丹後の地名

遠處遺跡(えんじょいせき)
京丹後市弥栄町木橋・鳥取


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京都府京丹後市弥栄町木橋・鳥取

遠處遺跡の概要




「道の駅・丹後あじわいの郷」の北、「フルーツ王国やさか」の東側がその遺跡のある所である。別にこの遺跡から丹後製鉄が始まったということでもなかろうが、丹後の鉄を一度に全国的に有名にした遺跡である。こんな案内板がある。↓
遠處遺跡(弥栄町木橋)
↑「あじわいの郷」と「フルーツ王国やさか」を結ぶ陸橋の下に遺跡が保存されている。ここは「丹後王国の道」(広域農道)側の入口。そこの陸橋の下である。遠處遺跡はここにだけわずかに保存されている。さらにまっすぐに進めばニゴレ古墳がある。

茗荷谷の鍜冶工房跡である。↓(陸橋をくぐったところ左側)
遠處遺跡(弥栄町木橋)
同じ場所で振り返ると、向こう側の丘、タワーのある丘が「あじわいの郷」↓鳥取古墳群や桐谷古墳群があった、麓の平坦地はニゴレ遺跡。
「鍜冶工房跡」の看板の後の丘には遠所古墳群↓、その周囲の丘や平坦部もすべて遠處遺跡。このあたり一帯はオール古代遺跡である。
遠處遺跡(弥栄町木橋)
そのごく一部の小さな谷、茗荷谷の全体(谷奥側から)↓
遠處と書いたり、遠所と書いたり、ややこしいがどちらかへ、できればやさしい方へ統一していただきたいもの。
遠處遺跡(弥栄町木橋)
谷の一番奥、ここに鍜冶工房があった、案内板がある。↓
遠處遺跡(弥栄町木橋)
以前はこうした除草していた↓
遠處遺跡(弥栄町木橋)
谷の出口に当時製鉄用の炭を焼いた窯跡が幾つも並んでいる↓
製鉄には多量の炭を必要とした。
遠處遺跡(弥栄町木橋)
ダ~レもいない、猫の子一匹見当たらない、畑耕す人が忘れたのかゴム草履が一足あった、最先端工業というのはこうしたものか、害がないだけでもいい、原発なら10万年後でも放射能を持っているが…。
案内板↓




京都府指定文化財
遠處遺跡群鍛冶工房跡
 この谷からは、製鉄炉・鍛冶炉・炭窯・須恵器窯・竪穴式住居・掘立建物跡などが検出されており、5世紀末頃から13世紀頃まて長期間にわたり利用されています。
 古墳時代後期(6世紀後半)と思われる鍛冶も確認されていますが、奈良時代後半(8世紀後半)においては原料(砂鉄)-製鉄-精練-鍛練-製品までの一貫した生産体制てあったことが明かとなっています。鉄生産の各工程を知ることのてきる遺跡は非常にめずらしいものてす。
鍛冶炉付近からは、小割にした刀や研ぎ減りした刀子なども出土しており、使用された鉄製品を再溶解し、新たな鉄器を作っていたことも考えられます。この谷での鉄製産は、一時最盛期をむかえたようで丘陵斜面にまて鍛冶炉を築いており、その鍛冶炉の壁は修復してまで使用されていました。
鍛冶炉を取り囲むようにかなり大きな柱穴があり、丘陵裾部のわずかな平地には密集して数棟の工房が立っていたと考えられます。
 また、生産の場か生活の場てもあったようで、工房建物周辺の平坦地には多くの建物が検出され当時使用された土器・木器・石器・金属器や食べた物などが多量に出土しています。
京丹後市教育委員会



丹後の鉄が全国的に注目されるのは、遠處よりもむしろもっと古い弥生中期後半ごろから、終末期くらいの時代である。この時期の丹後は全国No.1の鉄器の出土量で知られる、北九州も大和も寄せ付けない。奈具岡や日吉ヶ丘や大風呂南の時代で、絶対年代で言えばだいたい紀元0年くらいから卑弥呼時代の頃までの丹後である。
『丹後の弥生王墓と巨大古墳』(弥生王墓と巨大古墳の特質  広瀬和雄)は、
…鉄剣や鉄戈などの武器副葬の風習は、弥生時代中期後半ごろから北部九州の首長墓にみられるが、そこでは鉄鏃はほとんどなく、前漢鏡・後漢鏡の副葬が注意をひく。むしろ丹後によく似た情況は、南部朝鮮の弁韓地域にみとめられる。ここでも一世紀ごろになると、墓域が丘陵に移行し、鉄製品や玉類などを副葬するが、丹後にはない土器の副葬もおこなう。そうした彼我における現象が「他人の空似」なのか、なにがしかの交渉を想定できるのかは、これからの研究をまつほかない。
 あいつぐ丹後の弥生墳墓の発掘調査で、もっともクローズアップされたのは、やはり鉄器、ことに武器の副葬であった。野島永氏の集成によれば、合計四二振りの鉄製刀剣が一四カ所の弥生墳墓から出土しているが、これは列島各地における弥生墳墓の副葬数では一頭地を抜く。ことに大風呂南一号墓第一主体部の一一振りの鉄剣は、埋葬された首長の基盤が奈辺にあるのかを、じゅうぶんに想像させるものだった。これらはおそらく首長の威信財としての役割をにない、その死とともに副葬されたのだろうが、鉄製武器を威信財にしていた社会とは、いかなる構造をもっていたのか。すくなくとも、そうした情況が継続されている事実からすれば、鉄製武器の恒常的な獲得が可能であったことになろう。…


弁韓というのは、朝鮮半島南東部の洛東江の流域、加悦町の伽耶(かや)諸国のことで、過去の日本史で、日本の植民地だったという任那(みまな)のことである。この当時の鉄の大産地としてよく知られる。辰韓というのは後の新羅で、ここより少し北にいた種族だが、互いに似ていたそうで、まとめて「弁辰」と呼ばれることがある。

『魏志』のその「弁辰伝」に、


 〈 国々は鉄を産出し、韓、濊、倭など皆、これを採る。諸貨の売買には皆、鉄を用いる。中国で金銭を用いるがごとくである。また二郡(楽浪・帯方)に供給している。  〉 

「男女の習俗は倭に近い」と『魏志』は書くが、その伽耶人たちがこの時期に大量に丹後へ渡来してきたかも知れない、そうでないと、説明ができにくいのである。別に「日本国」なるものがあったわけではなく「日本人」なるものがいたわけでもない、何も気にすることはなくよい場所があれば移住した時代であった。
この時期の製鉄の遺跡はまだ発掘されていない。鉄を一から作るとなれば、それ相応の進んだ技術と各分野の専門家集団と資本とそれらを束ねる社会組織が必要になる、技術はともかくも弥生時代にそうした社会が可能かが問題になる。そうしたことなどから鉄素材は輸入して加工だけを行ったのではないかと推定されることが多い、鍛造だけならたいした社会は必要ではないと思われるのである。
しかし大規模に製鉄を行うのならそうだろうが、当時の小規模なものなら、あるいは可能かも知れず、げんに扇谷からは鉄滓が出土している、そうしたことから何とも今は判断できない。

遠處は、その時代から4、500年後の遺跡である。これはその大規模な大製鉄コンビナートである。鉄がしっかり作れるということは、丹後は日本でも屈指のしっかりした社会だったということで、あるいは今よりもずっとしっかりしていたかも知れない。
現地説明会には全国から400名が集まったとか、こんなことは木橋の村の開闢以来の出来事だったという。
そのときの資料によれば、吉岡時夫氏がまとめられているので、そのまま引かせてもらうと、…
『郷土と美術』(1991)
 〈 「遠所古代製鉄遺跡についての考察
-古墳・地名・伝説・製鉄神とかかわって-」   吉岡時夫

―、遠所遺跡群調査の概要
 農林水産省近畿農政局が計画推進する「丹後国営農地開発事業・弥栄町字木橋鴨谷団地造成工事」に先立ち、京都府埋蔵文化財調査研究センターが発掘調査を実施した。
 遺跡は弥栄町の西端、ニゴレ古墳(五世紀中頃築造)の南側の谷奥、南北八百米・東西四百米の範囲に広がっている。
 調査は一九八七(昭六三)~一九九○(平成二年十一月)現在も続いている。平成二年八月十日現在説明会資料によると、製鉄炉八。鍛冶炉一三。炭窯焼土坑二一一。須恵器登窯六。住居建物跡四七。流路溝等九。古墳二二。計三一六という規模の大遺跡群である。
 遠所遺跡群調査の成果について、埋文調査センター増田孝彦主任調査員の現地説明の要点は、次の六点であった。
 ①遠所遺跡群からは五世紀~十三世紀にかけての各種の遺物が出土している。製鉄炉はじめ、炭窯・住居跡など鉄生産に関する一連の遺構があり炭窯については四型式がある。
 ②製鉄炉は古墳時代後期六世紀後半のものと奈良時代後期(八世紀後半)が確認できる。鉄生産に必要な炭窯から見ると五世紀-六世紀初頭まで遡る製鉄遺跡の存在も考えられる。
 ③製鉄原料の砂鉄貯蔵穴、奈良時代後期の製鉄炉と鉄滓の検出等から、原料(砂鉄)-精錬-鍛錬-製品の一貫工程を遠所遺跡群で行っていたことが判明した。
 ④製鉄研究は、東日本七世紀後半以降、西日本六世紀後半以降の資料をもとに進められているが、今回の調査は製鉄開始の時期、炉や炭窯の構造と年代、砂鉄を原料にしていることから製鉄史上貴重な資料提供になる。
 ⑤製鉄と地名の点から弥栄町に「芋野」・「井辺」という大字名があり、字吉沢にある早尾神社の摂社に金山彦神が祀られていることから、鋳物師との関係が指摘される。又宮津市智恩寺と成相寺に現存する国指定重要文化財の正応三(一二九○)年銘、鉄湯船(経一七二・五㎝、高さ六三・五㎝)はその銘文から、もとは弥栄町内の興法寺、および、等楽寺にあったことが知られており、鎌倉時代の製鉄が確実視されている。遠所の製鉄遺跡とあわせると、弥栄町の長い製鉄史をうかがうことができる。
 ⑥丹後半島で古代製鉄を考えると、峰山町扇谷遺跡(弥生時代前期末-中期初頭)の鉄斧、鍛冶滓が出土しており、深い環濠を掘るために鉄製の道具を使用したのではないか。遠所遺跡の調査とあわせ考えると、丹後という地域は、日本での鉄器使用と鉄生産を始める時期、場所を考える上で重要な地域である。  〉 


遠處遺跡の主な歴史記録


『京丹後市の考古資料』遠處遺跡
 〈 遠處遺跡・遠所古墳群
(えんじょいせき・えんじょこふんぐん)
現在地:弥栄町鳥取、木橋小字鴨谷、通り谷ほか
立地:竹野川中流域左岸丘陵斜面および谷部
年代:古墳時代後期~平安時代前期
調査年次:1987~1995年(府センター)
現状:全壊(京都府農業公園丹後あじわいの郷)
茗荷谷地区の一部保存(府指定史跡)
保管:市教委、府センター
文献:C087、C1O6.C115
遺構
遠處遺跡は竹野川の中流域、弥栄町から北東に府道53号網野岩滝線を丘陵に入った谷部にある大規模な生産遺跡である。古墳時代後期の竪穴住居跡群や竪穴系横口式の石室をもつ小規模古墳群、奈良時代から平安時代に移り変わる時期の製鉄、製炭、鍛冶などの鉄生産と須恵器生産にかかわる多数の遺構が検出された。 古墳時代後期、6世紀の竪穴住居跡は47基以上検出された。丘陵斜面をL字にカットして方形平坦面を作り出し、上屋構造を設置したものと考えられる。斜面に立地していたために、その多くは流出しており、部分的な検出にとどまらざるをえなかった。なかには鍛冶炉をもつものもある。
調査地域のほぼ中央で検出された古墳群には、木棺直葬墳14基、竪穴系横口式石室を内包する小規模円墳4基などがある。19、21号墳が5世紀末葉(木棺直葬)、4、5、9、13号墳(木棺直葬)が6世紀前半、3、8、32号墳(木棺直葬)、1、2、31号墳(竪穴系横口式石室)が6置紀中葉から後葉、24号墳(木棺直葬)、27号墳(竪穴系横口式石室)が6世紀後半に造営されたものとみられる。土器がみられなかった16~18、22、23号墳(木棺直葬)もおそらく6世紀後前半ごろに築造されたものとみられる。石室墳では6世紀後葉まで追葬されており、その後墳墓の造営はみられなくなる。竪穴住居に居住した人々が埋葬されたものとみられる。これらの遺構に重複するように掘立柱建物跡群、製鉄炉や炭窯、須恵器窖窯などが検出された。掘立柱建物群の多くは8世紀後半から9世紀にかけてのものであり、鉄生産や須恵器生産を行った工人たちの居住を考えることができる。
製鉄炉は5基検出された。炬底下の防湿のための掘り込み部分しか桧山されなかったものの、その周囲には炉壁片や鉄滓が出土した。炉の長軸が2~3m以上の細長い長方形の箱形炉になる。排出された鉄滓の層のなかから6世紀後葉と8世紀後半から9世紀初頭の須恵器が出土している。炉形からすれば製鉄炉の多くは後者の時期に属するものとみられる。
 また、製鉄に伴う木炭生産も同時に行っていた。一辺1m、隅丸方形の焼上坑や、一辺4mを越える方形の焼土坑などがあり、木炭が遺存して炭窯と判明したものだけでも112基ある。このほかにも登り窯状の炭窯9基や、いわゆる八目ウナギと称される補助燃焼口のつく横口付木炭窯5基がある。いずれも8世紀後半のものが多いが、登り窯状炭窯の一部に6世紀末葉とされるものもある。須恵器焼成用の登り窯も5基検出された。いずれも8世紀後葉で木炭焼成に転用されたものとみられる。
遺物遠處遺跡工房跡
 出土遺物の多くは6世紀の土器群である。鍛冶をおこなった住居付近からは羽口や鉄滓が出土した。古墳群からは6世紀代の須恵器や土師器なととともに鉄製小刀や鉄鏃、鉄地金銅張りの鞍金具(乗馬用鞍の金具)などが出上した。古代には製鉄にともなう炉壁や鉄滓など大量の廃棄物が見つかっている。茗荷谷地区の流路からは古墳時代および古代の木器が出土した。農具(ナスビ形木器、鋤、大足、田下駄)や容器(刳物、組物、曲物)のほかに案(机)や楽器(琴柱、共鳴箱)機織具などがある。
 このほか星宿図をあらわした方形板状品(符ロク)や砂鉄が遺存した上坑から「く余戸郷□真成田租籾五斗<」と記された荷札木簡が出土しており不動倉の籾が賑給されたことがわかる。9世紀の緑紬香炉や円面硯なとも考慮すれば、公的機関の存在を推測することができよう。
意義
当該遺跡は丘陵裾の谷部に広がる古墳時代後期および奈良時代後期から平安時代前期の複合生産遺構である。丹後地方において古墳時代後期に開発された丘陵地域の集落であり、周囲の森林資源の豊富さから奈良時代までには製鉄が開始され、窯業生産を伴う複合化した生産遺跡として発展したが、平安時代には急速に衰退した。なお遺跡のうち茗荷谷地区の一部は保存、公開されている(府指定史跡)。  〉 

『丹後の弥生王墓と巨大古墳』
 〈 「製鉄技術の導入-遠所遺跡群をめぐって-大道和人」
三 製鉄技術の導入
 わが国における製鉄の開始時期については、弥生時代とする説と古墳時代とする説の二つがあり、約三○年間活発な論争が続いている。近年、広島県三原市小丸遺跡の製鉄炉(SF一)が弥生時代後期に遡り、また広島県豊栄町見土路遺跡の製鉄炉が五世紀末にまで遡る可能性のある巨大なものであるとの見解が発表され、六世紀前半以前の国内での製鉄の存在が注目されるところとなっているが、両遺跡の製鉄操業時期については検討の余地があるとの意見もでている。
 現状では通り谷地区O地点の六世紀後半に比定される製鉄操業は日本最古級のものである。六世紀後半の製鉄遺跡としては遠所遺跡群のほか、福岡・島根・広島・岡山・兵庫県などの西日本にその分布が認められ、六世紀後半の製鉄遺跡の事例に比較的まとまりがみられることから、この時期が国内での製鉄発展段階の一つの画期に位置づけられよう。
 近年韓国でも製鉄遺跡の調査がいくつか行なわれている。忠清北道鎮川郡徳山面石帳里遺跡では、四世紀から五世紀初頭と推定される鉄の製錬、精錬、鋳造、鍛冶関連の遺構・遺物が検出されている。検出された製鉄炉のうち、四-一号炉は長軸二・五メートル、幅○・五メートルと平面形が細長い長方形を呈する箱形炉である。平面形は遠所遺跡群で検出されている炉形に類似する箱形炉であり、約二○○年の時期差はあるが、製鉄技術の系譜を考える上で注目される。原料は鉱石を使用しているようである。
 また、慶尚南道梁山郡勿禁邑勿禁宅地開発事業地区遺跡では、六世紀から七世紀に比定される製鉄遺跡の調査がなされている。製鉄炉の詳細は削平を受け不明であるが、大量の鉱石と、大口径の送風管、流動滓をほとんど含まない鉄滓群が出土していることから、東日本で八世紀に導入される竪形炉の系譜に繋がるものと推定される。
 三国時代前期には朝鮮半島では、炭素の含有の高い銑鉄と炭素の含有の低い塊錬鉄という二つの由来をもつ鉄器が存在していることがすでに指摘されている。つまり、銑鉄系の鉄素材を生産する技術と塊錬鉄系の鉄素材を生産する技術という、二つの製鉄技術が並存していたと考えられるのである。石帳里遺跡や四世紀に比定される慶尚北道慶州市隍城洞遺跡などの調査では、土製鋳型や溶解炉に伴う大口径の送風管などが出土しており、朝鮮半島での銑鉄生産や銑鉄を利用した鉄鋳物生産の実態が明らかになってきた。
 一方、日本国内の製鉄遺跡で銑鉄生産が開始されるのは八世紀代に入ってからであり、その生産が軌道に乗りだすのは九世紀まで待たねばならない。遠所遺跡群の製鉄をはじめ、六世紀から七世紀にかけての国内の製鉄炉では、銑鉄を主体的に生産していたとは考えることができない。それは鉄鋳物に関わる鋳型が当該期にほとんど出土していないことからも首肯されるところであろう。六世紀から七世紀にかけての遠所遺跡群をはじめとする日本国内の製鉄遺跡での鉄素材は、塊錬鉄系のものが大部分を占めており、朝鮮半島の塊錬鉄生産技術が導入された可能性が高い。
 韓国で塊錬鉄生産技術の様相を具体的に示す製鉄遣跡の調査が行なわれていない現段階において、銑鉄生産技術と塊錬鉄生産技術との技術的および技術集団の階層性を論ずるのは早急の感があるが、日本国内の八・九世紀に比定される製鉄遺跡の調査事例からは、竪形炉は銑鉄生産的傾向をもち、箱形炉は塊錬鉄生産的傾向を持つとの見解を導き出すことができる。竪形炉には踏みフイゴが伴うなど、送風技術に技術的先進性がみられ、また炉内の温度も高温に達している調査結果があることなどを考慮すると、八・九世紀段階では、竪形炉の方が箱形炉より技術的レベルが高い、つまり、銑鉄生産の方が塊錬鉄生産より技術的優位性がみられると判断される。
 六世紀後半の倭政権が、朝鮮半島で技術的優位性をもつ銑鉄生産技術を導入することができず、技術的により劣位の塊錬鉄生産技術を導入した、またはせざるを得なかったという状況は、六世紀後半の伽耶の滅亡などの朝鮮半島の動揺などと合わせ、鉄をめぐる倭政権と朝鮮半島との関係を考える上で、注目すべき点であると考えられる。…  〉 

『網野町誌』
 〈 丹後における巨大古墳築造の謎を解くもう一つの手掛かりが、つい最近、弥栄町で発見された。網野町境の遠所遺跡がそれで、古墳時代から奈良・平安時代にかけての大規模な製鉄遺跡が発見された。この遺跡は、製鉄炉や鍛冶炉とともに燃料に使う炭を生産する大量の炭窯が住居跡などと一緒に出土し古代の製鉄コンビナートともいえる大製鉄跡であることがわかった。遺跡の年代は六世紀後半の遺構が確定できる最古のものであるが、炭窯は五世紀末までにさかのぼるものがあり、我が国最古の製鉄遺跡になる可能性も残されている。丹後地方では、すでに弥生時代前期末から中期初頭の峰山町扇谷遺跡から鉄器生産に伴う鍜冶倖が出土しており、鉄器の生産が行われていたことが知られている。このため丹後が古代の鉄生産の一つの根拠地として位置していたのではないかと考えられている。この鉄をめぐる社会的、経済的状況も、丹後が大和政権と結びつく大きな要素になったのではないだろうか。現在のところ、丹後の巨大古墳の時期と遠所遺跡の製鉄遺跡の時期とはずれがあるため確定的なことはいえないが、鉄生産基盤をもつ丹後の勢力と大和政権との政治的連合の結果、巨大古墳が築造されたという可能性も出てきたのである。  〉 

報道もすごかった、そのごく一部だけ
『毎日新聞』(90.6.16)
 〈 *ニュースワイド*竹野郡弥栄町遠所遺跡群*日本最古級の製鉄遺跡出土*「古代丹後鉄王国」の存在示す?*5世紀代に最盛期、交易も広範囲に*
 丹後半島のほぼ中央に位置する竹野郡弥栄町の遠所遺跡群で先月末、日本最古級の古墳時代後期(六世紀後半)と奈良時代後期(八世紀後半)の一大製鉄遺跡が出土した。鉄生産は古代のハイテク技術。日本海沿岸で最大級の巨大前方後円墳が集中、日本海を利用して独白の文化圏を形成し、大陸とも早くから交流のあったとされる丹後半島が、当時の日本の″先進地″だったことを示す証拠がまた一つ加わったわけだ。そこで浮上してくるのが、古墳時代の丹後が出雲や吉備などと同じように独立した国家を形成していたとする「古代丹後王国論」。製鉄遺跡発見の意義を考えながら、古代丹後の姿に迫ってみよう。(鴨志田 公男記者)

鉄生産
 「鉄に関連して丹後が文献資料に登場したことはなく、製鉄遺跡が見つかるとは夢にも思っていなかった。しかし、文献に登場しないのは、丹後独自の鉄流通ルートがあったからではないか」と話すのは、古代丹後王国論を提唱してきた門脇禎二・京都府立大学長(古代史)。門脇学長は、日本書紀や古事記をもとに丹後の有力者の系図を作り、さらに発掘調査の成果をまとめ、地域独自の王権と支配体制▽一定の政治領域▽独自のイデオロギー--の三つを兼ね備えた王国が、竹野川流域を中心に存在したと説く。
 王国は、丹後に巨大古墳が出現する四世紀中ごろから末に治まり、五世紀代に最盛期を迎え、大和国家が出雲との戦いに向かう六世紀中ごろからその支配下に入っていったはずだという。遠所遺跡群は竹野川流域にあり、製鉄炉に伴う炭窯の地磁気や炭素分析を利用した年代測定から、府埋蔵文化財調査研究センターも王国が栄えたとされる五世紀の末までさかのぼる可能性も指摘している。
 門脇学長が「生産された鉄は大和へ運ばれたとする説が多いが、現地で鉄を使わなかったとは考えられない。たとえ大和へ運ぶにも、生産を束ねる有力者がいたはず。鉄生産が王国を支えていたとも考えられる」と話す。

弥生時代
 丹後が栄えていたのは古墳時代だけではない。これに先立つ弥生時代にさかのぼっても丹後の先進性を示す遺跡が多い。
一九七四年に発見された、峰山町の扇谷遺跡。弥生時代前期末から中期初めにかけての高地性集落で、竹野川流域を一望する丘陵にある。その周囲には二重の環濠が巡らされ、特にV字形の内濠は延長約一㌔、最大幅約六㍍、深さ四㍍もある巨大なもの。同時代の高地性集落で環濠を巡らせた集落は他に類例がほとんどない。遺跡からは鉄器やガラスの原料なども見つかっており、高度な技術を持っていたことをうかがわせる。
 さらに久美浜町の函石浜遺跡からは、中国新代(西暦八年-二三年)に鋳造された貨幣「貨泉」が二枚見つかっている。丹後が弥生時代の前期から中国大陸と関係を持っていた可能性を示すものだ。丹後は今でこそ交通、情報面で立ち遅れているが、当時は広範囲に交流を展開していたといえる。
 また、弥生時代の丹後を特色づけるものに、丘陵上に壇状の区画や浅い溝を持った「方形台状墓」がある。扇谷遺跡の南方、峰山町の七尾遺跡で弥生時代前期末、同じくカジヤ遺跡で同中期、丹後町の大山墳墓群で中期から後期初めにかけての方形台状墓が一九八一年に相次いで見つかっている。台状墓の発展が系統的にたどれるのは全国でも丹後だけ。そこに門脇学長は「新しい葬制としての丹後独自のイデオロギー形成と発展」を見る。

古墳前期
 続く古墳時代前期の四世紀。丹後には巨大な前方後円墳が出現する。ナンバー1は網野町の網野銚子山古墳(全長一九八㍍)。日本海沿岸でも最大の前方後円墳だ。次いで丹後町の神明山古墳(同一九〇㍍)。さらに加悦町の蛭子山古墳(同一四五㍍)、弥栄町の黒部銚子山古墳(同一〇五㍍)と目白押しだ。
 ところでナンバー1と2の網野銚子山と神明山の両古墳はいずれも河口に近い。砂丘が発展する過程でできる潟湖との関連性が考えられ、網野銚子山古墳のそばには現在でも離湖があり、神明山古墳のそばにもかつて潟湖があった。
 潟湖は波静かな自然の良港。日本海沿岸は潟湖を基地とした海上の交流ルートがあり、日本海文化圏を形成していたという考え方も現実味を帯びてくる。海上からも巨大な姿を見せる前方後円墳は、潟湖を支配下に置いた″丹後の王″たちの権力の象徴だったのだろう。

古墳中期以後
 古墳時代中期以後、丹後の古墳の副葬品には畿内的様式を持つ豪華なものが目立つ。
 速所遺跡群のすぐ東側、弥栄町のニゴレ古墳は丹後の古墳時代中期を代表する円墳(直径ニ○㍍)。一九五八年の発掘調査で船形や家形の形象はにわ、鉄剣やカブトなど畿内的な副葬品が多数出土した。古墳時代後期では、久美浜町の湯舟坂2号項から、一九八一年に黄金色の輝きを残す金銅装の環頭大刀(全長胃二十二㌢)が見つかっている。
 これらの多彩な遺跡があっても、丹後が大和の支配下に入っていたと考えるべきなのかどうか。門脇学長は「丹後王国とか吉備王国とかいうと、すぐ大和朝廷と対立していたと考える人がいるが、そうではない。朝鮮や中国といった海外ばかりでなく、地域国家同士が外交関係を結んでいたと考えればいい。外交を結んでいる国の影響を受けるのは当然で、例えば奈良県の遺跡から吉備の影響を示す遺物が数多く見つかっている。丹後も大和朝廷と外交関係を持っていただけ」と説明する。
 今、丹後では、農業の活性化を目指した国営総合農地開発事業が進んでいる。遠所遺跡群の発見も、開発事業に伴う事前発掘調査の結果だ。丹後王国がはたして存在したのか。解明する手がかりとなる遺跡の発見が、今後も続くのは間違いない。その成果を楽しみにしたい。  〉 




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関連情報




【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『弥栄町誌』
その他たくさん



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