北原(きたはら)
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京都府福知山市大江町北原 京都府加佐郡大江町北原 京都府加佐郡河守上村北原 |
北原の概要《北原の概要》 内宮の手前から北原川に沿って遡る。大江山(千丈ケ岳833メートル)の東麓で、上流部に奥北原、中流部の小支流沿いに口北原の集落がある。人里を遠く離れた山間過疎地で大江山の登山口。 北原村は江戸期〜明治22年の村名。天正8年細川藤孝・忠興領、慶長6年からは宮津藩領。 和紙製造も行ったという。江戸時代には宮津藩の御用紙を納めていた。明治以降も大江山鬼障子紙の名で京阪方面で広く売り出されたそうである。 平家落人伝説が残る。熊野神社明細帳(熊野神社文書)によれば、平家の残党上総五良・越中二良・伊東迫田太夫・大隅英らが村の祖先で、現在も上総・越中・大隅などの国名の姓が多く、村には紅旗・旭丸と称する刀、五人張の弓、矢の根などがあったという。伊東屋敷跡・勘兵衛屋敷跡と称する屋敷跡も残る。四国の隈田村祖谷との交渉も近年まであり、祖谷から送られたという池田柿が伝えられるそうである。 村の唯一の出入口であったという「木戸っこ」の地名があり、見張所とか矢谷と称する。宝物を埋めたといわれる小字「かやの木もと」からは素朴な厚手の土器が出土する。古くは採鉱が行われ、鉱山跡から鉱滓が出土、落盤のために鉱夫が生埋めになったという千人塚とよぶ場所がある。 北原村は江戸期〜明治22年の村名。北原は明治22年〜現在の大字名。はじめ河守上村、昭和26年からは加佐郡大江町の大字、平成18年からは福知山市大江町の大字。 《北原の人口・世帯数》25・15 《主な社寺など》 大谷に鎮座の熊野神社(祭神・櫛御気命、伊邪奈岐命、伊邪奈美命)は平氏の信仰が厚かった熊野権現を氏神として祀ったという。社宝には永享12年(1440)の銘のある懸仏と錫杖があり、懸仏は近代に字仏性寺の如来院と二分したという。錫杖は村人の祖先が山伏姿で逃避してきた時のものと伝え、村域内に山伏の墓と称するものもある。熊野神社では10月17目の例祭にその年に氏子入りした少年八人で田楽を行うのを定とした。熊野の神使が烏であるためか、烏田楽という。 奥北原から急坂を登る大江山中腹の小字早谷(標高約六五○メートル)辺りに鬼嶽稲荷神社(祭神・倉稲魂命)がある。五穀豊穣の守護神として知られ、古くから近郷の信仰を集めた。五月上旬の春の例祭には多数の登山客で賑う。 愛宕神社 《交通》 《産業》 北原の主な歴史記録《丹哥府志》 〈 ◎北原村(内宮村より西へ入る) 【熊野権現】 ○奥北原(北原村の枝郷) 〉 《大江町風土記2》 〈 むかし、福知山の人が、京都からの帰りに道づれになった知らぬ人から、長田野で「わしは向うに見える大江山の赤ずりにすんでいる稲荷だ」といわれた。それをきいた福知山の人は、北原へきてそのことをはなしたので、北原の人たちが大江山稲荷神社をまつったということです。 (大江中1 鈴木啓子) 北原の伝説 北原も戦いにまけた平家のさむらいたちがかくれたといいつたえられています。平家の上総五郎、越中次郎、伊藤迫田太夫、太隅英なとは源氏のとりしらべの目をのがれるため、紀州熊野権現の社殿にかくれ生命がたすかった。それから山伏の姿になってにげて北原へ入ったのだといわれています。今も氏神は平家の守り神であった熊野権現をまつり、大隅、迫田・上総などの姓が残っている。部落の中には伊藤屋敷、勘兵衛屋敷などという屋敷あとがある。これらの屋敷を中心に部落があり、そのまわりに竹やぶで囲まれ、一ケ所だけ出入口として木戸がもうけられていたという。そこを今でも「木戸こ」といっている、北原は内宮から小川にそって、せまい谷を二キロメートルものぼらなくてはならないが、その途中の山の上には見識所あとというところものこっている。たえず外から敵が入ってくることをおそれながらくらしたことが想像される。 (北原分校 山下先生しらべ) みそぎをして神をまつる人たち お宮さんには神主があって、その人がお宮のことをやるのですが、北原では氏子の中で互選をして、お宮の世話をしたり、おまつりのとき神主のようなことをする人をきめます。それを〃榊取(はなとり)〃といいます。部落の中で生まれた男子は六、七才ごろになると氏子台帳にらせられます。これを〃講当入り〃といいます。この台帳にのせられた順番に一年づつ〃講当〃になります。講当になった人を〃当人〃といいます。当人になると一年間は次のとこなことをまもらなくてはなりません。 ○葬式や火事場へいってはいけない。 ○四つ足をたべてはいけない。 ○他人の使ったおはしは、洗ってもつかってはいけない。 ○まやごえをいらったり、こえもちもしてはならない。 当人はこのように、からだをきれいにして一年間神につかえ次の人へひきつがなくてはならないのです。これを〃講渡し〃といいます。そのときは新しく講当になる人と二人で天の橋立まで行き、海の水をあびてからだをきよめてこなくてはならないのです。そして当家(講当のあたった家を当家という)ではそのときまでに、家をなおし、たたみをかえてじゅんびをするのです。 十月五日のお蔑つりの日には、親類や部落の人をあつめて、さかもりをして、一生に一度の大切なつとめを無事おわったことをよろこびます。そうして新しい講当の人にひきつぎを終るのです。 この日には熊野神社の社殿では氏子台帳へ新しくのせられた子供七人が田楽を奉納するのです。. 〉 《大江町誌》 〈 隠田百姓村…北原は、元伊勢皇大神社のある内宮から約三キロメートルはなれた大江山の東側の中腹に立地する小さな集落で、標高は約二五○メートル、周囲を大江山連峰と城山に囲まれ他から全く隔絶した地形をもち、隠田集落として好適の条件をもっている。現在、過疎化が進行して二○戸をきる状態になっているが最盛時には五○戸を越えたことが記録に残る。 内宮から早谷川にそって北原にむかう途中には、川の中に苔むした巨岩が庭石のように並ぶ。この石の並ぶところを「とび所」といい、昔は北原へむかう道はなく、踏み分け道と「とび所」を伝って歩いたものだという。全部で四八か所の「とび所」があったといわれ、隠れすんだ人々の知恵が今もうかがえる。北原に近ずくにつれて、谷はますます深く、まわりの山はきり立って、集落があるとは思えない山道だが、山を迂回して北原に入ると急に視界がひらけ、家屋が散在している。ここが口北原であり、正面に熊野神社の森が目に入る。……奥北原の散迫(サンザコ)から魔谷にかけての一帯では、タタラがあって鉄を鋳ていたと言い、近くには災禍の犠牲者を葬ったという千人塚がある。平氏一族の宝物をかやの木の下に埋めたという伝承もあり、今も「かやの木もと」と呼ぶところがある。… …北原の現在の戸数は約二○戸、盛時でも六○戸を越えることのなかった小さな山村である。こんな小さな村に、かつては三つの寺があったと伝える。成願寺、極楽寺、長澄寺であったといい、現在も堂の本、堂の上、堂の下、堂の奥などの地名がある。これらの寺名は、「仏性寺如来院の末寺の覚」にも記載されているが、これらの寺も山伏寺であったのではないかと考えられる。 …この北原には、昔、山伏が子供たちを教える学習所があったと伝える。この地に修行した山伏たちが、一宿一飯の恩義を謝して、自分たちの得た知識を子供たちに教えたのであろう。村はずれには、山伏の墓と伝える墳丘がある。直径二メートルぐらいあったが数年前にこわされた。修行の途中、病死した山伏を地元の人々が手厚く葬ったものだろう。墓といえば、奥北原の墓地の一隅に、「宝蔵院本覚明謹居士」と刻んだ小さいが立派な墓石がある。年月は風化がはげしく不明だが、この墓の主について、「ものすごい修験者で、誰も治療することのできなかった宮津の殿さんの病気を祈祷でなおした人の墓で、俗姓は中尾であった」と伝えている。 修験道にまつわる古老の証言のうち、最も興味をひかれるのが「天狗太鼓」である。古老たちの青年時代まで続いたというから、大正末年ごろまであったものと思われるが、夏の夜かなり夜がふけてから、どこからともなく太鼓の音が聞えてくる。高く、あるとぎは低く響いてくる太鼓の音が神秘的であったと述懐する。村人たちは、夏の夜に響くこの太鼓を「天狗太鼓」と呼んでいた。誰が何のために叩いたものであるのか、誰も知るものはない。ここ北原に残る行者講もおもしろい。行者講は大江町内の各地にあったようで、現在も残るところがあるが、ここ北原では、この日、村中の者が宿に集まり、夕食を共にしたあと、それぞれ縁側の手水桶で、口をすすぎ手を洗ったのち、役行者の掛軸の前で心経をあげる。心経をあげ終わったあと、…ここ北原から大江山へ上る古道は、タカユリ〜ユミゲチ〜サンジャコ〜タテイワ〜マタニと続き、最も深い谷にそい、その上にかなり広い岩場がつづき、この岩場をはい上がると頂上への最短距離となる。古老たちはこれが昔の修験の道だという。鬼獄稲荷神社の約二○○メートル下に、「オオカミ岩」といわれる巨岩があり、ここにも一○人ぐらい入れる洞窟がある。この洞窟も行者たちが冬になるとここにこもって、厳しい修行をしたところだと語り伝える。鬼獄稲荷神社の社殿右手に、「ハシクラさん」と呼ばれる小祠がある。この祠の中に役小角と思われる像を描いた古い掛軸が残る。この掛軸に阿州箸蔵寺と記されている。この箸蔵寺というのは、徳島県三好郡池田町にある真言宗の古利箸蔵寺のことで、箸蔵山頂にあり、天長五年、弘法大師が金毘羅神将の神托を受けて建立したものと伝え、讃岐の金毘羅さんの奥の院とされている寺で修験道との関連も深い。この「ハシクラさん」は、昔は現在地よりも頂上寄りのところに建っていたという。四国と大江町のつながりがどのような経過で生まれたものであるのか明らかではないが、修験道場としての大江山の盛況ぶりを示す一つの材料であろう。この「ハシクラさん」の思い出として、一人の古老は小学生のころ(大正初年)寒の入りの日に、祖父につれられて大江山へのぼり、籠り堂でとまり、翌日「ハシクラさん」へまいって、凍ったごくさんを粥にしたものをいただいて帰った。この行事を「カンセンギョウ」と呼んだという。またこの古老は、北原は醍醐寺派であるということを聞いたことがあると証言する。… 〉 《大江のむかしばなし》 〈 送り狼 北原 亀井 イト 狼はお産が重たいだってなあ。大川さん(大川神社)に願かけてなあ、今日、何人送ったら、安うお産さしてくれるいうて願かけるんですって。大川さんに狼が願かけるんですって。大川さんに、何人送るいうことを。それで、どうぞ安産するようにいうて願かけるんです。 それで、大川さんに参ったら、もどりに送ってきよった。ちょっと行ってたばこすると、それもたばこしてなあ、二間か三間おくれては。そんで、あれが送ってきたんがわかったら、 たばこしては、とにかくこけんようにせえ。こけたら、起こしちゃろう思ってかみつくんですって。 わしのお爺が、この上の家のおっさんと、こう、もどりよったんじゃって、その二人連れ。暗うなって、日も暮れたじゃげなし。どえらい一人はあわてもんのお爺で、この人に言うたら、一目散に走っていくさかい、こける。こけたら噛みつくじゃで、起こそと思って。それで、だんまっとる思ってだんまっとったら、わたしのお爺さんは。そうだけど、言わなどもならん思って、 「たばこしよう」言うて、たばこしてなあ。 「ちょっとあれ見い」ちゅうて。あわてもんのお爺いうたらなあ、もうそこらにおれへん、走って走って。わしのお爺はそろそろもどるんじゃけど、けがせんともどったげなが。 とにかく、狼が送ったんがわかったら、走らんことじゃ。走ったらこけるに決まつとる。こけると、起こそうと思ってくわえるじゃげな。 〉 現地の案内板 〈 鬼嶽稲荷神社 ここは大江山(千丈ヶ嶽)の八合目海抜約六一〇米のところ、頂上まであと約一キロです。ここ鬼嶽稲荷の一帯はブナの原生林で多様な植生がみられ多くの昆虫や鳥獣が生息しており、まさに野生の宝庫です。 昔、神社はもっと頂上にあったと伝え、人々は大江山のことを御嶽と呼んでいました。社伝では、往古、四道将軍として当地へ来た丹波道主命が父、日子坐王の旧蹟に神祠を建立したと伝えます。又、この一帯に修験の遺跡も多く残っています。本殿に向って右手の小祠(はしくらさん)も、その一つです。大江山は修験の山でもあったのです。 社殿が現在地に移されたのは、弘化年間(十九世紀中頃)と思われ、このとき伏見稲荷大社の分霊を勧請し、鬼嶽稲荷と名を改めました。以来、当地方の主産業であった養蚕の神、稲作の神として、農民たちの篤い崇敬を受けてきました。本殿の前の石像をご覧下さい。狐の尻尾は道祖神を思わせます。農民たちの豊饒への祈りがこめられているのでしょう。 秋の早朝、ここからの雲海の眺めは絶景です。特に日の出の瞬間「ご来光」は神秘的で、美しい紅葉と共に、多くの来山者を迎えています。 〉 《大江町風土記第三部過疎のあらし》(1973・大江町教育研究会編) 〈 大江町の北原地区に、古くから伝わってきた「烏(からす)田楽」がありますが、踊り手をつとめる子供たちがほとんどいなくなったため、消え去ろうとしています。 北原の烏田楽 ぼくの家のおじいさんから、烏田楽について話してもらいました。 北原は、平家の落人がかくれ住んだところこいわれ、氏神様も熊野神社といいます。烏田楽は、この氏神様に奉納するおどりなのです。 氏神様の祭礼は、毎年旧暦の九月六日にはじまって、十二日まで一週間続くのですが、その三日目に烏田楽を奉納することになっています。 田楽は、エボシ子七人でおどりますが、麻かみしもに紋服を着け、白たびぞうりばきという服装で、扇子をさします。さした扇子には七たれのごへいをかけるのです。手にはビンササラというものを持ちます。ビンササラというのは、長さ十五センチメートル、巾三センチメートルぐらいの割り竹を八十八枚ひもに通したものです。 烏田楽は、ごへいを持ってしゃがんでいる親鳥のまわりを踊り手がまるく輪になっておどります。しめ太鼓を先頭に、ビンササラを両手でガチャガチャ鳴らし、からすの鳴き声をまねて、「ホー、ホー」とはやしながら、時計の針の方向へまわります。一回まわるたびに、扇子にかけたごヘいを破って庭の木に結びつけますが、そのとき踊り子が一せいに中心に寄っていって親鳥の頭をたたきます。そしたら、親鳥になっている人は、頭痛が起きないといわれています。七回まわると踊りはおわりとなります。 烏は、熊野神社のお使いで、平家一門が落ちのびるとき道案内をしたといいつたえられています。ですから、ここの地区では、烏を大事にしているのです。田楽は、烏が田のあぜに植えてある豆を堀っている情景を踊りにしたもので、踊ることによって、神様を楽しませたのだということです。 この踊りは、別に「烏の豊年踊」「烏の念仏踊」とも呼ばれ、回るとき「ホー、ホー」とはやしたてて踊り子が足をもつれさせるのは、田植えを意味しているといわれています。中央でごヘいを持った親鳥は稲架(いなき)に稲をかけたもので、踊り子の少年が親鳥の頭または背中をたたくのは、稲こきのしろしともいわれています。田遊びが田楽に発展する形を今に残すものとして注目されているということです。 こうした烏田楽も、最近北原の人ロがへってしまったので、ここ二、三年行なわれていません。むかしから伝わってきた郷土の踊りをなんとか残していけないものだろうか。 現在知っておられる方々からよく聞いて、伝えられていくといいと思うのです。 (大江中1年 大同富士夫) 〉 北原の小字北原 大谷 早谷 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『大江町誌』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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