丹後の地名

峯山海軍航空隊
(みねやまかいぐんこうくうたい)
京丹後市峰山町新町
大宮町河辺

「赤トンボのプロペラ」

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京都府京丹後市峰山町新町・大宮町河辺

京都府中郡峰山町新町・大宮町河辺

京都府中郡新山村


峯山海軍航空隊の概要




平和のための戦争展


 新町から河辺にかけて、戦時中には「河辺飛行場」や「峯山海軍航空隊」などがあった。以前から気になっていたが、記録が見当たらず、行ってみたこともなかったのだが、2016年に20年ぶりとかの「平和のための戦争展」が開かれ、今回は海軍峯山航空隊を特集し、遺構を訪ねる見学会も実施するという。参加者募集という、さっそく出かけてみた。

各地で開かれている戦争展もところによっては、どこか惰性とマンネリ、さらに老化していて、面白くも何もない、戦争展とは名ばかりの自己満足展になっているように感じられる所も残念にも見受けられるが、20年ぶりの再開とかで、ここは若いのがいい、「若い」と言ってもそこそこだけれども、ワタシ世代よりは若いようで、世代交代に成功した様子、できればもう1世代下げる、20代30代まで、オリンピック出場世代まで下げるのが望ましいかも、もともとがそうした運動であった。一気にそこまではムリかも知れないが、それを目指して静かに腹の底に気合いが入っているように感じられた。
内向人間ばかりが集まってそのグループ内で自己満足し合っていても平和はユメ物語でしかなかろう、外からの目、外を見る目が相手あって成り立つ平和というものの初歩であろう。平和だけではないが民主主義などの初歩でもあろう。気が合わなくても相互に誠実に努力し合うの姿勢がなければ平和などはない、自分の国内だけしか見てないのでは平和精神とかいうものではありえない。ナンデ朝鮮や中国の味方するんじゃ、とか言って来る者もあるが、答えはそうしたことである、外から見ないと全体像は見えない。
またどこかの国のオリンピック委のようにカナメの燃える聖火台を忘れるようなシッカリ度ではどうにもならない。そもそもバカが権力を握ること自体が国全体から見れば不幸なハナシだし、不幸くらいで済めばよいが、2000万人を殺したりする、それを長く握り続けるなどはチョウチョウ悪い冗談にもなるまい。見てるとカシコイのはそこそこでみずからで身を引きよる、バカに限って死んでも権力にしがみつこうとする。
アレなどはええ他山の石、ワシもこんなモンかと心得えて、老兵はフェイド・アウトして若い人に任せるべきであろう。「老人の智恵と経験を生かして…」などと持ち上げる向きもあり、そうした面もないとは言い切れないが、しかし一般に老人はやはり老人で、若者とは違って質の悪い欠点がたいていはある、まず身体が動かない、頭も動かない、口先だけでその場逃れに終始する、特に横着とか言うのではないが、これは仕方もないことでどうしてもそうなのである、新しいものにはまったくダメで何の役にも立たずいないほうがいいようなことである、等など。同じダメなら若者の方が将来が期待できるぶん百倍はいい。戦争展は平和の学校の機能もある、若者を育てるという使命がある、若者を育てることなどはどうでもよく、そんなことよりこの職を通して自分の名を広めたい出世したい、のクレージ先生も実際の学校でも見られるが、戦争展までがそんなことであってはなるまい。

誰に戦争の過去を語り継ごうとしているのか、自分らだけの内向き者だけでは戦争展は初めから成り立たない。いま一度気合いを入れなおして右傾化ストップに全力で頑張ってくれ。

↑こんなパンフもいくつも作っておられて、資料のないワタシなどにはたいへんにありがたい。地元の治安維持法犠牲者の調査などもある、秘密保護法でまた繰り返されないようにしたいものである。
当ページの資料は、ほぼすべてまるまるが同展のもの。下の方に引かせてもらいました。

頭がカタクなっているオッチャンやオジイチャンばかりのニッポンで、ベクトルは異なるとはいえ同じように頭の固いオッチャンオジイチャンではヤマ(全市民)は動かせない、ヤマを動かすゾの大きな意欲ある頭のヤワラカイ若者を大量に生み出す下準備のつもりのものだろうから、それを頭のカタイので定評あるようなモノがワシじゃワシじゃで長年にわたり運営のトップの座ってやっていては、すべてだいなしになる。トシヨリの座というものもあるので、そこにいることである。ユメ組織を牛耳ろうなどとしてはなるまい、そこは若い者にまかせろ。受付や目に付くところでトシヨリがワシがワシがとでもさも言いたげに大きな顔でドデっと何人もトグロを巻いていてはならない、見えない場所にいるのがよい。見えない所に若者がいたりするが、それは逆だ。トグロを巻いているのが案内でもしてくれるのかと思えば知らん顔しているし、カンパせいと言う。カンパくらいはするが、礼くらいは言え、ビンボー人から銭をもらって当然としているそのセンスで何か市民にとってのまともなことができるか、まったく市民センスとはほど遠く、権力かさにきた小役人センスであるが、それに気付いてもいない権力指向のうすらバカばかり、殿様気取りのクソコッパ官僚どもが仕切ってけつかるなと見たが、こんなことでは本当の戦争展はない、ニセである、いくらやってもダメであろう。戦争展もやがてはこういうことになってしまうのではないかと、ワタシが最も恐れた、若者なし市民なしの官僚による権力指向の「戦争展」の姿、市民とは名ばかりの実質官僚精神によるニセ戦争展、失敗の究極であるが、それが足元で、もう一つ見られるとは情けないハナシである。
ナニもわかってないコッパ役人にメチャクチャにされる、それはどこかのマチにだけ特有な欠点だとまだいいのだが、見て回って範囲ではそういうことはないようである。

戦争展はもう何十年の昔から全国の心ある人々によって作り上げられてきていて、今では市民と若者のためにある公共のインフラの地位を得ている、個人商店ではない。がんばってきたかも知れないがそうした一部リサイクルトシヨリの私物でもない。一人でも二人でもがんばってくれる若者を見つけ育てて、松明を引き継いでもらえ、それがトシヨリの仕事ではないか。
「あの人はアタマがカタイんですか」などとワタシに聞いてくれるな、ワタシは知らん、何人かの顔を知っているくらいで、こうしたタイプは嫌いで、たいしたつきあいはない。
またヒラメでもあるまいし、上ばかりを向けばいかに平和運動といえどもすぐに行き詰まる、下は未開発の無限の沃野、足元に目を向けることであろう。若者はいないし、市民のいない市民運動に何か未来があるのだろうか。聖火台を忘れ、忘れたことも忘れて、オリンピックと名乗りつつド田舎の運動会にするのだろうか。
つまらぬ小手先だけのモンだな、は即見抜かれる、展示する側の人間性が即そのまま見る者に伝わる、訴えようとする側としては自分の人としての人柄の一番の奥の奥を恥を忍んでそのま展示していることになる、戦争展は、そのほかでも同じだが、実は遺品や遺物等を展示しているのではない、それらを媒介して自らの全哲学を表現している、文ハ人ナリの、いいまわしをもじれば、展示は人なり、これくらいのオッサンがやっとるのだな、は即正しく判断される、何者が何者に展示しようとするのか、自らの全てを疑いながらやるより方法はない、夢々ナメてはならない。歴史は固定したものではく、完成したものはない、絶えず問い続けねばならないものである。
鎖国の侵略者であった「歴史に向き合わない日本人」が戦争の実相のごく一部を展示し、それを「歴史に向き合わない日本人」が見て、それを「歴史に向き合わない日本人」が報道する、これを何十年と繰り返すので、「歴史に向き合わない」精神は戦争展の中ですら純粋培養され増幅されていくが、それに気付く日本人もない。
日本は島国で、文化がガラパゴス化しやすい、自分らだけで集まり、自分らだけでやって、手先は器用なので、それに自分らだけで満足して、なーなーを長い時間続けると妙な方向へ「進化」する、しかしそれに気付く者もない、外からの強烈なショックが発生してはじめて皆が気付く。誰がワルイのか、探しても犯人は誰もいない。ナニともムナしい、元々がカラッポの(純粋な日本の伝統文化とか純粋な日本人とか言うが、それはカラッポのことである)寄せ集めなのだから、いかに「努力」してみても結果もそうしたことである。それが峯空であっただろうし、たいていの日本の文化や運動のDNA。われらは「外に向き合わない日本人」でもあるという欠陥人でもある。外国人、まったくの異文化人や特に侵略を受けた側の人々が来てくれるか、これがほぼ正しい方向を向いているか、将来があるのか、の指標になるのかも知れない。



河辺飛行場


 滑走路は今はまったくないが、だいたい今の国道312号(大宮バイパス)の直線部分の東側、北側という方がわかりやすいか、マイン(エール)横の田久谷(たこたに)川から大谷川までの南北に1キロ、幅120メートル(建設資材の不足で幅は80メートルに変更)が昭和16年からの第二期工事で建設され、昭和19年にさらに南ヘ延長されて1.5キロになったという。
今の312号線は幅20メートルばかりだから、312号の北東側に併行する道路(マイン店の真ん前から大谷川まで続いている)があるが、そのあたりまでが滑走路用地であったと思われる。
1.5キロ延長すれば南はたぶんオートバックスあたりまでだが、大谷川や府道658号線が横切っていて、いくらでも資材があれば別として延長工事はかなり難しそうで、現在の地図を見る限りでは、延長は完成を見ていないように思われる。板を敷いてこの川や府道(川の東側にあり新道と呼ばれ、付け替えられたのではなかろうか)を越したとも言われるが、こんな広い川を板では越せまい。

大谷川と「もう一つの海軍橋」↓

飛行場の南を限る流れだが、この川もジャマになると流路が変更され、段差をつけて、今の流れになったという。このあたりに「新宮神社」があったというが、川になるため、撤去移転されたという。
右側が飛行場で、橋を渡ると飛行場の南正門があり、兵舎などもあったという。
この下の竹野川との合流点に海軍橋がある、今は峯空園があるところだが、この橋↑は、「もう一つの海軍橋」と呼ばれる、当時のままのもののよう。峯空園の海軍橋より幅がある。舞鶴にも海軍橋があったが、改修されて今は「夕潮橋」と名を変えている。

飛行場敷地は滑走路を中央に約1キロ×500メートルの約50町歩の田畑を強制買収して建設され、周辺各所には誘導路や格納庫、掩体壕などの関連施設も作られた。その一部は現在も残っている。

機銃掃射跡のある弾薬庫↓(並んでもう一つ同じ建物があったというが、今はこれしかない。赤トンボ搭載.7.7ミリ機銃弾を収納したものか)。夏草のヤブの中に建っていて、足元見えず危険で近づけない。
夏草や つわものどもが とかの俳句を思い出した。悲しいかな情けないかな、ここで訓練に励んだ若者達や、エライさんの口先や思い込みは別として、上部層のたいていは、たいしたつわものではなくおハナシにならない、完敗した。厳しい上部教育組織機構がなくナーナーと追従者と口先だけの調子者ばかりで固めると若者が無駄死にしついには国が亡ぶ。今のどこかの国をみるようなハナシである。
峯山海軍航空隊
油庫(燃料庫)。右側建物↓ドラム缶に油を入れて置いてあったという。

格納庫。ここに4つ格納庫が並んで建っていたようだが、残っているのはこの建物だけ。内部がわからないが、木造のよう↓。第一か第四だが、案内類では一定しない。15機ぱかり収納できたという。
格納庫(河辺飛行場)
格納庫は、東側(写真で言えば右側)の山や谷にも掩体壕が作られていた。そこまで幅50メートルの誘導路があったという。
飛行場敷地の中は今は田畑や宅地や草ボウボウ地になっているが、当時は一面のヒラチで芝生が植えられていたという。

格納庫の南側に流れる小川が暗渠↓になっている。

先に見える民家が並んでいるあたりは左右に滑走路になっていて、それを直角に横切る川は暗渠になっている。↑皆が歩いている路は暗渠水路を塞ぐコンクリート製のフタの上である。この「路」はこのまままっすぐに竹野川まで続いている。

このコンクリートの「路」の途中にこんな↑フタがある。真ん中に海軍の錨マークがある。鋳鉄製だろうか、同じ物がこの先にもう1つ、峯空園にもう1つ、新町公民館にもう1つあるという。
上の暗渠水路に流れ込む小さな暗渠↓暗渠でないかと思われるが、今はフタが一部しかなく、オープンな溝のように見える、内部は円い形になっている。この位置は滑走路のド真ん中のド真ん中だと思われ、暗渠でしかあり得ないと推測するが詳しくは不明。

暗渠は一直線に続いて、竹野川に合流する。↓写真では川下側を見ているが、一帯には掩体壕がいくつも作られていたという。


上の地図の詳細マップはここから↓ダウンロードできます。右クリックして「対象をファイルに保存」でダウン・ロードできます。
河辺航空隊マップ(3.76MB)

海軍峯山航空隊


 赤トンボ
この飛行場にいたのがコレ↓最大時で100機ばかり。複葉で、零戦とかに比べれば何とも頼りなげな第一次大戦の生き残りのような超時代的化石化ヒコー物体である。峯山航空隊は航空隊と言っても、攻撃機や迎撃機がいたわけでなく、この機を使って操縦練習を行う練習航空隊、激しく消耗されていく海軍パイロットを即製養成するためのパイロットの学校であった。最後には学校にとどまらず、コレに爆弾をつり下げて特攻攻撃を行う特攻隊が編成され、前線基地まで出撃した、いよいよ出撃だの間近まではいったが、幸いにも終戦となった。幸運な航空隊であったのだろう。
「大空のサムライ」達を育てた練習機であるけれども、練習機として優秀であっても、攻撃機として実戦で使えるかは別である。複葉で足が出っぱなし、その上に離陸がなんとか可能のギリギリ250s爆弾を積んでいる、飛んでいるのが不思議なようなことで、こんなものでスピードが出るわけがない、風船にプロペラ付けて飛ばすよりまだ悪い、子供でも簡単な撃ち落とせる、出撃したとしても敵艦を見る前に、この機の10倍も馬力がある迎撃機に1機残らずすべて撃ち落とされてしまい、万に一つも敵艦に当たることはできまい。終戦が遅れて、もし彼らも出撃したといたとすれば、まったくの無駄死、自殺でしかなかったことであろう。

赤トンボ
「赤トンボ」と呼ばれた練習機で、翼が2枚もある、木製プロペラ(2枚ぺラ)をつけた、木型布張りの2座練習機。しかし誰が言ったか「海軍練習機の傑作機」、あらゆる飛行訓練が出来たという。この当時としては立派なものであったといわれる。

展示品には「赤トンボのプロペラ」↑と「」が付いている。赤トンボのプロペラは公称では2.75mあるはずなのだが、このプロペラは2.5mしかない、これくらいは許容誤差のうちかも知れないし、ひょっとして別の物かも知れない、元訓練生のところに持って行って「これは赤トンボのプロペラか」と問うてみたがわからないとの返事、そんなことで慎重に一応「」付きにしているとか。
持てば軽い木製。当時のどこかの海軍の木製練習機とか、今のどこかの国の原発安全基準とかならば、これくらいは十分に誤差のうちだろうと、ワタシは考えたりもする(当時はエンジン出力ですら、1割以上のバラツキがあったりはするだろうし、使用する燃料によっても変わるので、各エンジンの実際の出力に合わせたプロペラが用意されていたかも知れない)。網野小学校に保管されていたという、なぜここにあったのかの経緯は不明という。由良川プロペラ船のプロペラ


赤トンボでなければ、何のプロペラなのか?。サイズが違いすぎる、軍の物が残っているものだろうか、と気になって仕方ないので、資料を探してみると、考えられるのは、由良川には「プロペラ船」というのが運航していたことがあり、そのプロペラと形状が似ている、キズの具合までが「赤トンボのプロペラ」とそっくり似ている上に、サイズはまさにピッタリである。あるいはこのプロペラかも知れない。

『由良川歴史散歩2002』(綾部、福知山、鬼の交流博物館の郷土資料館共同出版)には、写真(カラーと思われるが、その白黒コピーしか手元にない)→もつけて、次の説明がある。
 〈 大正十五年(一九二六)五月十日から三年ほどの短い期間であるが、由良川にプロペラ船なるものが就航していたことがあった。水深が浅くスクリューが使えない由良川で動力船を運航するために考えられたもので、船体後部にエンシンとプロペラを取り付けている。「由良川飛行艇」と名付けられ、福知山と由良を結び、下りはおよそ二時間三十五分、上りは三時間、一日上下三本が運行されていた。プロペラの径は二・五メートル、残されている写真から見て船は全長二十メートル、幅三メートル程度に復元できる。  〉 

ワタシのオヤジも与保呂の奥に落ちた海軍機のプロペラを拾い与保呂小学校へ持って行ったと言っていたが、たまたまの事故機で軍の回収が及ばないうちに秘密裏に持ち帰り隠して置かなければ、手に入りそうにもない。破片くらいなら何とはなってもマルマルはムリかと思われる。
学校は地域の唯一の文化施設てあり宝庫、持って行くとしても他にはなかったのであろう。今となれば学校は国やら文部省やらの出先と心得ていて、地域の一員として、その立場からの果たすべき大きな役割が託されているなどとはまったく自覚はしていまいが。

赤トンボの性能
赤トンボは正式には「93式陸上中間練習機」と呼ばれ、その性能等一覧は次のようになっている。
寸度   全幅11m、全長8・05m、金高3.20m、主翼面積27、7u
重量   自重1000Kg、正規1500Kg
発動機  天風11型1基、公称300馬力
プロペラ 木製、   直径2.75m
燃料載量 325リットル
性能   最高速度 118ノット
      上昇時間 13'−25′
3000m  31'−46'
5000m
      実用上昇限界 5880m
      航続力 360カイリ
75ノット
高度1000m
      着速 50.5ノット
翼面荷重 54.2Kg
uf
馬力荷重 5.0Kg
馬力


エンジンは日立製の空冷9気筒星型 340馬力
最大速度は210q
h
武装は7.7ミリ機銃×2
爆装30s爆弾×2


青色文は同展パンフより、まるまるそのまま引きうつし
 峰山航空隊のあゆみ
 峰山海軍航空隊は昭和19年3月15日、第二美保海軍航空隊峰山分遣隊として発足した。峰山分遣隊の任務は陸上中間練習機による操縦練習航空隊であった。 当時このような隊は内地に6カ所、外地に2カ所あり、筑城空(福岡県)、第二郡山空(鹿児島県)、峰山空の3隊が同時に新設された。
 指導にあたる教官、教員は全国の航空隊から、また、南方の第一線から赴任してきた乗るべき空母がなくなった者、戦争で傷つき再び第一線へ帰っていくしばらくの期間教育部隊に配置された者など、さまざまであった。
 教育を受ける練習生は、予科練を卒業してきた飛行術練習生たちであるが、飛練第37期生として3月に141名が入隊した。彼らは乙特出身の短期教育で予科練を卒業してきた練習生であった。やがて5月になると乙18期予科練出身で土浦入隊以来2年間訓練を受け、博多空ですでに単独飛行をすませた第39期生60者が合流し、約200名となった。7月には第39期練習生120名が入隊。また、9月には第41期練習生90名が入隊するなど逐次練習生の数が増えていった。
 発足当時の隊長は久保少佐であったが、10月に退隊、後任に菅原中佐が着任した。
 昭和20年2月1日、所管が第2美保海軍航空隊峰山分遣隊から姫路海軍航空隊峰山分遣隊に変更され、第42期練習生46名が入隊、開隊時600名くらいだった兵員は1、200名を越えるに至った。
 昭和20年3月1日、正式に峰山航空隊として独立。航空隊司令としで小関大佐が着任し、練習機も約100機余りが揃えられた。
 その後、昭和20年5月5日、作戦航空部隊第三航空隊(木更津基地)第十三航空線隊(大井隊)の指揮下に入り、1、500名の隊員の外、他部隊よりの訓練要員、戦備作業要員を含む3、000名の大所帯にふくれあがり、特攻部隊もつくられたが、出撃するに至らぬまま終戦を迎えた。


 訓練の様子
 海軍ではr月月火水木金金」という言葉があったように、練習さえやれば決して負けることはないと、相当きびしい訓練で鍛えられた。海軍航空隊は予科練教程を終了した者を「操縦」「偵察」「通信」の3つに分け、その中の操縦術を教えたのが峰山航空隊であった。
 峰山航空隊の飛行訓練生達は、4カ月間の教程の中で地上教育と空中教育を学んだ。
 地上教育というのは理論学習で、飛行機を操縦するための必要な知識から、落下傘の取り扱い方、飛行機の整備、点検や応急処置の仕方、更には航空図語や気象学に至るまでの幅広い内容であった。
 空中教育というのは実際に練習機に乗り、離着陸、旋回、錐揉宙返り、反転、背面飛行などの基本技能の他、編隊飛行、夜間飛行、計器飛行などの訓練を、一人平均33時間くらいの飛行時間の中でこなしていった。
 一日の飛行訓練は午前7時30分から11時までと、午前11時30分から午後3時30分までの2分隊に別れて行われ、練習生は6名ずつに分けられ、各班に教官が1名ずつ付いて指導にあたった。
 飛行訓練も最初のうちは練習機の後に教官が乗りこみ、練習生の指導にあたったが、ある程度の技能が収得できれば単独飛行といって1人で練習機に乗って訓練を行った。
 教官が乗りこみ指導にあたった最初の頃は太い木の棒を持ち、前に乗っている練習生の頭をたたいてのきびしい指導がなされた。
 訓練が終ったあとは反省が行われ、教官からきびしく注意が与えられ、口頭だけでなく木の棒で尻を何発もたたかれ、練習生の尻は例外なくみんな青かった。親が見たら泣くほどの痛々さだが、練習生は一人前のパイロットになるためには当然のことのように考えていた。ある練習生のお母さんは下宿に面会に来た時、風呂に入る我が子の後姿を見、尻の辺りが青紫にはれあがっているのを目のあたりにして思わず涙を流していたと練習生を泊めた家の人が話していた。
 昭和19年の11月に入ると、飛行機に使うガソリンがなくなって訓練飛行もできなくなり、20日ほど中断され「ア号燃料」と呼ばれるアルコール燃料で飛行訓練を行ったりした。アルコール燃料はガソリンに比べてやや出力が落ち、また、寒い朝などはエンジンがかかりにくい欠点があった。
 戦局もいよいよ急をつげ、内地決戦の様相を深める頃、いざという時に佐世保の基地まで燃料をもらいに行き、交渉を重ねやっと貨車3両分の燃料を確保したそうである。
 同じ頃、丹後地方特有の「うらにし」が訪れ、「弁当忘れても傘忘れるな」といわれるように空はしぐれやすく、また、冬は北西の季節風による積雪が多い。殊に、この冬は雪の日が多く20年1月になると大雪で滑走路が使えず、兵隊はもとより地元の人たちにも動員がかかり除雪作業が連日行われ、雪の壁の間で離着陸が行われたが、練習機がスリップしたり、また、整備兵の手足は凍傷になったり、服はぬれたままという状態であった。そのため、満足な訓練はできず、遠く福岡の航空隊基地へ練習生を移しての訓練が行われたりした。
 昭和20年3月、峰山飛行場で訓練が再開されたが、戦況は緊迫し練習機に250kg爆弾を装備し、特攻隊を編成することになった。編成された隊員たちは、間人沖や宮津湾にあった仮想敵艦を攻撃目榛に、降爆訓練や夜間飛行など戦闘即応の猛訓練が行われた。特攻隊に編成されなかった訓練生は、飛行訓練の補助をしたり、防空壕掘り、おとり機の製作、対空戦闘要員の配置等の仕事についた。
 訓練を終えた訓練生たちは、峰山航空隊から戦場へ向かって出発していった。最初の第37期生は、昭和19年8月29日に卒業してから終戦までわずか1年間足らずでわずかあったが、その短い期間に多くの人が亡くなった。峰山航空隊に籍をおいていた教官、訓練生の中には特攻隊員として沖縄、種子島、本土南方で8名、また、フィリピン、サイパン島、南西諸島等で9名、更に内地での殉職者等を加えると、30名余りの人が命をおとされたようである。
 峰山分遣隊が発足してから、わずか1年半足らずの間に飛行機が墜落したり、付近の山に衝突したり、また、不慮の事故等で、12名もの教官や訓練生が尊い生命を失っている。また、幸いに死亡事故には至らなかったものの、飛行訓練中滑走路で三重衝突事故を起こしたり、練習機があちこちで墜落、不時着して練習機を大破したり、搭乗員に重軽傷者の出た大事故もかなりの数にのぼり、飛行訓練とはいうものの、常に死と背中あわせのまさに生命がけの訓練であったことがわかる。
 20年の5月から大事故が目立って増えているのは、戦況の不利から短期間で特攻隊員養成の必要に迫られた結果、技術的にも今一歩のところへ、精神的なあせりもくわわったものではないかと推測される。
 なくなった人たちは、いずれもまだ17〜20才の若さであった。


 特攻出撃
峯空はパイロット学校にとどまらず、最後には攻撃隊に加わった。

河辺飛行場を飛び立つ神風特別攻撃隊飛神隊武部隊↑。250キロ爆弾を抱いて敵艦に体当たりする特攻隊に加わるべく岩国基地向けて飛び立った(昭和20.7.19)(同展より)

特攻出撃
 米軍のフィリピン群島レイテ島に対する上陸で、日本軍が重大な危機に直面していた昭和20年3月フィリピンのマニラが奪還され、4月には沖縄攻撃が始まった。日本軍は敗戦の色が濃くなったこの頃から最後の絶望的な戦法として、陸海軍ともに特攻隊を常用しはじめていた。峰山航空隊でもこの頃から宮津湾等で特攻訓練に励んでいた。
 7月に入り米軍機による志布志湾沿岸(鹿児島県)、宮崎県沿岸、土佐湾沿岸の偵察が連日行われるようになり、この方面への上陸の気配が強くなってきた。峰山航空隊はこれら3方面に上陸する米軍部隊に大して対して特攻をかける任務が与えられた。
 7月14日、特攻隊峰山航空隊飛神隊忠部隊40機は、第1陣として九州の鹿屋特攻隊基地(鹿児島県)に進出するため、峰山航空隊総員の見送るなかを編隊を組み、飛行場上垂を一周したのち大江山上空へと飛んで行った。忠部隊の鹿屋基地展開に続き、7月19日、第2陣の武、礼、義部隊52機は岩国基地(山口県)を目指し、忠部隊同様多数の見送りを受け出発していった。
 出発の日は秘密にされていたが、航空隊の人たちの様子からすぐわかったらしく、河辺、周枳、善王寺、口大野等の人々も多数見送りに行っていたようである。
 忠部隊は途中岩国基地で燃料を補給し、鹿屋基地に到着、当初は米軍機の偵察活動がしきりに行われたが、後には銃撃、爆撃が続くようになり、他部隊の沖縄方面への攻撃は毎日くり廻された。忠部隊は飛行機の整備を万全にし、時の来るのを待った。8月13日には出撃間近ということで実戦同様の緊迫した訓練が行われた。
 礼、義、武部隊は岩国基地到着後、緊急発進や柱島付近での急降下、夜間の訓練が行われた。7月24日には米軍機動部隊の西日本空襲があり、岩国基地も遂に爆撃を受けた。本土決戦用に温存されてきた峰山飛神隊もその機会が来ない間に犬死してはならないと、更に展開することになり、 礼部隊は藤河基地(山口県)へ、義部隊は可部基地(広島県)へ、武部隊はそのまま岩国基地にふみ留まった。
 藤河基地、可部基地は共に秘匿飛行場で、可部は広島から北へ約18qの地点で、国道の両側の田を埋めて滑走路が作られ、藤河は錦川の河川敷をならして滑走路が作られいた。礼部隊も義部隊も飛行機は林の中へ隠し、整備には万全を期して時の来るのを待った。8月14日両部隊共に出撃準備命令が下り、全機爆装、燃料満タンして出撃命令を待った。しかしながら翌8月15日、玉音放送があり、出撃寸前で終戦となった。
 こうして峰山航空隊の特攻隊は進駐していったそれぞれの基地で終戦を迎え、忠部隊は岩屋基地で解散、武部隊は岩国、礼部隊は藤河、義部隊は可部からそれぞれ飛行機で峰山航空隊へ帰着し、実際に特攻隊として出撃した飛行機はなかったようである。


峰山空襲

 昭和20年7月30日。舞鶴や宮津、伊根などと同じ日の艦載機による空襲であった。幸いにも民間には死者はなかったようである。
P38(陸軍機)や空対地ロケット弾攻撃は、舞鶴や宮津では聞かない、たぶん舞鶴宮津組とは違う部隊による空襲であったのだろう。陸軍機なら空母から飛び立ったのではなかろう、どこの地上基地から飛来したものであろう。
河辺小学校にロケット弾が落ちました、私の家はそのすぐ近くです、もう1発のロケット弾が私の畑にも落ちまして、両側から挟まれるように衝撃が来まして、家にいた私の母親は跳ね上げられたそうです。現地案内をして下さった方は話されていた。

空襲の様子
 昭和19年7月、サイパン島が陥落してから、同島の基地を飛び立つ米軍のB−29本土空襲が始まった。
 米軍爆撃機は、軍需工業地帯を中心に、昼夜の別なく、数十機から数百機の大編隊を組み、爆撃を繰り返した。11月24日にはB−29約70機による本格的な東京空襲も行われ、大阪、名古屋、横浜、神戸等の大都市はもとより、その被害は殆ど全国の中小都市数98、焼失家屋敷143万、死者約20万人、負傷者27万人、行方不明8千人という惨々たるありさまであった。
 そのような状況の中で、河辺の飛行場は、昭和20年1月に初めて米軍機の爆音が聞こえ、空襲警報が発令されたのを初め、3月には宮津上空方面に飛行雲が見え合戦準備をしたり、4月にはB−29が偵察飛行に来るなど緊張感が高まっていった。更に6月9日夜にはB−29による舞鶴への爆弾投下、6月20日夜には舞鶴、宮津湾に機雷投下、7月27日夜には舞鶴方面の空に曳痕弾が見え、高角砲の発射音が聞こえ、その度ごとに合戦準備を行うなど、爆撃を受けるのはもはや時間の問題であると思われていた。そして、昭和20年7月30日を迎えたのである。
 午前4時30分、B−29 1機が河辺飛行場上空を偵察通過、次いで5時45分頃グラマン戦闘機7機編隊が高度1、000m上空を舞鶴方面へ通過していった。そして、5時58分空襲警報が発令され、7時20分1回目の爆撃を受けたのである。この時は米軍機による機銃掃射だけだったので、たいした被害は出なかったようである。問題の第2回目は9時45分に空襲警報が発令され、爆撃は9時50分ごろから始まった。米軍機の数も多く、小型爆弾の投下及び機銃掃射が何回も繰り返され、飛行場を中心に河辺、新町にもかなりの被害が出た。よその村から見ていると相次ぐ米軍機の爆撃ですごい土煙りが舞い上がり、飛行場も付近の家々もよく見えないほどのすさまじさであった。第3回目は12時49分に空襲警報が発令されると、ほぼ同時に空襲を受けたが、第1回目と同様、被害は少なかったようである。それ以後も夕方までに数回米軍機が来たが、爆撃は無かった。
 爆撃に来た米軍機の主力はグラマンF6Fヘルキャットであったが、ロッキードP38ライトニングも来たようである。米軍機約55機の前後3回にわたる爆撃、銃撃による被害状況は次の通りである。
 最大の被害を受けた飛行場は、死者3名、負傷者6名、93式陸中錬2機炎上、1機大破、2式中錬1機小破、木造格納庫小破、飛行場滑走路に250kg爆弾1発、誘導路畑中に1発、ロケット弾6個、火薬庫(火薬なし)大破、格納庫、兵舎、車庫に弾痕無数ということであった。
 滑走路に落とされた250kg爆弾で、滑走路に直径約30m、深さ10mの大きな穴があき、滑走路の使用が不可能になったため、その晩は軍のトラック15台を使って土や石を運び夜を徹して復旧工事を行ったそうである。
 米軍機数に比べて練習機の被害が少なかったのは、新町の山に飛行場から誘導路がつけてあり、掩体という練習機を隠す防空壕がつくってあり、そこに隠したり、民間の工場や山道にも練習機を隠し、飛行場の中には、木、竹、わら、むしろ等でつくった模型飛行機がたくさん置いてあり、それがねらわれたからである。
 また、2回目の爆撃の時、飛行場の東端にあった河辺国民学校も機銃掃射を受け、ロケット弾も投下された。そのため、死傷者は出なかったが、南校舎の東半分が爆破され、本館も爆風で被害を受けた。
 この他、飛行場付近一帯の河辺、新町の民家多数も機銃弾及び爆風で被害を受け、住民1名が右足に負傷した。
 三重でも田んぼで仕事をしていた農夫に機銃弾がかすり、腰の辺りに軽傷を負った
 常吉国民学校では、直接ねらわれたのではないが、屋根瓦が数枚割られ、半紙大の穴があいたそうである。



戦後の飛行場


 一生懸命に建設して、わずか6年後には解体であった。元の田畑に戻された。
今では滑走路などはあったことすらも忘れられている。直線で、直角に交わる道路網、ハテこれは古代の条里制遺構だろうか、それとも戦争遺構でなかろうか、などと考える人はまずかろう。
残された格納庫なども「アレは何なんだろうな」と付近の子供達すら頭をひねりながら大きくなった。
そうだろうと思う。ワタシなどもそうした海軍戦跡ばかり、右を見ても左を見てもそうした物が残されている場所で育ったが、どれ一つとしてまともな説明などは聞いたこともなかった。
子供らがそんなギモンを持っているのか、カシコイな、よし教えよう、などとはおおかたは気も付かなければ、何もしなかった。
従来の反戦平和運動はこうした底辺の身近なギモンに答えることができなかった、アタマのいい者の空中戦で、そんなものは右側からは何も恐くはなくマネすることはない。子供たちのこうしたギモンに答えることができるか、それが戦争展に期待される役割であろう。子供がきてるのに知らん顔してるようなことなきよう願う。

飛行場その後
 昭和20年8月6日、広島に原子爆弾投下、8日にソ連軍が対日参戦、9日には長崎にも原子爆弾が投下され、致命的な打撃を受けた日本は、ついにポツダム宣言の受諾を決定し、8月15日無条件降伏し戦争は終わった。
 8月15日正午、天皇みずから全国民にラジオを通してその旨が知らされた。しかし峰山航空隊では司令の命令で電源が切られその事実は知らされなかった。
 15日の夜も長善士官室で翌日出撃の特攻隊の送別会が開かれたり、火薬不足のため軍のトラックに米や砂糖などを満載し、京阪神の業者との物々交換に1週間近くも行っていたということで、終戦を知っていたのはごく一部の士官だけのようであった。
 やがて玉音故送を聞いた地元民から知らされたり、終戦のため広島や山口の航空基地から帰隊した特攻隊員の話し等から終戦の事実を知った兵隊たちは、次々に郷里へ帰って行った。しばらく飛行場にとどまり、敗戦のうっぷんを酒でまぎらせていた兵隊や中には軍のトラックに倉庫の物資を積みこみ持ち帰った兵隊も何人かいたようである。
 練習機は飛行場にすべて集められ燃やされた。あちこちに隠されていたものや使いものにならなくて放置されていたものなど合わせて40〜50機ほどあったらしく、全部燃やすのに2昼夜かかったそうである。この時一緒に飛行場内の燃えるものはすべて燃やされ、軍のトラックとかいろいろな道具類などはすべて舞鶴に返却され、飛行場の中は殆んど何もなくなっていった。
 燃え残ったものやスクラップは1カ所に集められ、口大野駅に運ばれ、駅前に積上げられたまま子供の遊び場になっていたようであるが、しばらくして汽車でどこかへ運び去られた。
 残務整理がすべて完了したのは昭和21年の夏頃で、そのあとは終戦の食料難の時代でもあり、飛行場も主に河辺村と新山村が中心になって開墾されることになった。
 食料増産が叫ばれていた時でもあり、河辺村では所帯をもっている人は1口はどうしても責任をもって開墾するということで全部に分け、開墾能力のある家はそれ相当に多くの土地を分けてもらい開墾が始まった。戦争のため軍の命令でただ同然で取り上げられた一等田だったが、滑走路になった所はアスファルトになっており、その下には何重にも石が敷きつめられ、また、飛行場の敷地内は芝が植えられ、ローラーでぎっしりかためられてしまっており、そこを1つの家族が総出でやるとはいえ、くわでおこし石を運び元の田畑に変えていくのは、我々の想像を絶する困難と苦労があったものと思われる。そういう中で飛行場は再び数年前の美田に戻っていったのである。
 昭和41年、河辺飛行場のあった南西部に丹後中央加工場がつくられた。約114、700uの敷地内に約7、500`の鉄筋コンクリート平屋建工場(一部2階建)と約9、500uの付属建物(染色工場、ボイラー室、寄宿舎等)が完備し、丹後ちりめんの精錬加工が行われている。その西側に「峯空園」と名づけられた公園がある。桜・の木々に囲まれ、芝生の緑も美しい公園である。
 昭和48年春、かって峰山航空隊で苦楽を共にした戦友達が当地で一同に会した。そして、28年振りの再会とお互いの無事を喜び合い、旧交をあたためあった。そのおり地元の人達に公私ともにお世話になったお礼に、又再び帰って来ない青春の思い出の土地に何か記念すべきものを残そうではないかという案が持ち上がった。話し合いの結果丹後中央加工場とも連絡をとりつつ、その一画に記念の公園を作ることとなった。さっそく元隊員達より募金を依頼し、昭和51年4月17日、大宮町長、各地区役員それに地元町民の参加のもとに、自衛隊の音楽隊の演奏、旧隊員による軽飛行機2機からの花束投下など、盛大に公園完成の記念式典が催された。これが「峯空園」である。記念碑が2つ建てられているが、そのうちの1つは、当時飛行場にあったマンホールのふたがはめこまれ、そこにはこう文がきざみこまれている。
 「太平洋戦争中 峰山海軍航空隊飛行場ここにあり 生命を課する飛行作業を初め隊生活のなかに青春のありかをもとめた多くの若者達によらて幾たびも幾たびも踏まれたマンホール 忘却の彼方に時代は移りゆくとも哀しき戦いの証人として いついつまでも桜の園に平和の希いをこめて 永遠の足音を響かせん」



峯空園


峯空園
河辺の「丹後織物加工場」の直前を川に沿って入ると「峯空園」がある。丹後に数は少ない「桜の名所」になっていて、その季節になると「桜まつり」が開かれたり、開花状況などはネット上にアップされている。(今は峯空会は解散。桜祭も中断とか)
♪七つボタンは桜に錨、ここで学んだ若者達のリターン公園。

今は桜の園になっている。
モニュメントが二つある。


海軍橋↓

訓練生の宿舎や航空隊の本部は、手前側にあって、この橋を渡って飛行場に入ったという。

峯山海軍航空隊の主な歴史記録


『子どもがつづる丹後の歴史』
 〈 戦争中の河辺のこと
大宮町・大宮第一小六年水野敦彦
戦争前は、河辺は静かでいいところだったのに、戦争がだんだんはげしくなると、河辺から新町にかけて、大きい飛行場がつくられた。大きさはものすごく、北は新町の川のながれているところまで、南は大谷川まであり、東は今古い保育所のある辺りに坂がありますが、その坂の下までだったそうだ。西は竹野川まで。そんな大きい飛行場だったそうです。
それができる前は、その辺一面畑で、尾崎鉄工所のあるあた
りは、家は一つもなく。道もあぜ道しかなく、不便だったそうです。けど、飛行場がつぶれて、そのあとの土地を百姓が開こんしたあとは、だんだん家がたちはじめ、今のようにたくさんになったそうです。あの辺りに古い家がないのはそのためだそうです。そして、戦争中、昭和二十年の七月の下旬。河辺。新町一帯に空しゅうがあり。飛行場のかくのうこが爆はされ、二人の兵隊さんが死に、新町の家のくらが一けんつぶれたそうです 。そして、河辺小にもおとされ、教室かどこかの一部がつぶれて、しばらくはそこが使えなかったそうです。でも幸い、校長先生が生徒に家に帰るようにしていたので、ひがいはありませんでした。
家のおばあさんは、そのころからゆうびん局へつとめていたけど、空しゅうのときは、電話交かんをしていて、防空ごうへ入ろうと思っても、口大野からしょっちゅう電話がかかってきたので、入れなく、仕方なしにつづけていたけど、やっとたいひできるようになったので、ゆう便局を一歩出たとき、機じゅうそうしゃでもうすこしでやられかけて、びっくりしてにげこんだそうです。そのときは、戦峨とう機にのっている兵士の顔が見えるくらいに低空飛行だ
ったそうです。このように、河辺に飛行場ができたおかげで、空しゅうはうけるし、うるさいし、田はみな飛行場になってしまうしで、いやなことばかりだったそうです。また、お宮は今のところにはなく。もとは加工場の方にあったのですが、飛行場ができるので、今のところへうつさ
れました。そして。川も川はばを広げなくてはならなかったし、みんながどんどことよんでぃるたきも、そのときつくったものだそうです。また、じょうのこしの方に、兵隊が入るときの防空ごうがほられて、そのほる人はみな予科練の兵隊たちでしたか、その人は穴ほりばかりしているうちに戦争かおわったので、人から、「予科練でなくてドカ練だ」といわれていたそうつです。
とくに、空しゅうのときは、こわくてこわくて、たたみをあげて、その下に入ってふるえていたそうです。
おばあさんは、
「あのころは、食べ物も少なかったし、かぶやだいこんの葉を米にまぜて炊いてたべたりしとったし、配給だったし、いらんことばっかりだった。もう戦争はいらん」
といっていました。  〉 


 〈 防空ごう
大宮町・倉垣小六年森岡康文
昭和二十年六月に入って、だんだん空しゅうかはげしくなってきた時分に、まだこのへんの村では、時たま敵機のしゅうらいがあって、その時分には各家庭で防空ごうを作らないといけないことになっていて、お父さんもお兄さんたちといっしょに防空ごうを作ったそうです。
小学校の二年の時だったそうですが、自分達で作ったので、覚えていて話をしてもらいました。
家の近くに山があっても我が家の山でないのでかってに作るわけにはいかなかったそうです。だから家のあずみのあき地があったので、そこにコの字形に穴をほって作ったそうです。深さも二・七メートルぐらいで、巾は一・五メートルぐらいの穴で、屋根にはイネをほす稲木道具を切って丸太のまま穴の上にわたして、そのうえに木箱の板や戸板などを使って、その上にほった土を盛上げてこしらえたかんたんなものしかできなかったそうです。これぐらいの防空ごうだから、いざという時には役に立つのかたたんのかわからんような防空ごうだったそうです。
それでも一、二回ほど空しゅうがあって防空ごうの中に入ったことがあったようですか、穴の中にはろうそくや救急箱がおいてあって、そのほかにもたべ物を持ちこんだりしたそうです。
それからまもなく八月に戦争がおわって、その防空ごうも九月にはうめてしまい、その上には今は部屋ができていて、防空ごうのあとはなくなっています。どんな所だったか場所も教えてもらいました。  〉 




関連情報



由良川プロペラ船について
『由良川改修史』
 〈 大正末期から昭和初期にかけては、プロペラ船が活躍している。記録によると、広小路通り「きさいちや」(現在も営業)下の船着場を発着し、福知山−由良間を往復、動かない時は、右岸の猪崎側に係留していたという。三重県「瀞八丁」のプロペラ船に似ており、大きな音をたてていた。就航期間は2、3年と短かかったが、経営者が地元の人でなかったのと、北丹鉄道が由良川筋に開通して利用客が減ったり、川底が浅くなったのも響いたらしい。幻の写真といわれていたプロペラ船の写真が昭和53年3月に見つかっている。
「朝日新聞」より
昭和53年3月17付朝日新聞
大正末期から昭和初期にかけ、宙良川で活躍したプロペラ船(飛行艇)の時刻表が宮津市内で見つかり、十六日、福知山市文化資料館に届けられた。時刻表があったのは、宮津市小寺、農業中島初次郎さん(七八)方。中島さんが先に新聞で報道されたプロペラ船の古い写真が見つかった記事を読み、書斎に保存していることを思い出して「福知山市のために役立てぱ」と郵送した。この時刻表は半紙大の大きさ。「由良川飛行艇営業開始広告」と印刷され、大正十五年五月十日から営業を始めたことになっている。飛行艇営業事務所が旧福知山町広小路にあり、福知山ー由良間を一日三往復している。乗船所要時間は下りが二時間三十五分、上りが二時間五十分または三時間。 乗船場は福知山、蓼原、有路上、有路下、岡田上、岡田下、大川、東雲、由良の計九カ所。福知山ー由良間の片通運賃は一円二十銭。往復切符を買うと二円に割引されている。また、国鉄福知山、由良両駅の列車ダイヤとの連絡時刻も載せられている。市文化資料館は「プロペラ船が飛行艇という呼び名であったことや、営業開始日がはっきりした意義は大きい。しかし営業所が現在のどの辺になるのか、各乗船場がどのあたりにあったのかなどまだはっきりしないので、だれか知っている人があれば教えて…」と語している。  〉 


『由良川子ども風土記』
 〈 高瀬船からプロペラ船に
大江町・有路下小 荒賀小百合
由良川は昔は、高瀬船が通っていました。高瀬船は長いマストのように、ほが立っていて、ほが風をうけて後ろでろをこいで走っていました。とても静かな船であったそうです。人をのせたり大きな荷物を運んだり、大川神社へおまいりにも高瀬船で行ったそうです。
でも、水がつくたびに、川がだんだん浅くなって来て、高瀬船が走れなくなり、こんどは、プロペラ船ができたそうです。プロペラ船は長さが一○メートルくらいで後ろにプロペラがついていて、高瀬船と同じように、人や荷物を運びました。プロペラがまわるので、とても大きな音がしてやかましい船やったそうです。高瀬船とちがう所は、プロペラ船は、あさい所の水の上を走る船やったそうです。そして、大きな広い道ができたので、陸を車が走るようになって、人や荷物を運んでくれるので、プロペラ船も五年くらいですがだを消したそうです。  〉 







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