丹後の地名

橋木(はしぎ)
京丹後市峰山町橋木


お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。


京都府京丹後市峰山町橋木

京都府中郡峰山町橋木

京都府中郡丹波村橋木

橋木の概要


《橋木の概要》



波郡(中郡)の北端で、丹波か矢田から府道掛津峰山線、さらに府道木橋鳥取線と進む。集落は高野山真言宗縁城寺の門前で、式内社・癸枳(はちき)神社があり、その社号が転訛した地名である。なお延喜式では癸枳神社は竹野郡に記載されている。また「室尾山観音寺神名帳」の「竹野郡五十八前」に、「正四位 発枳(ホツキ)明神」とあって、こうした当時は当地は竹野郡に属したようである。

『中郡誌稿』は、
 〈 按、此村もと竹野郡に属せしならん其証は延喜式に当村撥枳神社を竹野郡に出たし縁城寺寺地図面にも仁王門前東方の石橋に註記して「往古此橋竹野中両郡境」とあるを以て知るへし或は想ふ隣村竹野郡木橋村あるは何の時か一村を二分し文字を転倒して区別せしものにあらさるか又按、縁城寺寺地はもと竹野郡なりしが寛文年中丹波郡となりたること古記に明文あり  〉 

橋木村は、江戸期〜明治22年の村名。「慶長郷村帳」には縁城村、元和8年の峰山藩の郷村帳には縁城寺村と見える。はじめ宮津藩領、元和8年からは峰山藩領。明治4年峰山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年丹波村の大字。
橋木は、明治22年〜現在の大字名。はじめ丹波村、昭和30年からは峰山町の大字。平成16年から京丹後市の大字。


《橋木の人口・世帯数》 192・46


《主な社寺など》

竹野郡式内社・発枳神社。(橋木千原)
発枳神社(峰山町橋木)
どこに鎮座あられるのか、しかし何と読むのか、ハチキと言っても、カラタチといっても橋木村の人に通じない、式内社などといっても通じるわけないと思いそれは聞かなかった、「お宮さんはどこでしょうか」と尋ねるのが一番よろしいよう。普通は「姫宮さん」と呼ばれているようである。落ち着いて見ればカーナビには表示されていた…
 ハシギ村といい、縁城寺の山号も発信貴山だからハツキと読むのではなかろうか。しかしその意味は古来誰にもわからない。
ずいぶんと昔から意味不明であったのではなかろうか、平安期にはもうわかっていないよう、カラタチというのは式にある訓注だが「枳」という漢字からそう読んだのではなかろうか。大宮売神社鎮座の周枳や口枳郷などはこの「枳」を当てているが別にカラタチとは関係はあるまい。舞鶴多門院にも梯木林(はしきばやし)という地名がある。何か天へ昇れるような巨木だろうか。
カラタチはカラのタチバナのことで、カラは伽羅、駕洛とか伽耶とか呼ばれる朝鮮南部にあった小国である、与謝郡には加悦があるがこれは伽耶だという説がある。『倭人伝』の狗邪韓国の狗邪であるが、カラを唐と見て中国としたりもするが、本来は韓国の金海あたりにあった都市国家をこう呼んだと思われる。当時の倭国からみれば文化の進んだあこがれの国で、今でいえばアメリカかフランスみたいに思っていたようである。
♪花はタチバナ、夏はタチバナ…、の橘は要するに日本固有のミカンである。記紀は田道間守が常世国から「非時香菓・非時香木実」の不老不死の霊薬を持ち帰った、非時香菓を「是今橘也」としている。田道間守・多遅摩毛理は隣国の但馬国守で、こうした伝説は丹後木津でも見られて橘小学校もある。常緑の元々は南方系の低木で丹後にあったかどうかは不明、それを祀った神社だというわけである。
それが本当かどうかは不明である。古社名でもそうだが、表記に使われた漢字を見て意味を判断してはならない、それはたいていは音だけを表記したものである。
発枳神社の神額神社の神額は右→のように書かれている。木偏に発と書く字は私の持っている漢字辞典にはないしパソコンで表示もできない。文献もこの字を書いているものが多いが、当ページでは「揆」にして引用している。
木偏にしているのは植物だと見ているのだと思われる。

先人達はそう考えてきたようだが、ここでは発枳の発音だけをとってハツキと読んで考えてみよう。
「八木」と書いてヤギと読むのが普通であるが、これはあるいは本当はハツキ、ハチキなのかも知れず、あるいは発枳は八木と同じ意味かも知れない。
ツキは槻で、名木神社の伝説の神木、槻の樹のこどてはなかろうか。槻は本当はハツキと呼んでいたのかも知れない、さらに本当はハハツキではなかろうか。ハハはヘビのことで、蛇(ハハ)の(ツ)木という意味だろうと思われる。槻は欅の古名で、その樹皮は何となくヘビのウロコを思わせるようなものとなり、ボロっと剥がれる。名木神社の神木、というより御神体木にふさわしい。名木とはたぶんヘビの意味であろう。発枳もまた槻のことで、その古い呼び名を残したものだったかも知れない。

『中郡誌槁』
 〈 撥枳神社
(延喜式)竹野郡 発枳カラタチノ神社(頭註)発枳諸本訓似一レ穏今按和名抄丹波郡有国枳(周枳の誤なり)口枳郷名撥枳亦地名歟或当保伎
(丹後旧事記)撥枳ハシキノ神社 撥枳邑
祭神−豊宇賀能(口編に羊)命 延喜式小社
此神社非竹野郡和銅国造後丹波郡與成国史相違又縁城寺当社坊官與成依撥枳山号
(丹波一覧集)同上 但し訓カラタチノ神社とす
按、訓ははしきと音読すべし村名も縁城寺の山号も此の社名より起る延喜式頭註の訓採るに足らず
(両丹式内神社取調書)撥枳神社(頭註)〔道〕丹波郡橋木村発枳をからたけと読むは誤なり波知枳なり今橋木と訛る抄に只枳とあるは八枳ハチキの誤なり(下略)(按、只枳とはなし口枳なり)
(丹哥府志)撥枳神社、撥枳の神社は大神宮に姫宮大明神を合せ祭る姫宮大明神は風土記に所謂天女なり祭九月十六日
(峰山明細記)社二ケ所(但神主無御座候村支配に御座候)
一ケ所 (三尺社の内) 姫宮明神、太神宮、春日明神 上屋一間半に二間 境内長六間半幅四間半程 不動院持
右祭礼九月十六日和田野村神子さん相雇神事相勤させ申候
一ケ所 (小祠)愛宕権現 上屋一間半に二間 境内長九間幅七間 不動院持 右両社山一ケ所間数難相知御座候
(村誌)村社 字千原 撥枳神社 祭日九月十六日 祭神樋速日命
由緒 社記記録等存在せされは確據ならされとも里古老の口碑を具に挙れは上古より現今の社地たりしが当村縁城寺西明院別当たりしと云々
境内東西十二間南北八間 面積九十一坪
境内神社 二社 愛宕神社 祭神軻還樋命 由緒不詳 稲荷社 祭神保食大神 由緒不詳
按、撥枳神社祭神も亦豊宇賀能(口編に羊)命なること疑なからん天酒大明神と称するも矢田丹波両村の例と均し  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【揆枳(からたち)神社(式内社、橋木、祭神 通速日命)】『延喜式』竹野郡発枳(からたち)神社である。「社号」について、『延喜式』に発枳神社とあって、カラタチノ神社と振仮名してある。カラタチは枳一字でもよい。『本草和名』に「枳は一名枳穀……和名、加良多知」とある。また古伝によると、垂仁天皇の御代、新羅の国の王子天日桙命が、九品の宝をもって竹野郡(塩干浜という)に着いた。その九つの宝の中に橘(キツ−たちばな)の木があった(一書、橘を持ち帰ったのは田道間守であるという)。今の木津は橘の音をとってあてはめた文字であるという。ところが、姫宮大明神(今の橋木)の御神託によって、その橘の中一本をゆずりうけ、今の社地に植えたから、韓国から渡来した橘というのでカラタチと呼んで神社名とした。その後、撥枳の二字をあてはめたが、ハチキと音読するようになり、ハチキがハシキに変化して、今の村名橋木や、縁城寺の山号発信貴が生まれたといっている。
なお、撥枳は、田道間守が常世ノ国(中国か)から持ち帰った名木であるというのも、同じ意味をさしているのであろう。
また、『延喜式』の発枳(からたち)は、音読してハチキと読むのが正しいとして、『和名抄』中、丹波郡七郷の一つではちきある口枳(くちのすき)郷は、八枳の誤りで、八枳郷であるという説もある。しかし、今のところ、口枳郷にあてはまる地域は確定していない。こうした古い時代の呼び名は、呼び名が先にあって、あとからこれに似た漢字をあてはめた例も多いし、また、その際音であてはめる場合と、訓や、意味から適当な文字をあてはめる場合とがある。
『延喜式』が完成した延長五年当時は、「カラタチの神社」と呼んで「発枳」の二字をあてはめたものであろうか。しかし枳(からたち)の上に発の字を加えたところをみると、ハチキと音読させるためのようにもうけとれる。
また、同じ漢字の中で、木偏の撥枳と手偏の撥枳の二通りが用いられている。同じハチキと読ませるにしても、カラタチを意味するならば木偏の撥の方が適当のようである。でなければ、全然無意味な漢字撥と枳を組み合わせてハチキと読ませたとも思えない。
なお、現在神社の烏居の額は、たしか「撥枳」と木偏であり、神主も『延喜式』どおり「カラタチ」と唱えている。この神社が『延喜式』の竹野郡の部に載せられていたことも前に述べた。
宝暦三年(『峯山明細記』)
三尺社の内 姫宮明神、大神宮、春日明神、上屋 一間半に二間、境内 長六間半幅四間半程、縁城寺中不動院持ち、祭礼 九月十六日、神主なく、村の支配。和田野村の神子さんを雇って神事を勤めた。
一、小祠 愛宕権現、上屋 1間半に二間、境内 長九間幅七間、不動院持ち、両社の山 一ヶ所、間数相知りがたく…。
(注)姫宮明神とあるのは、やはり『丹後風土記』の比治山の天女の一人で、豊宇賀能売命である。
文化七年(『丹後旧事記』)
揆枳神社、揆枳邑(一書、揆枳神社、揆枳村とある)
祭神 天酒大明神、豊宇賀能売命、延喜式並小社、この神社は古竹野郡であったが、和銅年中、国造の以後は丹波郡となり、坊宮は揆枳山縁城寺という。
これによると、この神社は、和銅六年(七一三)、丹波国の奥五郡を割いて丹後国を置いたときまでは竹野郡に属していた。揆枳山縁城寺は、この神社の坊官(別当)で、例の元国宝の千手観世音は、この神社の奥の院の御神体であったともいっている。縁城寺の山号を発信貴山と書かないで、揆枳山と書いているのは『丹後旧事記』ばかりでなく、その後『峯山旧記」も同様である。
しかし、和銅六年の国造りから丹波郡に入ったというこの神社が、二百十四年後の『延喜式神名帳」に竹野郡となっている点はどうであろうか。
天保十二年(『丹哥府志』)
揆枳の神社は、大神宮に姫宮大明神を合わせまつる。姫宮大明神は『風土記』にいわゆる天女なり。祭九月十六日
明治二年(『峯山旧記』)
揆枳神社 橋木村にあり、祭神 天酒大明神、豊宇賀能売命。……縁城寺中、不動院支配、神子和田野村采女持ち、祭九月十六日、境内 愛宕権現、稲荷明神
明治十二年(『神社調御届』)
中郡第二組、橋木村字千原、本社 発枳社、境内 長八間横六間、此反別一畝一八歩、内敷地 二間に二間半、同所 小社愛宕社、境内 長九間横七間、此反別二畝三歩、内敷地 二間半四面、小社 稲荷社 三尺に二尺、境外山林 反別三反二畝五歩、本社発枳社より峯山不断町まで三六丁余
明治十七年(『府・神社明細帳』)
村社発枳神社、祭神 樋速日(とよはやひ)命、由緒……当村縁城寺西明院が別当であったという…(村誌)社殿 一間半に二間、境内 一、五二七坪、官有地第一種
〔境内神社)愛宕神社、祭神 軻還命、由緒不詳、建物 一間半に二間
稲荷社、祭神 保食大神、由緒不詳、建物八寸四面(一書、四尺に五尺)、境内 三三坪、官有地第一種
(頭注付記)拝殿新設の件、明治四十二年十一月二十五日許可、社掌 兼勤…中沢義治(久次)
一、田畑 二十一筆、村中持ちと思っていたが、確証を発見したので、地券書を改めたよし、明治十九年六月一日届出。
一、小字新蔵二ヶ所、畑反別一畝二一歩、道路敷官有地寄附の件、大正二年五月九日許可。
一、大正十四年四月二日、例祭四月二十二日に変更許可。
昭和二年(『調査報告』)
揆枳神社……口碑伝説(『村誌』、『丹後旧事記』『古伝』『丹寄府志』…省略)
明治六年二月十日、列格(村社)、同四十二年十月五日、神撰幣吊料供進指定。
例祭 十月十六日、基本財産 境内一、四七四・二六坪(宅地九二・四坪、山四反六畝二〇歩、畑一畝二六歩、池沼四畝一〇歩、原二反○畝一九歩、田二畝一○歩〈昭和三〇年現〉)。
昭和二年三月七日、震災のため大、小破。
…  〉 


真言宗発信貴山縁城寺(橋木山内)
縁城寺(峰山町橋木)

縁城寺(えんじょうじ)は、奈良期にまでさかのぼる古刹で、山号発信貴山、高野山真言宗(もと嵯峨大覚寺末)、本尊の木造千手観音立像は平安時代の作で重要文化財。草創については明確にしがたいが、縁起や由緒は、引用文にあるので見ていただきたい。広大な寺院で、丹波郡の真言系寺院の中心として大伽藍を誇った、文中3年(1374)出火し境内は灰燼に帰した(縁城寺年代記)。千手院縁起のあげる二五坊は、
  西ノ坊・池ノ坊・東之坊・上ノ坊・下之坊・辻ノ坊・移ノ坊・奥之坊・尾崎坊・宝積坊(割注・已上十ヶ坊ハ古ヨリ衆徒坊ナリ)力蔵坊・南之坊・藤本坊・大門坊(割注・此四ヶ寺内二ヶ坊ハ衆徒坊ナレトモ何レカ不分明也)東之坊・志水坊・向之坊・山本坊・中尾坊・脇之坊・梅本坊・阿伽井坊・脇之坊・中之坊・小谷坊(割注・已上十一ヶ坊往古ヨリ行人寺ナリト云フ)
縁城寺山門
縁城寺とは、こうした一山諸坊の総称であったが、明治20年、四院を合併した西明院を「縁城寺」と改称したのである。山門から続く左右の田畑地はそうした諸坊の跡地という。
縁城寺境内の案内板
境内案内板↑
 〈 発信貴山縁城寺概略。当山縁起に、「養老元(七一七)年、印度の高僧善無畏三蔵来朝し紫雲の霊瑞を尋ねて当山に来たり、千手観音木造を授かり、その由来を記して尊像の天衣に結びて帰印され給う」と伝える。
その後、光仁天皇の叡聞に達し、宝亀二(771)年、堂宇を建立し「千手院」と名付け勅願寺となし給う。更に桓武天皇は、延暦14(795)年「縁城寺」の寺号勅額を賜う。
弘法大師は、若き日、当時に三蔵の「天衣記」あるを聞き、ご来錫披見し、「発信貴山」と山号額を自ら書き残し給う。
その後一時衰微したが、一条天皇の帰依篤く勅願寺として永延二(988)年再興さる。
爾来、丹後地方の庶民の信仰の中心として仁王門より金堂までの三百米余には七カ院二十五坊谷に満ち香煙絶える事無く丹後随一の祈祷の名刹として賑わいを見せた。三度火災に遭いながらもそのつど再興された。
しかし明治4(1871)年、廃藩置県にともなう施入荘園の召し上げと廃仏毀釈により、漸次衰運に向った。
昭和二(1927)年丹後震災による総門、仁王門、庫裏の全壊、昭和三十八(1963)年豪雪による多宝塔上層部の倒壊等を経て現在に至り、往時の伽藍の復興を望まれる状況にある。  〉 

『中郡誌稿』縁城寺境内案内板
 〈 (峰山明細記)一真言宗(京嵯峨大覚寺末寺)発信貴山 縁城寺
境内長百二十間幅十七間 山御座候へ共間数難相知御座候 本堂(堂間七間に五間) 本尊千手観音 二重塔(堂間)二間四面 本尊大日如来 宝篋印塔高一丈台一間半四面(善無畏石塔) 阿弥陀堂二間四面 鎮守熊野権現(但)古来之社焼失只今仮社に御座候 …略…
(村誌)縁城寺 真言宗 本山大覚寺末 字山内
本尊千手観音 由緒人皇四十四代元正天皇御宇養老元年丁巳年善無畏三蔵開基 境内仏堂三宇 多宝塔 本尊大日如来 由緒不詳 境内東西三十間南北二十五間面積七百六十坪
弁天堂本尊弁財天 由緒不詳 鎮守堂 本尊阿弥陀 由緒不詳…略…  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【発信貴山縁城寺(真言宗、橋木、本尊 千手観音、元国宝、木彫四尺二寸】 縁城寺の縁起沿革については、記録によって多少の相違はあるが『峯山明細記』、『丹哥府志』、『峯山古事記』、『千手院略記』、『縁城寺縁起』、『縁城寺年代記』、『峯山旧記』などを参考にして、年代順にまとめることにしよう。第四十四代元正天皇養老元年(霊亀三年、七一七)にインドの僧、善無畏三蔵が日本に渡って来たが、紫の雲のたなびくのをみて、それを尋ねてこの土地に来て、梵天、帝釈(インドの神)の化身であるという二人の童子から、千手観音像と鏡と珠をさずけられた。『日本史』に、養老四年三月十一日、インドの僧三百二十人が来朝したとあるが、善無畏はその中の一人ではなかったろうか。そこで、善無畏はお堂をつくって尊像をおさめ、その由来を記して天衣(お衣)に結びつけ「も一度、ここに来て、お寺を建てよう」といいのこして去った。この書き物を『天衣記』とよんでいる。
ところが、第四十九代光仁天皇の宝亀二年(七七一)になって、ある夜、丹波郷の猟師が、この山で不思議な獣を射たが、翌朝みると、観音像から血が流れていたので、発心して僧になり、名を成覚(浄覚とも)と改め、寺院を建立して仏に奉仕した。天皇は、この霊験をお聞きになり、勅願所として「千手院」と名づけられた。第五十代桓武天皇は、延暦十四年(七九五)、この霊場の地形が、北、東、西の三方が高く、南に低くて、ちょうど京の平安城に似ているところから、「縁城寺」という寺号の勅額を下された。成覚上人は、その後(年代不明)十一月十九日、観音の宝殿に入ったまま、みえなくなってしまったので、人々は善無畏三蔵の後身であるといって、護法薩善神とあがめてまつった。第五十二代嵯峨天皇の弘仁年聞(八一〇〜八二三)に、弘法大師が諸国を巡錫した際、縁城寺に『天衣記』のあることを聞いて立ち寄り、これを一読してたいそう信仰を深め、発信貴山と呼んで、山号の額を書いて掲げ、浄菩提心の像を描き、仏像を刻んでこれを残したので、弘法大師を中興開山とした。一説によると、天皇は、弘法大師から、千手院の地形をお聞きになり、平安城に似ているからというので、発信貴山縁城寺の山寺号を賜わり、弘法大師にその額をお書かせになったともいう。天皇は桓武天皇ではなく嵯峨天皇のようである。
第六十二代村上天皇は、天暦年間(九四七〜九五六)に、『天衣記』をご覧になりたいと、使いを送られたが、寺僧はこれをかくして、仰せにしたがわず、たちまち雷が宝殿に落ち、鶏に化して、『天衣記』を取って恒枝村(今の鳥取)へ飛び去ってしまった。寺は、これから次第に衰微していった。
第六十六代一条天皇の永延二年(九八八)、天皇は、寺僧寛印の願いによって、勅願所として縁城寺の堂舎を再興され、二十五あまりの坊院が谷に満ちたという。西之坊、池之坊、東之坊、上之坊、下之坊、辻之坊、杉之坊、奥之坊、尾崎坊、宝積坊、力蔵坊、南之坊、藤本坊、大門坊、東之坊、志水坊、向之坊、山本坊、中尾坊、腰之坊、梅本坊、阿伽井坊(閼伽井)、脇之坊、中之坊、小谷坊等がそれで、同名があるが重複ではない。
保元年間(一一五六〜一一五八)になって、後白河院は、本尊千手観音画像と、縁起二巻を自らお書きになって寄進され……悉地を祈らせ給うという。これは国中の統一を祈願されたのであろうか。当時、崇徳上皇は、御子を皇位につかせようと考えられたが、父鳥羽上皇は、崇徳上皇の弟後白河天皇をお立てになった。この皇位継承問題と藤原氏の不和がからみつき、源平両氏の武士が両陣に味方し、保元元年(二五六)、鳥羽上皇の崩御を機会に合戦となり、結果、後白河天皇、平清盛、源義朝方の勝利となって、崇徳上皇は讃岐に遷された。
延元元年(一三三六)光明院の勅願があった。この年、丹後の軍勢は、足利尊氏に召されて上洛している。
観応二年(一三五一)崇光院の代(南朝正平六年)開山善無畏供養のため宝篋印塔が境内に建立された。塔には正平六年…と南朝の年号が刻んである。当時は、足利義詮(尊氏の子)が南朝に降り、崇光院が吉野から京へ還幸されており、山名時氏も南朝に味方して丹後ノ国を奪っていた時代であるから、南朝の年号を用いたのではなかろうか。塔の文字はほとんど風雪に消えて「正平六、仏子行秀……」の文字が、わずかに判読できる状態である。
後円融院応安七年(一三七四)八月、南朝文中三年、上之坊から出火し、古塔(大日塔)だけを残して全山ことごとく焼滅した。古塔とは、二重の多宝塔で、現在の場所の上の塔屋敷(塔の壇)にあったもので、この古塔は、用明天皇の第三王子磨呂子親王が鬼賊を征伐されたとき、その成就を祈願し、七大寺を建立して、七仏薬師をまつられたという、願興寺(竹野)神宮寺(是安)、等楽寺(弥栄)、施薬寺(加悦)、成願寺(粟田)、清国寺(河守)、成願寺(豊栄)のうちの願興寺にあったもので、隠岐ノ島から木材を運んで建立したが、願興寺が衰微した際、手水鉢とともに縁城寺に引きとられ、九輸もなく、草葺きであったと古老は語り伝えている。
本尊は大日如来で、安阿弥作の古仏であるという。焼跡には、勅願によって、四年後から金堂が建ちはじめ、諸坊のうちのいくつかが復興した。
後土御門院の長享二年(一四八八)十月二十三日、鐘を鋳た。この鐘は後、一色当時、戦利品として細川勢に持ち去られ、舞鶴の天香山桂林寺にあるという。天正十年、丹後一色滅亡の際であったともいうが、その後、文禄二年、細川忠興の行なった「丹後真言倒し」の時、釣鐘が身代りとなったのではなかろうか。縁城寺一山が皆滅をまぬがれたのは、朝廷の勅願所であり、かつ、足利尊氏はじめ、細川方の部将の信仰もあったからであろう(禅定寺、笛原寺の項参照)。
後西院の明暦二年(一六五六)、初代京極高通(道)は、縁城寺塔頭の般若院を峯山に移して蔵王権現の別当とした(般若院は後、増長院と改称)。
寛文十二年(一六七二)八月、寺内の居屋敷の抱地に甲乙があるといって訴訟した結果、峯山藩では、心王院の抱え地である奥之坊一反歩を、観音にお付けし、大夫谷分地(一反歩)は福寿、弥勒、不動、十輪、心王の五院に分け与えた。智言、西明の二院を加えた七院連判の始末書と、分地の畝歩を記入した絵図が保存されている。
霊元院の貞享二年(一六八五)四月二十九日、三代高明の時、門前の民家から出火し、民家六軒と、仁王門、惣門、福井坊、東坊、西明院、福寿院、不動院、心王院、西谷坊、金堂、阿弥陀堂、鐘楼、鎮守善神社および弘法大師筆縁城寺竪額、運慶作仁王像など、多くの宝物を焼失した。また、般若院、智言院、弥勒院を加えて、七院三坊が焼滅したともいうが、般若院は峯山へ移したはずである。しかし、本尊の千手観音像は無事で、翌年から再び本堂(金堂)はじめ、諸坊の再興にとりかかった。
東山院の仁王像は、宝永三年(一七〇六)十月七日、京都の仏工鎌田喜内の手で、清水寺の仁王像にかたどり阿字像(口を開いた方)が完成し、同六年七月二十四日、吽字(口を開じた方)像が出来上がった。現存の仁王像がそれである。
中御門院、享保七年(一七二二)五月十二日、仁王門を再建、九年三月、供養が行なわれた。
宝暦三年(『峯山明細記』)…
天保二年『峯山古事記』は今も縁城寺の勅額は空海の真筆で、勅使門があり、中古は撥枳社の坊官である−といい、貞享の大火で焼失したはずの弘法大師の真額が現存していたのであろうか。
「大日塔」(多宝塔)は焼失をまぬがれたが、腐朽が甚しくなったので、享保十三年(一七二八)浄財を集めて再興しようと計画したが成功せず、文化七年(一八一〇)再び勧進して、同十二年に九輪(塔の上にそびえる尖柱の九ツの輪)を太夫谷で鋳たが、そのまま中絶となり、文政十年(一八二七)、藩主の許可を得て、文政十二年製材にかかり、天保この大日塔と、宝篋印塔は奥丹後唯一の重要文化財である。…
天保十四年(一八四三)七月二十日、再び門前の民家から出火し、本堂、阿弥陀堂、弥勒院、鐘楼、鎮守荒神を焼失し、大般若経六百巻その他多くの寺宝を失なった。なお、この中に弘法大師真筆の縁城寺竪額(紫金)が加わっている。本尊千手観音像は、僧恵亮と、村民二人でかつぎ出し、幸い火災はまぬがれたが、多くの御手を損じたという。
本堂は、五年後の嘉永元年(一八四八)に再建。三月十六日入仏供養が行なわれ、その後、弥勒院も復興した。
明治二年『峯山旧記』は、発信貴山の山号を用いないで撥枳山縁城寺とし、応安七年八月の火災後再興した当時の堂舎の中に、勅使門、仁王門、本堂、多宝塔、阿弥陀堂、鎮守熊野権現、弁財天堂。塔頭のうちに、智言院、福寿院、弥勒院、不動院、十輪院、心王院、西明院をあげている。
なお、縁城寺の末寺に、生野内の大慈寺(寛永八年以前は大悲寺)郷の明光寺。西明院の末寺庵に、仲禅寺、および孝嶽庵(石丸)。福寿院末に、小原の興法寺をのせている。明光寺や興法寺は、縁城寺より早く創建された古い寺院であるが、この頃はすでに末寺となっていた。
明治四年(一八七一)二月、峯山藩知事京極高陳は、口達をもって縁城寺の宿院の中、すでに無住になっている十輪・不動、心王、弥勒の四院を西明院に合併し、寺務を粗略にせず一山の守護をするよう仰せつけている。…
四院を合併した西明院は、明治二十年、縁城寺に合併して庫裏となったが、明治四十年、上之坊の跡(現在地)に庫裏を新築して移転したといわれている。縁城寺とは、一山諸坊の総称であった。それが、明治二十年に至って、四院を合併した西明院を「縁城寺」と改称したのである。四院の屋敷跡二反五畝十七歩は、明治四年七月に払い下げ、入札の結果十三円三十五銭で、沖長右衛門に落札し、四ヵ年の鍬下(免税)を申請して開墾して畑とした(『寺院合併取調書』丹波村蔵)。…
明治二十三年三月五日、縁城寺鐘鋳。丹波区では若連中が二月二十五日頃から手踊りの稽古をはじめ、古木の紅葉に鹿を配した造り物を車に乗せ、手踊の歌に合わせて、これを曳きながら練り込んだ。その歌、
春の野山を見渡せば、錦あやどる梅ヵ枝、桜よい仲同志の色くらべ、風もりんきで嵐吹く、安芸の宮嶋回われば七里、裏は七浦七恵比須(山本長助紀録)。
昭和二年三月七日の震災に、総門、仁王門、庫裏、全壊。多宝塔の九輪が落ちた。…
寺宝、その他
千手観音木彫立像、昭和十六年七月九日国宝、現在、重要文化財指定。大日如来 木彫坐像、安阿弥作。安徳天皇御持仏阿弥陀如来 木彫立像。弘法大師作不動尊 同。後白河天皇筆千手観音画軸、同当山縁起二巻。宝篋印塔 昭和十二年八月重要美術品指定、現在、重要文化財指定。その他、仏像、書画、御判物等多数。
『縁城寺年代記』 これは吉野山上山寺(うえやまでら)所蔵の年代記を、嘉永六年十一月、西明院の僧朝暉によって臨写され、世代住職が補筆したもので、神武以来、年次ごとに、縁城寺とその関係寺院の動勢、および丹後地方に起こった史実、社寺、天災地変等までたんねんに記録されている最も重要な資料である。ただし、上山寺蔵という原本は、最近、上山部落には見当たらない。…  〉 

宝篋印塔



本堂内の仁王像

縁城寺の梵鐘がなぜか舞鶴の桂林寺にある。
『舞鶴市史』桂林寺の梵鐘
 〈 市指定文化財 梵鐘
一口 室町時代 総高一〇九・五センチ 口径五六・五センチ 桂林寺(紺屋)
 竜頭、笠形、乳の問、乳、池の間、草の間、駒の爪、上帯、縦帯、下帯・撞座すべて定説通りの和鐘で、乳の間は四区、各区に一六個(縦・横四個ずつ四列)計六四個の簡素な乳をつけている。
 各帯ともに無文で、池の間に次の銘文がある。
「(陰刻 池の問 三六・四センチ×三一・八センチ 一区)
 椎鐘 丹後国縁戚寺 頼舜 観舜 実貞 長亭二年(一四八八)戊申十月廿三日 大願主 周林 妙裕 敬白 大工(鋳工) 佐野主計」
この記年銘は、「丹後史料叢書」所収の「縁城寺年代記」に「長亭戊申二 縁城寺鐘鋳 十月廿三日」の記事に裏書されているので、もと丹後中郡橋木(峰山町)の縁城寺常住であったことは明らかである。
 この後の移動についての記録は、宝永七年(一七一○)版の「田辺府志」に、細川幽斉が現在地である桂林寺に寺領にそえて寄進したとして「寺領三十石天正十一癸未(一五八三)八月四日に寄附ありて共証書を給り古鐘一口を附せらる」と記している。このことは、戦国騒乱の余波がこの鐘にもかかわりあっていることを証するものであろう。  〉 

縁城寺旧境内遺跡

新宮城跡
元亀年間まで一色氏の部将中村式部大夫が居住、大永・天文の頃は山中貞太郎が城将であったという新宮城址がある。
『中郡誌槁』
 〈 (村誌)本村東方字新宮にありて文亀年中迄は一色の旗下中村式部太夫居せしが天正九年細川藤孝の為に亡され今は古城の跡のも残れり  〉 


《交通》


《産業》


橋木の主な歴史記録


『丹哥府志』
 〈 ◎橋木村(矢田村の次、是より竹野郡和田野村、木橋村、仲禅寺村へ出る)
【揆枳神社】(延喜式に竹野郡の部に出す)
揆枳の神社は大神宮に姫宮大明神を合せ祭る、姫宮大明神は風土記に所謂天女なり。(祭九月十六日)
【山中貞太郎城墟】
山中貞太郎は如何なる人や伝詳ならず、然れども其守護本尊とて薬師如来の像今不動院(縁城寺塔頭)にあり。
【発信貴山縁城寺】(真言宗)
発信貴山縁城寺は元癸枳の神社の別当なり、本尊観世音菩薩はみな人の知る處なり。堂の右に三重の塔あり、塔の前に石の多宝塔あり、塔の四方に銘ありといへども皆摩滅して読べからず、大師の建石と語り伝ふ、堂の正面道を挟みて塔頭七八院左右に連るそれより一丁斗り隔てて楼門を建つ、其楼門の左右に仁王を安置す、運慶の作なりといふにも左にあらんと覚ゆ。寺記云。養老四年印度の善無畏三蔵といふもの来朝して諸国を遊歴して遂に橋木に来る(日本史云。養老四年三月十一日発実数印度僧三百廿人云々。善無畏は蓋其一人ならん伝は未だ詳ならず、養老四年は唐の玄宗開元八年なり是歳天竺の外節三蔵唐に来る)、忽ち二童子観音の尊像を携ふるを見る、童子の云、吾汝が来るを待ぬ、三蔵が云、吾は印度の僧なり汝何ぞ我を知るや、童子の云、我は梵天帝釈の化身なり豈汝を知らざらんや今汝に観音の尊像を授けんとて、其像を与へ瓢然として天に登る、於是三蔵一宇を建て其像を安置す、曰、我再び爰に来りて伽藍を建立せんと云ひ遂に去る、一夜、丹波の郷の山猟師橋木の山に来り異獣を射たり、翌朝是を見れば観音の尊像に血の流るる處あり、於是俄に菩提心を発し猟師を休めて僧となり名を浮覚と改め伽藍を建立す、遂に観音の宝蔵へ入りて去る處を知らず、その後弘法大師三蔵の遺跡なるを以て橋木に来り密法を興隆し仏像を彫刻す、その地相三方皆山にして唯南の方平地なの大師此よしを奏聞ありければ、叡感尠からず平安城に似たりとて號を発信貴山縁城寺と賜る、勅して大師に其額を書せしむ、既に永く勅願所となる、後白河帝の宸筆千手観音並縁記二巻寺に納ると云。
宝蔵目録(凡五十余員、今その大略を載す)
一、十二天 二幅 (唐知及)。一、如意輪 (唐善記)。一、十六善神 (宋日観)。一、十王絵像 (陸信忠)。一、庚申 (狩野法眼)。一、文珠 (唐智及)。一、弥陀 (弘法大師)。一、普賢菩薩   〉 

『峰山郷土志』
 〈 【橋木】橋木村が、昔、竹野郡であったことは、揆枳(からたち)ノ神社が延喜式に「竹野郡発枳ノ神社」とあることからも明らかである。しかし、『延喜式』には、丹後分国の際、新しく生まれた丹波郡の大野神社が、発枳神社と同じく竹野郡に、三重神社、木積神社が与謝郡に登載されており、これは誤りて分国前に所属していた郡にのせられたものであろうといっている。だが、橋木の場合、竹野、中両郡の境界については、明治三十四年の縁城寺所得山林絵図面に、勅使門の東側の村道の石橋が、往古の両郡堺であったと記されている。昔の部落は、勅使門の東側から和田野へ通じる道路にそった谷合いにあったのではなかろうか。
なお、宝暦頃、撥枳神社の祭には、和田野村の神子を雇って神事を行なっており、縁城寺の裏山の外は木橋村である。『中郡誌稿』は、木橋と橋木はもと一村で、これを二分して文字を転倒して区別したものではなかろうか……といっている。しかし、矢田村から平野つづきの川上で、三方を丘陵にとり囲まれたこの部落が、当時、村の口と思われる石橋で、両郡の境界線がひかれていたことは珍らしい例である。
ところが、丹波郡七郷のうちの口枳郷がハチキで、揆枳にあたるとか、あるいはまた、丹波郷に属していたなどの諸説が正しいとするならば、『和名抄』のできあがった時、すでに竹野郡ではなく、丹波郡に所属していたといえよう。しかし、『縁城寺年代記』を眺めてみても、古くから縁城寺に関係の深い興法寺、願興寺、岩倉山明光寺、仲禅寺、上山寺などは、ほとんど竹野郡である。慶長六年京極丹後守高知の『拝領郷村帳』は、丹波郡のうちの縁城村へ(寺をおとしたか)とあり、元和八年、峯山初代高通の『郷村帳』は、ハッキリ縁城寺村とある。そして、延宝八年(一六八〇)の『郷村帳』になって、はじめて「橋木村」の名がみえているから、この間六十年程の間に縁城寺村が橋木村に改名されたことになる。縁城寺村は、木橋村の東南(表)に当たるところから、木橋を反対にして橋木とつけたものであろうか、その他、別に橋に縁のありそうな土地ではない。また、ハチキは発枳(からたち)の音読であり、手扁または木扁で、撥枳とか撥(木偏)枳とか書かれているし、縁城寺の山号も『峯山旧記』は、発信貴山を用いないで、撥枳山と書いている。では撥枳村といった時代もあったのであろうか。
橋木村城山(『丹後旧事記』)『峯山旧記』によると、新宮城という。元亀の頃(一五〇一)まで、一色の部将中村式部太夫が居住し、大永、天文の頃、山中貞太郎が城主であったというが、伝記は明らかでない−とある。
また『丹哥府志』は「山中貞太郎の守り本尊という薬師如来像が、不動院(縁城寺の塔頭)にある」といい、山中の居城を裏付けしている。しかし、どうしたものか、天正十年一色氏滅亡の時の戦記にはのっていない。もし、この軍に関係があったとすると、丹波郡の石丸、赤坂の諸砦ではなく、竹野郡の和田野城方面の諸城の一翼であったものといえようが、山中貞太郎の伝記は明らかでない。  〉 

『丹後路の史跡めぐり』
 〈 発信貴山縁城寺
 峰山から掛津へ通じる途中、橋木部落を右手に入ると由緒ありげな寺につく。縁城寺は真言宗で、養老四年(七二○)善無畏三蔵の開基になるといい、弘法大師を開山の中興としている。本堂左右に運慶作といわれる大仁王像、藤原中期の作といわれる元国宝の千手観音立像(重文)境内の正平六年(一三五一)仏師行秀の銘のある高さ三・四メートルの宝篋印塔(重文)等がある。
 また宇川の上山寺の年代記を写したといわれる「縁城寺年代記」は丹後地方の歴史を知る上に欠かせない貴重な資料である。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 縁城寺旧境内遺跡(えんじょうじきゅうけいだいいせき)
所在地:弥栄町水橋小字ブロ、
    峰山町橋本小字御堂後
立 地:竹野川中流域左岸丘陵上
時 代:平安時代中期
調査年次:1997、1998年(弥栄町教委)
現 状:調査範囲は消滅(国営農地)
遺物保管:市教委
文 献:B083、B092
遺構
 峰山町橋木に所在する縁城寺(真言宗)の北側丘陵上に立地する。丘陵上には、縁城寺城跡がありその北側に旧境内地が位置する。北東方向に派生する丘陵尾根上の平地面の調査が実施されている。
 平坦面からは、中央に焼土を、北西隅に須恵器壺埋納遺構を伴う掘立柱建物跡1棟、土壙1基、溝1条、道状遺構と報告される溝1条が検出されている。
遺物
 9世紀後半〜10世紀の土師器椀、灯明皿、壺、甕、須恵器椀・壺、緑釉陶器椀、砥石が出土している。須虚器椀、壺、甕の一部には、転用硯が見られる。ほかに16〜17世紀の白磁、陶器が出土している。
意義
 旧境内地遺跡は、縁城寺背後の丘陵に位置する。調査地からは、城跡に関係する遺構は見られなかったが、掘立柱建物跡が見つかっている点から、平安時代中期の山林寺院の坊跡とすることが可能であろう。詳細な検討が必要ではあるが本遺跡は、縁城寺城跡の存在とあわせて中世山林寺院の変遷を考える上で重要な遺跡である。  〉 


橋木の小字一覧


橋木 荒田 石釜 猪尻 石峠 壱本松 石峠側 池ケ谷 梅崎 大平田 大鳥ケ巣 岡ノ後 大畑 後サイノ神 大成 御地 大ダラ ヲク山内 岡鼻 岡坂 奥山内 大初鹿尾 大トリガス 大谷 後斉神 兄弟ケ畑 奥山内 上六反田 カナクソ カジカ鼻 鍛冶鼻 カモ付 鴨子谷 北替 木橋峠 北替口 中検校 小平田 検校谷 小鳥ケ巣 御領道 小論ケ谷 中塚田 荒神後 小鴨子 神主 検校 御料通 小初鹿尾 小トリガス 小老ケ谷 中鴨子谷 荒神裏 小塚田 坂尻 山内 サイノ神 猿ケ谷 船頭 地締 新縄手 塩境 新蔵 地夫谷 小夫谷 下吉谷 神宮 蛇町 塩界 下岡 新庄坊 炭釜 蔵木エ谷 大門後 大夫谷 竹谷 高尾坂 大ドヘライ 高尾谷 竹谷口 大門裏 竹谷口西 千原 千原岡 辻堂 トリガス 峠口 トツコ谷 通谷 鳥子谷 峠 峠ノ下 鳥ケ巣 鳥子谷口 成相田 中ノ谷 中西口 中西 中谷鼻 錦 荷ノ坂 西岡 西地 ハゲノ下 廿日尾口 廿日尾 発向田 馬場 馬場ケ鼻 ビワ谷 古明寺 船山 不動院裏 仏生田 筆代 平田 平田口 干物谷 ヒヤケ谷 細田 松ノ本 松田口地締 松田岡 松田 又兵ヱ谷 神子ケ谷 御堂後口 後堂後 桃木谷 屋白柿口 屋白柿 屋城垣 柳谷 ユルミゾ 来方 六反田 論ケ谷 老ケ谷 老ケ谷口

関連情報






資料編のトップへ
丹後の地名へ


資料編の索引

50音順

丹後・丹波
市町別
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市

 若狭・越前
市町別
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市





 

【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『峰山郷土志』
その他たくさん



Link Free
Copyright © 2013 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved