旧・河西村
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京都府福知山市大江町蓼原・公庄・小原田・日藤 京都府加佐郡大江町蓼原・公庄・小原田・日藤 京都府加佐郡河西村 |
旧・河西村の概要《旧・河西村の概要》 明治22年〜昭和26年の加佐郡の旧村名。蓼原・公庄・小原田・日藤の4か村が合併して成立した。大字は旧村名を継承し、4大字を編成した。村役場を蓼原に設置。村名の由来は当地方を貫流する由良川の西岸に立地することによる。 昭和26年河守町に編入。編入直後河守町は大江町と改称し、各大字は同町の大字として存続した。平成18年からは福知山市大江町の大字となる。 《河西村の人口・世帯数》525・208 旧・河西村の主な歴史記録《加佐郡誌》〈 河西村。由良川の西岸にあるから出た名である。河守庄に因める名を付けなかったのは何故であらうか。蓼原、公庄、小原田、日藤の四ケ字から成っている。蓼原、公庄の二ケ字は徳川幕府の直轄(久美浜代官差配)小原だ、日藤は本荘氏の所領であった。参考。小原田は源氏の落人村上氏と江州から移って来た川戸勘兵衛の子孫と河守上村仏性寺から移住して来た高橋善太夫の子孫等とが開いてた所であると伝へられている。(村上重左衛門、高橋市郎衛門、川戸重太三氏の言) 〉 《大江町誌》 〈 河西村 元天領の蓼原村・公庄村、宮津領の小原田村、日藤村の四か村の合併。一○か村時代、初め河東地区にあった連合役場は、十七年以後蓼原村に置かれていたが、由良川を境に東六か村と分離して、河西村を構成した。小村であったが地理的に、公庄・小原田に学校をもち、昭和初めまで、二校の維持を続けた。 〉 関連項目【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『大江町誌』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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