筆石(ふでし)
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京都府京丹後市丹後町筆石 京都府竹野郡丹後町筆石 京都府竹野郡竹野村筆石 |
筆石の概要《筆石の概要》 岬の先端は犬ヶ岬。海岸段丘上の集落が筆石↑。手前は竹野漁港。海岸線は奇観を呈し、扉風岩などの奇岩がある。 地名の由来は、丹波道主命の孫・鐸石別(ぬでしわけ)命ゆかりの地であることによるといわれる。 丹波道主命+河上摩須郎女の娘たちと垂仁天皇の間にできた子には、五十瓊敷命、鐸石別命、息速別命と金属に関係すると思われる皇子たちが多数いる。垂仁が片目の天皇で纏向の穴師(穴師大兵主神社)に都したと伝えられ、田道間守や天日槍の話などもあり、このあたり一帯と関係が深かった。 記紀などによると道主命の5名の娘達は垂仁に嫁いだという。嫁いだのか聟(傀儡)に取ったかの、どちらであろうのぉ。莫大な持参金付きで一緒に5人まとめてももらいました、ほやけど決して某医療法人の傀儡でなんかではありまへん、一千万都民の公僕ですわいなとどこぞの知事殿のような話を信じねばならないのであろうか、この夫婦の主導権はヨメハン側にあるのではなかろうかのぉ↑(イラストは『まんが丹後王国物語』より) もしかすると丹波道主命の娘達にすっかり取り込まれたドップリ丹波系の傀儡天皇であったかも知れないし、天皇氏ももともとが鍜冶屋であったと思われるが、劣らず丹波王家も由碁理から発しただけあって鍜冶屋氏、そうした鍜冶屋同士だから子ができれば当然にも鍜冶屋ができる、神話として王家の物語としてもったいぶって語られるのでわかりにくいが全国の鍜冶屋関係氏族の大元締家の感がある。有名なところでは和気清麻呂も鐸石別命の末裔である。和気氏はもとは、磐梨別公といった、磐梨は磐穴師であろう、そしてハヤシとなる、与謝郡拝師郷とか、何か命と関係あるのかも、そうしたことはどこかで書いた。丹後系とされるこれら皇子たちの一人ひとりを追っかければ面白いだろうし丹後という国がどんな国だったかも見えてくるのだろうが、丹後人の仕事だがその時間がない。 志幾大縣のあった大阪府柏原市大県には式内社の鐸比古鐸比売神社があり、鐸石別命を祀る、大縣と鐸、鐸石別命は関係深いのかも知れない。 鐸石別命の末裔としては、『新撰姓氏録抄』には、次の記載がある。 左京皇別下。稲城壬生公。出レ自二垂仁天皇皇子鐸石別命一也。 右京皇別下。和気朝臣。垂仁天皇皇子鐸石別命之後也。神功皇后征二伐新羅一凱帰。明年車駕還レ都。于レ時忍熊別皇子等。竊搆二逆謀一。於二明石境一。備レ兵待レ之。皇后鑑識。遣二弟彦王於針間吉備境一。造レ関防レ之。所謂和気関是也。太平之後。録二従レ駕勲一。酬以二封地一。仍被二吉備磐梨縣一。始家レ之焉。光仁天皇宝亀五年。改賜二和気朝臣姓一也。続日本紀合。 右京皇別下。山邊公。和気朝臣同祖。 摂津国皇別。山邊公。和気朝臣同祖。大鐸石和居命之後也。 京及び畿内の氏族だけなので丹後国については何も記載はない。 『播磨風土記』讃容郡に次の記事がある。 〈 鹿を放ちし山を鹿庭山と名づく。山の四の面に十二の谷あり。皆鉄を生だせり。難波の豊前の朝廷に始めてたてまつりき。見顕しし人は別部の犬、其の孫等はじめて奉りき。 〉 別部は和気部で鐸石別部であるといってもよいか、そこの犬という者が鉄を見つけたというのである。頃は考徳天皇の頃、だから大化の改新(645)の頃だというのである。 筆石に「犬ヶ岬」があるのに昔から気になっていたのだが、この犬はワンワンのことではなかろう、隣の伊根町のイネも同じだろうが、鋳物のイにあとは何かわからないが、金属を意味した名と思われる。 『青銅の神の足跡』に、 〈 「鐸」は『古語拾遺』にサナキと読ませている。そして鉄鐸を意味すると説明してあるが、『古語拾遺』の成立した平安期には銅鐸についての記憶はまったく失われていた。サナキと呼ばれる土地に銅鐸が出土している例が数例あるところからみれば、サナキ、つまり「鐸」はもともと銅鐸を意味していたにちがいない。ではこの鐸石別命は銅鐸とは関係があるのだろうか。 〉 として無縁とは思えないとしている。 犬ヶ岬から鋳を採ってきて、鐸石で銅鐸を作っていた、かも知れないという想像が成り立ちそう。時代が違うので鐸石別命とは直接には結びつかない、彼が生まれる何百年も昔のことになる。 小豆島に大鐸(おおぬで)という所がある、大鐸公民館の近くに足尾神社もある、これらから銅の産地で、銅鐸を作っていたかと思えそうな場所になり小豆島からは銅鐸も出土している。筆石も似ていると思えるのである。 中世の「不てし」で、「丹後御檀家帳」に「一 不てし 家六拾軒斗」と見える。 筆石村は、江戸期~明治22年の村名。竹野郡のうち。はじめ宮津藩領、享保2年幕府領、宝暦13年但馬出石藩領、天保6年幕府領となる。当初竹野村の枝郷、のち分村独立。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年竹野村の大字となる。 筆石は、明治22年~現在の大字名。はじめ竹野村、昭和30年からは丹後町の大字。平成16年から京丹後市の大字。 《筆石の人口・世帯数》 161・61 《主な社寺など》 犬ヶ岬 国道178号が犬ヶ岬トンネルを抜けていく。 崖は垂直に切り立つ。本当に90度。カメラを向けるのも震える、落ちたら命はゼッタイにありませんぞ。 トンネルを抜けた此代側に「斯代(このしろ)」というドライブインがある、そこから見る↓犬ヶ岬。人間には近づきがたいすごい山だが、「サル見回り隊」の車が走っているからおサルさんは多いのかも。 反対側は「丹後松島」である。 トンネルの横から遊歩道がついていて先まで行ける。 これ以上行くと命を一つ失う。 玄武岩と思っていたが、これは凝灰岩のよう。 『丹後町史』 〈 犬ケ岬 犬の蹲りたったような形をした岩があり、その近くに犬ヶ崎トンネルが開通(昭五〇・七)して風光明眉なところであり又釣りに好適地である。 〉 『丹後国竹野郡誌』 〈 犬ヶ岬 (丹後一覧集)府城の乾方十二里竹野ノ浦にあり、俚俗に曰く、昔金麿親王当国へ下向ありて三鬼退治の時鏡を掛けたる神化の犬あり、其軍治て後に岩に成りたりとて犬の蹲りたる形状をなせる岩あり、此金麿親王は何れの御代の皇子といふことを知らず、用明天皇第三の皇子麿子親王比地へ下向の事を誤るなるべし (丹哥府志)木代より筆石村の間に在り、大崎の前に嶋あり、嶋の上に大石あり、犬に似たり 烏帽子岩窟 (竹野村誌稿)丈ヶ岬の辺にあり、海岸に大なる岩穴ありて船に乗りて入る、其果つるを知らずと伝ふ、暗黒にして而かも上より水滴るが為に其奥を極む不能 さゝくり 岩の名 (丹哥府志)筆石より竹野村に至る凡十丁余皆奇観なり、 〉 実際にトンネルを走ってみる。新旧の両道とも 屏風岩。 「屏風岩」といえば、竹野川河口の今の「立岩」を呼んだのだが、いつの頃からか、あちらは「立岩」、こちらを「屏風岩」と呼んでいるようである。 『丹後町史』 〈 屏風岩 筆石海岸の中央にあって高さが五m余もある奇岩でその頂きに幹の直径二〇㎝もある松が年中青々としている。 〉 桝塚古墳 国道からも海側に見える、5世紀中頃の一辺20mの方墳。 案内板には↓ 桝塚古墳 三柱神社 『丹後町史』 〈 三柱神社 筆石小字沖ノ岡 稚産霊神、倉稲魂神、保食神を祭る、明治四年五月村社となる。 〉 《交通》 《産業》 筆石の主な歴史記録『丹後国御檀家帳』 〈 一 不てし 家六拾軒斗 かうおや かうおや 三郎兵衛尉殿 にしとの 〆 〉 『丹哥府志』 〈 ◎筆石村(高平阪の下) 【三宝荒神】 【薬師堂】 【屏風岩】(出図) 【ささくり】(岩の西) 筆石村より竹野村に至る其間凡十丁余、皆奇観なり。 【付録】(八大荒神) 〉 『丹後旧事記』 〈 鐸石別尊。日本旧事記垂仁天皇第二の妃渟葉瓊入姫の御子膽香足姫の兄なり。順国志に曰く当国竹野郡鐸石の里より始めて貢を入る故に此郷を名とす、此の朝は尊の祖父王道主命を始め大県主油碁理川上摩須良当国にありける依り多の尊達の領を定む。 〉 『丹後国竹野郡誌』 〈 (丹後旧事記)旦波大縣主由碁理(竹野媛の父君)開化天皇の御代竹野里を国府とし館を造りし人なり (順国志) 鐸石別(フデシワケ)尊 竹野郡鐸石里より始めて貢を入る故此郷を名とす、此朝は尊の祖父道主命を始め、大縣主由碁理川上摩須郎等当国にありけるに依りて多くの尊達の領を定む 注、鐸石別尊は垂仁天の皇子なり、御母は丹波道主王の女渟葉田瓊入姫なり旧事本記には「ステシワケ命」とあり日本書紀には「ヌデシ」とあり古事記には「沼帯」とあり順国志にいふ鐸石里は本村の内なるや定かならねと参照のため此に載す 〉 『丹後町史』 〈 『順国誌』に鐸石別尊竹野郡鐸石の里より始めて貢を入る故此の郷を名とす--とあり、筆石集落のおこりとみるべきであろう。その昔「ステシ」あるいは「ヌデシ」の呼称が記紀に見えるが、竹野の地一帯が古代に畿外の皇室の領地であったことがわかる。 『丹後旧事記』によれば、旦波大県主由碁理(竹野媛の父君)の勢力は大きく、王朝との外戚関係にあり、周囲の尊たちにそれぞれ領地を与え、垂仁天皇の皇子である鐸石別尊にこの筆石の領を与えたものであろう。 〉 『丹後町史』 〈 桝塚古墳 筆石部落の北西方向の海に面した台地上に位置する、一辺二〇mの方墳である。墳頂部は平で墳丘斜面はすごく勾配が急である。また北の一辺に段築があり、張り出し状のものがついているがこれが人工的なものか自然的なものか判断しにくいが、自然地形的なものとした方が適当と思われる。出土遺物としては円筒・ハニワ片・土師器片等表面のものは採集されている。内部主体は不明ながらすぐ横、墳丘のすその部、道わきに舟形石棺の身と思われるものがある。多分この石棺が直葬されていたのであろう。石棺の大きさは半壊伏況のため復元は困難であるが長さ約一・八m幅0・五mと思われる。 *尚土地の人々は十一代垂仁天皇の皇子鐸石別尊の塚で五世紀の頃のものであろうといわれている。王子の古墳か否かは別として、それに近い何かいわれがあるであろう。勿論土地の人たちがこの記録を利用したともいえる。 〉 『京丹後市の考古資料』 〈 桝塚古墳(ますづかこふん) 所在地;丹後町筆石小字沖ノ岡 立地:日本海に面した海岸段上 時代:古墳時代中期 調査年次:1989年(丹後町教委) 現状:完存 遺物保管:市教委 文献:B041、G036 遺構 桝塚古墳は、海岸段丘上に立地する方墳であり、眼前には日本海が広がる。現存する墳丘は、一辺約20m、高さ約4mを測る。 当古墳は、1921年前後に古墳として認識されたようであり、旧竹野村文書に発見届が残されている。 範囲確認調査の結果、墳丘は周囲に周濠が認められた。周濠は外周が一辺40mを測り、幅約7.5m、深さ0.8mにおよぶ。周濠は南側より北側の方が深くなる。この周濠の内部に古墳の基底線を求めると、本古墳は一辺約25mの方墳に復元される。 遺物 1989年の発掘調査では、周濠埋土中から円筒埴輪の破片が出土した。埴輪は黒斑を有し、焼成も低温で焼かれており軟質でもろい。埴輪から判断される築造年代は、古墳時代中期の5世紀中葉と推定される。 意義 当古墳は、海岸段丘上に単独で築かれ、墳丘規模も約25mで埴輪を有する。出土した円筒埴輪は、範囲確認調査のため、量的に少なく破片であるが、産土山古墳と同時期かもしくは少し下がる5世紀中葉であろう。 周囲の範囲確認調査だけであり、今後、墳丘の築造について墳丘内部の調査を検討する必要があろう。後世の削平が進んでいるが、二段築成の方墳の可能性もあると推定される。 〉 筆石の小字一覧筆石(ふでし) 大田(おおた) 大平(おおべい) 荒上(あらかみ) 六継(ろくつぎ) 舟戸(ふなど) アザコ 平田(ひらた) 中田(なかだ) 浜田(はまだ) 勝地(かつち) ハイノ谷(はいのたに) オイノフタ 沖ノ宮(おきのみや) 水谷(みずたに) シンズ 後谷(うしろだに) 沖ノ岡(おきのおか) 向田(むかいだ) 東谷(ひがしだに) 上ノ垣(うえのかき) ウルシ谷(うるしだに) 俵石(たわらいし) 戸石(といし) 浜山(はまやま) ヲンダ尻(をんだじり) 溝ケ谷(みぞがたに) キン原(きんばら) 馬ノセ(うまのせ) 高平(たかひら) ヒジリ谷(ひじりだに) 長浜(ながはま) 向山(むかいやま) 松尾(まつお) コンダ原(こんだはら) 流尾(ながれお) 永見(ながみ) 高ツンブシ(たかつんぶし) ココノウチ ナン戸口(なんどぐち) 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 『丹後町史』 その他たくさん |
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