丹後の地名

宮(みや)
京丹後市丹後町宮


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京都府京丹後市丹後町宮

京都府竹野郡丹後町宮

京都府竹野郡竹野村宮

宮の概要




《宮の概要》
竹野川川口の東岸で、名神大社・竹野神社(斎宮)↓が鎮座するところ。全長200mの神明山古墳や古代の里資料館がある。南部に七仏薬師の願興寺跡がある。「丹後旧事記」は、大県主油碁理は竹野里を国府となし館造し人也、と伝えるが、古代丹後のナゾ秘めた大変な場所になる。
竹野神社

宮村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、以後享保2年幕府領、宝暦13年但馬出石藩領、天保6年幕府領となる。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同年願興寺村を合併。同22年竹野村の大字となる。
宮は、明治22年~現在の大字名。はじめ竹野村、昭和30年からは丹後町の大字。平成16年から京丹後市の大字。
《願興寺(地名)の概要》
宮の南につらなる集落だが、真言宗慧鏡山願興寺があったことにちなむ。七仏薬師の大寺であったようだが、江戸時代には既に廃絶に近い状態で、天和2年(1682)の丹後国寺社帳には寺名をみない。
願興寺は、室町期に見える地名。「丹後国田数帳」に「一 願興寺 十三町四段百八十歩内」と見える。
願輿寺村は、江戸期~明治9年の村名。はじめ宮津藩領、享保2年幕府領、宝暦9年宮津藩領となる。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同年宮村の一部となった。


《宮の人口・世帯数》 189・74


《主な社寺など》

神明山古墳
願興寺古墳群
宮丸山古墳
竹野神社


真言宗慧鏡山願興寺
願興寺・薬師堂

願興寺の石塔など
願興寺薬師如来
多禰寺縁起などに竹野郡願興寺(元興寺)と見える。七仏薬師を本尊とするお寺である。といっても今はなく、観音堂だけを残すのみとなっている。
今はご本尊は「古代の里資料館」に置かれている、胎内仏を有するそうである。
八日薬師といってこの日は地区の人々が参籠するという。
ヤクシはヤシャ(夜叉)と発音が似ているが、元々が鬼だったようである。元々は仏教外の神が取り入れられたもの。眼病に霊験があり、金属仏ともさける。八日はヤクシのヤで薬師の祭日とされるという。

『宮津府志』
 〈 慧眞山 願興寺 古在竹野郡願興寺村
  傳云。古有大刹伽藍本尊薬師如来ハ所謂金麿親王ノ所レ作ル七仏中之第三金色宝光如来是也。中古以来堂然廃絶今僅存二スル薬師堂一宇而已。境内ニ有鏡池者来由未考。
(宇平註) 願興寺多宝塔は今発信貴山縁成寺に移されて現左の内陣は当時の遺構だといふ。本尊大日如来は足利盛期の優秀な彫刻と拝察する。  〉 

『丹後国竹野郡誌』
 〈 願興寺  字宮の内にあり
 (同寺詞文書) 竹野郡願興寺村慧鏡山願興寺と称す創立年月日不詳なるも人皇三十二代用明天皇第三皇子金磨呂親王鬼賊誅討の爲め當国へ御軍あらせられし時折誓の爲め御建立ありしと言伝ふ
昔は真言宗慧鏡山願興寺と称し七堂伽藍在り尚本堂は十間四面在りたりと言ふ金磨呂親王御自作七佛薬師竹野郡に願興寺村願興寺、是安村神宮寺、等楽寺村等楽寺本郡内に以上三ヶ所輿謝郡に加悦施薬寺、栗田の宿野成願寺以上二ケ所加佐郡に河守の清国寺白久の多禰寺以上二ケ所計七ケ所
又願興寺に舊高六十二石四斗七升四合有りしは悉皆該寺の領地にして其頃は境内も広大凡そ貳町歩余も之在寺侍士及御用鍛治等其他種々舊跡在り足利将軍の御世領地の幾分を没収せられ稍衰微す然る後織田将軍の御世全く没収せられ七堂伽藍も維持相立難く相成たりと言伝ふ
尚又慶長年間當国々主丹後守高国公の御代国内神社佛閣之寶物は勿論石垣石及飯用水入れの水船等迄悉く没収せられて現今は只一小堂を存し其他は悉く絶消せり
維新前寺號を廃止明治七年四月曹洞宗仏堂の部へ組込方豊岡県へ出願せり
尚其當時の小堂は木造り藁葺平屋建梁行三間桁行二間半此小堂は三百年間の星霜を経て大破損なし明治三十一年八月八日建替にて現今は梁行三間桁行二間半瓦茸の小堂存せり  〉 

『丹後町史』
 〈 宮村(既述)を過ぎ願興寺跡をたずねると、現在縮小された薬師堂がこじんまりと鎮座している。真言宗慧鏡山願興寺は古代より由緒ある寺として栄え、中まで本堂十間四方、七堂伽藍をもつ大寺であった。さきにあげた当村の石高六十二石余は悉く寺領あり、その境内は二町歩、寺侍をかかえ、御用鍛治をはじめ、御家人の住居が軒を並べていた。丹後の国守一色が亡ぶと、織田信長の世となったが、信長は石山城や越前の一向宗門徒に抗せられたため、真言宗を嫌い、配下の国々の寺領を没収した。
承応年間(一六五四)宮津藩主高国(暴君)もまた領内の神社、仏閣の宝物はもちろん、石垣や飲料水入れの水船まで没収したため、この寺も衰えはじめた。それでも江戸時代末まで存続し、住職も居たといわれている。
境内には今も鏡池のあとがあり、また中世のものであろうか、宝篋印塔が三基残り五輪の塔と共に並んでいる。古椿の朽ちた巨大な根株が苔深く、そのあたり、早むらの中に二、三十個の石仏が無造作に並んでいる。
丁度寺跡の十五m程下にあたる部分に石棺が露出ており、附近に沢山の石仏が見られる。
引き返して道を「牧の谷」に入ると橋のたもとに庚申塔(文政七年)と供養塔(文化三年)などが建っており、向って左手には鬼神塚の名残をとどめる擬宝珠(近世新しく建てたもの)が一本建ってい。
このあたり丹後町の歴史を物語る伝承と口碑のふるさとである。  〉 

薬師堂へは、願興寺集落の一番奥から、どんどん行けばよい、車でも行けるが土道で腹を擦るかも、道なりに登って最初の三叉路を右へ、次の三叉路を左へ行けばよい。
願興寺の谷は小さいものだが、背後の丘陵上は広い(もしかすると海岸段丘?)、ここには長持形石棺を納める願興寺古墳群もあるが、道もなかろうから案内なしには見つけられそうにはない。古墳人たちはやがてその造営をやめ、寺院を建立するようになったと思われる。岡の上はかなり広く、あちこちに藪をつついて蛇を出す開いて畑が作られている、これらが七堂伽藍の跡だろうか。サルに全部やられるので何も作れないそうである。
私は歩いて登ったのであるが、集落のおばちゃんに道を訊ね、山道を一人登っていると、後からバイクで追いかけて来て下さる。たよんないオッサンが行きよる、大丈夫かいな、と心配になったものか、おかげてたどり着けた。同じ道幅の三叉路があるからどちらへ行けばいいのかわからない迷い道、一本一本しらみつぶしに当たるより手はない、どこかの独裁者なら右へ行くのだろうが、私は左からつぶしていくクセ。おばちゃんのおかげ迷うこともなくたどりつけた、感謝感謝。カンコーとかおもてなしとか、言うだけでは何もならない、市民一人ひとりのこうした行動でしか表しようはないものである、ゼーキンほかすだけの官僚主導カンコーとかニセ表示の貪欲企業のおもてなしとか、深く深く恥じ入って、しっかりと見習うべき姿であろうかと思う。
何のためにあのバカは丹後の山奥へ行くのだろう、と思われるかも知れないが、こうした人々がいるためである。


「麻呂子親王と七仏薬師」伝説のオリジナルは当地か
麻呂子親王と七仏薬師
竹野神社藏等楽寺縁起絵巻より↑(七体の薬師仏を刻む麻呂子親王)

当地の周辺には、願興寺と竹野神社ばかりでなく、神宮寺(是安)、成願寺(成願寺)、等楽寺(弥栄町)、それに親王の弟を祀るという志布比神社(大山)と松枝神社(是安)もある。関係する社寺が集中する当地あたりこそが、この伝説の元々の中心地、発信元ではなかろうか、当地以外では考えようもない。
古墳時代が終わり、丹後に仏教時代に入ってくる最初の頃、早くは国分寺以前、聖徳太子の時代か。仏教の丹後伝来時代の物語である。当地がいち早く取り入れたのかも知れない、それが薬師信仰であったというのも何かそれなりの大きな理由があったかも知れない。
しかし玄奘の『薬師経』は7世紀なかば、義浄の『七仏薬師経』は8世紀だから、本当ならそれ以後のことかと思われる。
聖徳太子は574年 - 622年の人だから、聖徳太子の弟が七仏薬師の加護により鬼退治をしたの額面の通りには、初めから成り立ちようはない話になる。

大江山の鬼退治伝説は丹後には、(1)日子坐王の陸耳御笠退治・土蜘蛛伝説と、(2)この麻呂子親王の鬼退治伝説ならびに七仏薬師伝説、(3)源頼光などによる酒呑童子退治伝説と3つが伝わる。
私は当地の周辺が(2)の麻呂子信仰と薬師信仰の中心地ではないかと考えている。(2)といっても、今に伝わるものは、古くてもせいぜい中世の絵巻や薬師仏、しかも都製のものである。だから都製の焼き直し伝説であって、当地に伝わっていたであろう原作、原本ではない。
絵巻などを発注すればオリジナルは都の方へ伝わる、オリジナルに限りなく忠実に描いたものか、それともその筋の専門家や職人などがその道のプロとして存分に腕をふるったものか、それは何とも判断が難しいが、物語として見る者・聞く者に面白いようにいろいろデフォルメし、尾ひれもつけて本来関係のないものまで挿入追加していったかも知れない、7世紀の人が8世紀成立の仏典を知っていたはずはなく、多くは後者であったかも知れない。
こんな話を聞かされても地元民とすれば何が何やらわからない、スジが通っているのやら通ってないのやら、思いつきの無茶苦茶話のつぎはぎなのやら判断に苦しめられる麻呂子親王と七仏薬師の伝説なるものが何種も寺社の縁起絵巻として残されることになったのかも知れない。
伝説などの一般的な定理として、退治した者と退治された者は同じ者であるということも言われる、薬師が実は夜叉であるということに象徴的に見られるが、そうした超常識的一体性が見られることがある。両者は他者ではなく同一者の両面、裏表であると。
スルドイ文学理論で平林初之輔もマッサオになりそうな、シビれるこのリクツに従えば、日子坐王=陸耳御笠・土蜘蛛であり、麻呂子親王=大江山の鬼であり、源頼光=酒呑童子ということになる。それは彼らの両面であった、両性格であった。
一般論としては当たっているのではなかろうか。少なくとも額面通りに白は白で黒は黒だということだけなら苦労はないのだが…
聖徳太子の弟が大江山で鬼を退治し当地まで追い詰めた、それは大和朝廷が丹後王朝を軍事的に追い詰めていった歴史を物語ったものだろう、という解釈よりははるかに現実性があり信じられそうに私には思える。
朝廷同士の戦いなどは民は語らない、見たこともなく伝えられてもいないエライ人のアホくさい話などはしない、行ったこともない土地の話などもしない、そうしたよく知らない話をおのが孫に伝えようとはしない、関係がない、面白くもないからである、それよりは目に見えるムラの中くらいの生活圏範囲の実際に体験した話をしているのでなかろうか。
主人公の麻呂子というのはよくある名で、舞鶴野村寺にも「マルコ山古墳」がある、久美浜には丸子神社がある、この名前、あるいは似た名の人はあちこちに何人もいたと思われる。今でいえば太郎さん花子さんくらいの名である。聖徳太子の弟は来目皇子・殖栗皇子・茨田皇子で、マロコという弟もいたという確かな証拠はない、記録にはっきりしなくても、いなかったということにはならないが、本当に大手柄を上げたのなら、何か残っていてもよさそうなものである。また当地などの伝説では麻呂子ではなく金丸親王とかになっていることもある。
私は当地の伝承では元々はマロコは当地の人だったと考えている。
『丹哥府志』は、
石灯篭の左に社司桜井氏の宅あり(末社の内に丸田の社といふあり、是桜井氏大祖なり昔麻呂子皇子に随従して夷賊を誅戮す、今桜井氏は其子孫なり)
丸田の社(竹野神社境内)
竹野神社境内の丸田の社↑。本殿に向き合う位置に鎮座、右は稲荷社、左の小さい祠を今は伊豆神社と呼ぶが、それが丸田の社である
熊野郡にも丸田神社があり、川上摩須郎と丹波道主命が祀ったと伝わる。そうすれば竹野神社のこの社も川上摩須郎と丹波道主命が祀ったものか。丹波王家の流れをくんだ社であり、その宮司家ではなかろうか。皇室の麻呂子皇子は関係がないのではなかろうか。
竹野神社摂社、だから本社の斎宮には麻呂子親王も祀られているという、だからこの社の先祖が麻呂子だったと思われる。
麻呂子と丸田はともにマラ(たぶん渡来語)から転訛したもので、同じだろうと思われる。わかりにくいかも知れないが、探っていくと、麻呂子親王というのは竹野神社に祀られている、この社の先祖だと言いたいのである。親王ではない、この地の大将である。
それでは面白くない、ネウチがない、と、都の文化人は考えた。田舎の大将ではな、よし、すり替えよう、と。
こうしてできたのが麻呂子親王の七仏薬師信仰と鬼退治伝説であったかも知れない。
薬師は元は夜叉で、金属関係の仏であり特に眼病に霊験あるとあっては、当地などの金属採集精錬鍜冶関係の人々に特に崇敬されたと思われる、七ッの寺院だけしかなかったわけではない、『七仏薬師経』に従って七ッの寺院を選んでいるだけであって、本当はもっともっと多いが、これらの七仏薬師関連の他の寺院も含めてここの一族の出店ではなかろうか。そうした土地はみな鬼と関係が深い金属と交易の土地柄ではなかろうか。
鬼が千本の刀を作ったとかの民話があるように、鬼と語られるものは鍜冶であろう。
聖徳太子信仰も早く入ったと思われ、それとの習合もありそうに思われる。
間人皇后と聖徳太子像


《交通》


《産業》


宮の主な歴史記録


『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 一 近沢保  三町二段二百七十歩内
  二段百四十四歩    竹野社御神領
  一町四段百卅六歩     近沢
  八段百八十歩       伊佐次郎
  五段百八十歩       楠田肥前
  四段           脇田八郎

一 竹野社  二町三段二百四十歩    御神領  〉 

『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 一 願興寺  十三町四段百八十歩内
  十町四段百八十歩   成吉越中
  三町         同三良左衛門  〉 


『丹哥府志』
 〈 ◎宮村(竹野村の次)
【竹野神社】(延喜式)…略…
【斎女】神啓蒙云。熊野郡市場村に斎宮の者あり、女子生るる時は飛箭来りて屋上に立つ其子四五歳の頃より斎の宮に奉る、これを斎女と称す、既にして高山深谷の中に独り禽獣と居る敢て畏るる事なし、其天癸を見るに及ぶ頃大蛇出でて眼を瞋らす、是時宮を致して故郷に還る。
【神馬】隠岐の国島前といふ所に渡辺助蔵といふ若者あり此守より神馬を奉る、神馬斃るる時は又重ねて神馬を奉る、古より今に相続して始終如此なり、始め神馬を奉る時奉丹後国竹野郡斎宮といふ札を馬に付けて先づ伯耆の国へ渡す、夫より宿々相送りて斎宮に至る。
【幟竿】丹波天田郡野花に小田孫八郎といふ者あり、祭礼に用ゆる幟竿の竿其者より年々奉る。
蔵宝
一、鎧 二領(出図)。一、横笛 二管。
【奥院】斎宮の後山を中か尾といふ、其上に小祠あり斎宮の奥院といふ、土人畏れて妄に登らず独り斎女のみのぼるといふ何の事なりや。
【屏風岩】(宮村の浜にあり)
巌の高サ二丈余、巌の長サ三丁斗り、巌に縫間の處あり其形立屏風の如し。  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎願興寺村(宮村の次)
【薬師堂】
七仏薬師の一  〉 


『丹後町史』
 〈 願興寺古墳群
一号墳、願興寺部落のすぐ後の丘陵端にあって現在は土砂取りによって箱式棺(?)の一部分が露出し内部の遺物はすでに持ち出されている。墳形ははっきりつかめないが一辺約二〇mの円墳の可能性がつよいように考えられる、主軸はほぼ南北に走っている。葺石・埴輪の存在は不明。出土遣物は鏡、剣、玉類(勾玉管玉)等が出土したと伝えられている。箱式棺の大きさは長さ約一・九m幅○.五五mである。
二号古墳は部落より南西方向へ少し離れた丘陵端に位置し前述した一号墳とは約四〇〇~五〇〇m離れている。墳形もはっきりしない。
三号古墳は二号古墳のすぐ南にあって現在は盛土の流失などによって石棺が露出している。石棺は一度移動されたといい現在は散乱している。内部主体は舟形石棺を直葬したものと思われ、現在でも棺内に朱のこんせきが認められる。石棺には三つの縄掛突起があり、復元を試みるとその長さ二・六m(内長二・一m)幅○・八五m(内幅O・六m)である。
四号古墳、二号墳三号墳より少しはなれた最も平野部に突出した丘陵上に位置する。現在は石棺が露出し、遺物もなく年代も不明である。墳形は一辺約三〇mの完全なる方形墳で葺石、埴輪も認められる。石棺は組合せの箱式棺で長さ一・九m、幅〇・七五m、深さ○・八mのものである。
五号古墳。この古墳は四号墳のすぐとなり、同一丘陵に存在する。現在墳形が相当破壊されているが、ほぼ完全な一辺約二五mの方墳である。葺石は顕著に認められるが、埴輸の存在は不明である。
以上願興寺一号より五号まで概観してきたのであるが、いつれも年代は五世紀のものといわれ被葬者の間に一連の関係があったものと思われる。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 願興寺古墳群(がんこうじこふんぐん)
所在地:丹後町宮小字赤山、経塚
立地:竹野川下域右岸丘陵上
時代:古墳時代中期~後期
調査年次:2002年(測量調査:丹後町教委)
現状:半壊
遺物保管:市教委ほか
文献:B103、F035、GO36
遺構
願興寺古墳群は、竹野川下流域右岸の丘陵上に位置する10基からなる古墳群である。舟形石棺、組合式石棺、長持形石棺などを種々の石棺を埋葬施設とする古墳時代中期の古墳群であり、それぞれが特徴を有する古墳群である。1号墳から5号墳までの地形測量調査を実施している。
1号墳は、一辺約30mの方墳である、長さ1・9m、幅0・55mを側る組合式石棺を埋葬施設とし、葺石、埴輪を持つ。2号墳は、南から東半分を後世の開墾などで削平されているが、一辺約30mの方墳と推定される。3号墳は長径約20mの楕円形を呈する円墳であり、2基の舟形石棺が散乱する、棺身はそれぞれ長さ1・64m、幅0・73m、長さ2・75m、幅0・66mを測る。4号墳は一辺35mで埋葬施設は不明なから葺石と埴輪を持つ。5号墳は、一辺役45mの方噴で石棺身の内法長1・9m、幅0・68m、蓋石は長さ1・96m、幅1・1mの長持形石棺を内部主体とする。葺石およぴ埴輪を有する。
遺物
1号墳、4号墳、5号墳から埴輪が採集されている。1号墳からは鏡、剣、玉類、金銅製品などが出土したと伝える。また願興寺古墳群出土と伝える勾玉などが知られる。
意義
願興寺古墳群は、舟形石棺、組合式石棺、長持形石棺などのさまざまな埋葬施設を持つ古墳群であり、これら古墳相互の関係は、今後の検討課題である。
古墳群中、最大のものは5号墳で墳丘規模が45mを測る方噴で葺石、埴輪を有する、埴輪から推測すると5世紀中葉の築造と思われる。近くには産土山古墳などの古墳頃時代中期の首長墓も存在しており、この古墳との関連が検討課題であろう。  〉 

宮丸山古墳の石棺
『京丹後市の考古資料』(図も)
 〈 宮丸山古墳(みやまるやまこふん)
所在地:丹後町宮小字丸山
立地:竹野川下流域右岸丘陵上
時代:古墳時代中期
調査年次:なし
現状:半壊(畑)
遺物保管:市教委
文献:F074
遺構・遺物
神明山古墳の南側、願興寺古墳群の北東側にある丘陵上に立地する。付近には小字「新津」があり、古代には潟湖が古墳の麓まで入っていたものと推定される。埋葬施設は組合式の箱形石棺であり、過去の開墾により壊され、掘り出されている。開墾のため墳丘は不明瞭であるが、石棺直葬と推定される。
常盤井智行の報告によれば、石棺は、大小2石の蓋石と、1石からなる長側石、2石からなる長側石、大小2石の小口石からなる。他に割石状の石が5石あるが、底石とするには疑問が残る。石棺材は鑿による加工痕跡が残る点や、内面に赤色顔料の付着が見られることが報告されている。法量は、内法で長さ151㎝、幅40~52㎝、深30~35㎝と復原されている。蓋石には左右非対称の突起があり、長持形石棺または舟形石棺を意図したような型式となっている。当古墳からは、刀、剣や石材の出上を伝えるが、所在不明である。
意義
本古墳周辺では、願興寺古墳群と竹野遺跡において組合式箱形石棺が見つかっている。竹野遺跡の2号石棺は、出土した須恵器から古墳時代中期中葉~後葉に位置づけられている。本古墳の石棺は、同時期のものと推定され、産土山古墳や馬場ノ内古墳に続く時期の古墳を考える上で貴重な資料と評価できる。  〉 


宮の小字一覧


宮(みや)
仲田上(なかたうえ) 石ケ鼻(いしがはな) 三条田(さんじょうだ) 二反草(にたんぐさ) 山崎(やまざき) 口道(くちみち) 家下(いえのした) 石入(いしいり) 切辺(きリべ) ヲツカ 岩本(いわもと) 上地(かみぢ) 中地(なかぢ) 宮ノ岡(みやのおか) 宮谷(みやだに) 馬場(ばば) 赤山(あかやま) 柿谷(かきだに) 丸山(まるやま) シノ谷(しのだに) 茨口(いばらぐち) 荒神山(こうじんやま) ミノ谷ノ上(みのたにのうえ) 大向(おおむかい) 流尾(ながれお) 獅子頭(ししがしら) 浄心谷(じょうしんだに) 牧向(まきむかい) 提(つつみ) 川上(かわかみ) 家ノ上(いえのうえ) 縄手(なわて) ミノ口(みのくち) 中尾(なかお) 細谷(ほそだに) 大鳴(おおなる) 引立(ひきたち) 寺上(てらうえ) 南(みなみ) 家ケ谷(いえがたに) 堂成(どうなる) 経塚(きょうづか) 和田(わだ)

願興寺(がんごうじ) ミノ口(みのくち) 枝谷口(えだだにぐち) 北ノ角(きたのかど) ホソ谷(ほそだに) 寺上(てらうえ) 南(みなみ) タモ池(たもいけ) 谷畑(たにばたけ) 堂南(どうなん) 石船(いしふね) 家ノ上(いえのうえ) 鳴坂(なるさか) 松木畑(まつきばたけ) 与治郎畑(よじろうはたけ) 家ケ谷(いえがたに) 打越(うちこし) 丸山(まるやま) 石ケ鼻(いしがはな) 七本松(しちほんまつ) 和田(わだ) 小町(こまち) 内垣(うちがき) 西地(にしぢ) 北地(きたぢ) 奥谷(おくだに) タナゴ 赤山(あかやま)


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『丹後町史』
その他たくさん



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