丹後の地名

是安(これやす)
京丹後市丹後町是安


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京都府京丹後市丹後町是安

京都府竹野郡丹後町是安

京都府竹野郡豊栄村是安

京都府竹野郡八木村是安


是安の概要




《是安の概要》

竹野川の支流吉永川南岸、是安川の流域に位置する。
中世の是安保で、室町期に見える保名。「丹後国田数帳」に「一 是安保 三町九段三百二十九歩」とある。また「丹後御檀家帳」に「一 吉長の内寺谷 家百軒斗 奥垣筑前守殿 新宮寺大寺なり」と見え、「新宮寺」とは神宮寺とも考えられ、「寺谷」とは今の是安谷とも推定されるが不詳。
是安村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、享保2年より幕府領。当初吉永村の枝郷、のち分村独立。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年八木村の大字となる。
是安は、明治22年~現在の大字名。はじめ八木村、大正14年豊栄村、昭和30年からは丹後町の大字。平成16年から京丹後市の大字。
集落の一番奥に「金吹橋」がある、是安はコリヤスと呼んだそうだが、旦波大縣主由碁理のコリかも知れない。

《是安の人口・世帯数》 138・46

《主な社寺など》

是安の古墳
『丹後町史』
 〈 是安古墳 
是安地域、天満ケ岡に天ケ岡古墳がある。現在表面に樹木が生い繁っているが上部に玉石が敷きつめられている、前方後円墳で二段築成、全長九〇mと推定されている。  〉 

松枝神社
松枝神社(是安)

『丹後国竹野郡誌』
 〈 松枝神社 村社 字是安小字松枝鎮座
 (神社明細帳)  祭神 大巳貴命
  創建不詳、寛文三卯年九月再建、元禄五壬申年九月再建、正徳二壬辰年四月廿八日再建、
 社 殿 梁行 三尺七寸
     桁行 四尺二寸
 上 屋 梁行 二間
     桁行 三間
 籠 屋 梁行 二間半
     桁行 四間
 境内坪数 千五十七坪
 (丹哥府志) 松枝大明神 祭九月九日
 松枝大明神は麿子皇子の皇弟を祀ると語り伝ふ、斎宮祭下に弁す  〉 

『丹後町史』
 〈 松枝神社 是安小字松枝
大己貴命を祭る。寛文三卯年九月、元禄五壬申年九月、正徳二壬辰年四月に再建が行われた。
松枝大明神は、麻呂子皇子の皇弟を祀ると語り伝えられ、斎宮祭下に奉祀されている。昭和四年に神饌幣帛供進神社に指定された。
なお、一の段に祀っていた五(いつ)神社は、昭和四十七年十一月当社に合祀された。  〉 

高野山真言宗白照山神宮寺(廃寺)
多禰寺縁起などに「竹野郡神宮寺」と見え七仏薬師の1つを祀ると伝える。山号日照山、高野山真言宗、本尊無憂寂宝如来で麻呂子親王作と伝える。
創建年代は不詳。寺伝によれば正暦3年(992)看性阿遮利美再興、天明5年(1785)再建という。境内に麻呂子親王陵と称する円墳がある。また寺の下の台地に、親王に従軍した家臣難波氏の守本尊を祀ったという観音堂があり、石室の中に石仏が多く祀られているという。
どこがそこなのかさっぱりわからない、今は小さな谷の西側に街道と集落がある、その東側の山ではないかと思う。神宮寺の境内の北西、小高い所に麿子観王を葬ったという円墳がありその廟碑も建てられているという。
是安
今の集落の中程に「麻呂子親王の石碑」の案内板がある。
是安川
この橋を渡っても何もなさそう、田畑だけである、その割には立派な橋で、何かあるのではと疑われる、橋を越えてすすむと

同じ案内板がある。
石碑
これがある、しかしこれではないだろう。山は急斜面険しく草木が茫々、猪除けの電柵だらけの、道らしきものが見当たらない、これ以上進むのは断念。どこかこのあたりではなかろうか。

神宮寺これは観音堂と思われるが、写真にこうしてあるのだから、実際にあるのだろうが、どこにあるのかわからなかった。→





『丹後国竹野郡誌』
 〈 神宮寺 眞言宗 字是安小字神宮にあり
 (同寺調文書)本尊は無愛最勝王吉詳如来にして、佛像は用明天皇第三の皇子麿子親王の御作なり、推古天皇の御代麿子親王、北敵三鬼退治の勅命を被り、勅成の後此の御本尊を御守護罷在といふ、
創立年月不詳、正暦三辰年八月看性阿遮利美再興、天明五年乙巳二月再建
境内に麿子親王の御陵及碑あり、
 (丹哥府志) 白照山神宮守
  本尊薬師如来は七佛薬師の一なり.
麿子親王陵
 (実地調査) 字是安神宮寺境内、本堂の西北小高き所にあり円墳にして頂上に碑あり、尚本堂の前面西側に麿子親王墓なる大なる碑あり、この碑は目標様のものと見ゆ、
(丹哥府志) 推古天皇の御宇加佐郡三上の嶽に?(魚編に覃)古(エノコ)、軽足、土車といふ三人のもの多く凶徒を集め人民を害す、於是天皇麿子皇子に命してこれを征伐せしめたまふ、(麿子皇子は用明天皇第三の皇子、母は葛城直磐村の女なり異母兄を厩戸皇子といふ、所謂聖徳太子なり、母を穴穂部間人皇后といふ、(竹野郡の南間人村に由緒あり)其弟塩干、松枝の二皇子(皇子の弟に来日皇子、殖栗皇子、田目皇子、茨田皇子の四子あり、今塩干、松枝といふは何れをさしていふや詳ならず)と同しく三上ケ嶽に向ふ、三上ケ嶽の凶徒遁れて竹野郡に走る、麿子皇子これを逐ふて遂に悉く殺す、蓋海賊なり俗に鬼と称す、国人これがために窘めらる云々
(丹後旧事記) 穴穂部皇子
 用明天皇即位二年馬子宿禰にいまれて當国に走り竹野郡間人浦に隠る、此所は間人の皇后の領なる故なりと伝ふ、崇俊天皇り弟皇子にして推古帝の兄也、又同国野花里に麿子刑部親王の瓢零し給ふを迎て凶賊の間人領を奪ひ押領するを退治す
神社口実記曰旦波国竹野郡斎女(いつきのおに)住事久し凶賊是に一味して穴穂麿子と戦ふ、此凶賊(おに)ども幻術自在の者故御勝利なし、故一国り大社に祈る遂に凶賊亡で間人領をかへす麿子刑部親王 用明天皇第三の皇子母は斎宮歴三代葛城の直盤村之女なり、兄を厩戸皇子と云(聖徳太子之事)母を間人皇后と云次に姉を酢番手姫は麿子同母の姉尊也、又麿子の弟尊に久米皇子と云有此尊を左衛門督治部卿と奉賞る(世久米仙人といふは此皇子也)母は少納言局にして直夏人の女なり、麿子親王凶賊退治の彼此竹野里に住給ふ、故国民竹野守(ひなもり)親王、神守(かなもり)親王と賞し奉りけるなり
 按、以上二説あり何れも国史に載らずと雖日本書記に推古天皇三十四年三月より七月lこ至る霖雨打続き、天下大に飢ゆ、老ひたろものは草根を食ひて道の傍に死し、幼きものは乳を含みて母子共に死す、又強盗窃盗大に起りて之を止むべからすとあり、されば三上の嶽に凶徒の籠りしは事実なるべし、是を征伐のため下り給ひたることなしとのみ断定し難し、殊に親王を野花里に迎て凶賊を討伐し、間人皇后の領を復すといふ説と対照して二説の間其事情の相通ずる所あるのみならず、字是安神宮寺に御墓と称する塚あり碑あり、仝字松枝大明神は皇子の御弟を祀り、竹野神社境内に皇子を祭り鬼塚、鬼祭の古式が後世に伝はり、是安の難波、竹野の櫻井両家が共に親王の徒者を祖とすと伝へ、間人が間人皇后の領地なりしこと等より考ふれば、親王と此地必ず深き関係の存するものあらん、凶賊を逐ひて此地に来させ給ふ、妄説なりとして断ずべきにあらす、記して古考の資とす
以上の外八木村誌稿に次の記事あり
一、観音堂より凡三十間を隔つる田の中より古墳を発見し土器其他二十餘種を出せり、何等の口碑もなければ知るによしなし
二、字是安に家の山といふあり、頂上に愛宕神社あり山の北麓を「テンマカ」といふ、こゝに周囲百間許の円墳あり、口碑に往古庵寺のありし所なりといふ
三、字是安に墓田と称しで田中に小塚あり  〉 

『丹後町史』
 〈 日照山神宮寺 是安小字神宮 真言宗
本尊、無憂寂宝如来
仏像は用明天皇第三の皇子麻呂子親王の作といわれている。
創立は不詳であるが正暦三辰年(九九四)八月看性阿遮利美再興 天明五乙巳年(一七八五)二月再建、境内に麻呂子親王の御廟の地や碑がある。
七仏薬師の一体を祀る。
観音堂(是安小字ジトワ)がある。
本尊、如意観音
創立は不詳、麻呂子親王の臣難波九良右衛門の守本尊と伝える。  〉 


《交通》


《産業》


是安の主な歴史記録

『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 一 是安保  三町九段三百廿九歩  松田九良左衛門  〉 

『丹後国御檀家帳』
 〈 一 吉長の内寺谷    家百軒斗
  奥垣筑前守殿    新宮寺 大寺なり
かうおや
  しやうきん入道との 合見与兵衛尉殿
  五郎右衛門殿    助 右 衛 門 殿
  くり田藤左衛門殿
 〆  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎是安村(吉永村の次)
【松枝大明神】(祭九月九日)
松枝大明神は麻呂子皇子の皇弟を祭ると語り伝ふ、斎宮祭下に弁ず。
【白照山神宮寺】(曹洞宗)
本尊薬師如来は七仏薬師の一なり。  〉 


是安の小字一覧

是安(これやす)
 小南(こみなみ) 天満岡(てんまおか) 谷(たに) 中嶋(なかじま) 浄土(じょうど) 親敷(おやしき) 申ケ畑(さるがはた) 神宮ノ下(しんぐうのした) 中村(なかむら) 九郎橋(くろうばし) 細見(ほそみ) 家ノ山(いえのやま) 朝日谷(あさひだに) 掛畑(かけはた) ジトワ ?(木編に若)垣(おどりがき) シセン 友田(ともだ) 松枝(まつえだ) 古川(ふるかわ) 沖田(おきだ) 萩畷(はぎなわて) 荒木(あらき) ブロ 万願寺(まんがんじ) 松ノ木(まつのき) 吉永橋(よしながばし) 池ノ谷(いけのたに) 柳谷(やなぎだに) 小見山(こみやま) 越前(えちぜん) 神宮成(しんぐうなる) ズヘ 大谷(おおたに) 桃ノ木谷(もものきだに) 扇畑(おおぎばた) 梨ケ成(なしがなる) 打越(うちこし) カクレ谷(かくれだに) 栃谷(とちだに) 畑ケ谷(はたがだに) 僧谷(ぼうずだに) 大峠(おおとうげ) 小峠(ことうげ) 金吹(かねふき) 明ケ谷(みょうがだに) 一ノ関(いちのせき) 観音堂向(かんのんどうむかい) 力石(ちからいし) 市ケ尾(いちがお) 上矢畑(かみやばた) 中矢畑(なかやばた) 下矢畑(しもやばた) 成願寺井堰溝(じょうがんじいせきみぞ) 竹井堰溝(たけいせきみぞ) 荒木溝(あらきみぞ) 出合(であい) 出合東側(であいひがしがわ) 金吹西側(かねふきにしがわ) 金吹東側(かねふきひがしがわ) 畑ケ谷南側(はたがだにみなみがわ) 畑ケ谷口(はたがだにぐち) 栃谷南側(とちだにみなみがわ) 桶谷(おけだに) 栃谷北側(とちだにきたがわ) ウス谷(うすだに)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『丹後町史』
その他たくさん



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