紺屋
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京都府舞鶴市紺屋 京都府加佐郡舞鶴町紺屋 |
紺屋町の地誌《紺屋町の概要》 「コンヤ」とか「コヤマチ」とか呼ばれている、西舞鶴市街地の中央部で、愛宕山のすぐ東麓に位置している。主に住宅地。細川時代から地子免除の町屋であったといい、地名の由来は、紺屋職人が集住したことによるとされる。 田辺城築城以前は、八田村が存在したが、当地はその中心地であったという。 当町西端は江戸期神明口といわれた門前で、愛宕山(西山・天香久山)のすそに笶原神社が鎮座。南端の引土新との境に応永8年創建の曹洞宗桂林寺(もと洞林寺)がある。 「丹後旧語集」に「紺屋町南の端東側の所、明智日向守屋敷跡地」とある、これは明智三羽鳥安田作兵衛の屋敷で、明智光秀もたびたび訪れたという。 紺屋町は江戸期〜明治22年の町名。田辺城下の1町。享保12年の丹後田辺之図による町屋は、南北105間・幅3間・家数77軒、ほかに桂林寺門前57間2尺5寸・家数16間。寛保3年には家数56軒(竹屋町文書)。延享3年には火事で37軒が焼失(竹屋町史)。という。 明治2年舞鶴町に所属。同22年舞鶴町の大字。昭和13年から舞鶴市の大字。昭和20年舞鶴市第2次建物強制疎開により、大橋〜笶原神社間の建物が撤去されている。 《人口》143《世帯数》63 《主な社寺など》 笶原神社 桂林寺 《交通》 紺屋町の主な歴史記録《加佐郡誌》 〈 八田は細川藤孝が舞鶴に築城の際同町字紺屋在住の農民を移して作った所である。其氏神松尾社又八戸地の氏神白髭神社は当地移民が奉遷して来たものである。八田今はハッタと称へるが当時はヤタと言ふた、全く舞鶴町当時の名を其侭移して用ひたものである。 〉 《まいづる田辺 道しるべ》 〈 この外の町内で、田辺籠城図によると、城の大草櫓の前辺りに紺屋町の町名が見える。 この紺屋町がいつ頃西の山裾へ移住されたかは不明なるも、同町に伝わる古文書によると、紺屋町歴代年寄の最初の方は、天和歳中(一六八一〜一六八三)太郎兵衛とあり、文政九年当時紺屋町の家数は六十一軒、町長一○五間(百九十メートル)とある。(佐藤正夫氏の紺屋町絵図物語より) 紺屋町と呼ばれる町名は城下町ではよく見受けられるもので、染め物を業とする職人の住む町屋のことで、同町には桔梗屋の屋号をもつ染物屋があったことが記されている。 橋東町内の内、平野屋町、丹波町、魚屋町のそれぞれに付随していた吉原は、享保十二年(一七二五)の城下町大火災後下安久の現吉原へ移転し、東西吉原町が形成されている。 〉 紺屋町の小字関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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