一段(いちだん)
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京都府京丹後市丹後町一段 京都府竹野郡丹後町一段 京都府竹野郡豊栄村一段 京都府竹野郡八木村一段 |
一段の概要《一段の概要》 ふるくは一之段村(いちのだんむら)という。依遅ヶ尾山(540m)の南麓の東西に長い谷間に位置する。竹野川の支流吉永川が西部に源を発して西流。沿岸のわずかな平地に立地する。 吉永の奥から一段の方向を見る、この道を↑3㎞ばかり行くとあるよう。 「丹後御檀家帳」には「一 吉長の内たん」と、「一 吉長の内いかん谷 家四拾軒斗」とも見えるが、そのどちらかが当地のことと推定されている。慶長検地郷村帳に「吉永村之内一段村」とある。 一段村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、以後享保2年幕府領、宝暦13年但馬出石藩領、天保6年幕府領となる。もと吉永村の枝郷で、のち分村独立。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年八木村の大字となる。 一段は、明治22年~現在の大字名。はじめ八木村、大正14年豊栄村、昭和30年からは丹後町の大字。平成16年から京丹後市の大字。大正13年の戸数24・人口130、昭和35年の世帯数18・人口96。昭和38年の豪雪で離村が相次ぎ、同45年廃村となった。 《一段の人口・世帯数》 0・0 《主な社寺など》 五社明神(五神社) 『丹後国竹野郡誌』 〈 五神社 村社 字一段小字宮ノナル鎮座 (神社明細帳)祭神 豊宇賀之口羊神 登田気神 宇気母智神 豊岡姫神 倉稲魂神 創建不詳、元禄十一寅七月二十六日再建、明治四年五月村社に列す、 本 殿 梁行一間半 桁行三間半 境内坪数 二百三十坪 境 内 神 社 稲 荷 神 社 祭神 倉 稲 魂 神 〉 『丹後町史』 〈 五(いつ)神社 豊宇賀能之口羊神、登田気神、豊岡姫神、倉稲魂神、宇気母智神を祭る。 元禄十一年七月二十六日再建、明治四年五月村社となったが、前記のように松枝神社に合祀され現在は祠だけがのこっている。 〉 《交通》 《産業》 力石の主な歴史記録『丹後国御檀家帳』 〈 一 吉長の内たん かうおや 万 福 寺 彦 治 郎 殿 助 次 郎 殿 孫 治 郎 殿 彦 左 衛 門 殿 治 郎 兵 衛 殿 又 九 郎 殿 かなや彦左衛門殿 〆 一 吉長の内いかん谷 家四拾軒斗 かうおや 源 左 衛 門 殿 しゃうふ谷殿 〃 西 の 坊 山ねの太郎左衛門殿 〆 〉 『丹哥府志』 〈 ◎一之段村(矢畑村の次) 【五社明神】(祭九月六日) 〉 『両丹地方史』(S39.12.30) 〈 亡びゆく村々を思うて 宮津市 岩崎英精 前略。本日これから申しますことは、他の諸先生方のようご研充発表ではありませんで、実は私どもの位に奥丹後地方に、ここ数年来ひきつづいておこりつゝある恐ろしい現象、それは幾百千年の歴史ある山村が、次ぎ次ぎと潰れていくという事実につきまして、これはやがて全国的にひろがる性質の現象でもありますので、この際ぜひとろ皆さん方に絶大なるご関心をいただくよう、お訴え申し上げたいものであります。 ご承知のとおり、かって徳川時代によくみられた「逃散-ちょうさん」ということ、すなわち村中が先祖伝来の故郷を捨てて一夜のうちに住民が離村して村が潰れてしまうという事実、その「逃散」が昭和の今日、自民党政府の政治のなかで、あちらにもこちらにもみられる現象なのであります。私はこの事実を「現代的逃散」と申しておりますが、実に白夜堂々と「逃散」が行われ、しかも徳川時代のように「強訴・徒党・逃散」といって、幕藩による圧制への抵抗としての犯罪ともみられないで、政府も地方行政体もほとんどとこれという対策もないままに、住民は村を見捨てて離村してしまうのが、まことに現代的逃散にみられる特長であります。 そこで私共の住む奥丹後地方で すでに亡びてしまった村々をあげますと、左のような実状でありまして、なんとも言葉にもあらわしえぬようなひどい有様であります。その村々こいうのは… 宮津市。旧日ヶ谷付の牧、旧世屋村の麻谷・ 松尾・駒倉・旧府中村の西谷・東谷。 与謝郡。伊根町旧筒川村の田坪・吉谷 竹野郡。丹後町旧豊栄村の力石・旧宇川村の 竹久僧・旧野間村の住山・小杉 といった実状でありまして、これらはいずれも現在潰れた旧藩時代の村々であり、町村制施行後は大字部落乃至小字であります。 いま申し上げた村々は例外なく山村、丹後半島の屋根といわれる五〇〇メートルから七〇〇メートルの山々に囲まれた山村でありますが、この幾百千年の歴史に生きてきた村人が、先祖代々の墓をはじめ、苦心して築きあげた家屋敷も、先祖代々の血と汗とで育ててきた田畑、さらに個人の、あるいは共同の山林原野までも見捨てゝ、これらがいずれも経済的生産の価値を失って、まさに自然にかえってしまっても、何処からも誰からも一円の金も補償してはくれないのであります。 しかもなおこれらの人々は村を棄てゝ出てゆくのでありますが、その出てゆかねばならぬ理由がどこにあるかと申しますと、それは「もうこの村ではとても生活が成りたたないから…」という一語につきるのであります。ある週間雑誌や新聞には昨年の豪雪に将来を絶望して出るんた…などと書いていたのもありますが、この人々は断じて単なる豪雪、一年や二年の大雪でヘコタレたのでは決してありません。楽しい生活、平和な暮しができるのなら、こうして先祖伝来の村を捨てるでしょう、もっとも多少の時代的影響はありましても、断じてこれらの村々が潰れるといった現象はおこらないはずであります。 いわば、そこには豪雪よりも台風よりも、もっともっと恐ろしい現代的飢餓が彼ら村人をおそい、日夜ひしひしとその苦しみが肌にせまってくる昨今の生活、この怖ろしい現代的飢餓にたえられなくった人々が個々にまた集団で、村々を見捨てゝ出てゆき、そうして村は潰れ亡びるのであります。 ではいったいその怖ろしい現代的飢餓とはどこからきたのでしょうか、それは戦後の生活環境の激変、ことに自民党池田内閣の「所得倍増政策」の結果でありまして、独占的な資本のみにはほゝえむ所得倍増政策こそは、豪雪よりも台風よりも怖ろしい飢餓の波であり、こゝにこそ現代的「逃散」は当然におこるべくしておこりつゝあるのであります。 おそらく以上申し上げた村々だけが亡びたのではなく、きっとこれからもどしどしと亡びる村が出るでしょうし、これはやがて全国的規模において現われる前徴であることも間違いないと思うのであります。 さて私が皆さんに訴えて、お願いしたいことは、ここであります。私はここで政治を語り、社会経済を云々しているの気はなく、このようにして潰れ亡びる村々と、その村々をつつむ村や町や市の、その歴史の変化を、この際ぜひとも強い関心をもって見守り、お互に地方史を目標とするものが協力して、私たち現代人の責任においた、後世の若い人たちに誇りをもって引継ぎうるような歴史を明らかにすべきだと思うものであります、どうかこの歴史の激変期に、ぜひとも皆さん方と共に、進ませていただきたいものであります。 (完) 〉 力石の小字一覧一段(いちだん) 沖田(おきだ) アラキ 長町(ながまち) 長町利八屋敷(ながまちりはちやしき) カトリ 万願寺(まんがんじ) 松ノ木(まつのき) 長尾(ながお) 宮ノナル(みやのなる) 内垣寺尾(うちがきてらお) 内垣(うちがき) 矢畑坂(やばたざか) 黒ガヘ(くろがへ) ダンジリ イヅミ田(いづみだ) 橋ノ本(はしのもと) 大谷口(おおだにぐち) 友成(ともなり) 下万谷(しもまんだに) 宮ノ下(みやのした) 入ノ向(いりのむかい) タキジリ 古屋敷(ふるやしき) 藪ノ坂(やぶのさか) ヲメラ 柳原(やなぎはら) 池尻(いけじり) 下向ヘ(しもむかへ) 池ノ坂(いけのさか) 宮ノ先(みやのさき) 万谷坂(まんだにざか) 湯舟坂(ゆぶねざか) 奥万谷坂(おくまんだにざか) 奥万谷(おくまんだに) 奥万谷川向ヘ(おくなんだにかわむかへ) 万谷(まんだに) ユキスリ畑(ゆきすりばた) ナシノ木谷(なしのきだに) 堂屋敷(どうやしき) 市ケ尾(いちがお) 後丹谷(ごたんだに) ナル 池ノ坂上口(いけのさかあがりぐち) ユブネ 入ノ向(いりのむかい) 渡リ口(わたりぐち) 石屋敷(いしやしき) 苗代ノ上(なわしろのうえ) 上地(かみぢ) 山ノ神道ノ下(やまのかみみちした) 石原(いしはら) 向石原(むかいいしはら) 山ノ神(やまのかみ) 上地隠居屋敷(かみぢしんきょやしき) 上地和平屋敷(かみぢわへいやしき) 上地清ノ東畑(かみぢきよしのひがしばたけ) 大畑ケ道ノ下(おおばたけみちのした) 大畑ケ(おおばたけ) 大畑ケ道ノ上(おおばたけみちのうえ) 柿ノ木奥(かきのきおく) ヲイ畑ケ(をいばたけ) クリヅミネ 大畑ケ奥(おおばたけおく) 一枚畑ケ(いちまいばたけ) 林ノ尾(はやしのお) 横道ノ上(よこみちのうえ) 横道ノ下(よこみちのした) 家ノ上(いえのうえ) 柳原道ノ上(やなぎはらみちのうえ) 横坂(よこさか) 池ノ奥(いけのおく) 地蔵ノ向ヘ(じぞうのむかへ) ナメラ シリボソ 中尾(なかお) 後丹(ごたん) 後丹道ノ下(ごたんみちのした) シブクリ 葉ガヘ(はがへ) 地蔵ノヲテ(じぞうのをて) 市ケ尾先ノ切(いちがおさきのきり) 市ケ尾観音ノ下(いちがおかんのんのした) 市ケ尾観音屋敷(いちがおかんのんやしき) 市ケ尾谷ノ切(いちがおたにのきり) 後丹向ヘ(ごたんむかへ) 堂屋敷坂(どうやしきざか) 万谷道ノ上(まんだにみちのうえ) 小谷(こたに) キヤケ原(きけやはら) 万谷奥(まんだにおく) 万谷道ノ下(まんだにみちのした) 奥万谷渡(おくまんだにわたり) 万谷奥渡リセ(まんだにおくわたりせ) 打越(うちこし) 万谷向(まんだにむかえ) ユプ子(ゆぶこ) 打越道ノ下(うちこしみちのした) 芋根谷(いもねだに) 間垣(まがき) 間垣道ノ下(みがきみちのした) 藪ノ上(やぶのうえ) ナル久助屋敷(なるきゅうすけやしき) ナル道ノ上(なるみちのうえ) 岡畑(おかばた) ナル森ノ処(なるもりのところ) ナル道ノ下(なるみちのした) ナル坂(なるさか) 下向へ(しもむかへ) 苗代(なわしろ) 荒神谷(こうじんだに) 中畑(なかばたけ) 大タモ(おおたも) 宮ノ後テ(みやのおて) ヤシキノ奥(やしきのおく) ハヘノ谷(はへのたに) ササワラ 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 『丹後町史』 その他たくさん |
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