上福井(かみふくい)
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京都府舞鶴市上福井 京都府加佐郡四所村上福井 |
上福井の地誌《上福井の概要》 上福井は西舞鶴の西部。建部山の南側、福井川が東流し宮津や河守方面にへ到る国道175号線(宮津街道)が通る。大船峠・念仏峠を越えると下東村に至る。「府地誌」によれば、天正年間に福井村が上福井村・下福井村に分離したという。 KTR宮津線が通り、中央に四所駅がある。由良川から取水した上福井浄水場があり、念仏峠で処刑される罪人が末期の水を飲んだと伝える一杯水の湧水がある。 上福井村は江戸期〜明治22年の村名。同22年四所村の大字。昭和11年舞鶴町、同13年からは舞鶴市の大字。 《人口》699《世帯数》258 《主な社寺など》 八幡社 白髭社 山神社 薬師堂 福井藤吉が築いたと伝える古城跡 《交通》 国道175号線 上福井の主な歴史記録《丹後国加佐郡寺社町在旧起》 〈 八幡宮元来瀧池谷上東境に八幡屋敷として芝原あり百姓これを開き畑に成せば忽罰を蒙り相煩、これに依って数年荒地にてこれあり、元禄五申の夏支配の役人仰せを蒙むり、村役人百姓彼地へ行き、朝代宮巫女神楽を奏し替地を以て詫宣を窺し処神慮も諌ましきに任せて今の所に小宮を建勧請し奉り?八月十五日祭礼、近年相撲これあり、荒地は開畑にこれなし、又薬師堂あり、福井藤吉郎城跡あり。 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 定免六ツ七分九厘 上福井村 高五百四十五石一斗一升 内七石七斗九升六勺 万定引 二十五石御用捨高 古城 福井藤吉 八幡宮 八月十四日祭 薬師堂 九月十一日祭 当村ヨリ七月朔日新米献上す小俵ニッ 当村追分ニ 而右之方道ハ川口下東 中山油江蒲江神崎由良石浦和江 の道也 左に 細道あり 先御代道作被仰付川端ヨリ真壁峠江分る道 有此所弐里あり真壁通りと同じ道法也 併此道筋よ し少斗峠有道端に冷水あり場所奇麗に被仰付共冷水 を一盃水と被名付 其向山際に松其外茂りて奇麗に 見る所有是山神の社なり 〉 《丹哥府志》 〈 ◎上福井村 【八幡宮】(祭八月十五日) 【薬師堂】 【福井藤吉城墟】 【付録】(白髭明神、一盃水) 〉 『舞鶴の民話3』 〈 豊池神社のこと(上福井) 由良川を上流へいくと大きな口をあけているところがある。市の水道課の人の話によると、あそこから舞鶴市に水が送られ上福井の浄水場へと、市民が安心して水を使用できるのは、由良川がゆうゆうと福知山、綾部を通って流れてくるからだ。そのもとはごまのあたりからだといってくれた。上福井の浄水場のあたりのことについて、古老が江戸のころの話を書物をひもといて話して下さった。 文化五年(一八○八年)のころ上福井村は全村農業をもって生計を立てているが、たんぼは旱ばつになりやすく、またやせ地であったので漸次荒廃しようとしていた。住民は他へ移住したり、日雇稼ぎとなって年とともに衰亡にかたむいていた。時の郡奉行は林六三郎といった。本村の状態をうれい種々苦心を重ねて築塘を計画し、上東村に接した建地峠の地をえらんで、上福井村及び上東村に示した。村役人等はその志にいたく感泣したが、だれも築塘の術や貯水の法を知らず、その上、上東村は建地峠の良田を池敷にすることには不賛成であった。又、このあたりは険しい岩石地であるから、大雨が続いて洪水にあったならば堤防は破壊のおそれがあり、同意しがたいと主張するので一時中止となった。 けれども奉行はなおみんなと相談を続け、大庄屋源三郎を私邸にまねいて、堤をつくること下問した。源三郎は至難の工事であるけれども、お上にもご尽力をを仰ぎ、藩の事業としてこの工事を再開して、この上福井の民の苦しみからお救い下さいとお願いした。 奉行はこれをいれ、平地の水を堰あげたなれば、たとえ流水は少なくなっても、この地はこれに反して、渓谷から流出するものであるから、いかに堰あげても水勢は変らず、冬春の不用の水をたくわえることができるし、洪水に対しては、堤防を強くして注意していれば危険の恐れはない。上東村には別に碓氷峠を築き、上福井村は村外の池敷を末代買い上げることを説諭せられて、いよいよ出願の手続きとなった。 その後、文化七年許可せられ藩の事業で起工することとなった。然るに上東村は碓氷峠の地水浅くして徒らに長提を要するので、建地溜池に共同の儀を願出た。奉行はこれを両村の共有として、なお一層強固に築くようにすすめたため、上福井村はその旨を奉じた。ここで藩の役人出張監督して、堤防がほとんど完成しようとしたとき、崩かいの惨にあった。奉行はその工事の困難なことをなげき、苦心の末その術に長じた、九六鍬を尾張国から招いて再び工事を続けた結果、村民一致の協力によって三年の星霜をへてようやくその成功を告げた。また高地をけずり、水道を設けてかんがいの便をはかったから、村民始めて蘇生の思いをなし、年々溜池保護水道の浚せつをおこたらなかった。それからは両村ともに旱ばつをまぬがれ、漸次良田となり、豊作の年がつづき、永くその恵沢を受けるようになった。 文化十一年、是が一記録を作り、領主及び奉行の小祠を建立し、豊池神社と名づけて之を祭祀した。また、林氏及び源三郎氏へは毎年末白米一升宛をおくるのを例として今日になった。去る明治四十二年の春、旧藩主牧野氏及び林景介氏(六三郎の玄孫)本郡長を招へいして百年祭を行ない、その功績を追称するとともに、村民益々農業に励んでその恩に報いることを誓った。 〉 上福井の小字上福井 家下 三蔵ケ坪 杉ノ坪 円満寺 榎 稗田 大柿 楠祢寺 室河 大谷 隠谷 井根谷 袋ケ谷 コ八田 小谷 森ケ下 白髭 竹田 三田地 奥殿 田中谷 前田 山鼻 田井賀 大ボソ キヤガ鼻 白賀 大川田 山ノ神 一盃水 大畑 長迫 セバト 一町田 宮ケ谷 堀割 岡ケ谷 建地 ツクシ ツクシ谷 桜木 人張 小島 藤ケ森 大船 由里ケ上 西垣 鈴木屋敷 西ノ岡 ムセガ鼻 今安 後山 カゴサコ 札ケ尾 上浦 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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