神崎(かんざき)
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京都府舞鶴市東神崎・西神崎 京都府加佐郡加佐町東神崎・西神崎 |
神崎の地誌《神崎の概要》 神崎の舞鶴市の北西部。由良川の河口右岸に位置する。北は海に面して若狭湾。東西約2キロの海岸は砂浜で夏には舞鶴では最も大きな海水浴場となる。松原があり、民宿や浜茶屋がある。大きな駐車場もあり、海水浴や釣の観光地でにぎわう。農家・民宿・夏季宿泊施設が混在する。東端に市天然記念物のハマナスの群落がある。 府道西神崎上東線が由良川沿いに南下。KTR宮津線が北行し、由良川河口部で鉄橋を渡り、宮津市由良へ向かう。 河口付近は古くから海運業・漁業や製塩の盛んな地で、釣り船や砂利運搬船の船着場となっていた。古来製塩業・海運業に従事する者が多く、とくに西神崎は製塩業が盛んであったという。 もとは一村であったが明治初期に東神崎村・西神崎村に分れたと思われ、明治五年には西神埼121軒中、117軒が塩仕をしている。明治30年、神崎浜の塩田反別は12町歩であった(西神崎区有文書)が、同42年塩の専売制により廃絶したという。 東神崎・西神崎は明治22年〜現在の大字名で、はじめ神崎村、昭和30年加佐町、同32年からは舞鶴市の大字。もとは両村とも神崎村の一部で、近世より東神崎・西神崎と称されていた地域が市制町村制施行により大字となった。 ↓神崎にはハマナスが咲く。 《人口》443《世帯数》152。(東神崎・西神崎を合わせたもの) 《主な社寺など》 KTRの神崎駅 神崎小学校 曹洞宗宝光山永春寺 湊十二社 槙山の麓にある洞穴内に3体の石仏があり、一願成就の穴観音として祀られる。 曹洞宗高麗山大明寺、境内に要塞地帯の標石がたっている。 近世の神崎村は、江戸期〜明治22年の村名。田辺藩領。古来村内は東神崎・西神崎に分かれていた。文政8年異国船打払令に伴い、当村の海岸に大筒仕懸場が設定された。近代の神崎村は、明治22年〜昭和30年の加佐郡の村名。蒲江・油江・神崎の3か村が合併して成立。大字は蒲江・油江・東神崎・西神崎の4大字を編成。役場は西神崎に設置。大正14年の戸数230・人口1、351。大正12年国鉄峰山線のうち舞鶴〜由良間の工事が完成し、由良川河口部には30万円を費やして由良川鉄橋が架設された。昭和30年加佐町の一部となる。村制時の4大字は舞鶴市の大字に継承された。 (戦争大好きの、従って人殺しが死ぬより好きな舞鶴市民さんたちなのだろうか、名簿を見るとすごいメンバーの会ができた。神崎住民をさておいて、戦争の反省は何もなく、市を後ろ盾にして、まことにご立派な迷走ぶりとご趣旨に感服つかまつっているのだが、それが最近は西神崎に残された「ホフマン窯」を宣伝したいようである。神崎の伝統文化を引き継ぎ、明日の地域づくりのためには役に立ちそうもなく、一体何のためたろうか?クソ役人やクソ政治屋どもはいよいよ思考力を失ったのであろうか? 全国に4基しか残っていないそうであるが、ここのは舞鶴要塞の建設に使われた煉瓦を焼いた窯跡である。業者が少し河上から採取した土をここで焼いて船に乗せ軍港まで運び納品したという。戦争用の煉瓦でありいわば兵器産業・軍需産業であった。日本国内には軍需産業などは腐るほどもあった、しかし後に観光用として残ったものなどは一つとしてなかろう。 何度も繰り返すがアジアでは2000万人が犠牲になった人殺しであった。軍が勝手にやったというものでなく、これだけ大量の人殺しは我々一般市民の大きな支えがないなら出来る話ではない。我々一般の市民もそうした意味で戦争責任、加害責任、戦後責任が問われのである。誰かが勝手にやったのではない、我々もどこかで手を貸した人殺しなのであった。戦後生まれの一般市民であっても大きな意味での戦争責任意識を深めて、過去の負の大きな遺産を克服していかねばならない責任があり、和解と補償のための努力をしなければならない責任を負っている。そうした努力を積み重ねてきた実績の上にたって、こうした軍需産業の残された施設にも目を向けてみよう、ここでも人殺しを支えたのだ、日本という国、舞鶴という郷土をよく見定める上で大変に重要だから、というのなら、話はわかる。 しかし今進められている、進められようとしているのは、そうした話ではまったくない。過去の実際の歴史などはきれいさっぱりと省略されている。戦争責任などはどこ吹く風である。個人が勝手に好きになって大切にしようというのは勝手にやればいいが、過去には何の努力もなく、何一つ手を貸したこともないような者どもが突然にふって涌いたようなにわか作りの公共団体的なものをつくり、しかも不足する税金を使って進めるような話なのであろうか。採算を考える知能もないのか、観光客などは誰も来そうにもないし一銭も落としそうにもない。市民病院の大赤字といいほうけたような不明金といい、市民に責任はない、すべて市ならび市議会の責任である。関係者はまともなのか狂っているのか。一度全員病院で見てもらえ。赤レンガ博物館なども赤字を生み続けていると思われるが、誰がそのケツをふくのだ。ろくな説明もなく、そうしたものの見直しもないままに、またぞろさらにこれにも手をつけようというのか。 負の過去とまともに向き合うこともできぬような呑気な精神薄弱児が集まったような会がこの時期に手をつけるような話であろうか。あまりにも身の程知らずな脳天気な話ではないのか。 町作り・村作りといってもこんなことにしか目が向かない、こうしたものに親近感を示すというのはやはりかなり根底は異常な市政といってよい、まともとは申せない。 見られる方は、いつ崩れ落ちてもおかしくないほどに風化・退化・頽廃化・形骸化が進行していてきわめて危険、どこぞの国政や市政と同じかも、あまり近づかないで遠くから見て下さい。) 《交通》 《産業》 落花生 神崎の主な歴史記録《丹後国加佐郡寺社町在旧起》〈 神崎村は 由良に同しは塩浜なり小船余多これあり、塩を商う、金ケ崎、箱岩、立神、穴観音 湊十二社権現氏神なり、水無月明神六月二十九日由良、神崎ともに祭礼なり、神楽を捧げ奉り貴賎渇仰の首を傾け礼拝す。諸証人市を立て、櫛、針、 カンザシ、紅白粉、小刀、剃刀、 セッカ、毛抜、梅花香、伽羅、油、酢、酒、菓割、莨 (草冠に宕)、この外品々商う、また松原に芝居を構へ、上瑠璃、小哥、物真似、傘引、菅笠引、参詣の男女躍、相撲、賑々しき事どもなり。 将又名物は由良神崎の塩、同じく松露、由良の竹細工、石浦の一口泉、同じく水昌石、丸田牛房、八田上東の草鞋、大川の篠簾、志高の (草冠に専)菜ジュンサイ、岡田の串柿、由里の辛子、大俣の砥、黒木の適邂紙、千原の落鮎、桑飼の麻苧、油江の筵蚕、夥しくこれを飼い糸綿を売買す、これ耕作の外、浮所務為すに依り郷民の徒世も貧しからず面色潤しきこと他に越えたり、惣高壱万二千余石由良の蔵に納所せしむるものなり。 〉 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 定免五ツ二分 神崎村 西東 高百弐拾九石八斗五升 内四石御用捨高 永春寺西 宝光山 桂林寺末 大明寺東 高麗山 桂林寺末 湊十二社権現 氏神 鍵取 与惣左衛門 孫左衛門 水無月大明神 六月晦日祭 荒神 稲荷 立神明神 薬師堂 穴観音 玉匣岩東西一丈五尺南北二丈三尺厚八尺海江六尺斗覗ク根ノ顕レタル松有リ 大サ五尺廻リ高サ四丈五尺末無ノ滝山ニ有リ流レ落ル所不知故ニ云 槙山 青井村卜裏表也高山也 山上ヨリ文珠成相切戸ノ景見ユル 〉 《丹哥府志》 〈 ◎神崎村 【金崎】(福井庄、白杉村の北) 金崎の東に 【水無月大明神】(金崎、祭六月晦日、出図) 【蛭子岩】(仝、出図) 【筥岩】(仝、出図) 【十二社権現】 【高麗山大明寺】(曹洞宗) 文禄元年朝鮮の役に細川氏の将士神崎より出帆す、後其戦死の者の為に伽藍を建立す依て高麗山大明寺といふ。 【宝光山永春寺】(西神崎、曹洞宗) 【付録】(愛宕、立神、稲荷、辻堂) 〉 《加佐郡誌》 〈 神崎村。凡海郷由良庄に属していた。神崎の名は何物から出たか詳かでない。四所神崎半島の地形から蟹岬の意味であると説く者があるけれども信じ難い。東神崎、西神崎、油江、蒲江の四ケ字から成っている。参考。蒲江はもと釜屋と書いたさうだ。之は三庄太夫の塩を焼いた釜屋があったからであるといひ伝へられている。尚蒲江の文字を用ふるやうになったのは同地の古池に蒲が非常に沢山おひ茂っていたからだとのことである。 〉 『舞鶴の民話5』(イラストも) 〈 穴観音 (神崎) 由良川河口の右岸、北は若狭湾に面する集落は、東西約二キロにわたる松林の砂浜に沿ってある。集落北東の岬を金ヶ崎といい、金崎の東に波口の崎あり。金崎と相対す。是より以南を田辺の入海とす。俗にここを田辺口という。大浦半島瀬崎の山の木が「塩木」として大量に伐り出され、神崎の塩焼きに使われていた。江戸時代の神崎が、田辺藩の塩浜であったことがわかる。永崎寺から東へ穴観音にいたる畑の中で、多くの製塩土器片が採集されている。慶長検地郷知帳に「高一二九・八五石神崎村」とあり、運上のなかに塩浜運上銀一貫三五九匁六分、入木の代わりとして塩七五俵五升六合とし、古来製塩業、海運業に従事する者が多く、とくに西神崎は製塩業がさかんであった。 穴観音は、東神崎のはずれにあり、今でも諸病に効験あらたかな霊場として訪れる人が多く、女性にちなんで霊験あらたかという。 昔、丹波で病気のため、盲目のようになった母親は、もう一度この世の光をみたいものと、あらゆる薬を求め試したがだめ、神仏に祈り続けた。ある夜、うつらうつらしていると、夢枕に、「丹後の国、由良川の河口東の岩室に観世音さんがおられるから、そこに行きお願いしたら光をとりもどせる」とおつげがあった。母親は早速三人の子供達に話したところ、子供は母親に何よりの親孝行と、母の手を引き、神崎の岩室さがしに旅立った。神崎近くになったところで、村人に岩室の話をしたが、誰一人知る者はなかった。神崎の村人に聞いてもだめだった。夢は夢であったのか。でもさがしてみようと子供と探した。村のはずれにさしかかった。盲目の母の目に光がさしてきた。それを聞いた子供たちは喜び、村人にもつたえ、一緒に探してもらった。山すそに黒い洞穴の口があった。なかは四、五人もはいれる。その奥に三体の石仏観音像があった。嬉しさのあまり涙を流して四人はおがみ続けた。盲目の母の目にうっすらと光がさし、観音さんの姿がみえた。大きくなっている子供の顔姿がみえ、母親はよろこびのあまり、三人の子とだきあった。 その後村人たちに親子の話がつたわり、穴観音様とおまつりをした。その後穴観音様へおれがいをしようと村人は勿論、遠くからもお参りにみえるようになった。 〉 槙山の麓なので神崎も金属と関係がある地と思われる。この穴観音の伝説はそれを伝えているようである。穴に祀られ目の病気に験あり、観音( 観音様は3体。中央の像は顔立ちが見えるが、両脇の像は摩耗していてわからない。元々は野外にあったものだろうか。 石室古墳の内部のような、巨石が積み重なって偶然にできた自然空間に祀られている。かなり狭く、5人も入れば一杯になる。 入れば電灯がつくが、数分すれば消えて真っ暗になる。 背後の山から崩れ落ちてきた大きな岩が積み重なっている。鳥居がある方が入口になるが、こちらは狭い、相撲取りみたいな人は通り抜けられない。ムリと思えば、右手の出口の方から入れる、こちらは少し広い。 『由良川子ども風土記』 〈 じゃり船の移りかわり 舞鶴市・神崎小・三年松村小百合 神崎では、由良川のすなやじゃりをとって、売る仕事を明治の終わりごろから始めたそうです。村の人々は、朝、じゃり船に乗ってとる場所へ行きます。この船の大きさは、十トンくらいで、二人くらいが乗っていました。船には「ほ」がついていて、このほが風をうけて走ったのだそうです。船底には、じゃりをつむ場所と、ねとまりする所がありました。ねる場所は、風がすすまない時に、船にとまらなければならなかったからです。 すなは、神崎の浜の近くでとりました。「じょうれん」という、くわのようなもので、すなをすくってかごに入れます。二つのかごが一ぱいになると、てんびんのようにして、肩でかついでじゃり船まで運びます。じゃりは、長いえのついたじょうれんで、船の上から引きあげます。この船は川船(ともうちともいう)といって、底の平べったい小さな船のことです。一せきの川船には、一人か二人が乗っていました。川船に一ぱいになると、じゃり船に運びます。 じゃり船に一ぱいになると、今度は売りに行きます。行き先は、東舞鶴や、西舞鶴や宮津なのだそうです。昔の日立造船所や板ガラスなど、舞鶴で使うじゃりは、ほとんど由良川から運ばれたものだと聞いてびっくりしました。売りに行く時は、重くて船がしずむので、よい天気の朝をえらびます。東舞鶴や西舞鶴、宮津へは、はやい時でも、だいたい半日くらいかかります。とちゅうで、風がふかなかったりすると、船がすすまなくなって、予定よりも何時間も、ひどい時には何日もおくれたことがあったそうです。お昼の三時ごろに目的地につくと、その日は船にとまります。おそくなってからでは、じゃりを買ってもらえないからです。あくる日は、じゃりをおろす仕事をします。これも、お昼すぎくらいまでかかるので、その日もまた船でとまります。そうして次の日に帰ってくるのです。帰る時、運悪く「しけ」にあったりすると、とってもこまったそうです。じゃり船が一番多かったのは、大正のはじめだそうです。神崎の村ではそのころ、八十五せきぐらいのじゃり船があり、神崎に住んでいる人は、ほとんどがその仕事に関係していたのだそうです。じゃり船の仕事は、えらかったので、はじめのうちは、男の人ばかりだったそうです。しかし、大正のおわりごろに、生活が苦しくなってきて、女の人も船に乗るようになってきました。小学校へ入るまでの小さな子どもも船に乗せておもりをしました。赤ちゃんは、お母さんにせおってもらいました。時々、遊んでいて川にはまった子どももいたそうです。すなをてんびんでかついだり、じょうれんでほったりするのは、えらかったそうですが生活のために、みんながんばって働いたそうです。 じゃり船は、昔とくらべるとだんだんとかわってきました。昭和五年ごろになると、それまで、じょうれんでほっていたのから、機械にかわりました。じゃり採集船といって、大きなチェーンにバケツのようなものがたくさんついているのです。このおかげで自動的にほれるようになり、ずい分楽になったのです。また、風のふき方によって、仕事の予定がかわってくるはん船(ほのついたじゃり船)にかわって、モーターで走るようになりました。これは、昭和十一年ごろからです。そのおかげで、予定どおりに仕事ができるようになり、船にとまることも少なくなったそうです。昭和の三十六年ごろになると、それまで木で作られていた船が、こう船という、鉄の船にかわりました。大きさも、はじめのころにくらべると、八倍で、八十トンくらいになりました。その他、ベルトコンベアーがついたり、ディーゼルがついたりして、今のじゃり採集船になったそうです。由良川の川岸のところどころにつながれている同じような形をした大きな船が、今のじゃり採集船です。これは、近所の竹内のおじさんに聞いたことです。竹内のおじさんは、今もじゃり採集船に乗って、元気に働いておられます。 神崎村の塩作り 舞鶴市・神崎小四年斉藤俊之 神崎村で塩を作りはじめたのは、だいたい千五百五十年ほど前らしいと、年とったおじいさんが話したと加佐郡誌に書いてありました。しかし、もうけが少ないので明治四十三年九月に止めてしまったそうです。ふたたび作り始めたのは終戦前後です。昔は、神崎の浜は砂のところが長かったそうです。その浜にどの家も同じ面積になるように浜を分けて、家ごとにかこいのくいを立てて塩を作りました。作り方は、砂浜のゴミをきれいにはいて、真夏のあつい砂の上に海水をくみ上げてきてひしゃくでまきちらして、しばらくしてかわいたら、海水をくみ上げてまきちらしをくり返して、塩分をたっぷり含んだ砂を作ります。次に竹で作ったくま手のような「さで」という物で砂をかき集めます。かき集めた砂をむしろをしいた箱わくの中に平均に海水がしみこむようによくならしながら入れます。上から海水をかけると砂についた塩を海水がとかし、箱の下にたまり、こい塩水になります。これを何回もくり返してこい塩水を作ります。そのころは、どの家にも「かまや」という、わらぶきの家が浜にありました。その「かまや」の中には、赤土で作られた大きな「くど」があり、大きな鉄製のかまがすえられていました。そのかまに塩水を入れて、浜や山から木を持ってきて、につめました。それだけでは木が足らず、塩作りをしない大にゅうの方から船で木を売りに来たのでそれを買ってたいたり、かまやや、ゆごまで行ってたき木を買ってたいたそうです。塩をたきつめるのは夜もねないでたきました。まだ塩ができ始めないうちに、かぼちゃの小さいのをまるごとゆでたり、かまの下の火でさつまいもの丸やきをするのが子供の楽しみでした。数時間たつと、かまの底には塩がたくさん残ります。それをざるにとってにがりを取ってでき上りです。その塩を麦わらで作った俵に二俵ずつ入れて売りに行ったり、食べ物と交換に行ったそうです。この塩作りは、昭和二十七・八年ごろ止められました。でも、古い家には今でも塩作りの大きなおけやその他の道具が残っている所があるらしいです。 〉 神崎の小字東神崎 打明 折明 永久畑 水付 山神前 大畑 柳畑 金畑 釜屋割 浜太夫 千畑 釣場 川関 宮越 永太夫 西角 仲道 湊新田 宮口 江太夫畑 三人畑 鶴井元 瀬戸畑 新屋畑 石戸 横畑 外和元 山土良 薬師前 荒神脇 荒神仕明 荒神口 寺脇 蛭子堂 森下 片山下 浜頭 屋敷元 太平 屋敷割 岡道 原籍地 大門下西 寺下 寺西 一黒竹 竹ケ鼻 弥平前 浜塚 辻堂 蛭子元 蛭子堂元 釜屋元 又助 元屋敷 大門東 堀端 志賀原下 池尻 堂後 堂前 稲木場 観音東 水落 多茂木 浜岸 木積場 岡東 滝ノ下 堂屋敷 東畑 堂元 綿畑 釜屋敷 坪ケ内 岩屋口 新浜塚 穴観音口 山岸 塩越下 小屋下 笹坂下 定山 浜 福ノ内 野田尾 森山 奥後 片山下 長坂 道々 小屋場 塩越東谷 塩越 塩越真坂 中坂 段 黒見 焼山 黒島 寺段 山葬 湊川端 溝上 コウラ 荒神 信太 岡上 鳥居堂 西神崎 山神 山折明 油江境 折明 惣野 水付 地蔵畑 中惣野 大畑 永畑 岡畑 柿畑 孫助畑 弥助畑 鳥居堂 千代畑 永久畑 川端 川越 釣場 川関 父畑 湊割 千代鶴畑 塚内 山土良 小滝下 折畑 角畑 蒸畑 五良太夫 中道 新畑 湊川端 宮越 永久 塚下 岡割 庵下 石戸 永春寺 風呂屋元 薬師前 荒神前 山腰 猫塚 横畑 鰐畑 梶畑 出口 小水戸割 今屋敷 孫右衛門畑 外側元 西角 的場 絹畑 新屋畑 湊新畑 湊新 湊新田 大見世 松原 墓元 湊浜 湊川端新畑 湊浜上ノ新畑 宮口 小水戸 孫上良 瀬戸上良 寺腰 上良 元寺屋敷 中部所 小水戸上良 大平畑 孫左衛門屋敷 中池 中村左衛門上良 浜頭 堂東 辻堂境外 辻堂敷 西池 喜平治畑 水戸崎 塩越下 山埋 浜 小滝 墓上 伊佐里毛 片山 野田尾 志賀原 奥後 悪坂 大滝 二苅 日浦滝 矢長坂 鐘崎 三栗 外岡元 五郎太夫畑 惣野畑 古屋敷 屋下 浜頭割 シンザ 才ノ神 浜塚 岡上 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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《神崎の民宿案内》 夏の海水浴の民宿の問い合わせが当HPにも多数寄せられます。当HPはそうしたことを目的とするものではないのですが、知らぬ顔も何となく心苦しいため、今年(2016)の市並びに観光ステーション発行のパンフをそのままコピーさせてもらいアップしました。 由良川河口は特に危険ですから、近づかないように。水の事故に注意して楽しんで下さい。 |
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