丹後の地名

泉(いずみ)
京丹後市峰山町泉


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京都府京丹後市峰山町泉

京都府中郡峰山町泉

泉の概要




《泉の概要》
峰山の町の中央部で北部は峰山町市街地に続き、南部は愛宕山丘陵にかかる。南北に走る旧国道312号線沿いの金刀比羅神社のある一帯。
泉町は、江戸期~明治22年の町名。江戸期は城下町峰山町の1町。文化4年に峰山藩主京極高久が当時の城下町の南方、小西川南側の杉谷村の田地宇塚(うづか)を城下町に組み入れて新町をつくり、その南半を泉町としたという。明治17年からは峰山15か町の1町となった。同22年峰山町の大字となる。
泉は、明治22年~現在の峰山町の大字名。平成16年から京丹後市の大字。

《泉の人口・世帯数》 102・39

《主な社寺など》
金刀比羅神社
金刀比羅神社(泉)

文化8年(1811)藩主・京極高備創立の旧府社。最近勧請二百年を迎えている。祭神は大物主命。
峯山藩主6代京極高久は多度津(香川県仲多度郡多度津町)の京極家の二男であったが峯山京極家に養子入りした人で、その縁で郷里の金刀比羅宮(香川県仲多度郡琴平町)を勧請しようとしたが果せなかった。文化八年、子の7代高備の時に実現した。勧請には増長院の尊光が当たった。
讃岐の金毘羅権現は、日本一社の掟で、分宮を行なった先例はなかったが、こうした事情をたどってのことなので、このたびに限り、特別にお山の掟を破って、分宮を認めるというものであった。
藩主が勧請したこともあって、江戸時代には特別の保護を受けて発展したが、明治に入って神仏分離し、一時琴平神社、その後現社号に改めた。明治6年(1873)赤坂の篠著明神(咋岡神社)や安の稲代吉原神社の氏子600余戸を自社の氏子として郷社に昇格、その後府社となったという。
毎年10月10日に行われる祭礼には、古くは神輿の渡御があり、屋台や大神楽などの供奉もあって壮観であったが、屋台などが昭和2年の丹後大震災で焼滅し、その後復活したが往時の面影は薄いといわれる。
絵馬
『峰山郷土志』は、
 〈 屋台 祭礼に出た屋台には、春日山(上町)、高砂山(織元町)、八幡山(室町)、稲荷山(堺町)、五幸山(富貴屋町)、天神山(呉服町)、釜掘山(浪花町)、金刀比羅山(白銀町)、同(泉町)、三輪山(御旅町)、その他不断町の大神楽等があった。
金刀比羅祭礼絵額 社務所の式殿に長額がある。明治庚寅(二十三年)の作で、画面に本屋台十・竹屋台(芸屋台とも)九、吹貫十一がみえ、不断町の太神楽が先導している。、また画面の余白に、京極高之の多才を賞讃する弁が記してある。高之は峯山藩四代の主で、金毘羅勧請は七代高備であるから関係はないが、屋台、吹貫との関係があったのであろうか。屋台の沿革がわからない。屋台ばやしは、若者を江州に送って習わせたともいい、また、森田治郎兵衛が、祇園から師匠をやとって習わせたともいいつたえられている。  〉 

境内社

木島神社
蚕をネズミが食べるので、蚕の守護として猫が大事にされた。カイコもネズミもいなくなってドデっとして「ネコまっしぐら」などを食べているようだが、ネコちゃんも昔はよい仕事をしたのであった、ネコちゃんいなくばこんにちの日本経済はなかったかも…。そのニャンコの狛犬(狛猫)のいる神社である。こうした狛猫は全国的にもここだけとか…こんな絵馬もある→
木島神社
2社祀られていて、左が木島神社で、右は猿田彦神社である。↑

『峰山郷土志』
 〈 木島神社(祭神 保食命)狛猫
木島神社は、養蚕の神で、ちりめん織りの業者が、藩の許可を得て、文政十三年(一八三〇)二月二十九日、山城国葛野郡木島養蚕神社からお迎えしたもので、遷座棟札に明記されていると『府・神社明細帳』(明治十七年)に記してあるが、その棟札は現存していないようである。文政十三年というと、菅峠で金毘羅宮の鐘を鋳た年であり、二層塔の鐘楼が建ったのもこの年であろう。『丹哥府志』にいう蚕の神はこれで、天保十二年頃は、町口の大鳥居の北側に、祇園、稲荷と並んでまつられていたことがわかる。
明治六年の『郷社御記録』や『杉谷区所蔵文書』等によると、当社は文政年間、神職、榊出雲の時に勧請され、石の大鳥居の北側の横水道から東にあって、南北幅三間、東西奥行八間ばかりであったが、杉谷村に支払う年貢に困って、榊金丸(明治二年)の代に、溜池の下り水筋を区切って、石鳥居の北側にくっつけた。奥行はやはり八間もあった。狛猫
その後、明治六年になって、社を籠堂に移した。ところが、御一新によって、鐘は宇川の久僧村隣海寺(または房蔵寺)に売り渡し、鐘楼は廃止されたので、その建物へ蚕の神をうつし、籠堂は改造して社務所に使用したもので、杉谷村に毎年納める年貢が、三斗五升助かったということである。
この蚕の神をまつった鐘楼は「木島霊異殿」と改称された。山城の木島養蚕神社の伝記にならったものである(『和漢三才図絵』参照)。
木島神社の震災前の建物は、二間三尺四面で、遊仙窟をしのばせる不思議なものであったろう。  〉 

コマネコ
社務所のあたりもコマネコだらけ…。
当社の「狛猫」は全国的に有名であるが、峰山だけにとどまらず、広く丹後繁栄の守護神のようなものか。近頃は「ねこ祭」が行われる。
世界的にはベルギーのフランドル地方、イーペルの毛織物をかじるネズミを退治した「ねこ祭」が知られる。当地よりはずっとずっと暗い長い過去があり、第一次大戦で破壊し尽くされた町である。

『丹哥府志』は、
 〈 【金毘羅】(白銀町の南東側にあり、祭三、六、十月十日)
本社前に金燈籠一封、石燈籠二封、駒犬一封、本杜の左に絵馬堂一宇、絵馬堂の南に樟の化石高サ三尺周り八、九尺。石階幾段を下りて石燈籠三封、鳥井一基、道の右に堂一宇、籠堂の前に鐘楼並愛染明王の堂あり。又石階幾段を下りて厩あり是處に岐路あり、右の方へ下りて惣門あり、惣門の前左の方へ上りて粟島大明神の社あり、社の前に駒犬一対、石燈籠一対、社の後より上りて厩の前に至る、 於是本道と合す。惣門の前に鳥井一基、石燈籠一封、右の方に手洗鉢あり、道を狭みて石の玉垣左右に廻りて町の口に至る。町の口に鳥井一基、鳥井の左に祇園の社及小社二座、一は稲荷大明神なり、一は蚕の神なり、蚕の神の前に駒犬の如く石の猫あり。  〉 

としている。今とはだいぶ境内の様子が異なるようだが、石の猫はいたよう…。当社に限らず昭和2年の丹後大震災で峰山の市街地はほぼ100%が倒壊し尽くし崩れ尽くし焼き尽くした、それ以前の木造のものは残っていない。燃えない物だけがなんとか残っているだけである。
木嶋坐天照御魂神社は、「このしまにますあまてるみむすびのかみのやしろ」と呼ぶが、山城国葛野郡の名神大社。京福電鉄の太奏の「蚕の社」駅、近くのバス停も「蚕の社」となっている。本殿の右側に養蚕(こかい)神社がある。太秦は養蚕・機織・染色の技術で繁栄した秦氏の拠点地で、これにちなんで祀られた神社とされ、一般には蚕の社とよばれる。木島神社はこの社を勧請したものである。
秦氏は新羅系渡来人の雄で、養蚕や絹織物も渡来の技術であった。目のかたきのように、あるいは差別したり、あるいは加害者であったことを忘れ何か第三者かのように「基本的には、どこでもあることです…」などと自分の立場も都合悪ければすっかり忘れているようだが、中国や朝鮮なくば日本の「世界一の高度な技術」もなかった、こんにちの日本なるものはなかったのである。あたかも自力だけで「世界一」になったように思い込み発言しているのを聞けば、政治屋などとはええオッサンやオバハンが要するに幼児以下のアタマしかないクダラヌモノだということで、はたで聞いていても恥ずかしい。

その向かいに
佐々木神社 峰山藩主・京極家の祖神を祀る。
佐々木神社

『峰山郷土志』
 〈 佐々木神社(祭神 定省命、素盞鳴命) 京極家は宇多源氏の系統で、祖先は近江国の佐々木高綱であるから、元禄十六年(一七〇一)四月、四代高之の時、祖先の廟をお迎えして、藩邸の表門の前(峰山小学校庭東南部)にまつったもので、祭日は四月十日、神主は榊陸奥であった(『丹哥府志』『峯山旧記』)。しかし、宝暦三年の『峯山明細記』にはのせていない。明治六年二月十日、村社となったが、その後管理が悪く、社殿が荒廃しつつあったが、ちょうど峯山小学校の新築計画がおこり、境内の丘をくずして校地に敷くため、同九年四月二十九日、遷社式を行ない、小象山の頂上の金刀比羅神社の東上に遷した(現在の金刀比羅本殿付近)。…
佐々木神社は、震災で倒壊、本社より一段下の現在地(旧籠堂跡)に改築された。  〉 
福知山の城主・朽木家も同じ近江佐々木の一族で、何かここの佐々木家とも関係ありそうだけれども、古くさかのぼれば「サムライ」の元祖のようなもの。蒲生郡や神崎郡あたりの古代からの渡来系、ササというのだから新羅系と思われる豪族である。源氏は新羅系、平氏は百済系といわれる。サムライニッポンなどと、サムライといえば日本のものと思い込んでいるが、それもちょっと怪しくなってくる。
丹後でおなじみの弘計(顕宗)紀や雄略紀に狭狭城山君韓袋宿禰という人が見える、一族からは宮廷の後宮に出仕する者も多い、安土町宮津の瓢箪山古墳、常楽寺山の常楽寺古墳群は、佐々貴山公に係わるものとみられている、とくに瓢箪山古墳は、近江で最大・最古期に属する前方後円墳として著名。後に蒲生郡大領にもなる一族であるが、オケヲケからすればかたきのような一族か。このあたりを開いた渡来系氏族であるが、後の佐々木氏とつながりがあるかは不明だが、同じ所にいるのだから何も関係がないということはなかろう。


ほかに
秋葉神社、稲荷神社、工業神社、祇園神社、粟島神社


《交通》


《産業》


泉の主な歴史記録


『中郡誌稿』
 〈 (峯山町誌稿)丹後国中郡峰山町 本市街古時何郷に属するや分明ならず往古吉原と称す峰山と改称するは何れの年間か又詳ならず(慶長七年検地以前には峯山の称見当らず其後称するならんといふ)中古町名北町表町四軒町不断町上町中町下町古殿町(丸山町又茶園場と云)田町出町等の称あり文化四丁卯年更に一ケ町を増置白銀町と唱ふ明治二己巳年町数を分合改称し吉原町(北町表町を合)織元町(中町を分つ)室町(同上)呉服町(下町を分つ)浪花町(同上)富貴屋町(田町を分つ)境町(同上)御旅町(出町を改む)泉町(白銀町の内を分つ)光明寺町(菅村地内菅峠に在る民家を峯山町に属す)四軒町不断町上町古殿町白銀町と共に十五ケ町となる(付云吉原町の内字桝形以北元北町と称する辺元和八年以前は赤坂村の農家あり今桝形と唱ふる所小峠にて赤坂村と峯山との境界のよし京極氏陣屋を建築するに際し民家を今の赤坂村へ移すと云又元田町は延宝年中組屋敷を町家とし元出町は其後に置るならんと孰れも古老の伝記にあれども詳ならず  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【金刀比羅神社(元府社、峰山、泉町、祭神 大物主命、例祭四、七、十月、各十日)】
『小象山 金毘羅宮記(尊光法印筆録実雄僧正校訂)』、『峯山藩御用覚帳』、『同社寺日記』等から、金毘羅権現の勧請について略記しよう(七代高備時代参照)。
金刀比羅神社は、明治維新前は金毘羅宮といい、文化八年(一八一一)、藩主のお頼みによって四国の讃岐の琴平町にある金毘羅権現の分霊をお迎えしたものである。琴平は、丸亀六万千二百石京極佐渡守の領地で、金羅のお山の象頭山は、分家の多度津一万石京極壱岐守の領分であった。
 峯山藩主六代高久は、その多度津藩主京極織部高庭の二男に生まれ、峯山の養子となったもので、日頃から信仰していた郷里の金毘羅権現をお迎えしようと考えていたが、その実現みないで、文化五年(一八〇八)五月、世を去ってしまった。
家を継いだ七代高備は、父高久の遺志を受け、父の死後年目に、希望をなしとげたのである。
文化七年(一八一〇)三月十日、高備は、増長院の尊光和尚を御館に召し出して、勧請を命ぜられた。尊光は蔵王権現の別当で、藩主の信頼が厚かったうえに、讃岐の金毘羅宮の別当の象頭山松尾寺金光院は、増長院と同じ真言宗で金光院の主僧は、青年の頃、高野山の大楽院の衆坊で勉強していた当時、尊光とは学友の関係でもあった。
そこで、藩主からは、多度津公へ分霊勧請のあっせんを依頼し、尊光は金光院へ願書をさし出した。従来、讃岐の金毘羅権現は、日本一社の掟で、分宮を行なった先例はなかったが、こうした深い事情をたどっての願望なので、このたびに限り、特別にお山の掟を破って、分宮を認めようと回答があった。
文化七年十二月二十一日の四ツ時(午前十時)、尊光を藩庁に召し出し、家老今井勘解由から、金毘羅勧請の支配を仰せつけ、同二十五日、鎮壇供(地祭り)を行なわせ、作事方(建築係)を河村九十九に命じた。場所は白銀町先の佐次兵衛林で、杉谷村の百姓佐次兵衛の持ち林であったが、四代高之が、急に山遊びに行ったところ、松の枝を切りに上っていた佐次兵衛は、下りる暇がなかったので、樹上にかくれているところを発見され、村中からのおわびでやっと身柄は放免されたが、山林は藩へ没収された。この林には、古くから社があって、今度が三回目の普請で、社に関係したもの一切を社僧が取り捨ててしまったともいい、また、古社の拝殿を移して絵馬堂にし、維新の際、修繕して説教所にしたともいわれるが、そうした古社があったかどうか、これを裏書する資料はないし、金毘羅勧請が最初であるという説が多数である。
文化八年、分霊お迎えのため、讃岐へ御代参を仰せつけられたのは、藩の番頭渡辺但見俊猛で、諸士なみの格で四国に下った。
同年閏二月二日、藩庁から、家中と町、在に対しお触れが回わされ、諸士分はじめ御領分一同繁栄のため、御領分町在繁昌かつ災難などをまぬがれるよう金毘羅御宮を勧請するのだから、物の多少にかかわらず寄付するよう、すすめられた…  〉 

『京丹後市の伝承・方言』
 〈 【コラム】 こんぴらさんの狛猫
 峰山の金刀比羅神社は、文化八年(一八一一)峰山藩七代藩主京極高備のときに、讃岐の金刀比羅宮から分霊された。金刀比羅は日本に一社のみで分霊が許されないということであったが、その前例を破り峰山に勧請されたといわれている。
 狛猫がいるのは、境内の木島社・猿田彦社の左右である。木島・猿田彦の二社は一つの建物に同居するような形になっており、左は木島社にあたる。木島社は文政一三年(一八三〇)養蚕の神として地元のちりめん業者によって、京都太秦蚕の社から勧請された。
 阿形の狛猫(向かって左)は天保三年(一八三二)、吽形の狛猫(向かって右)は弘化三年(一八四六)の寄進で、実に一四年の間がある。今、狛猫は一対のように並んでいるが、元は左の木島社の狛猫のみであったと思われる。
 阿形の狛猫は子猫を抱いた母猫が頭に手を載せ、口を開けて威嚇しているように見える。吽形の狛猫は父猫が口を閉じ、子猫を尻尾でさりげなく支えているように見え、すがる子猫のしぐさは可愛い。子供をあやしたりする狛犬は「子取り」というが、子猫付の狛猫はそれを真似たものである。
 狛猫は阿吽の左右の形を取っているが、一般的に言えば左右の阿吽は逆になっている。一対となるのは一四年後であるが、左の阿形を基本にして造ったものであろう。
 それにしてもなぜ木島神社に狛猫なのか。峰山は丹後ちりめん発祥の地で、峰山の絹屋佐平治は丹後ちりめんの始祖と言われている。佐平治は絹織物を生産していたが、京都西陣で織られた「お召しちりめん」に押され、丹後の織物は衰退するばかりである。
佐平治は西陣の織屋に住み込み、「お召しちりめん」の秘伝の技術を盗みだし、工夫を重ねて新しい「丹後ちりめん」を織り出すことに成功した。享保五年(一七二〇)春のことと伝えられる。
 京極高長(高久の父)は佐平治の功績を認め、享保一五年(一七三〇)、「御召縮緬 ちりめんや」と書いた自筆の暖簾を与えて功績をたたえた。宝暦六年(一七五六)には峰山城下には約三十五軒の機屋、約九十台の織機があったという。藩の奨励もあって「丹後ちりめん」の業者は丹後一円に広がり、村々では機屋、さらに養蚕を営む農家が増えた。
 絹を生産する養蚕の天敵は何かというとネズミである。ネズミは繭や蚕などを食い荒らし、大きな被害を与えるので猫を飼うことになる。猫はネズミの天敵、養蚕にとって猫は極めて大切な動物なのである。猫を養蚕の魔よけとして狛猫にしたのは現実的な発想で、製作者は猫をよく観察している。
 阿形の狛猫の台座には「奉献 江州 外村氏 天保三載 壬申九月石工 鱒留村 長谷川松助 世話人 上河金七 吉田八郎助 小室利七」 と刻まれている。小室利七は岩滝出身の廻漕問屋で屋号は山家屋といい、生糸縮緬も販売する豪商であった。文政一揆には農民の打ち壊しにあっている。奉献者外村民は山家屋に生糸の原料を納める近江の商人であったと思われる。他の世話人のことは不詳である。松助は地元では有名な石工で、平智地蔵は彼の製作である。吽形の狛猫の奉献者は「当所絲屋中 弘化参午清祀」とあるだけで、名前は不詳、石工の名前も記載がない。
 養蚕を守るため、ネズミ除けの猫のお札や石像などは長野県・栃木県などに見られるが、狛猫は見られない。金刀比羅さんの狛猫は恐らく日本唯一の珍しいものであろう。  〉 


泉の小字一覧


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『峰山郷土志』
その他たくさん



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