成願寺(じょうがんじ)
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京都府京丹後市丹後町成願寺 京都府竹野郡丹後町成願寺 京都府竹野郡豊栄村成願寺 京都府竹野郡徳光村成願寺 |
成願寺の概要《成願寺の概要》 竹野川下流東岸で、以前の丹後町へ入ったところの聚落。中央を間人街道(国道482号線)が南北に貫通。沿道には南から岩鼻・イラガキ・桝井田・下坪・上地・赤田町・清水町の集落が立地する。 上地と呼ばれる谷部が当地の集落発祥地と考えられ、古くは谷奥から黒部・是安への道が通じていた。村名は曹洞宗慈福寺成願寺に由来し、同寺の寺記に、「大古者本田村成願寺也、中古村名ニ兼二用字号一」とし、もとは「本田村」と称したと伝えている。 成願寺は、戦国期に見える地名で、「丹後国御檀家帳」に、「一 しやうくわんぢ」とある。 近世の成願寺村は、江戸期~明治22年の村名で、はじめ宮津藩領、享保2年幕府領、宝暦9年宮津藩領となる。 明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年徳光村の大字となる。 成願寺は、明治22年~現在の大字名。はじめ徳光村、大正14年豊栄村、昭和30年からは丹後町の大字。平成16年から京丹後市の大字。 《成願寺の人口・世帯数》 378・123 《主な社寺など》 曹洞宗慈福山成願寺 丹後七仏薬師の1つで平安末期の薬師三尊を奉祀する。以前は真言宗であったという。 麻呂子親王が大江山に夷賊を討った時七寺を建立、自刻の薬師如来を各寺に祀ったと伝えるが、成願寺もその一であるという。 薬師如来胎内の慶長3年奉再興墨書銘文には阿弥陀如来の種字が認められ、門前には延宝4年の弥陀名号板碑が建てられていることから、江戸期には阿弥陀如来として祀られていたとも考えられる。地蔵堂には江戸中期の地蔵菩薩像が安置されている。 『丹後国竹野郡誌』 〈 成願寺 曹洞宗 字成願寺にあり (丹哥府志)覚福山成願寺 曹洞宗 (寺記) 人王三十二代用明天皇御宇聖徳太子倭国正法弘通之時當国野花里ニ御坐麻呂子親王蒙二勅命一封坐之領主與斎女依二来目皇子一ト本国七大寺成就七佛薬師之金像爲鋳安置シ玉フ時結末ニ大願成就シ故ニ成願寺ト号ス麻呂親王自ラ付ケ玉フ号ナリ、後源頼光多田ノ光明寺ニ参籠七日蒙異夢重而七大寺復加佛木像安置ス今ノ本尊其一也 大古者本田村成願寺也中古村名ニ兼二用寺号一山門ヲ人王院ト号ス寺ニ有本尊今地蔵尊是也作弘法大師之當山賽筐ニ古紙之破有リ之ヲ見ルニ此書也実ニ浮木之寶書故ニ末代之指南ト爲ス其古紙ハ其儘寶筐ニ安置者也 (同寺過去帳) 抑當伝法開山前之其昔者此山嶺ニ有二堂塔一村外ニ有二総門一而甚広大名藍也矣実哉于今此山頂ニ有二数町之平地一伝而云二本堂ゲ平一ト也亦村外ニ有二所謂石礎一今埋二却土中一ニ矣蓋其宗門爲二密宗一耶也一朝成二禅林一亦茲多歳矣従二開祖曇和尚示寂寛文元辛丑一今至二享和二壬戊一己及二百四十二年一者也此過去牒初之年號徒二元禄元戌辰歳一至二百十五年一也予當二此時一雖レ住二此山一ニ恨者無二古記一而不レ能二其古於詳知一只伝二説村老之口評一而己 維時享和ニ星舎壬戌梅月日 現成願来牛愚?誌 文化十四年十一月 (同寺蔵文書) 指 出 帳 竹 野 郡 成 願 寺 丹後国與謝郡宮津 松渓山知源寺末寺 丹後囲竹野郡成願寺村 一禅 曹 洞 宗 慈福山 成 願 寺 一境内 東西五十間 南北二十八間 此高一石五斗ー升九合二勺 (略) 〉 『丹後町史)』 〈 慈福山成願寺 成願寺 曹洞宗で本尊は薬師如來 丹後国興謝郡宮津の松渓山智源寺の末寺、現住職は開祖から数えて二十二代山田義昌師である。檀家約七〇戸 〉 七仏薬師の成願寺は、多禰寺縁起(享保2年・1717)では、宿野荘成願寺となっている。また資料によってはそもそも成願寺は記載されていない。実際に伝説通りだったかは別としても今残っている資料はすべて語られる時代から千年以上も後のものだけであり、確かなことはわからない。すぐ下の是安の神宮寺と宮の願興寺(元興寺)は七仏薬師の寺院であることは確実なようで、そうすれば、川上の等楽寺と成願寺と神宮寺と願興寺が、七ッ中の4ッがこの付近一帯にあったということになり、そのうえ総元締のような竹野神社がある。この付近こそが七仏薬師信仰の心臓部と思われる。そのほかにも遺跡や伝承が残り当時の丹後のオニ集団(陸上海上ともに支配し妖術の製鉄をなした集団)はこの一帯こそが本貫地と見て間違いはないと思われる。物語の中で退治された者も退治した者もすべてこのあたりの人と思われる。 御檀家帳によれば当地に禅居(ぜんご)寺があったことがわかるる。田数帳によれば禅居寺は丹波郡三重郷に一町七段二九三歩、同友安保に一町、同富永保に一町九段一八〇歩、竹野郡武元保に三段の寺領を有していた。かなりの大寺であったらしいことがうかがえるが、天和2年の『丹後国寺社帳』には名がみえないので、それ以前に廃絶したものであろうといわれる。 須和神社 諏訪神社がある、大宮町の三重にもあるが、何か丹後と諏訪は繋がりがあったのだろうか。それとも宗像系海人の祀ったものだろうか。 『丹後国竹野郡誌』 〈 須和神社 無格社 字成願寺小字家ノ奥鎮座 (神社明細帳) 祭神 大己貴命 菅原道真公 創立不詳、元禄十六年十月再建、菅原道真公は往古より當字小字天神谷に天神社と称して鎮座ありし處、明和二酉年九月右須和神社へ合殿祭祀すと云ふ、其後慶安十四卯年四月並に寛文十一亥年二月廿八日再建す (榎並氏蔵古記録) 諏訪明神 御しんたい四寸、四寸二めんゑなし 延宝六年 大 庄 や 榎並六郎左衛門 〉 姫宮神社 『丹後国竹野郡誌』 〈 姫宮神社 村社 字成願寺小字中地鎮座 (神社明細帳) 祭神 豊宇賀能売神 創立不詳、延宝六午年十一月十一日再建、明治四年五月村社に列せらる、 一本 殿 梁行 三尺二寸 桁行 三尺玉寸五分 一上 屋 仝 二間五分 仝 二間五分 一拝 殿 仝 一間 半 仝 三 間 一境内坪数 二百十四坪 一氏 子 八十三戸 (榎並氏蔵古記録) 奉造立姫宮大明神 御しんたい御かゞみ 延寶六年 大庄や 榎並六郎左衡門 中庄や 辻 市郎左衛門 年 寄 上羽六郎左衛門 惣 代 榎並吉左衛門 〉 『丹後町史』 〈 姫宮神社 成願寺小字中地 豊宇賀能売神を祭る。 延宝六午年十一月再建。明治四年五月村社となる。 〉 小字家ノ奥に成願寺城跡がある。城主は星野周防守(一色軍記)。城跡の西麓に椿の茂る塚があり、周防守の墓と伝える。 《交通》 《産業》 成願寺の主な歴史記録『丹後国御檀家帳』 〈 一 しやうくわん寺 一宮殿様 (さま力) 是ハ三河国より御のほり候御屋かた□□、まへの御屋 (さまカ) (御座候カ) かた□□御子なく候て、三河へ御ゆつりに□□へ共、 御内衆御志ゆんくわいにて、竹野郡しやうくわん寺と 申御城に御座候 かうおやかへしする人 二上佐渡守殿 蒲田岩見守殿 かうおや 南 入 道 と の 禅 居 寺 「に御座帳へ共」 しゆんきよ禅居寺の御内 御そうは□共大なる 城主□□ 五 郎 助 と の 此人御屋まヲ取立被申候かん 弥 太 郎 と の そうすとも申 〆 〉 『丹哥府志』 〈 ◎成願寺村(岩木村の南、黒部の庄小田村の北) 【姫宮大明神】 【慈福山成願寺】(曹洞宗) 【星野周防の守城墟】 【付録】(諏訪明神、天神、愛宕、荒神) 〉 丹後に伝わるシンデレラボーイ・ストーリー 『京都の昔話』 〈 へわの婿入り むかし、あるところに、成願寺でたとえましたら酒屋のような大家がありまして、ところがその大家の奥さんがふとした病気がもとで亡うなって、それこそもう大家のことですで、あと添えもらわなどもならんだし、まあ子供さんもあるだけど、しょうがない、あとどりもらいました。ところがまあ、このお母さんにも子供さんがでけて、まあお母さんがだんだんとわが子にあと(遺産)やりたいいう欲が出まして、ほいで、先の息子さんも、もうさあなあ、はたちくらいに大きくなっておんなった。 ほいでまあその家の男衆を呼んで、 「なんとお前に、今日健おりいって頼みがある」言うて。--するところが、それば先のお母さんのときからおる男でしてなあ--せからまあ、 「お前におりいって頼みがあるだが、聞いてくれるか」 「ええ奥さん、なんだか知りませんけど、間かしてもらいますわ。わしの力ででけることならなんでも聞かせてもらいましょう」いうて男衆が言うたら、 「お前にこういうことが頼みたいだが、先の息子をここから出やてしまって、わしの子にこれのあとを継がせたやで、お前の工夫をしてもろうて、この息子をなんとかして殺いてもらいたい」いうことですわ。ほうして、どうして殺すだ。まあそれも二人連れの相談ですわな、奥さんと。 「そうなら、そんに殺すいうたって、そんな切れ物で殺すなんて殺せんしなあ、わしがちょっと思いつきましたが、なぎの日に、まあこの坊っちゃんを舟に乗せて出て、そしてまあ坊っちゃんがええかげん沖へ出たころに、うしらからちょっと押して、海にはめて殺えてくる」言うて、まあそういう相談がでけたわけですわ。 「お前はまあええ思案した。そういうようにしてくれ」いうことで、それからまあ、なぎのええお天気の日に、 「坊っちゃん、今日は海遊びにいってきましょうか」 「そりゃええこっちや。まあ連れていってもらおう」。 ほいてまあ、海へ遊びにいくんですわな。それからまあ、だいぶ沖へ出たころに、 「そうはいうても、先妻の奥さんに対してもすまんし、この坊っちゃんを今この海へどんぶりはめたではなあ、いかにも先の妻さんにもすまんし、そんなむごいことはできん」と思いましてな、そこで打ち明けるですわな。 「坊っちゃん、実はなあ、こういうことであんたを殺すところだけど、よう聞いておくれえな。先の奥さんの恩があるし、そんな坊っちゃんを海にはめて殺すだなんていう、だいそれたことはわしはとてもでけんので、ほいで、これから坊っちゃん、遠い伊根のほうまで行って、そいて上陸して、あんたはなんとかして、村に乞食なとしておってくれ」いうことですわな。 ほいたらまあ、坊っちゃんが、 「ああ、そういうことか。そりゃあお母さんが自分の子にあとをやりたいのはあたりまえのこった。そうならわしは、まあなんなりとして、どこへなりとたどり着いておる」 「まあ坊っちゃん、すまんけど、そうしてくれ」言うて、その坊っちゃんに言い渡して、 「またいつの日にか迎えにくる日もあるかもわからへんさかい、まあ楽しみして、この村にあがってなあ、どこへなりとたどり着いてくれ」言うて、せえからまあ、その坊っちゃんをそこへ上げてえて、自分はまた元の村へいぬるですわなあ。 「ああ、奥さんなあ、今日はええなぎで、天気もええだし、坊っちゃんをうしろからどんぶりはめてもどってきた。もう坊っちゃんはわしが命あんばい見とどけてきた。殺いてきた」 「あ、そうかそうか、お前はでかいたことしてくれた」言うてまあ、おるんですわな。 そうするところが、坊っちゃんは、何するいうたって、まあ乞食するいうたって、乞食する術わからしまへんしなあ。そうかというて、昼になりゃあひもじいしなあ、晩になりゃあ寝るところがなやし、まあしゃあない、二、三軒まわって、歩いとりました。そうしたところが酒屋のようなかまえの分限者の家の女衆が出てきて、 「あんたは、まだ若けやのに、なにしておんなる。こんなところにうろうろして」言うたら、 「わしはこういうつごうで、この土地に上がって、なんか仕事があったら仕事にありつきたゃと思っておるだけど、なんぞええ仕事はこの辺になやだろうか」言うたら、ほいたら、 「まあ風呂焚きだ」いうことで、風呂焚きにやとわれておると、昔は木を焚くし、そこらじゅうすすけてなあ、へわ(灰)だらけの顔になりましょうが。へえでみんなが、 「お前はへわいう名にしてやる」言うて。 「まあ、へわでもなんでもかまやせんさかい、置いておくんなれ」。 まあ、へえで置いてもらって、毎日風呂焚きをしとったですわな。そうしたところが、その大けな家の片隅のほうの部屋のあたりに、常には灯が見えんのに、その部屋にいま灯が見えるですな。そのへわさんが毎晩げしまったら風呂にはいって着物を着替えて-‐おしまいの湯ですわな.--へわさんはなにしろ太家の坊っちゃんださかい、こうして書物を読んだりしますわな。なんにもむだなことはせん。そうしておるところが、その家のお嬢さんが、 「常に灯はとぼらんところに灯がとぼるな、まあどういうこったろうな」思って、へえからおしっこに行ったついでに、節穴からのぞいてみるところが、なんとええ男ではないですかな。やっぱしええところの坊っちゃんだで、そなわりもあるし、ちゃんとして書物読んどるなるのを見とると、 「ああ、こりゃあまあ」て、ほろりとしてしまってなあ、どうもそれからは恋い病いになってしまって。へえからまあ、 「どうもこのごろは娘の様子がおかしい。どこか悪いのでなやあだろうか」言うて、親衆が心配しとんなる。女中に、 「お前、心当たりがないか」問うても、 「そんなことは心当たりがなゃあ」言うし、お医者さんにみてもろうたところが、お医者は、「からだはどっこも別に悪なゃあ」いうて言いなるだし、ほんならこんだ拝み屋に拝んでもろうたところが、これも、 「どっこも悪にゃあけども、こりゃあ心の病気だ」。 「そうなら、心の病気ということならどういう病気だろうな」思って、まあ考えて、親衆が「ひょっとしたら娘ももう年ごろだし、これのでっち番頭にちょっと思い当たるのがあるだろうかなあ、まあ、いっぺんそいつをみんなに言ってみてだな、お嬢さんのとこへ行ってみてどれが気に入るだやら、いっぺんそういうことをしてみよう」思って、一番頭から二番頭、三番頭、でつちに至るまで、 「今日は家の娘がちょっとここの部屋におるで、ちょっと病気見舞いにいってやってほしい」いうことになって。せえたら、ひょっとするとお嬢さんにわしが気に入るで、行ってこうかしらんだ、まあ、みな野心を持つですわな。ほんださかい、一張羅の着物を着て、一番頭がちょいちょいちょいちょい、 「へへへ-」言うて行って、ふすまをひょっと開けて、 「お嬢さん、ごめんください。近ごろお嬢さんの気分がすぐれませんそうですが、いかがでございましょう」言うて行くんですわな。それからお母さんはその隣の部屋からそっとその様子を見とりますわな。ところがお嬢さんはひょっと見るなり、 「どっこも悪ない、どうもない」言うて、けんもほろろだな。 「あれまあ、これぁ失格だあ」。 つぎにまた二番頭が、 「今度はわしが気に入るだろうな」思ってからにまたそこの部屋に行って、同じあいさつをするちゅうと、 「どうもない、どっこも悪ない」言うて、またこれもけんもほろろで。こんだひょっとしたら三番目の番頭さんが気に入るかしらんだ思っとると、そうすると、これもまたお嬢さんがことわるですな。 ほいで、もうとにかく番頭さんは全部あかん。へえたら女中が言うことには、 「おかみさん、へわも男ですで、へわも行ってもらいましなれな」言うたら、 「へわなんたら、あんなもんがどうなるじゃいな」 「いいや、あのへわも男だで」。 ほいてまあ、女中が、 「へわやお前もここへ来て、ちゃっと風呂にはいってきれいにして、着物を着替えて、そいてお嬢さんの見舞いにいけ」て、ごうじゃげに言うて命令するですわな。ほいでへわは、「へえ」言うて、へえからまあ、昼風呂にはいってきれいにして、ほいてまあ、その家の衣装を借れて、さあっさあっさっといかにも礼儀正しいかっこうで行きますわな、分限者の息子さ んだで、からだに備わりがついて。へえからまあ、さあっと戸を開けて、お嬢さんにちょっとあいさつして。するところが、お嬢さんが、 「へへへへへぇ」言うて、まあ、ええ声で笑うでずわな。お母さんがびっくりしとりました。 それからまあ、お母さんがひょっと見るところが、まあ、「へわや」 「へわや」言うとるそのへわさんの顔が、さあ、あのもんだ、ええ男であって、なかなか落ち着いた人物ですわな。かっこうの悪い、へわの仕事しとるときの顔ばっかし見とるんださかい、お母さんもびっくりしてなあ、 「なんとなあ」と感心して。へからまあ、なにかこの男には由緒があるだろうなあ思って、ほいでひとたび尋ねたんですな。ほいたら、 「実はこうこうこういうことで、この土地へあがって、お宅にお世話になりました」いうてあいさつし、 「まあ風呂焚きもさしてもらいまして、ここに勤めさしてもろうて、ほんとうにわたしは命拾いをしました」言うて、あんばいげに言うて。 するところが、娘がもう気に入ってしまってするもんで、しゃってもその人を迎えんなんことになって、まあ、どなたもこなたも「へわどん」「へわどん」言うとったですけど、それこそ今度は娘さんの若旦那になって、一躍若旦那になって、「へわ」どころの騒ぎじゃにゃあ。ほれからまあ、そういうことになったら、それ相当の仲人さんを頼んでなあ、もらい受けることになって、どちらもええ旦那衆のお家じゃもんださかい、ごつい荷物ができましてなあ、そうして、婿養子もらわれましてな。 (語り手・沢田ヒロ) 〉 丹後町教委の『ふるさとの民話』にも同じものが収録されているが、これはシンデレラ・ストーリー。Cinderellaのcinderは灰のこと、Cinderellaとは訳せば灰姫で、姉たちにいじめられて竈の灰かきをして灰だけらになっていたが、あるとき…と皆様ご存じの物語の主人公である。ここは「へわ」となっているが、こちらの言葉で「へわ」は灰のことで、灰王子の物語。性は違えども、根本の大筋ストーリーは同じで、灰だらけの真っ黒けの汚れ顔の者がやがて玉のこしに乗ることになる。 古くは古代希臘にも見られるというが、日本には一般にはグリム童話で入ってきたのではなかろうか。今はデイズニーアニメだろうか、ガラスの靴、カボチャの馬車、などは誰でも記憶にある童話で知っているのでないかと思う。 しかし丹後ではそうした近代になってからではなく、ずっともっと早くから入っていたのがわかる。丹後町と伊根町のあちらこちらの民話に残る「灰坊」の物語は、函石浜の貨泉のように、大風呂南のガラス釧のように思われるのである。大陸との交易でなった無形の文化遺産を見るに似た思いがする。 「ブゲンシャ」はどう書くのかと、何かで話題になり、いつかどこかの集まりでは誰も正確には書けなかった、もう死語になっているがしかし意味は「金持ち」のこととは知っていて、「武現者」と書くのだろう、とか言うのであった。ちゃうやろ、分限者と書くんだ、と私は言うがそう言っても誰も信じない。分限は身の程のこと甲斐性のことで、甲斐性者のこと、カイショモンといえば金持ちを言うのと同じだ、論議の結論がでそうにもない。よしわかった調べたろ、と広辞苑などが入った電子辞書を持っていたのが調べていたが、あー、ホンマや、それや、何でそんなこと知っとるんじゃいや。そうしたことで、分限者などの言葉からみてもダイブに古いもので、近代になってから器用な者が吹き替えたという民話ではなさそうに思えるのである。 成願寺の小字一覧成願寺(じょうがんじ) 追皆(をつかい) 金剛谷(こんごうだに) 宮ケ谷(みやがだに) 家ノ奥(いえのおく) 保城(ほじろ) 南谷(みなみだに) 川向(かわむかい) 川原野(かわらの) 堤谷(つつみだに) 下村谷(しもむらだに) スガ谷(すがたに) イラガキ トノヤシキ 桝井(ますい) 桝井中道(ますいなかみち) 桝井西(ますいにし) 貝尻(かいじり) 下坪(したつぼ) 中地(なかじ) 小谷(こたに) 芋谷(いもだに) ツキ谷(つきだに) 杖谷(つえだに) 梨ケ谷(なしがだに) 内坪(うちつぼ) 大門(だいもん) 畑ケ田(はたけだ) 立長(たてなが) カヤノ 赤田(あかだ) ヤノ谷(やのたに) 清水(しみず) 池内(いけうち) 三合畑(さんごうばた) 込南(こみなみ) 細長(ほそなが) 川尻(かわじり) 古川(ふるかわ) 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 『丹後町史』 その他たくさん |
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