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丹後の地名

観音寺(かんのんじ)
大江町南山室尾谷の寺院


↑「観音寺」入り口には、こんな案内がある

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京都府福知山市大江町南山室尾谷

京都府加佐郡大江町南山室尾谷

京都府加佐郡河東村南山室尾谷

室尾谷山観音寺の概要




《観音寺の概要》観音寺の入り口
大江町字南山室尾谷の高野山真言宗の古刹。在田の谷口から約3.5キロ道を入ると、鬼ケ城・烏ヶ岳の麓に仁王門がある。安置の仁王像は運慶の作と伝え、仁王門の右奥に本堂がある。山号は室尾谷山。
草創時期などについては、寺伝によれば和銅7年行基の開基にかかり、行基が大和国室生山[で長谷寺[の本尊の余木で十一面観音像を彫り、観音寺の本尊としたという。
その後寺運衰退、貞永2年(1233)蓮乗が再興、盛時には塔頭が11坊あったという。

近世には領主京極氏より寺領の安堵を受け、田辺藩主牧野氏からも寺領を寄進されている。
北丹の観音霊場として知られた。文化11年(1814)配札と修行の途次当地を通った野田泉光院は南山村を訪れ、「日本九峰修行日記」12月23日条に
「直ちに室尾山観音に詣づ、仁王門より二丁半登る、本堂六間四面寺内六軒許り納経す」と記している。
観音寺本堂
四ケ寺のうち安養院は和田垣村(在田村)、明王院夏間村、観音院(教王院)は常津村、金剛院は南山村を檀家としていた。明王院は田辺藩主の祈祷寺として書院に藩主宿泊の間・控の間をもち、回廊は六尺六寸幅の板を敷き、玄関・便所を備え、僧侶の間・台所などは豪壮を極めた。
明治40年に教王院が全焼して再建不能となり、全財産を観音寺に返上したため、常津村は明王院檀家となった。
現在は三院が一つになって観音寺となっているが、本堂の奥に古堂の屋敷跡があるのをはじめ、諸院の付近に寺堂跡があって往時の盛観をしのばせる。


《交通》
府道私市大江線


観音寺の主な歴史記録

『丹後国加佐郡旧語集』
 〈 縁起無之観音院伝来書付持参写之
 観音寺 室尾谷山 本寺高野山実成院
  寺領十九石三斗三升
  境内三千二百九十三坪 但門前在家トモ家数七軒其外山林有リ
  開基行基菩薩
  人王四十三世元明天皇和銅七甲寅年開闢
  本堂 五間四面
  本尊十一面観音 行基作 御丈尺余
  人王四十五世聖武天皇神亀元甲子年大和国
  於宝生山彫刻但長谷寺本尊同御衣木也
  脇立 不動明王 毘沙門天
  弘法大師像
  行基菩薩像
   中興開山達乗上人
  人王八十七世四条院御宇貞永二癸巳歳再興今

  年天福ト改元
 熊野権現 七尺四方
  本堂西ニ有同時代従熊野山奉勧請
 牛頭天王 六尺四方
  本堂ヨリ谷一ツ隔今ハ光リ谷ト云 堂ヨリ四丁
  余
 二王門 三間ニ二間 運慶作
 惣門 二間ニ一間半
  近頃大風ニテ軒傾危ニ付畳置
  往古十一坊在之
  内 愛染坊 弥勤坊 西坊 南光坊 不動院
  教王院 一老寺 此七ヶ寺廃寺今四ヶ寺
  教王院護摩道場在之今ハ無シ 本尊不動像
  下馬札 堂ヨリニ丁今ハ無之
  安養院 八間ニ四間 今三間ニ七間 和田垣村
  明王院 八間半ニ四間 今三間半ニ七間半 夏間村
  観音院 当時ノ書付ニハ教王院卜有 八間ニ四間 常津村
  金剛院 八間ニ四間半 今三間半七間    南山村
                    四ヶ村ノ寺
 往古十王堂 境内ニ在
 宝蔵    同 今屋敷斗
 地蔵堂   同
  本堂ヨリ未申ニ当リ鬼ヶ城有行程拾丁余
鬼ノ窟 左右五尺上下七八尺程茨木童子住シ由
 不慥後内藤尾張守一類居城之由伝説不慥 赤
 井悪右衛門居城共云伝不審
室尾谷観音寺ニ古来ヨリ神明帳有 加佐郡中七
拾七社
 正一位大川明神 正三位千滝雨引 正三位宮
前 同田力尾 有栖 猪鞍 御陰 小嶋 正
二位松尾 大社 志呂 笠売 笠原 奈具 
多礼売 津夫衣 雨引 阿具 嶋満 委文 
船度 筒 正二位上大歳(藏カ) 布留 高田 気比 
太祢 布施 息津嶋 物部 境 伊加利比売 
福徳 従二位葛嶋日原加佐姫 郡立 神並 
芝束 周津 三宅千滝加佐彦 波多 如意 加
和良 丸田添 奈多 神前 介比 正四位中村
千滝市布施 藤津 山口 剱 正四位下天蔵 
湊牧 大字賀 青山 河辺 正五位息津嶋 市
布施伊津岐 高鞍 石+召倉 大倉 従五位上池田 木津 曽保谷山口 従五位上大冨 津社伊加利 布施出雲 伊波井猪半 津嶋
 鬼ヶ城之事穴ノ内へ入見タル人ノ直咄ヲ聞窟ノロヨリ七八尺余奥へ行当リ右ノ方一尺斗高ク横二幅狭キ穴道有 身ヲ横ニシテ四尺斗奥へ這入幅五尺斗ノ所ニ至リ立テ頭モツカヘス行当リ一尺斗潜リ通ル程ノ穴有リ 四尺斗奥へ入五尺ニ左右一間半程ノ所ニ至リ左右ニ棚ノ如ク切レテ一段高キ所有高サ一尺斗程右ノ方ニ又奥へ入ル穴有リ入口ヲ一尺程宛ノ石ニテ詰テロヲ塞キ入事ナラス 其棚ノ如ク少シ高キ所ニ藤ノ八九寸廻リ程ノ藤瘤三ツ三方ニ並へ有人ノ住ヘキ様子ニテ無シ藤コブ枯スシテ有之近キ比置ダル様子二見ユル不思儀ハ是斗ノ由 穴ノ内モシメラスカワキタル由
  以上書付之写  〉 


《丹哥府志》
 〈 【室尾谷山観音寺】(真言宗、寺領廿石)
室尾谷山観音寺は開基行基菩薩、神亀元年の開基なり。貞永二癸巳年蓮乗上人伽藍を重修す、此を中興開山とす。塔頭四院安養院、明道院、観音院、金剛院なり。本尊十一面観音は即ち行基菩薩の作なり。堂の面に熊野権現あり神亀元年の勧請なりといふ、本堂より谷一つ隔てて牛頭天王の社あり貞永二年の勧請なり、是より二丁斗りの處に下馬札あり今亡ぶ。昔は寺中十一坊ありとて其名悉く残りぬ。  〉 

《加佐郡誌》
 〈 室尾谷山観音寺。真言宗であって、元明天皇の和銅七年に行基菩薩が開基せられたものであるが後に一度廃頽していたのを後堀川天皇の貞観年間に蓮乗上人が再興せられたのである。本尊の十一面観音は行基菩薩が大和の室尾山本尊観音の木片を以て彫刻したものであると伝へられている。往昔は境内が特に広く十一の宿坊を持っていたといふ。  〉 

《大江町誌》
 〈 観音寺
宗派 高野山真言宗
本山 金剛峯寺(和歌山県)
本尊 十一面観世音菩薩
開創 (伝)和銅(708〜714)  〉 

《福知山市史》
 〈 福知山の東部の状況は、烏ヶ岳と鬼ヶ城の山々をぬきにしては語れない。謡曲の『花月』にも「筑紫には彦の山(中略)、伯耆には大山、丹後・丹波の境なる鬼が城」と語られているように、鬼ヶ城・烏ヶ岳一帯は山林修行の行場で、鬼ヶ城の北側、今は大江町の南山に位置する室尾谷山観音寺が古刹としてあげられる。元明天皇の和銅七年(七一四)行基の開基と伝え、本尊の十一面観音は、行基が大和の室尾寺本尊の観音の木片をもって彫刻したものであると伝え、中世では山麓に広がる寺域に、十一の宿坊を数えたと伝えている(『加佐郡誌』)。 そして中世では丹後の一色氏、丹波の細川氏からも寺領の安堵が行なわれ、山林修行の場として、山伏の出入も多かった。
 筈巻の無量寺は、麻呂子親王伝説にともなう薬師如来を薬師堂に祀り、相当古い。また『丹波志』「古跡」の部には、「庵我寺 安井村 辻堂 甚古キ堂也 本尊薬師」とあり、これらの寺庵も山岳仏教の流れのなかで生まれてきたもので、平安時代にさかのぼることができよう。
 このようにして、薬師如来・千手観音を祀り、小さな寺庵や坊を中心にした仏教を営む場が、鬼ヶ城・烏ヶ岳山麓の東西南北に展開されたのである。山麓には、報恩寺・記録寺・高林寺・高竜寺などの地名を今に残している。  〉 

《図説福知山・綾部の歴史》
 〈 朝寝の観音さん ●室尾谷山観音寺
 大江町の観音寺は鬼ケ城の麓にあり、同町側から鬼ケ城への登山口に位置している。寺伝によれば、古く和銅年間(七〇八〜一五)、全国各地を行脚して、道路をつけ、橋をかけ、社会事業をしながら民衆を教化したといわれる名僧行基が開創したと伝えている。現在は真言宗の寺院であるが、元は華厳宗の寺院であったとも伝える。
 本尊の十一面観世音菩薩立像(秘仏)は、大和国の室生寺本尊の余木をもって彫刻したと伝え、端正で繊細な彫法の優品であり、町の指定文化財となっている。
 この観音寺はかつて、「朝寝の観音さん」と呼ばれていたという。その由来は、西国観音三十三ヶ所霊場を選ぶ日の朝、朝寝をしていて間にあわず、その選から洩れてしまったのだという。三十三ヶ所が選定された平安時代の末期、たまたま寺運が衰微していたため選から洩れたが、もともと当然選ばれるべき古刹であったことを物語る俗伝であろう。
 鎌倉時代初期の貞永年間(一二三二〜三三)、蓮乗上人によって再興されて最盛期を迎え、当時一一坊を数える大伽藍であった。今も広大な境内の地名に、往時の堂塔の名をとどめている。
 背後にそびえる鬼ケ城の山頂には山城跡が残っているが、すでに一四世紀に城があった記録が残っており、以後、戦国時代末期まで近国土豪の争奪の戦場となっている。観音寺から福知山へ越す山道(鬼ケ城峠)は丹波・丹後を結ぶ近道であり、観音寺は戦略上の要地であったものと思われる。
 藩政時代に入ってからも、田辺藩主牧野氏の崇信あつく、手厚い保護をうけている。藩主の代替りには必ずこの寺に参詣し鬼ケ城へも登っており、寺領の寄進状や安堵状も残っている。
 観音寺は文化財の宝庫でもある。「大日如来像」(元、観音寺の坊であった金剛院の本尊)「不動明王像」(同じく安養院の本尊)をはじめとする多くの仏像、「絹本著色弘法大師像」「絹本著色孔雀明王像」「絹本著色桜花不動三尊像」など、絢爛たる彩色の仏画も数多く残されている。中世の古文書も多数保存されており、「大般若経(三帖)」は建暦二年(一二一二)の奥書きがあり、大般若経の古写本として貴重なものである。「観音寺略年代記」「慶長検地帳」「田辺藩絵図」「神明帳」など往時をうかがう貴重な資料もある。いずれも収蔵庫に保管されている。
 本堂は明治五年(一八七二)の再建といわれるが、内陣には見事な欄間が彫られ、須弥壇のまわりには鮮やかな極彩色が施されるなど華麗なもので、町内では最も規模の大きな復古的本堂である。また、寺の入口に建つ仁王門は明和年間(一七六四〜七二)の再建だが、中の仁王像は鎌倉後期の作で、像高三bをこえる大きなものである。
 近年、「楽寿観音第二〇番」の霊場に選定された。広い境内の豊かな自然のたたずまいと相まって、多くの参詣客をむかえている。(村上政市)  〉 


現地の案内板
 〈 鬼ケ城
 鬼ケ城山とも呼ばれるが鬼ケ城の名で広く親しまれている山である。大江町南山西部に属し標高(五四四米)の山で、大江町と福知山市の境にそびえる整然とした姿の美しい山である。
 この鬼ケ城の尾根続き東南にテレビ塔がたっている所は、烏ケ應(五三六米)である。鬼ケ城の頂上は平坦で草地のため展望がきき、自然の景観は雄大である。
 福知山盆地全域及び由良川の流れを眼下にはるかに大江山連峰や丹波但馬の山並を一望することができる。
 ここ鬼ケ城には、酒顛童子の一類である茨木童子がこもっていた(丹哥府志)という伝承もあり大江山鬼退治伝説の一翼を担っている。
 またこの山頂は戦国武将が城塞を設け定ところでその遺構が認められる。
 頂上まで山あいに登山道があるが昔『鬼ケ城峠』としてこの道が主要路であった「丹波誌」と考えられる。鬼ケ城の「家中屋敷」「鬼洞」「城ノ池」等について古い記録に書き残されているがその山中にその跡と思われるところがある。
 当地より鬼ケ城まで徒歩で四十分がら一時間程で登山することができる。

観音寺由緒
(寺名)室尾谷山観音寺といい高祖弘法大師を尊信し高野山真言宗に属す。
(本尊)十一面観世音菩薩
(開基)創建は奈良時代和銅七年(七一四年)行基菩薩様自ら大和室生寺の御本尊様の余木をもって、本尊様を彫刻安置し、利世安民を願われたと伝えられている。
(略歴)中古の時代幾度が変遷をみて鎌倉時代、貞永二年(一二三三年)中興開山蓮乗上人が再興された。
文亀、慶長年間まで十一坊を教えた記録がある。
将軍家並びに御台所等の御帰依により田畑、家屋敷の寄進や諸役免除の保護を受け、田辺藩主が寺領を安堵し寄進状等の折紙等が現存している。天正年度以来、領主代々替わりの節当寺へ参詣し兼ねて鬼ケ城、登嶺することが御家例にして、その度に本尊開帳経会を進められる先例があった。
その後は三十三年目毎に御開扉供養をすることになっている。
十一坊のうち近年まで観音寺、金剛院、明王院、安養院の四ケ寺があった。
昭和四十二年に一山を合併し『観音寺』として発足する。
現在境内の堂字は本堂、鐘楼堂、仁王門、霊牌堂、収蔵庫、四国四十八ヶ所霊場、本坊(庫裏)別院等がある。
平成十七年二月吉日
室尾谷山、観音寺
大江町在田区
公会堂竣工記念  〉 


関連項目

観音寺」(あじさいで有名な西中筋村のお寺)




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『大江町誌』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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