塞指令部・重砲兵大隊の跡地は労働基準監督署・税務署・聖ヨゼフ学園日星高校がある。
伊佐津川河口には西舞鶴運動広場もある。南の大内境から北の下安久境までの伊佐津川土手を榿(はりのき)縄手と呼んだ。

《人口》293《世帯数》126


《主な社寺など》
熊野神社
北辰社
安久神社
曹洞宗桂林寺末海潮山法音寺
法音寺(舞鶴市上安久)

『丹後国加佐郡旧語集』
 〈 桂林寺末  〉 

『加佐郡誌』
 〈 法音寺、曹洞宗、算齢元寿和尚創立、余内村  〉 

『丹哥府志』
 〈 【海潮山法音寺】(曹洞宗)  〉 

下安久境に一色氏の臣・安久左京之進の城跡
上安久遺跡


《交通》
国道27号線

《産業》

上安久の主な歴史記録


《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 上安久村
海潮山法音寺曹洞の禅桂林寺末。三社権現、氏神なり。安久右京之進山城の跡あり。
  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 定免八ツ三分
上安久村 高二百六拾九石七斗六升
     内八拾二石壱斗壱升六合 万定引
     二拾石御用捨高
  三社権現 氏神
   社料少有酒ヲ作六月十三日
          九月 七日 村中宴遊ス
  古城 安久右京進
  法音寺 海潮山 桂林寺末
 安久山ヲ五呂ヶ獄ト云 絶頂ヨリ越前沖若狭海マテ見ユル 佐武ヶ獄ヨリ高山ナレドモ道登り安キナリ  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎上安久村
【三社権現】
【海潮山法音寺】(曹洞宗)  〉 

《加佐郡誌》
 〈 上安、上安久、下安久などの字名の起源は舞鶴町の頃(参考五)に記せる安宮の音及文字にある。但し下安久のみは余戸里の部内であって大内郷には属さない。

上安久には城址がある。一色氏の臣安久左京之進といふものが此処に居たが細川氏に滅ぼされたさうである。  〉 

上安久の小字


上安久 下アラ田 大通 馬場 中狭 田中田 井原 中土居 古川 下路 中路 奥路 塩入 塚脇 角田 高迫 湯ケ坪 安久谷原 堂垣 榎谷 赤畑 スゴラ 縁生谷 奥ノ谷 大野 城山 州崎 安久谷 陣取 宗折

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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