丹後の地名

丹波郡(たんばぐん)
=中郡(なかぐん)
京丹後市峰山町・大宮町


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京都府京丹後市峰山町・大宮町

京都府中郡峰山・大宮町

丹波郡の概要


《丹波郡の概要》



京丹後市の成立でこの由緒ある郡名は消滅してしまった、つい先頃までは「中郡」と呼ばれていた地で、北部に峰山町、南部に大宮町があった。
丹後国に丹波郡があり、ほかに丹波国があると何かと間違いが起きやすいと思われる、京都に都があるうちはまだよいが、鎌倉や江戸村に移れば、このあたりの事情に疎かろう、間違うなという方がムリというもの。それで通称的に中郡と呼ぼうということになったものと単純に推定する、地理的には、丹後国の真ん中あたりであり、政治経済も丹後の中心であり、中郡の呼称が代わりによかろうとしたものではなかろうか。
若狭の遠敷郡も中郡と呼ばれたことがあった、少し前までは福井県遠敷郡上中町と呼んでいた上中などというのはその名残である。今は福井県三方上中郡若狭町というのだそうである、元々が遠敷郡だったから三方郡側と合併すると何かヘンな呼び名になる。京丹後市も市だからいいようなもののもし町だったから京都府中竹野熊野郡京丹後町とでも呼ばなければならないかも。
「中郡たんばの郡とも申」とある『丹後御檀家帳』天文7(1538)年が、「中郡」の初出という。だいたいそれ以前は丹波郡であった。
古くには大宮町の三重谷一帯が与謝郡、峰山町の橋木地区が竹野郡に含まれていたと推定されている。その地の式内社がその郡に分類されているからである。竹野川の源流から中流域の中郡盆地を中心とする面積的には広くはない郡である。

旦波大縣
『丹後旧事記』に、
天正府志に曰く当国丹波郡は與謝、竹野の二郡を割て置し新郡なり
とあり、丹後国立国の際に、与謝郡と竹野郡を裂いて丹波郡を作ったという、吉佐の吉原とか吉佐の磯砂山なども言うし、式では三重神社・木積神社は与謝郡に、発枳神社は竹野郡に含まれているし、元伊勢や真名井も吉佐とされたりしていてややこしいところから、そうした推定が出たものと思われる。
しかし、丹後立国の際の立郡なら丹後郡とかにすればよかろうし、そもそも古く開化記に旦波大縣が見えて、それが丹波郡の前身だろうから、丹後ではどこよりも早く見えまことに由緒ある郡名ということになる。
天正府志とはむしろ逆に旦波大縣を割いて與謝、竹野の二郡を置いたのかも知れなくなる。旦波をできるだけ小さくするが大和の伝統的な長期の執拗な戦略だったかも。あたかもアメリカの対日戦略のような話で、他国に基地に取られても何とも思わないどころか喜び協力するようなイカレきったヤカラまでが多数いるような今の丹後のようなことであったかも…
「室尾山観音寺神名帳」「竹野郡五十八前」に、正四位上 大懸明神が見える、この社は今はないが大縣神社ではなかろうか、もしそうなら、竹野郡の一部も旦波大縣、だから丹波郡に含まれていたのかも知れない。別に史料的な根拠はなく、推定である。丹波郡の前身は旦波大縣であったと思われ、今の丹波郡よりはもう少し川下の竹野郡側へ広がっていたのかも知れない。

丹後国丹波郡
白鳳12年(684)丹波国の一部を割いて但馬と2国に分割し、同13年能勢郡を割いて摂津国に編入したという。
『続日本紀』に、和銅6(713)年、丹波国から、加佐、与佐、丹波、竹野、熊野の五郡を割いて、始めて丹後国を設置した。とある。このときに見えるのが丹波郡の郡名の初出である。
丹波の郡名を「延喜式」(武田本)神名帳は「タハ」と訓じ、「和名抄」刊本は国名としての「丹波」に「太迩波」と訓注、「タニハ」と読むとされる。その後いつの頃からか「タンパ」とよびならわすようになり、現在京丹後市峰山町に残る字名丹波は「タンバ」と呼ばれている。
浪花としたり難波としたりするのと同じ音転と思われる。
銅鉱山のある能勢郡を割譲し、2国に分割、さらに2国に分割されて、大丹波国のもともとの本貫地はとうとう丹波という栄光の国名も失ってしまったようである。
「丹後国風土記」逸文は「丹後国丹波郡。郡家の西北の隅の方に比治の里あり。此の里の比治山の頂に井あり。其の名を真奈井と云ふ。今は既に沼と成れり。此の井に天女八人降り来て水浴みき…」と記している。
この記事の地理が正確なら、久次山とは今の咋石嶽(久次岳)であり、郡家は五箇のあたりにあったことになる。
そのあたりがもともとの丹波国の発祥地であり、丹波王家と豊受大神、元伊勢信仰の本貫地と思われる。

中郡
丹波郡から中郡への改称時期は、文献上「中郡」の称を最初にみるのは中世末の丹後国御檀家帳、中世末までの史料で「中郡」を用いたものはほかにみられない。江戸時代に入っても慶長検地郷村帳・延宝3年郷村帳は丹波郡が用いられている。天和2年(1682)の「丹後国寺社帳」は中郡としていて、中郡の公称化はその頃からだろうと考えられている。


丹波郡の簡単な歴史

縄文時代
おもな遺跡。途中ヶ丘遺跡から縄文早期の楕円押型文のほか縄文以前の有舌尖頭器。裏蔭遺跡の繊維を混入した縄文早期の押型文土器。松山遺跡からは縄文晩期の注口土器。
弥生遺跡になると全国的に有名な遺跡が多い。途中ケ丘遺跡、扇谷遺跡、赤坂今井墳丘墓が代表。
古墳時代は、杉谷山古墳群(前期)・西谷山古墳群(前期)、カジヤ古墳(前期)・八幡山古墳群(前期)がある。桃谷古墳(後期)からは日本最初の耳トウが出土、大陸と丹後との文化交渉を裏付けるものとして注目される。また、カジヤ古墳の出土品は大和との関係を物語ると考えられる遺物があるのは注目されている。両袖式横穴石室に石棚を設けた新戸古墳(後期)。などなど

古代
和銅6年、丹後国が置かれた、その70年後の延暦2年(783)3月に、「丹後国丹波郡人正六位上丹波直真養任国造」とあって、丹波郡の「丹波直真養」が丹後国の律令国造(新国造)に任じられている。もう伝統の実権のない任命された国造である。これ以前の記録はない。
「和名抄」は丹波郡に大野・新治(沼)・丹波・周枳・三重・神戸・口枳の7郷を記す。郡家は普通は丹波郷にあったと考えられているが、古くは五箇のあたりにあったと思われる。
安閑天皇2年紀に、丹波国に「蘇斯岐屯倉」を置いたとある、所在地を周枳郷とする説や、天皇即位の大嘗会に丹波を主基の国と定めた時、同じく周枳郷が主基の里となったとし、この地に大宮売神社のあるのはその証という説もある。
「延喜式」神名帳は「丹波(タハ)九座大二座小七座」として、大宮売神社二座明神大・咋岡神社・波弥神社・多久神社・稲代神社・名木神社・矢田神社・比沼麻奈為神社を記す。
古い草創年代を伝える寺院としては橋木の縁城寺、五箇の笛原寺、谷内の岩屋寺などがある。

中世
後藤基清は「吾妻鏡」建久6年(1195)に「丹波国志楽庄、并伊禰保領家雑掌解到来、地頭後藤左衛門尉基清」とみえる。後藤基清は一条能保の家人であった。延長2年(1250)付九条道家惣処分状(九条家文書)に「丹後国丹波庄」の地頭として後藤基綱の名がみえる。基綱は基清の子という。

元弘3年(1333)足利尊氏は丹波で挙兵し、足利方の一人熊谷直清の手勢は丹後の北条勢の拠点11ヵ所を攻め落した。丹波郷の後藤佐渡次郎入道の城もこの時攻略されている。この後藤氏の子孫はのち一色氏に従って丹波郷に居城し、永禄の頃は後藤安之進(下総守)と称したと伝える。
新治定照は、一ノ谷の合戦に源範頼の軍に従って手柄を立て、文治2年(1186)頼朝から丹波郡大野郷・新治郷の地を与えられたと伝え、代々新治城を居城とし、新治蔵人を称したという。
丹後国田数帳の新治郷に「十一町一段二百廿二歩 新治殿」とみえ、また丹後国御檀家帳に「にんはり 新治殿 御一家也、城主也、いまは石川殿の御しそくもたせられ候」とある「新治殿」はその子孫と思われる。

建武4年(1337)上杉朝定が丹後国守護となり、そののち今川・山名・上野・仁木・高・山名の各氏を経て明徳3年(1392)一色満範が初めて丹後の守護となった。以後若狭武田氏が丹後守護を兼ねたことがあったが、その支配はほとんど奥丹後には及ばず一色氏が実質支配権をもった。
一色氏被宮吉原氏は吉原に城郭を築いてこの地方の重鎮であった。天正7年(1579)、織田信長の命による細川・明智勢に攻められ、一色氏が降伏するまで、丹後は一色氏の支配下にあった。

中世の丹波郡には、丹後国田数帳によれば以下の郷・荘・保があった。ほぼ地域を比定できるものに、三重郷・延利保・大野郷・恒吉保・丹波郷・久次保・益富保・新治郷・石丸保・周枳郷・吉原庄・倉垣庄があり、不詳のものに成吉保・友安保・末松保・富永保・重国保・成次保・倉富保・友成保・成光保・国富保・米富保・久光保・光安周枳葛保・御厩保・是次保・友光保・時武保・安光保・則松保・成友保・成久保・末成保・元依保・吉田保・久岡保・末次保・久延保・光武保・光富保・吉光保があった。計5郷2荘35保、総段別836町7段355歩。


近世
天正8年、細川氏は織田信長から正式に丹後を与えられ、同10年興元が吉原山城に陣屋を増築、南方寺谷より東に市街を開いたという。慶長5年(1600)忠興が豊前中津へ転封するとともにここを去り、京極高知が丹後全領を与えられた。高知は翌6年丹後に入封、翌7年に丹後一円の検地を行ったが、この時丹波郡は28村(その他「端村」9村)、1万9217・77石であった。
元和8年の高知没後、峯山藩には高知の猶子高通が1万3千石(丹後分封分1万石)で入封、吉原山麓に館を築き、南方小西川にかけての地に峯山町が経営された。郡内の村は峯山藩のほか宮津藩に属し、のち幕府領(代官所支配)地も生れ三分属した。

近代〜現代
慶応4年(1868)、久美浜県の設置に伴い郡内の幕府領は同県とならた。明治4年(1871)7月廃藩置県で峯山藩・宮津藩が廃され、各々峯山県・宮津県となったが、同年11月豊岡県設置に伴い、峯山県・宮津県も廃されて一郡豊岡県に属した。同9年豊岡県が廃止されるに際し、中郡は京都府の管轄となった。同12年峯山町に中郡役所設置。
明治22年町村制施行により、峰山町・吉原村・五箇村・長善村・新山(にいやま)村・丹波村・大野村・常吉村・三重村・五十河村・周枳村・河辺(こうべ)村の1町11村となる。その後合併・編入や町制施行を経て峰山・大宮の二町となった。平成16年から京丹後市の一部になる。


丹波郡の主な歴史記録


『大日本地名辞書』
 〈 【中郡】与謝郡の西なる小郡にして、竹野川の上游を占む、今一町十二村、人口二万、面積凡四方里とす。
中郡は古の丹波郡なり、何世に改めしやを知らず、正保図已に中郡に作る、丹波郡は和名抄七郷に分ち、続紀「延暦二年、丹後国竹野郡人、正六位上丹波直真養任国造」とあり、古風土記にも丹波郡の名を見る、按ふに此地は丹波の名の起る所にして、古事記伝に「開化天皇の妃竹野比売の父旦波之大県主油碁理は丹波郡丹波郷などに住み、其所を大県と云ひ、国の大名も此県よりぞ出けむ、旦波は田庭の義ならむと述ぶ」(然れども此地又与謝に近かりければ、与佐とも唱へしごとし、与謝郡参考すべし)竹野姫の子、彦由牟須美命は実に丹波道主氏の祖なり。
 開化紀云、天皇納丹波竹野媛、為妃、生彦湯産隅命。崇神紀云、丹波道主命、遣丹波。垂仁紀云、道主王者、彦坐王子也、一曰彦湯産隅王子也。古事記云、旦波之大県主、名油碁理之女、竹野比売、生御子比古由牟須美命。又云、比古由牟須美王子、日子坐主、生子丹波比古多々須美知能宇斯王。
補【丹波郡】○宮津府志に曰く、旦波国の内加佐、与佐・竹野・熊野の四郡を割き新郡を立て丹波郡と名付く、此五郡を丹後国と云なり、此国分国なるが故に延喜式は大野神社・多久神社・揆枳神社を竹野郡とし、三重神社を与佐郡に出せしと雖、是皆丹波郡の神社なり。
○〔国郡沿革考〕丹波即丹波国名り出て起る所なり、安閑天皇の時蘇斯岐ソシキ屯倉を置、郡名始て桓武天皇紀に見ゆ、
 安閑天皇二年五月丙午朔甲寅、置丹波国蘇斯岐屯倉、和名抄丹波郡周枳スキ郷あり、即蘇斯岐の地、今周枳村存す、〔続紀〕延暦二年三月庚寅、丹後国丹波郡人正六位上丹波直真養、任国造、此郡後改て中郡と称す、
 按、何年に在るを詳にせず、蓋亦中世国号を同き者を改めし時なるべし、正保図以後皆中郡に作り、今之に仍る。

補〔丹後〕○宮津府志、也足軒説曰、旦波国の内加佐・与佐・竹野・熊野の四郡を割き新郡を立て丹波郡と名付く、此五郡を丹後国と云なり、此国分国なるが故に神社の郡違多し、国造以後のことを知らずして撰集なしたる延喜式は大野の神社、多久神社、揆枳神社を竹野郡とし、三重の神社を与佐郡に出せし類なり、是皆丹波郡の神社也、和銅の国造は加佐郡より検地し竹野郡に終る、依て両郡を公庄に定め諾良帝の供領とせしなり、和名抄に国府加佐郡と記す、加佐は神社のかななり、又竹野郡公庄村に43元明天皇(天智の女、文武の母)奉崇郡立神社といはひ祭る。
○天正府志曰、当国丹波郡は与佐・竹野の二郡を割て置し新郡なり、今五箇庄本箇里に道主将軍の城跡あり、里民府の岡と云ふ、此里に御饌都の神天降の跡とて咋岡と云ふ邑あり、又此処の西の山を咋石岳といふ、今是を久次村久次岳といふは非なり、久次は咋の仮名也、御神饌都神天降ねこと日本紀神代巻に宇気持神の死の伝あり、又崇神天皇朝に豊宇賀能(口編に羊)命天降有ける事は風土記・元々集等に委し、延喜式に比治真名為の神社あり、神社啓蒙に比治比沼同事なりとあり、比治は土形里の仮名書なり、桝富村の古名なり、此里の西の峠を今に至て比治嶺と云ふ、源順曰、丹後といへるは古又は丹波の後と云ふ心にて斯くいふなり、後への文字は北と云ふ心なりとも聞ゆ。  〉 


「丹後国式内神社取調書」
 〈 【式考】此郡ヲ俗ニ中郡ト云ハ一国五郡ノ中央ナレバナリ此郡ハ与佐郡ト竹野郡トヲ割テ置レタル郡ニテ後モ猶村ナヲド差替ナドシタルコトモアリトミユ其ハマヅ比治眞奈爲神社ハ確ト丹波郡ナルニ五部書ニ丹波国与佐之小見比治之眞名井云々トアリテ与佐郡ノ如クニ聞ユ是ハ丹波郡ヲ置レザル以前ニ言シ説ナルベケレド郡ヲ置レシ後モ丹波郡ハ狭少キ郡ナリケンヲマタ竹野与佐ノ両郡ヲ取リテ丹波郡ニ属タルコトモアルナラン故分国主郡ヨリ漸々ニ地理変遷ヲ考ヘザレバ大事ノ神社ノ所在ヲ誤ルコト多シ  〉 


『中郡誌稿』
 〈 中郡といふは、元来本称ではなく、昔から丹波郡といふたので、…、丹波は、旦波とも、但波とも、谿羽とも、文字は色々に書いてあるが、皆今いふ丹波で、文字はかりもので、言葉が大切なのである、昔「タニハ」と読むべきで、「タンバ」はニをンとはね、ハは音便に濁ったばかりである、「タニハ」とは田庭といふことで、田とは水田のこと、庭とは場所といふことである、さて此の郡名をすでに丹波といふからには、丹波の本地は此の郡なるべしとは、誰でも考へ及ぶべき事で、その上丹後郷も此の郡内にあるからには、なほさらのやうに思はれて、もともと丹後は元明天皇の和銅六年に、丹波の五郡を割いて置かれたもので、丹波丹後はもと一国であれば、なほなほここは丹波の本といふことになりさうなれど、丹波といふ名が広き丹波の何れに残るか分らぬことで、必ずしも本地に残るべきものとも限らないから、右の如き理由のみにては、たしかに此の地が丹波全国の本なりともいひがたい心地がする、しかし更に考へて見ると丹波は田庭で、農業の神である豊受大神の故地が、此の郡にあるといふことになっては、もはや何人も丹波のもとは茲であるといふことに、疑義は挟むまいと思はれる、即ち我古代史に其名の赫々たる丹波は此の辺りを指し、かつ此の郡と共に、竹野熊野あたりの地名も、古史に数々見ゆるのでも、其の事は明かである、
次に丹波郡を中郡といふやうになったのは、何時からであるかと調べて見ると余り古くはなくて徳川時代からである、其の証拠は当地宮田氏の記録に左の通りある。
 丹波郡を中郡と唱候事、奥平様宮津御領知之刻、(元禄十年より享保二年まで二十一年)国絵図公儀より被差出候節、中郡と認被差出候付、享保二年御朱印頂載之節、右郡名替り候訳御尋被成候へ共、古来中郡丹波郡之差別も御座候哉、旧記焼失に而難相知候、中郡と御認被下候ても、相障候事無御座旨、被仰上候付右の節より御朱印に中郡と相改り候。
即ち右徳川吉宗将軍の御朱印に添ふた領知目録にも、丹波国中郡とある、是で表向中郡と称するのは元禄以後であることは明瞭である。然るに天文年間の記録である、伊勢神主の書いた、丹後国の御檀家帳には「中郡丹波の郡とね申」とあり、即ち諸国に少なからず例のある通り、足利時代諸国の政治まちまちになりし折、郡名などにも種々異称が起った通り、丹波郡も民間にては便宜中郡と称へ、むしろ中郡の方が普通になったと見えて、丹波郡とも申すと、天文年間の人が書いたのである、それから延て徳川時代になって、其のままに呼びならふて、元禄以後は遂に公称となって今日に至ったのである、中郡といふ意味は、無論其の位置が奥丹後の中央に当るといふところから、自然呼び出したものであらう。
中郡の区域は、昔から今日の通りで変りがなかったかといふと、是にも異説があって、与謝竹野二郡を割出して新に出来た郡だなどといふが、元明天皇の和銅六年夏四月乙未丹波国加佐与謝丹波竹野熊野五郡を割て始て丹後国を立てられたことは、続日本紀にあって、決して昔から他郡を割いて造られたのではない事がわかる、但しそれぞれ其の所に書いて置いたが、今の三重五十河両村の地は総称して三重谷といふて、昔は与謝郡であったのが、後に中郡にはいったのは地勢といひ確からしい、又橋木も縁城寺の辺、僅かの区域であるが、元竹野郡であったのが、今は中郡になって居る、其の外には余り変りはないやうである、
中郡は、前にもいふた通り丹波の元地であって、平安朝以後は、別に他郡と異った事はないが、上古に豊受大神茲に天降りまして、農業の基礎を置かれたといふことは、何処も肩を比べることの出来ない偉大な歴史を持て居るといふべきである、即ち伊勢外宮の本地で、雄略天皇の時大神宮の御告によって、茲にあった外宮を、伊勢に移しまゐらせて、今日の外宮が出来たのである、然るに当郡に於ける豊受大神の宮は、御承知の通り、久次村の今日所謂比沼真奈為神社と、鱒留村の藤社神社とで議論があって、中々きまらない、伊勢でも度々調べに来て居る様子だが、どうもたしかな証拠がなくてきめかねて居るやうであるし、内務省でも、どちらともはっきりとせぬ、此の郡誌稿でもどちらともきめて居らぬ、何にせよ甚だ重大な問題であるから、中々軽々しくきめることは出来ない、依て久次と鱒留の両方の議論のよくわかるやうに、両方の主張を其のまま悉皆書き上げて置くことに留めた、よく読み味ふと、趣味のあるものゆゑ、精読すべきものと思ふ、ただ断って置くは、精しく選び採れば、史料に供すべきものとなって居るが、神道五部書のやうな、異議のある書物にはあまり據りたくなかったから、全然採らなかった事である、又延喜式によって比沼真奈為神社と久次では唱へて居るが、比沼は比治の方が正しいやうに思はれる摂津風土記の如き比遅乃麻奈韋と明に記す、今の延喜式は治を沼と書きひがめたのが伝はれるものであらう、摂津風土記の文は参考上大切であるから、次に引いて置かう、
 摂津風土記云、稲倉山、昔止與宇可乃売神居山中、以盛飯因以為名、又昔豊宇可乃売神常居稲椋山、而為膳厨之処、後有事故不一レ己、遂還於丹波国比遅乃麻奈韋
是の話も我が古俗の地名解釈の一神話たるも計られないが、遂に丹波の比遅乃麻奈韋に還るとあるので、豊受大神の本国は丹波であることが明にわかる、町村誌の方には引き忘れたが、御檀家帳熊野郡の部に「佐野のひじ山」とあるのも、中郡との境のひじ山峠を越した向ひ地と見える、なほ序ながら、鱒留の隣接地で、但馬出石郡の東北極隅で、与謝郡と中郡との境に、藤森村といふのがあって、足占山の南麓に当って居るが、茲にも豊受大神の社がある、
(地名辞書)藤森、延喜式比遅神社あり、神祇志料云、此社今山姥稲荷と云ひ、蓋豊宇加能売命を祭る、丹波中郡の比治真井神社に近き地なれば其因由なきに非ず、
(地理志料)比遅神社在口藤森村、称山姥稲荷、蓋祀豊宇気毘売命也、
但し真の真名井神社は久次鱒留何れともきめがたいが、何れにしても極めて近接の地で、この奥まりたる狭い所が、吾が国農業の根元地で、伊勢外宮の本地であるのである。

延喜式に丹波郡の神社は九座ある、即ち
 丹波郡九座大二座小七座
  大宮売神社二座名神大   咋岡神社
  波弥神社            多久神社
  稲代神社            名木神社
  矢田神社            比沼麻奈為神社
右の九座は皆一神を祭って、豊受大神を奉祀したものになって居る、一郡一神とは誠に神国のためしといふべきである併し大宮売も豊受神と同神なりとの説もあれど、古語拾遺の説に従て、太玉命の御子で天照大神に近侍せられたる方に取りたし、(主基の地に対して豊受神なる方ふさはしけんど)因に周枳の大宮売、若宮売両御神体の図は、諸書に甚だ誤りたる御肖像を出してあって、恐れ多いことである、此の郡誌のは、私が郡内巡回当時、特に拝み奉りて謹模したので、まづ正確であります、一方は左袵で入らせられて、御髪の容、御服の姿、我邦では他に類稀な尊き御姿と存ずる、
丹後風土記の棚機姫の伝説は、無論豊受姫の故事を語るもので、本邦民間伝説中出色の出来である、…略…(風土記奈具社引用)…略…さて是と同様の伝説は、近江の余呉の湖水、河内の天の川にもあるが、一番名高いのは、駿河の三保松原で即ち謡の羽衣である、羽衣の謡には天の原ふりさけ見ればの歌も、其のまま取ってあれば、天女と老夫の問答の天人は信を以て本とするとか、疑多きは率士の常などのかけあひもある、いかにあの曲を作る時、此の文章が参考せられたかがわかる、天女八人とあるのは、近江の余呉も同じであるが、是は御所で御祭になる八神になづらへたるのでとの説であるが、我が古代に神を祭るに、八少男オトコ八少女オトメといふことがある、その八少女から起ったのではなからうか、又天女善く酒を醸すといふは、元豊宇賀能売命即豊受神は五穀の神なるも、いつか酒の神と信じられたるものと見えて、神道五部書なども此の風土記の文によって豊宇賀能売命を専ら酒の神に引きつけてある、内記、荒山、丹波、矢田、橋木の社で、祭神を天酒アマサケ大明神といふもこのわけである、要するに此の地即ち比遅の麻奈韋に、豊宇賀能売神の座したることは、摂津風土記の明文もあって明なことで、其伝説が段々と変化して、遂に天女談となって、右の様になったものと想像される、…略…、但し天女の老夫老婦の家を去り、比治里荒塩村(今荒山村)、丹波里哭木村(今内記村)、竹野郡船木里奈具村(今同郡舟木村)に行きたる道筋は、誠によく地理にかなって居て、開拓の進路を示して居るやうに想はれる、但し本文の郡家の西北隅とあるのは、どうしても見当がちがうとして思はれない、又俗に此の話を棚機姫の話と一口にいふが、棚機の話は支那の天文説話で、牽牛織女二星、銀河を隔てて一年一回相会ふといふ話で、ただ天女といふことから、ふといふので、全く話の筋がちがって居る、寧ろ故栗田博士が近江余呉の伝説の註に引かれたる、支那の捜神記の予章新喩縣男子、見田有六七女皆衣…略…、などから、胚胎して来たのではなからうか、

我が国古神話に於ける農蚕神に就て一言して置かう、
日本書紀一書に云、…略…
古事記には、…略…
此の如く伝区々で、書紀には農蚕の神を、稚産売神とも保食神ともし、古事記には大宜津姫神とし、又書紀には月夜見神が怒て保食神を斬殺したまふたのを、古事記には素盞鳴尊とするも、話の筋はよく合ふて居る、つまりかやうの古伝説があって、神の名を種々に伝へたものと思はれる、然るに豊宇気毘売神の農蚕に功あった事は、書紀にも古事記にも見えて居らぬ、但し古事記には「登由宇気神、此者座外宮之度相神者也」と明記してあって、延暦止由気宮儀式帳に、丹波から伊勢に移されたる次第を次の通りはっきり書いてある、
天照坐皇大神、始巻向玉城宮御宇天皇(垂仁)御世、国国処処大宮処求賜時、度会(乃)宇治(乃)伊須須(乃)河上(乃)大宮供奉、爾時大長谷天皇(雄略)御夢(爾)誨サトシ覚賜(久)、吾高天原坐(弖)見ミ(志)真マ岐ギ賜(志)処(爾)、志都真利坐(奴)然吾一所耳坐(波)甚苦、加以大御饌(毛)安不聞食坐、故(爾)丹波国比治(乃)真奈井(爾)坐、我御饌都神等由気大神(乎)、我許欲(止)誨覚奉(支)、爾時天皇驚悟賜(弖)、即従丹波国行幸(弖)、度会山田原(乃)下石根(爾)、宮柱太知立、高天原(爾)知疑高知(弖)、宮定斎仕奉始(支)、是以御饌殿造奉(弖)、天照坐皇太神(乃)朝(乃)大御饌夕(乃)大御饌(乎)、日別供奉、
即ち外宮豊宇気の神は、天照大神の御食の神であることは明かであって、豊宇気神は前にもいふた如く、書紀一書の伝に蚕桑五穀の神なる、稚産霊神の御子であるから、親神の霊徳を伝へられたるものか、夫にしてもかくまで皇大神も仰せられ、外宮に鎮まります大神の偉業を伝へ遺すも、不審に想はるるので、書紀通釈にも、「此事は平田翁もいはれたる如く、豊受姫神の事実の御親子の間にて混乱せるるものなるべし、」と弁じて居らるる、又我古言から、神の名の種々に伝はったを解釈して、我古言では、食物を「ウケ」といひ、約しては「ケ」ともいふゆへ、保食神とも、大宜津比売とも、豊受姫とも、豊宇賀能売命(倉稲魂神)ともいひ、皆同一神なりと説く、…略…

由来上古の我国は、日本海岸の方が太平洋海岸より早く開けて、出雲といひ、天日槍の但馬にとどまったことといひ、後に蝦夷の征伐でも、日本海岸にそうて遠く北に進んだので、我丹後の如きも、上古日本海岸に於ける一首要地である、それゆへ皇室との関係も深くて、外宮の本地たるのみでなく、更に皇室外戚の位地にある、即ち開化天皇の妃には、旦波の大県主油碁理の女竹野比売といふ名が見えて居て、姫の御名は竹野郡名と縁のあるものと見れば、旦波の大県主といふもこの丹波竹野両郡地方の大族と見るべきである、竹野比売の御子を比古由牟須美命といふて、御御子大筒木垂根王の御子、迦具夜比売命は垂仁天皇の妃となって居らるる、又開化天皇の皇子日子坐王の皇子が、丹波比古多多須美知能宇斯王、即丹波道主命で、丹波の河上の摩須郎女を娶られた、是は熊野郡と見ゆ、何れもこの地方の名門豪族と見える、其御子比婆須比売命も入て、垂仁天皇の妃となり、景行天皇を始め倭比売命其他二方の皇子を生ませられた、倭比売命は即ち始めて伊勢神宮を祭られたる方で、外宮は恰もその母方の郷より伊勢に迎へ祀られたこととなる因縁浅からずと申すべきである、其他道主命の女、沼羽田之入毘売之命、阿邪美能伊理毘売命も同じく垂仁天皇の妃となられて、御子を生ませられてある、前にいふ通り竹野姫の曾孫姫と共に皆妃に立ち居らるることで、当時丹波族の勢威は非常に盛んなものであったと想像さるる、宜なり道主命が叔父甥の関係にあたる、崇神天皇の時、四道将軍の一人となって、当時我国の大切なる方面の丹波、即ち日本海方面に当らたれることは、なほ道主命の弟山代之大筒木真若王の孫を息長宿禰王とし、其母は丹波の遠津臣の河高材比売であって、其子で息長帯比売命即神功皇后はあるのである、是等を合せて考へると、中々上世丹波族の国史に浅からざる関係を持て居ることが分る、
所謂丹波道主命の丹波は丹波丹後の小地域に限れるものでないことは、外の三道将軍に照して見ても推し知ることが出来るやうで、古事記伝に、国造本紀に稲葉即ち今の因幡の国造は志賀高穴穂の朝、即ち成務天皇の御世に、彦坐王の兒彦多都彦命がなられてるとあるを解釈して、彦多都彦とあるのは丹波道主命ときこゆと説てあるなどは、以て傍証にすべきものであると思ふ、其他息長宿禰王の御子は但馬の国造となり、日坐王の御子建豊波豆羅和気王は竹野別の祖とあるなど、詳しく調べて行けば、丹波族の発展に就て一大史論を作りて、我が古代史に一新生面を開くかも知れぬ。
…略…此郡には昔日下部氏繁昌して、億計弘計二皇子の避難せられたのも、日下部氏をたよって来られたのかも知れぬ、其日下部氏も開化天皇の皇子、彦坐王の裔であるのを見ると、古の丹波は同系のさかへたる地と見るべきである、
又当郡には、古墳が比較的に多くあって、…略…然るに実地を調べて見ると、所在其跡のない所はない位である、是は皆古代に、吾が天孫人種が住み着いて、其風俗に従って埋葬したもので、何れも身分ある人々の墳墓と見るべきものと考へられる、…  〉 


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『峰山郷土志』
その他たくさん



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