丹後の地名

小脇(こわき)
京丹後市丹後町小脇


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京都府京丹後市丹後町小脇

京都府竹野郡丹後町小脇

京都府竹野郡
上宇川村小脇

小脇の概要


《小脇の概要》



小脇

宇川の流域でも、このあたりは特に深いV字谷になっている。道路からはるか下に見え隠れする谷底にも氾濫原などのたいらな所はない、このあたりがゆっくりと隆起しつづけたためにできた地形といわれ、宇川穿入蛇行と呼ばれる。このあたりの宇川流域も丹後天橋立大江山国定公園に含まれるが、少し上流になる弥栄町側が特に美しいとされる景観は観光資源にしようと計画されるとか。流量がもう少しあれば保津峡以上のものになれると思われる。
しかしたまに訪れる人にはいいかも知れないが、深い山々に囲まれた大きな谷間の急斜面を穿って細い道をつけ、小さな田畑をつくり、人々は細々と住んできた。村の背後は雪崩がきたらひとたまりもないな、と心配になる大斜面である。
10秒01の桐生選手の母校は100メートルの直線コースが取れないそうだが、当地周辺は50メートルの平坦な直線がない。虎杖校グランドにもとれなく、子供達は50メートルをまっすぐに走ったことが一度もなかった。彼らは他校の大きなグランドへ行ってもグニャグニャ蛇行しながら走ったという。
宇川をさかのぼり、山間に入った宇川右岸の急峻な渓谷に位置している。府道654号・井辺平線が走る、1車線しかないが、これがメーン道路。昭和38年の豪雪を機に人口が減少し、今は屋根に大きな穴があいた民家が府道からも見られるが人は住んでいない。当地より上流は野間谷になる。

小脇村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、享保2年より幕府領。当初宇川村のうち、のち分村独立。
明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年上宇川村の大字となった。
小脇は、明治22年~現在の大字名。はじめ上宇川村、昭和30年からは丹後町の大字。同51年一部は碇となる。平成16年から京丹後市の大字。

谷の対岸(西側)には、元宇川村に属した神主の集落があったが、現在は廃村になっている。こちら側からでも時たま、そこへ通じるのであろう道が見えるようで、行くことができるかも知れない。


《小脇の人口・世帯数》 0・0

《主な社寺など》

春日神社

『丹後国竹野郡誌』
 〈 春日神社 村社 学小脇小字茶園鎮座
 (神社明細帳)  祭神 天児屋根命
 社 殿 梁行 二尺八寸
     桁行 三尺
 上 屋 仝  一間三尺
     仝  二間一尺五寸
 境内坪叔 十八坪  〉 

『丹後町史』
 〈 春日神社 小脇小字茶園
天児屋根命を祭る。小脇部落の入口高善寺廃屋の上層に鎮座している。  〉 

高善寺
『丹後国竹野郡誌』
 〈 高禅寺  小脇にありしが廃頽して明治四十年伽藍を毀ち其後再建せず、
以上の外丹哥府志に次の通り見ゆ
  井上村  開 雲 庵   曹洞宗井の谷
  倉内村  蒼谷山国光寺 曹洞宗
  神主村  祈柴山神勝寺 曹洞宗  〉 

このお寺に子安地蔵が祀られていた、小脇の子安地蔵として有名。
現在は平の常徳寺に祀られている。

虎杖(いたどり)小学校
虎杖小学校跡
ここから登る、「鞍内キャンプ場」と書かれている。
虎杖小学校跡
校名の元なのかイタドリが生えていたが、誰か世話する人があるのか、雑草が生い茂ってはいない。子供達がいつ帰ってきてもいいように…

 明治40年開校。大正12年全焼し、その後分教場として再建、昭和39年倒壊、同年鉄筋校舎が再建され、虎杖小学校として独立した。校下住民の離村で児童数も減少し、平成3年廃校となり宇川小学校に統合された。現在は「鞍内キャンプ場」となっている。
大正12年全焼したときの校長は出張中であったが、責任をとり辞職し、神戸で教師を続けていた。しかし治安維持法違反の疑いで捕まり特高警察に秘密裏に虐殺されたと、友人だった木村次郎右衛門氏が語っている。教育界におってくれたら
秘密保護法バンザイバンザ~イの政府与党どもがぜひともに見習いたい、是非とも大量に虐殺したい、そうした過去の、ひょっとすれば未来の暗黒時代も意外にも刻んでいる。主権者に隠すことを合法化して何がまともな政治などできよう、隠せなくてもあんなもんでしかない、行き着く先は虐殺2000万人の歴史が教える。
児童ばかりでなく立派な先生も多く生み出したすぐれた学校であったようである。
虎杖小学校跡
今はキャンプ場になっているが、ここがグランドだろう、直線50メートルはとれそうである。


《交通》


《産業》



小脇の主な歴史記録


『丹哥府志』
 〈 ◎小脇村(倉内村の次、是より野間の庄野中村へ道あり)
【三宝荒神】(祭九月廿四日)  〉 

『子どもがつづる丹後の歴史』
 〈 ぼくの住んでいる村  丹後町・虎杖小 五年富田英伸
 ぼくたちの村や学校は、丹後半島の尾根の中腹、宇川の上流にあり、碇高原を背に緑の山々に囲まれ、その谷間に宇川の渓流が流れ鮎や、かじかの音、夏でも美しいうぐいすの歌声が聞ける所にあります。
春は、わらび、うど、ぜんまいなどの山菜が取れ、夏には、鮎とり、自転車ですこし行けば丹後松島海水浴場も近く、貝とり、魚釣りもでき、秋になれば栗や、山芋、あけびなども豊富な自然にめぐまれた土地です。
過去には、児童数も七十人ほどいたそうですが、現在は児童数八名で、府下で一番小さな学校になってしまったそうです。なぜこんなよい環境で自然にめぐまれた土地であるのに、人が少なくなっていったのか、不思議に思うことがあります。
父母や祖母たちの話によると、三十八年の丹後地方をおそった豪雪で、田畑や家が荒され、そのうえ国の政治に大きな変化があって、それまで米作りと牛や蚕を飼い、冬には、祖父や父たちが出かせぎに出て、生計をたててきたそうですが、山間部では、今までのようなやり方では、生活ができなくなり、ぼくたちの村以外の小脇や三山などの四部落が、次々と集団離村してしまい、今では、ぼくたちの一部落二十四軒だけになってしまったそうです。その中で、二十四戸の地区の人々が助け合いカを出しあってぼくらの学校や村を守ってきました。冬、雪の多い日は、学校まで歩いて行けなくて、部落の公民館で、学習しなければならないこともあります。
二十四軒のみんなは、村を守り学校を発展させるため、学校や村の行事をみんなで取り組み、学校と地域が手を結んで地域ぐるみでいろいろな行事を行っています。
春の運動会も区民全員が参加し、紅白に分かれ競い合い、なごやかな楽しい一日でした。テレビにも放映された盆踊り、秋の氏神祭、ふるさとの集い。今年の盆踊り氏神祭ふるさとの集いもすでに計画され、区民全員が参加し団結し、祖先の文化遺産を守り受けつぎ、数々の民話につつまれ、祖先が苦労して築いた土地を守り発展させるようにがんばっています。
丹後半島縦貫鉢道や、碇高原の総合牧場の建設、牧場を中心に観光をかねたいろんな施設、ぼくたちの山村にも少しずつ明るい見通しがたってきていますが、まだまだいろんな問題があります。
みんなが毎日の生活の中で、困っていることは、道がせまくカーブが多いうえに、六月を過ぎると道ばたの草がおいしげりますます道がせまくなり、学校の行き帰りにも、蛇や車が急に出てきてびっくりしたり、雨や風、目でりなどが続くと落石も度々あります。校長先生が、草刈機を持って、となりの部落まで草刈りをする姿を見てどうかならないものかと思います。
またぼくらの遊び場ともなる川も開発で、ある所はよくなっていきますが、開発のため土砂が雨で流され、よい渓流がうずもり、鮎やかじかの住家もなくなり、ぼくたちの泳ぐ場もなくなってきているので、宇川を昔の姿になるようにしてほしいと思います。土砂はそのほか、田畑の水路もふせぎ、水道もにごすので本当に困ります。碇高原が立派になるというしょに、ぼくたちの村も同じように、発展するようにやってほしいものです。
これは、区民全部の願いでもあります。冬の除雪も住む者が少ないので後まわしにするのでなく、不便な土地に住んでいる者を優先する政治もしてほしいです。最近落石防止のネットが各所にかけられ、ぼくたちも登下校時に安心して通えます。区民も大へん喜んでいます。
ぼくたちは、ふるさとを守り、将来の発展のために展望をもち、学習や運動に励み、児童会を中心にカを合わせ、がんばっていきたいと話し合いを強めています。  〉 

『京丹後市の伝承・方言』
 〈 瑞巌山地蔵尊縁起
時期 江戸時代
所蔵 常徳寺(丹後町平)
 現在は廃寺となった高禅寺(丹後町小脇)の本尊である地蔵菩薩の由来を記したもの。麿子親王が七仏薬師を勧請した後、丹波と丹後に三躯の地蔵菩薩を安置したとし、その一つが高禅寺のものだとする。もとは竹野神社(丹後町宮)に安置されていたが嘉吉年間(一四四一~一四四四)に大津波があった際に移されたという。この縁起を明治三十九年(一九〇六)に常徳寺住持が写したものも残されている。法量縦二四・〇cm×横一一八・九㎝。巻子本(元々折本だったものを巻子本に装丁する)。一五紙継。
〔箱書〕
(蓋表)
「地蔵菩薩縁記」
(蓋東)
「平成元年十二月吉日
   修復裏張り
    寄付者 岡田龍平」
〔本文〕
 小脇村
  瑞巌山地蔵尊縁起
           (菩薩)
惟当山の本尊子安地蔵菩提与申者当国斎宮明神の
霊跡に麿子親王七仏薬師を勧請し玉ふ、大江山悪
鬼退治之後、又金麿親王万民安産之ために前丹・
後丹之際二三尊の地蔵を彫刻し玉ふ、其一ハ丹波
国老之坂に安座し玉ふ、一尊者失所在、当山之一
尊者元来斎宮明神左リ脇二居玉ひしを嘉吉年中大
津波ありと浮説之節、当村某与申者負担して亥持
か嶽に水難を遁る、時二夜々赤子の啼声あり、村
民事よく我者扶人民祓苦与楽の本願なるに今や無
き知我者故、哀声遠徹すと云、於茲村中戮力建堂
口誠然勝すれハ、願求悉如其意、或冬大雪埋家
居、翌春毎暁高声に告云、雪崩近々あり、皆々早
可遁去、村人谺之地蔵堂に至り見れハ大士不在、
既に遁去り玉ふにや、赤子の如き足跡あり、諸人
追跡尋見れハ、今の高禅寺の石巌上二立給ふ、村
民驚怖云、菩提さへ災をさけ玉ふ、我等も早く難
を遁んと望議すれとも、大雪山川満々たれハ隣村
近郷人跡たへて友に何ともしがたし、或者不信の
輩不信聖徳、果して二月下旬大雪崩一村悉一時に
潰落す、人民牛馬鶏犬死傷不知数、其内大士に信
心願求せし者十三人、漸々死傷をのがれ今の小脇
村に移、家居旧地世に今堂屋敷与云、大士立玉ふ
巌なれハ山を瑞巌と称し旧庵なりしを改て号高禅
寺与、諸本山四世密堂濾雪禅師、為開山大士を安
置して為本尊与者也、誠に此菩提ハ六道能化の教
主にして現十輪千福の相照臨十界、或ハ現土地形
或は現山王形、又ハ現日月四十辰四生五形無不変
処、又ハ除八大怖 説、大種之福相現当二世一切
衆生を度尽ずんば我正覚を不取との玉ふ、此願三
世諸仏に勝るゝゆへに釈尊讃歎して大願主なりと
誉玉ふ、固時は光目聖女なれとも母に孝心深きゆ
へ三十二相之金色身を不取、現声聞身羅漢僧之形、
和光千塵之粧ひ利益善生無比類、誓願十地之菩提
に勝れ玉ふ好相なり、就中此尊ハ既に金麿親王、
為万民安産彫刻し玉ふ尊像なれハ、聖言不空ゆへ
にや、当村昔より曽て無難産、近村難産あれハ守
り御符を求む、霊験感応無不応求に一切諸願無不
皆満、誠二奇代の尊像也、人々□□ 〔  〕
地蔵縁起  


小脇の小字一覧


小脇(こわき)
赤畑ケ(あかばたけ) 黒淵(くろぶち) 後谷(おてだに) 後(おて) 松葉(まつば) ソラジ 堂屋敷(どうやしき) 祭リ田(まつりだ) キトヤ シモ カンダ畑(かんだばたけ) スヱトウ 大嶋(おおしま) 大谷口(おおたにぐち) 大谷(おおたに) 大谷口上(おおたにぐちうえ) 溝奥(みぞおく) 小脇谷(こわきだに) 福西(ふくにし) ダケ サノム子(さのむこ) 田代(たじろ) 京畑(きょうばたけ) 山神(やまかみ) フナクゴ 大ナル(おおなる) 岩穴(いわあな) フナクゴ道下(ふなくごみちした) 中畑(なかばたけ) ケンジヨウ 滝ノ上(たきのうえ) 向山(むかいやま) 若宮(わかみや) 家先(いえさき) 家上(いえうえ) 茶円(ちゃえん) 村西(むらにし) 寺下(てらした) 谷川道上(たにがわみちうえ) 家下(いえした) 小脇(こわき) 家下川淵(いえしたかわぶち) コシカメ コシカメ奥(こしかめおく) 神主山(こうぬしやま) 寺後(てらおて) 堂ノ後(どうのおて) 永ヲサ(ながをさ) 谷尻(たにじり) 大滝(おおたき) 谷尻奥(たにじりおく) ホヲケサカ 淵ノ上(ふちのうえ) 中ノ瀬(なかのせ) ナガレ口(ながれぐち) 段畑ケ(だんばたけ) 板鳥(いたどり) サイヅチ カリヤメ カイヤ ノギヤ 貝尻(かいじり) 五領(ごりよう) 松葉沖(まつばおき) カナクソ 家ノ前(いえのまえ) 畑川(はたがわ) サシガラ 小田(こだ) イカリ 西岡(なしおか) 宮下(みやした) 谷川(たにがわ) シモ 地デン(じでん) 作道下(つくりみちした) ホウケ 立山上下(たてやまうえした) 赤石(あかいし) 桃木(ももき) 岩穴(いわあな) 橋ノ元(はしのもと) 作道上(つくりみちうえ) 長シロ(ながしろ) 向山(むかいやま)


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『丹後町史』
その他たくさん



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