丹後の地名

小西(こにし)
京丹後市峰山町小西


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京都府京丹後市峰山町小西

京都府中郡峰山町小西

京都府中郡吉原村小西

小西の概要




《小西の概要》

竹野川支流小西川の源流部、吉原(峰山市街地)の谷の一番奥、来迎(らいこう)山(493m、切畑山・日暮山)南麓に位置する。古来、小西川流域一帯は吉原と総称され、源流部の当地は奥吉原とも称されていたという。その吉原の発祥地かも知れない。
「丹後御檀家帳」の「一 よしわらの里屋す」の項に「こにしのしやうしゆん坊さいさいにふく山ぶし」と見える。安の稲代吉原神社に蔵される天正4年の年紀をもつ棟札に「小西西山村」と見える。

小西村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、元和8年からは峰山藩領。明治4年峰山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年吉原村の大字となる。明治7年小西村から西山村が分離した。
小西は、明治22年~現在の大字名。はじめ吉原村、昭和30年からは峰山町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《小西の人口・世帯数》 104・31

《主な社寺など》
古墳数基と「比丘尼屋敷」がある。奥吉原城の砦跡がある。白椿の下に黄金千両が埋蔵されているとの伝説がある。

来迎山
来迎山(稲代神社下より)
小西村・西山村の西方にあって、竹野郡との境界をなす。主峰は標高約494メートル。来迎山・切畑山・日暮山などとも、中郡平野の東側の村々からは夕陽の入る山として親しまれ、また冬には権現山颪の吹く山でもある。頂上の吉野神社(祭神・広国押武金日神)は根付けの神ともされ、田植後登拝するものが多かったという。竹野郡側からは、近海航行の漁船の目標とされた、という。

『峰山郷土志』
 〈 …『日本書紀』巻一神代上には、この国土に住む保食神(豊受大神と同神で五穀の神)の受灘について次のように伝えている。
-天照大神は天上においでになって、月夜見命に申されるには、「日本の国に保食神がいると聞くから、お前、行って調べて来なさい。」そこで、おいいつけに従って月読見命は.天からくだって保食神のところへお着きにたりました。保食神は、頭をまわして野原(国にむかい)の方をおむきになると、ロからご飯があらわれて、海の方をおむきになると.口からいろいろの魚(鰭の広物.鰭の狭物)がとび出し.山におむかいになると、いろいろの獣(毛の麁、毛の和)が口から出てました。そのいろいろの品物をすっかり調理して、沢山の机に盛っておもてなしなさいました。ところが、月読見命は真赤になって怒り「ええい!けがらわしい!いやしいかぎりだ!口から吐き山した物を、無理に食えというのか!」と、いうより早く、劒を抜いて保食神を切り殺しておしまいになりました。
このいきさつを天照大紳にご報告申し上げますと、大神はかえってたいそうお立腹になり「お前こそ木当の悪神だ!二度と会うまい!」と、おっしゃって、月読見命とは、一日一夜を隔ててお住まいになりました。
この後、天照大神は、天熊大人を下界へつかわしてみさせますと、保食神は全く息絶えておいでになりましたが、その頭は牛や馬となり、額には粟、眉には繭、眼には稗、そして腹にば稲、陰部には麦や大豆、小豆がみのりていました。
天熊大人は、すっかり持ち帰って献上しますと、天照大神はおよろこびになって、「これこそ、親愛なるあおひとぐさ(民族)が、生きて行くうえに大切な食物だよ。」と仰せになって、粟、稗、麦、豆を陸田(はた)に、稲を水田(田)につくることとし、管理のため邑長(天の邑君)をお定めになり、その稲種を、はじめて狭い田や細長い田にお植えになりましたから、その秋の垂れ穂は、房々と八握も垂れさがって、みるからに気持のよい有様でした。
また、口の裏に繭を含んで、絲をひくことも考えつき、これから養蚕の道が始められました。

この神話について、『古事記』上巻では、月読見命を速須佐之男命に、保食神を大気津比売神とし、頭に蚕、両眼に稲種、両耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆……としており、郷土では月読見命のおくだりになった山を来迎山(切畑権現山)とし、月読見命は劔を抜いて豊受大神を追いかけ、真名井ヶ嶽の頂で切り殺したといい伝えている。)
『峰山郷土志下』(やさしく)P.292.301(【切畑権現山】小西、この山は来迎山、来光山、切畑山、日暮山などと呼ばれ、同さ四百九十三・八メートル。(千七尺余)、峰山市街の正面にそびえ、乳房を伏せたような形の山である。「風よ吹け吹け権現山颪吹けよ…」と幼い頃から凧揚げにうたった山であり、先組の代から切畑村へ山手料を納めて芝刈りに入会して来たゆかりの山でもある。『竹野郡誌』によると、「この山は、近海航行の漁船の目標で、頂上吉野神社は、広国押武金日神(安閑天皇)をまつり田植後登山する者が多い。頂上の神を根付けの神と称す…」とある。
中郡方面の農村からも・半夏生(七月初旬)の日に参詣し、境内の笹を折り取ってかえって、水田の畦に立てる習慣がある。「植え付けまいり」と呼んでいる。この山に、妙見堂のあさたことは、他で述べたし、山の東面、来迎の谷に、数丈の滝があって、来迎の滝と称して、行場であったが、滝はくずれ、終戦後の伐木に水は枯れて、古の霊場名水の地もそのおもかげがない。…  〉 

神明神社
神明神社(峰山町小西)

『峰山郷土志』
 〈 【小西・神明神社(村社、吉原、小西、祭神 天疎向津姫命(天疎向日命))】
宝暦三年(『峯山明細紀』)
神明 小祠、上屋 五尺四面、境内 長五間幅二間程、山の間数 相知りがたく候。祭日 九月二十六日、神主はなく、神子は峯山の内膳を雇って神事を行なう。
明治二年(『峯山旧記』)
真明大明神 小西村にあり、祭日九月二十六日。新宮権現。(注)西山の真明神社の由来に、紀州熊野から勧請とある
から、この新宮権現も同じ神であろう。
明治十二年(『神社調』)
神明神社 一間半四面、境内二・二五坪、境外 二四・一五坪。
明治十七年(『府・神社明細帳』)
祭神 天疎向日命、一間半四面、境内 六七坪、官有地第一種……。由緒不詳。
(頭注付記)大正四年二月十三日許可、二柱神社合併。
(注)祭神は天照大神と同神である。当時社掌中沢義治(久次兼務。)

二柱神社(祭神 伊邪那岐命、伊邪那美命)
宝暦三年(『峯山明細記』)
二神(ふたかみ)小祠、上屋 一間半四面、境内 長二十間程六間幅、祭礼 九月六日(神主、神子同上)。
明治十二年(『神社調』)
二柱社 字下地、二間四方、境内外 八畝、持主村中。
明治十七年(『府・神社明細帳』)
無格社 二柱神社(祭神、社殿、境内前に同じ)、境外地 田七畝二六歩(六口)、宅地八畝九歩、字中地、社掌、同前。
(頭注付記)大正四年二月十三日許可、神明神祉ニ合併。

この神社は、字下地、村の入口にあって、神木としてタモの巨木があったが、今は存在しない。
現在、神明神社は、昭和二年三月七日の震災に被害はなく、現在の規模は、本殿は一間半四面、籠堂二間四面、境内百坪、山林六十坪、神明、二柱の神を合祀している。
神職は、兼勤で、明らかなのは、中沢義治、中沢捨治、安達義朝、毛呂清春、中沢起一郎(現在)。  〉 


『中郡誌稿』
 〈 (丹哥府志)小西村、真明大明神、祭九月廿六日  二神大明神
     西山村、新宮大明神、祭九月六日
(峯山明細記)一社三ケ所小西村(但神主無御座候何れも村支配)内一社二神小祠 上屋一間半四面 境内長二十間程幅六間程祭礼九月六日田町神子内膳相雇神事相勤申候
一社神明小祠 上屋五尺四面 境内長五間程幅二間程山之間数難相知候 右祭礼九月二十六日 神子右同断 
一社弁財天小祠(禅定寺に記之)
一西山分 一社壹ケ所 神宮小祠 上屋壹間半四面 境内長八間程幅五間程(但神主無御座村支配) 神子右同断 祭礼九月六日
(小西村村誌)社 村社 字奥地と称する処に鎮座 神明神社(祭九月十六)祭神天疎向日命 由緒、古老口碑も伝聞の者も無之也 境内 東西十七間南北五間 面積貮坪ママ二分五厘
(西山村村誌)社 村社 字下地鎮座 神明神社 祭神天疎向日命 由緒、不詳なりと雖ども紀伊国熊野より遷座すと明治五年新宮大権現を神明神社と改め称すと云々 境内東西十三間南北八間面積四畝六歩  〉 

臨済宗天竜寺派小西山禅定寺
禅定寺(峰山町小西)

本尊は行基作の聖観世音像、また、丹後ちりめんの創始者絹屋佐平次が寄進した最初の「ちりめん」が寺宝として現存する。
永禄12年(1569)、連歌師・里村紹巴は当地にも足を延ばした、「天橋立紀行」6月30日条に「晦日に小西山東坊にして いさぎよき寺や心のみそぎ川」と詠んだ、これは当寺のこととされている。7月3日条には「小西山岡坊」の名もみえる。
仁王像(禅定寺)
仁王様がいる。↑
『中郡誌稿』
 〈 禅定寺
(丹哥府志)小西山禅定寺(禅宗)
(峰山明細記)一禅宗(全性寺末寺小西)小盧山禅定寺
本尊正観音 境内屋敷…略…
壹社弁財天小祠 境内沢共七間程幅六間半程 但古来より禅定寺鎮守と申伝候
(小西村村誌)寺 臨済宗(字中地にあり)禅定寺と称し該寺創立延宝四丙辰年開基玄甫禅師 本尊正観世音菩薩
由緒 小西山禅定寺は昔三ケ所に伽藍ありし霊区なり今は一宇の二王門并に塔屋敷と称する処に大なる礎のあるのみ(中略)旧記に曰く古昔の本尊は文珠菩薩の作なりしがいつの頃か濃州谷汲寺の本尊となり玉へり依て今の本尊正観音は行基の作にして塔の二重にましませし御像なりと(中略)恨むらくは大破年久しく故に旧記散失は但だ塔の棟札の申伝ふる者あれども煤厚くして一字をも弁じ難し(中略)其後星霜已に移り文明の初院の坊重導大願心を発し泉州円舜行人と志を合て十九年を経て延徳二年八月二日今の禅定寺なる(下略)
境内東西廿五間南北二十間面積百八十坪 臨済宗天竜寺派 禅定寺境内仏堂庚申堂 本尊青面金剛菩薩 由緒明治十年創立 境内東西壹間南北壹間 面積壹坪
古跡 本村西南の方に小西山の屋敷跡あり永正天文の頃は真言宗小西山と号して大伽藍ありしを天正年中織田信長の為に廃らられ兵火の為に堂或は塔并民家悉皆焼亡す今は塔の石場に二王門のみ残れり其額面に小西山とあり寺号は不詳後世延宝四丙辰年開基玄甫禅師禅宗して臨済宗天竜寺末小西山禅定寺と号す
(実地聞書)寺に左の勧進の一紙を存す即ち玄甫禅師再興の時に当る …略…
今寺のある所を字中地といひ二王門より前を下地といひ寺より奥を奥地といひ其谷を寺の谷といふ今は二王門内民家相並び寺までの距離稍遠し里老伝へて古は二王門内皆寺院にて民家は門外にありしも寺廃亡に帰して後漸く今の如くなりたりと又曰く其古は小西は民家僅々八戸のみにて殆んど寺の門前地の如くなりしと今門内に字院の坊柿木谷等の称あり寺前の渓流を菩提川と称し嘗て川中より金盥を獲たる事あり昔時の遺品ならんと称したり又川を隔てて字塔の地あり塔のありし所ならん又字福寿といふは同号の塔頭ありし歟其近地域に五輪石塔多く出づる所ありと云又今の二王門の位地は新道開鑿の為めに道路の南側に移したるにて以前は門道路に跨りたりと云二王の像は頭部大に過ぐるも製作美にして相貌雄偉此山間僻陬に最も珍とすべし固より今日の禅定寺などの物にあらず此二王の存するあるに依りて昔日当寺の規模をも窺ふに足るべく思はる村民は運慶の作なりと誇称す
当寺の古観音は美濃谷汲の観音となれり其証は谷汲の観音の背に小西山観音なる文字ありと云々又古は十二ケ寺ありしとも言伝ふ或は稲代社の宮寺にあらざりしか
峰山縮緬の祖絹屋治郎兵衛(初名佐平次)当寺の観音に祈念し其霊験虚しからずして志業を成就したるは郡内の名談なり然れども今当寺の其れに就ての記録もなし僅に祈願成就の験として始めて織り得たる縮緬と絹地との位置小片を仏前に奉りしを伝ふるのみ鑑識する者是等を見て其織方の丁寧にして精巧なるを賞し今日の物ならさることを証すと云果して然らば当国産業の此上なき好記念といふべし
(御檀家帳)(一よしわりの里やす条下に)こにしのしやうしゆん坊さいさい口ふふ山ぶし
按、足利時代当寺の坊なりしならん  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【小西山禅定寺(臨済宗、小西、本尊 行基作聖観世音)】
成相寺にあるという後醍醐天皇「元亨年中記事」中の寺院書上げ(調査報告)に、毎年千部経の供養を行なう寺院の名がでている(『中郡誌稿』)。その中の元亨九年(一三二九)の部に、縁城寺、発枳山、大悲寺生野内、日光寺常吉、善城寺小西……同十年の部に、円頓寺、笛原寺五箇、成願寺、長福寺(善王寺の三要寺または奥大野か)、成相寺……などがある。禅定寺(善城寺の後身)は、この頃すでに成相、円頓、成願、縁城、笛原等と肩を並べた寺格を備えていたことがわかるが、それ以前の創建年代については明らかでない。
また、元の本尊は、文殊菩薩作の聖観世音像で、背に小西山観音の文字がきざまれているといわれ、いつの時代にか、美濃の国の谷汲寺の本尊になっている。後、この本尊を引き取るため使を出したが、目的を果たさず引き返してしまったといい伝えられている。現在の本尊は、行基菩薩作といわれ、もと塔の二重に安置してあったものであると『村誌』は記している。
足利九代将軍義尚の文明初年(一四六九頃)は、相当荒廃していたであろうか、小西の院ノ坊の重導は、これを再興しようと、泉州の圓舜行人と心を合わせること十九年、延徳二年(一四九〇)八月二日、遂に再建して「真言宗小西山善成寺」と称し、次第に栄えて永正、天文の頃(一五〇四~一五三二)は、堂塔伽藍を備え、一山十二坊を従え、下地の仁王門から、中地を経て奥地の本堂まで、寺々が並んでいた。ところが、元亀二年に織田信長のため寺を焼かれて危うくのがれて来た比叡山延暦寺の僧にすすめられ、信長誅滅を祈った効験によって、まもなく信長は天正十年六月(一五八二)、明智光秀のために殺されたのだという噂がひろまり、そのうえ、天正二十年(文禄元年、一五九二)、細川家の依頼によって、丹後の国中の真言宗の寺々が「家孕」を祈った。家孕または孕女-子女-を祈ったといい、世継ぎの男児を妊娠するよう祈祷させたのであろうか。これを聞いた細川忠興は無道(非道とも)の祈祷を行なったという名目で、丹後の真言四十八ヵ寺を倒し、寺の領地を取りあげ、僧を追放した。これを「真言倒し」と呼んでいる(『峯山旧記』)。
しかし、「村誌』には、天正年中、織田信長のために廃せられ、兵火にかかって塔も民家(民家は仁王門より口にあった)もことごとく焼かりしまれ、今は塔の石場と、仁王門だけが残っていると記している。「小西山」という山号の額は、この仁王門にかかっていた。
その後、延宝四年(一六七六)七月、丹州中郡、小西山善成寺の玄甫禅師によって、再興のための浄財募集が始められた。その時の勧進趣意書が、今も保存されているが、それによると、ただ一つ残った観音像を茅の堂に安置しているが、堂はなかば傾いて、風雨、霜露にさらすありさまで……と、当時の状態をうったえている。
ふと通りかかった旅人が、露天にうず高く積まれて朽ちはてている仏像の山の中から、少しも容姿の変わっていない一体を拾いあげ、草庵をつくって安置すると、どこへともなく立ち去った…というその草庵が、この趣意書の茅の堂なのであろう。
玄甫は中地に堂宇を再建し、臨済宗に改め、天竜寺末小西山禅定寺と呼んだ。本尊はいわゆる秘仏で、みたものは眼がつぶれるといい伝えられ、日露戦争(明治三十七、八年)の時、特例をもって、
出征の軍人だけに拝観を許した。金色まばゆく、正視しがたい聖観音尊像(四寸三分)であったといっている。
宝暦三年(『峯山明細記』)
小盧山禅定寺……境内屋敷 長二十間幅十九間程、寺 八間半に三間半、撞鐘 御座なく、仁王門 一軒堂 三間に二間、内 長七間幅八間程。弁財天 小祠、境内 沢共七間幅六間半程。但し、古来より禅定寺鎮守と申し伝う。

この『明細記』によると、宝暦頃は小西山でなく小盧山の山号を用いていたことになるが、小盧山の起源については資料がない。また、寺の前の清流を菩提川とよび、かつて黄金のたらいが掘り出されたといい、川を隔てて、「塔の地」、「福寿」などの字名がある。
仁王門 字下地。現在の公民館の地に当たり、参道にまたがって建っていたが、明治三十四、五年頃、新道をつける際、道の南側に移し、昭和二年三月七日の震災直後(倒壊せず)、寺の境内に新築して仁王像を移した。仁王像は運慶の作ともいいつたえられているが、むしろ、枯淡素朴な刀痕に、かえって奥ゆかしい気品を感じさせられる。
辻堂 寺の石段下に辻堂がある。一間半四面。
〔現在〕本堂兼庫裏 縦八間横四間、鐘楼 一間半四面(鐘は応召)、仁王門 一間に三間、庚申堂 半間四面、昭和二十九年再建、弁天堂 半間四面、隠居所 四間に二間、昭和二十七年新築、土蔵 二間に一間半、辻堂 一間半四面、境内地坪数 五畝六坪、山林 十一反四畝九坪
寺宝、その他 行基作秘仏 聖観世音像、仁王像、絹屋佐平治治織の「絹織物」、『小西山縁起』一巻等
絹屋佐平治祈願の事 享保四年、峯山の織屋である絹屋佐平治(後、縮緬屋森田治郎兵衛)は、ちりめん織りの秘法を得ようと、三月十七日から一週間、小西山の観世音に断食祈願をこめ、霊示を受けて京都の西陣に行き、織屋を見回わり、奉公するなど、その織り方を研究して帰って試織したが、絞合(しぼあい)ができず、九月十一日から再び観世音の前で七日間の断食祈願を行ない、重ねて霊示に会い、西陣の糸崎屋(一説、糸綺屋)に奉公し、苦心の末、ようやく右綺り、左綺りの秘法を会得して帰り、翌、享保五年春、はじめて丹後ちりめん織りに成功した。佐平治は、その時使用した手機と、初めて織った「ちりめん」を禅定寺に寄進したというが、今は、「ちりめん」、すなわち、絞の高い重目の絹織物と、由緒を綴った巻物が保存されている。…  〉 

奥吉原城址
奥吉原城本丸跡(峰山町小西)
禅定寺の向かい側の山にあり、登山道はお寺の前から出ている。
小西石見守・遠藤左次右衛門の居城と伝える、この城山には来迎山から引いた水道の跡があるという。
里村紹巴もここからの眺望したかも知れない。↓
奥吉原城本丸跡(峰山町小西)
東舞鶴浜の得月寺は「慶長元年(1596)丙申年石見守創建」と伝わる、私は毎日そのお寺の前を歩いて学校へ通った(たまにはお寺の境内を秘密で通らせてもらったが)、そのお寺から東向かいに片山団地がある、その裏山にあった片山城主の小西石見守である。あそこの山よりは、ここはだいぶに高く険しく、花崗岩が風化した砂で足元がすべる。このあたりもすべて花崗岩が風化した砂の山のようである、鉄が採れた山だろうが、雨が降れば土石流となって麓を襲う。途中に新しい防砂堤が作られていた。
奥吉原城本丸跡(峰山町小西)
「西側の二重の空堀の跡」と書かれている。だいたい整備されていて、迷わず登れる山城跡になっている。
お城とは本来はこんなもんだ、とわかる。まあ要すれば山賊である。
そのなれのはてが軍隊で、憲法を変えて、山賊海賊の人殺しの大部隊で国を守るのだそうである。おいおい大丈夫なん、属国であることも忘れたのか、他国の海賊が沖縄では我が物顔な好き放題しているではないか、その海賊どもが丹後にも新たに根城をつくるようではないか、そうしたことには何も口出もしできない誠に頼りない口先だけ親の光、オジイの光だけものが、自前の山賊海賊隊を持ってまともに束ねられる能があるだろうか、敵失の思わぬ大勝ちで頭もどうかしたのか、正気のさたとも思えない噴飯ものの超馬鹿げたネゴト話でしかない。
『丹後の山城』(岡野允著)
 〈 片山城 舞鶴市字溝尻
新舞鶴小学校の裏山で標高八〇米の山頂が城址である。南方尾根下りの方も急勾配で他の三面も概ね急崖をなしている。東麓は祖母谷川で西側は与保呂川が流れて天与の惣堀となっている。また南尾根下りの方も五合目あたりで切通しのようなものが狭隘な鞍部を越えて小台地があるがそれよりは両川の間を尾根は自然下りとなっている。
城主は加佐郡陣代小西石見守という。先祖小西隠岐守盛信及び権之丞正盛は熊野郡日村の湊城主(日村丘(ヒマオカ)城)であった。これは一色満範が山名氏を滅ぼし丹後守護として入国してきた明徳頃(一三九〇-一三九四)、それよりも時代は下り永正四年(一五〇七)若州守護武田大膳太夫が丹後を侵し成相山に陣して府中城を攻めたとき京都在番の丹後守護一色義有はその後孫の小西石見守を名代として急遽丹後に帰して諸将を激励した。幸いにもこの戦いは大勝したのでその後は石見守は吉原城背後の固めとして小西村の奥吉原城主となった。
それが天文年間にまた此方に移ったという。勿論石見守と名乗っても天文頃(一五三二-一五五五)であれば時代的には子か孫の代であろう。…  〉 

『舞鶴の民話4』
 〈 小西岩見守(新舞鶴)
 小西岩見守とは、片山(又の名は長谷山)に城を築き、一色氏に仕えた武将と言われます。元来は浜村の水軍の長として活躍した土豪の一人であった。一色氏がほろんだ後は土着し、江戸のころにはその子孫が農民となり、代々浜村の村役として土地の開発に力をなしたといわれています。浜村には西のつく、西川、西陰、西、西村などの姓が多くみられます。浜村最後の庄屋、西川氏をはじめとして、遠く得月寺創建の主小西岩見守と何らかのかかわりをもつものと思う。現在の西村繁三郎氏は、得月寺檀家の篤学家で、得月寺の歴史をまとめる作業を進めておられます。
 得月寺の開基は、舞鶴に鎮守府ができる以前、明治十七年の寺院明細帳には「慶長元年石見守、葵室和尚開基、其の他は不詳」と記されています。この開基にかかわる石見守は、「一色義道の臣、西岩見守」と記されてもいます。一色義道は、十四世紀末から十六世紀にかけて、丹後一円を支配した一色氏最後の領主で、田辺に館を持ち、西の建部山に城を築いた武将です。
 得月寺は、現在の寺川ぞい、千代田道に面し、八島通りから南へはいったところで、そこら一帯に寺域をかまえています。臨済宗天龍寺波照山得月寺の石柱が立っている山門をはいると、禅寺らしく、ちりひとつない整備された庭がひろがり、柱間十問の堂々とした本堂が立っています。現在の住職は、木彫が上手で多くの仏像を彫っていられるとか。
 浜村の檀家が多く、裏山の四面山に散在する墓は多く、古杉や古松がむかしのことを語ってくれます。現在の新舞鶴の栄えをよろこんでいるようでもあります。  〉 
奥吉原城の子孫は幽斎などに敗れて摂津・伊丹へ落ち、酒造りを始めたという、「山は富士、酒は白雪」とうたわれる銘酒の醸造元・小西酒造がそれだそうである。
小西酒造

 「小西区村づくり委員会」「ふるさとわがまち(小西区)

《交通》


《産業》


小西の主な歴史記録

『御檀家帳』
 〈 一 よしわらの里屋す
御一家也大なる城也  御そうしや
 吉  原  殿    藤田彦三郎殿
 後藤新治郎殿    後藤総左衛門尉殿
                  (朱書)
                  「ふく」
こにしのしやうしゅん坊さいさい□□山ぶし  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎小西村(西山村の次)
【遠藤左次右衛門城墟】
文亀永正の頃小西石見といふもの一色の陣代となりてこれに居る。
【真明大明神】(祭九月廿六日)
【二神大明神】
【小西山禅定寺】(禅宗)  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【小西・西山】これ来迎山(らいこうやま)(切畑山、切畑権現山、日暮(ひぐらし)山)四百九十三・八メートル。ふもとの二つの谷に点在する部落である。郷土文化の移動経路から考えて、小西川の上流の山ずそ住みついた里人が、西山、安と川の流れに従って開拓して移動したとみられようが、その年代を解く資料はない。
『峯山旧記』によると『文明年間(一四六九~一四八七)、吉原山城の陣代遠藤左治右衛門が城を出て奥吉原に築城し(禅定寺の前方)奥の守りとし、永正四年頃(一五〇七)、同じく一色松丸(義秀または義有とも)の将、小西石見守が遠藤に代わってこの城に拠り…子孫相継いで吉原を守護していたが、天正十年吉原山落城とともに滅びた。今、この村を小西村という」とある。
また、文化七年『丹後旧事記』にも、「奥吉原城(いま、小西村という)」とあるから、この付近一帯を奥吉原と呼んでいたにちがいないが、小西石見守の姓にちなんで、小西村と改めたのであろうか。また小西山禅定寺は宝暦の頃は小盧山とよんでいる。小盧の意味がわかれば、あるいは小西となったいとぐちがつかめるかもしれないが、研究の手がとどかない。来迎の谷から城中へ水を引き入れたという溝跡は、今も山腹をぬって残っている。また、西山に残る城趾も、この奥吉原城の砦の一つであろう。白椿の下に黄金千両の伝説があるが、白椿の跡さえない。
小西村の枝郷であった西山が独立したのは、いつ頃であろうか。宝暦の『峯山明細記』でわかるように「小西村、西山村」あるいは「小西分、西山分」とあげているし、両村の耕地は今もなお盤上の碁石のように黒白いりまじって、もと、一村であったことを物語っている。西山分の耕地が小西に比べて少なかったのは、西山は石切場があって、盛んに石を切り出していたからだという。
 明治十七年の『町村沿革』(五箇村戸長役場藏)にると「西山村は小西村の支村…明治七年分離独立す」とある。事実上の独立は、この豊岡県時代であったものか。
また西山の村名は、その位置が吉原ノ庄の西にあたっているところから生まれたのではなかろうか。  〉 


小西の小字一覧


小西 麻町 蟻ノ坂 イセキ 猪ノ子出 石ノ戸 イシヨヲ谷奥 イシヨヲ谷 稲代奥 稲代 芋谷 芋谷口 猪坊間 梅ヶ谷 梅ヶ谷口 大社口 大社谷 尾向 尾部尾谷 奥地 大社 オハゲ 上桃谷 河原田 カニ河原 カツラオロ カヅラオ 柿ノ木谷口 神田谷 カジカ谷口 神田谷口 カゴガ谷 上岡 狐田 狐谷 桑ザコ クスベ岡 荒神谷 中岸 小坂 コキシ 合(ゴウ)戸 左坂口 左坂 ササカ奥 下桃谷 椎ノ木 下地 下宮下 下宮横 城坂 清水ケ谷 清水谷 地蔵谷 白井谷 下宮後麻町 菅ケ谷 曽崎 高木 タラ谷奥 タラ谷 タラ谷口 タラ谷岡 高木岡 寺谷 樋田 成滝 梨子谷下 梨子谷 梨元 中貝 中尾谷 中尾 中尾口 梨谷 成滝岡 中地 西山口 馬場岡 八田口 八田ハナ 深田 福寿口 福寿谷 福寿 平田 東川 東谷 東麻町 崩谷口 崩谷 崩ノ木 萌願堂 崩ケ 崩谷奥 前ハゲ 水口川原 水口 宮ノ谷 宮ノ谷口 皆谷 皆谷口 皆谷奥 皆谷岡 皆谷滝ノ下 元宮 桃谷 桃谷口 山ノ衛 湯舟口 湯舟 去井口 横田 去井才神 去井谷 去井口 瀬光口 瀬光谷 頼光

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『峰山郷土志』
その他たくさん



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