三山(みやま)
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京都府京丹後市丹後町三山 京都府竹野郡丹後町三山 京都府竹野郡 上宇川村三山 |
三山の概要《三山の概要》 まっすぐ行けば三山、右へ行けば小脇。 宇川の支流・三山川流域で、関電の小脇発電所から川沿いに約300m東へさかのぼった標高150m前後の渓谷に位置する。昭和49年府碇高原総合牧場建設に伴う町当局の集団離村対策によって、三宅に団地を造営して集団移住し廃村となった。同51年一部が碇となる。 三山村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、享保2年より幕府領。当初宇川村の枝郷、のち分村独立。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年上宇川村の大字となる。 三山は、明治22年~現在の大字名。はじめ上宇川村、昭和30年からは丹後町の大字。平成16年から京丹後市の大字。 《三山の人口・世帯数》 0・0 《主な社寺など》 三柱神社 『丹後町史』 〈 三柱神社 三山小字畑下 火産炙神、奥津比古神、奥津比女神を祭る。文久三年十一月再建、明治四年村社になった。 〉 曹洞宗釈迦山蔵福寺 『丹後国竹野郡誌』 〈 蔵福寺 曹洞宗にして字三山にあり (丹哥府志) 楞迦山蔵福寺 曹洞宗 (同寺調文書) 大字三山小字岡ノ入にあり、元眞言宗にして竹久僧にありしが、漸く廃頽し、正保年間常徳寺の徒弟養山なるもの田畑を開墾し資財を貯へ、三山字清水谷と称する地を撰びて堂宇を再建せり、是より曹洞宗に改む、文化二年本秀なるもの現今の伽藍を建立す、境内百六十六坪、堂字堅牢にして頗る観るべし、本尊に大日如来を安置す、 〉 三山出土古銭 昭和52年土砂採取中に発見、中国銭291枚、北宋銭がほとんどで、開通元宝もあったという。 《交通》 《産業》 三山の主な歴史記録『丹哥府志』 〈 ◎三山村(小脇村より東へ入る、是より碇峠を越て菅野谷へ道あり) 【愛宕大権現】(祭九月廿四日) 【釈迦山藏福寺】(曹洞宗) 【付録】(山神、三宝荒神) 〉 『日本民衆の歴史・丹後に生きる』(地図・写真も) 〈 …この日本海に突き出ている小さな半島に点在する農山村に決定的な影響をあたえたのは、一九五五(昭和三〇)年から一九七〇年の一五年間である。この間に村落・集落そのものが忽然と姿を消し「亡び村」となったケースが一八か村におよんでいる。また、人口変動は、この間に丹後全域から一万三八〇〇人余りが丹後以外の地域に移住している。この数字は三〇〇年前(一六八〇〔延宝八〕年)の悪政と飢饉のため死亡した一万四〇八六人と奇しくも符合する。 一九五五(昭和三〇)年からの一五年間こそ、日本の農山村が「国民総生産の発展」のため「高度経済成長」のための犠牲とされた年月であろう。その一つの典型となるのが丹後半島の山間僻地の集落である。そこで何がおき、何が考えられ、どう対応されたのか。その情緒にもたちいり、学ぶべき面も否定すべき面も明らかにしたい。… …この集落、三山は丹後半島の山間部の谷間にあり、男たちは農林業に専念、冬期間は酒造りの杜氏になり伏見・灘などに出稼ぎに出る。女たちは手機で京都西陣の高級帯を織り生計をたてた。一〇月中旬から翌年の四月中旬までのおよそ半年間、村は祖父母と母と子だけの村になり、二メートルを越す雪とたたかう。屋根の雪おろし、子どもの通学路の確保、原糸と製品の運搬に忙殺される。とくに子どもの登下校には、その列の先頭としんがりに母親が立ち、雪崩れから子どもたちを守る。きり立った崖道は歩いて通ることが危険なので、歩危(ほけ)とよんで恐れている。ここではおたがいの生命を守ることは助け合うことであるの原則に必然性がある。 老女の胸中には、どのような雪の深さにも耐えてきた強靭さと、かよいあう心のぬくもりが湧き出たのかもしれないし、一九六三(昭和三八)年に丹後地方を襲った大豪雪で倒壊した自分の勤務した小学校の校舎への愛惜だったのかもしれない。この雪は家屋を埋め電柱も埋め、五メートルの記録が残されている。 この積雪が引きがねになったかのように、離農離村が急速に進んでいった。この小学校区には五つの集落(竹久僧一一戸、乗田原四戸、小脇一一戸、三山一七戸、鞍内三〇戸 -一九六〇年現在)があった。それが竹久僧・乗田原・三山の順で亡び村となった。屋根が落ち床が抜け壁が崩れ、錆び放題のオートバイ、水かめにたまった雨水。すべてが朽ちていく世界である。一九八五(昭和六〇)年現在、小脇が一戸、鞍内二七戸が生活を営んでいる。… 集団離村 三山の集団離村を考えるとき、一九七〇(昭和四五)年直後の急激な土地買占めブームとの関係をおさえておかねばならない。さらに一九七二年、大蔵大臣田中角栄は「日本列島改造論」を発表した。それは二五万都市計画ともいわれ、その産業都市間を新幹線と高速道路で網の目のように結ぶというものであった。 「列島改造」に乗り遅れまいとする開発業者・不動産業者は、縦貫林道工事の開始とともに丹後半島にも出没した。三山地区から谷ひとつ西にある廃村跡地の力石は兵庫県の会社に一括買い取られ、また三山地区から山ひとつ越した上山集落の山林が不動産業者に買収された。 三山の集落そのものは、谷間にあるが、三山地区が共有している碇高原は、約一五〇ヘクタール。北に日本海、西に若狭湾を見おろす景勝地である。不動産資本はそこから眼を離さなかった。この間の状況を当時三山地区の代表者Mさんは次のように語った。 Mさん 碇高原を手放さないかの誘いは再三再四ありました。そのつど黙殺しました。あれは四七年でしたか? 「碇高原をゴルフ場として買入れたい」との申込みがあり、ゆっくり話を開いてほしいと、三山の代表三名が、同人の旅館に招かれ、正式の申込みを受けました。「日本海を見おろしてプレー出来るゴルフ場はない。ぜひつくりたい。協力してほしい。三億円ではどうか。明日、内金を六〇〇〇万円入金しましょう」と、私たちは短兵急な申込みに危惧も感じたし、売るつもりはなかったので断わりました。 次の日、仕事をしていたら役場の課長さんが二人来て「碇高原を売ったんですって? どうしてですか」と、やや詰問のような言い方でした。「売ってはいません。そうする時には町当局に相談するから安心してほしい」と答えました。 札束をちらつかせ一気珂成に事を運ぼうとする業者の姿も彷彿とするが、町当局の情報収集力にも驚く。それとともに共有地の土地売買に神経を使っているさまが見える。これは当時の知事蟻川虎三が「縦貫林道は過疎に天窓を開くためのもの。その沿線を観光資本などに売れば工事は中止する」と発言したことと関係しているのかもしれない。 その後、町当局は「碇高原を丹後町に移管してくれないか」と打診してきた。「その場合はそれなりの処遇をする。碇高原はやがて京都府に移管し、丹後町・京都府共々、地域のためになることを考えたい」という提案であった。三山の集落は渦の中にはいったような目まぐるしい討議をはじめた。現状のままで頑張り通す。資本に土地を売って離村。行政当局に移管し集団離村。相談はくりかえしつづいた。その一端をTさんにうかがってみた。 Tさん ここ一五年間ほどは、夜が明けたらどこの家が出て行った - どこどこの家が屋敷を求めたそうな - ばかりで、こんななかで最後まで残った一二戸は、身体をすり合わせるように生きてきたんです。 冬には男はほとんど杜氏になり、伏見などに出稼ぎに出る。村には男が二人だけ残る。雪は毎朝三〇センチは積もる。二人は小さな除雪機を操作し子どもの通学路を確保する。出稼ぎに行ってる者は、この労苦を感謝しているから、二人の男についついいつも遠慮してしまう。 こういうふうに双方が辛抱しあって ー このことが、もうぎりぎりの限度に達していたのです。 だから集団離村は町当局が誘ったともいえるし、こちらが誘ったともいえると思うんです。 村落共同体のもつ矛盾がなまなましく証言されている。これは矛盾を止揚するのでなく、むしろ隠蔽していると思われる。これは助け合うことがたがいの生活を守ることであり、生命を守ることであることを百も知っている村の人びとの、したたかなしぶとさであろうか。Tさんはつづけた。 Tさん 夜が明けたらだれかが村を離れていくという切なさ、辛さを幾度もくぐりぬけると、なるようにしかならぬという開き直りと、最後まで残って肚のすわりぐあいを見てやろうというふうになったのが、一二戸だったと思うのです。 かりに三億なり五億なりを配分したものの、その後を各自の思案にまかせるなら、村に残る者、去る者などばらばらになる。それではいままで何のために努力したのか。それが泡になります。 「一戸一戸、また一戸」の考えと行動を否定し、新しい道を模索するさまが察せられる。一二戸のなかには老夫婦だけの家、寡婦だけの家もある。こうした家々もふくめて移転できる条件は何であったのか。 丹後町当局は「丹後町内に移住し、碇高原を移管するならば」を前提として、「宅地一戸あたり一〇〇坪の宅地造成と、移転費三〇〇万円の保証をする」と提示していた。Mさんは、この間の折衝をさりげなく語った。 Mさん 銭かねのことよりも、こぞって同じ所に行こう。集団離村・集団移住をしょうの結論になりました。 条件は町と折衝し宅地は一二〇坪、移転費四〇〇万円となり、移転先はこちらの希望で二転三転しながらみんなで決め、団地内の道路幅も三メートルというのを四メートルに変更してもらいました。 最後の最後まで三山にとどまり、つとめを果たした者の力を集めたのです。 このようにして一九七四(昭和四九)年から次の年にかけ、三山集落は「三宅」の地に移住・移転を完了した。… 〉 三山の小字一覧三山(みやま) イタドリ サイツチ 後入道(こうにゅうどう) ハナ ハナ道ノ上(はなみちのうえ) ハナ道ノ下(はなみちのした) シン道ノ上(しんみちのうえ) コシマエ シミズサガ 苅畑(がりばたけ) 谷ジリ(たにじり) 畑ノ下川端(はたのしたかわばた) 畑ノ下(はたのした) 寺ノ下(てらのした) 岡ノ入(おかのいり) 寺ノ上(てらのうえ) ケンミヨ 西ノ上(にしのうえ) 向谷(むかいだに) イモノ谷(いものたに) ミヨカ谷(みよかたに) アタゴサカ イ子下(いねした) イカミ 屋敷ノ下(やしきのした) シミス 家ノ上(いえのうえ) 堂ノ奥(どうのおく) 牛ケ尾(うしがお) サトリ谷堂(さとりだに) 堂ノ上(どうのうえ) 岡(おか) 下スロ谷(しもすろたに) ジイド マキノ尾(まきのお) 松原(まつばら) 家ノ向(いえのむかい) 若宮(わかみや) 奥川原(おくかわら) ナコク ワサビカヱリ 小谷口(こたにぐち) ツクリ道(つくりみち) 光義坂(みつぎさか) サゝワラ 光義(みつぎ) タンバ畑(たんばばたけ) タンバ畑川向(たんばばたけかわむかい) クラ谷(くらだに) ダケ 坂ノ下(さかのした) 坂ノ下チンジユ谷(さかのしたちんじゆだに) シラス 石仏(いしぼとけ) 石仏道ノ上(いしぼとけみちのうえ) ミトカキ タイシコ 岡ノ下(おかのした) ヲカサキ サカ 後ノ谷(おてのたに) 石ケサコ(いしがさこ) 大平ノ下(おおびらのした) 大平(おおびら) 大平道ノ下(おおびらみちのした) ナル ナルサキ 大平上(おおびらうえ) アカ畑(あかばたけ) 家ノワキ(いえのわき) 大平道ノ上(おおひらみちのうえ) フカ町(ふかまち) 家ノヲテ(いえのをて) 家ノ下(いえのした) 宮ノ谷(みやのたに) 屋敷ノキワ(やしきのきわ) 山下(やました) 山下屋敷ノ下(やましたやしきのした) 屋敷ノ谷(やしきのたに) 入町(いるまち) 山ノ神(やまのかみ) ヲクゴ ヒヱ田(ひえだ) 岡田(おかだ) 峠ノ下(とうげのした) 向田狐(むかいだきつね) 奥ノ谷(おくのたに) 中尾(なかお) 峠ノ上(とうげのうえ) 苅ヤメ道上(かりやまみちうえ) 苅ヤメ(かりやめ) 峠(とうげ) 峠ノ向(とうげのむかい) ヒワノクビ シロノコシ ワレ田(われだ) 二ツ町谷(ふたつまちたに) シヨジカヱリ 明ジ向(みょうじむかい) シヨウジ 明ジ(みょうじ) 明ジ下(みょうじした) 家平ヲキシメ(いえびらをきしめ) 下坪上(したつぼうえ) 下坪(したつぼ) 下坪上谷(したつぼうえたに) 下坪谷(したつぼたに) キゾガ谷(きぞがたに) 家平(いえびら) 家平百代(いえびらひゃくだい) 家平高アゼ(いえびらたかあぜ) 家平一ツ町(いえびらひとつまち) 家平ホシ(いえびらほし) 上坪(かみつぼ) スンカ坪(すんかつぼ) 申ハシリ(さるはしり) スウケノ元(すうけのもと) スウケノ元川向(すうけのもとかわむかい) ヤブ田(やぶた) 奥畑(おくばた) ヌマ田下(ぬまたした) ヌマ田上(ぬまたうえ) ヌマ田(ぬまた) 奥ノ坪(おくのつぼ) 奥ノ坪中(おくのつぼなか) 田坪ヲリ口(たつぼをりぐち) 田坪(たつぼ) 田坪イカミ谷(たつぼいかみだに) 田坪向カキ(たつぼむかいかき) 田坪フケ下(たつぼふけした) 田坪フケ(たつぼふけ) 田坪キセ下(たつぼきせした) 田坪松ケ下上(たつぼまつがしたうえ) 田坪松ケ下(たつぼまつがした) 田坪糀ヤ田(たつぼこうじやだ) 田坪糀ヤ田上(たつぼこうじやたうえ) 田坪糀ヤ田下(たつぼこうじやたたした) 田坪西田下(たつぼにしたした) 田坪西田下上(たつぼにしたしたうえ) 田坪大ナル(たつぼおおなる) 井上田内(いのうえたうち) 井上森下(いのうえもりした) 縄手(なわて) 松葉沖(まつばおき) ナカヲサ 中坪(なかつぼ) 上縄手(かみなわて) 野中(のなか) 長楽(ちょうらく) 畑ノ下上(はたのしたうえ) 畑ノ奥(はたのおく) トリガ谷(とりがたに) マキノヲテ ナガ町(ながまち) コモリガハナ ヘギ 尾向イ(をむかい) ゴタン 大蔵(おおくら) スイシヨ峠(すいしよとうげ) コタラヤシキ アラ田(あらた) ヲカマ フトヲ 向畑(むかいばた) コヤ谷(こやたに) ダケヲナル 笠山(かさやま) オゝカマ 新道ノ上ノ下(しんみちのうえのした) ゴ入堂(ごいりどう) トモ谷(ともだに) 刈畑ノ上(かりばたのうえ) 清水ノ上(しみずのうえ) ヘギ取ケ谷(へぎとりがだに) 長町ノ下(ながまちのした) 内山(うちやま) キツネ森(きつねもり) ヨコ道ノ上(よこみちのうえ) ヨコミチ ナコク道ノ上(なこくみちのうえ) 大畑ケ(おおばたけ) タンバ畑道ノ上(たんばばたけみちのうえ) カリヤメ道ノ下(かりやめみちのした) ダケノ上(だけのうえ) 宮ノ上(みやのうえ) ナルカハナ ナメラ尾(なめらお) 後山道ノ上(おてやまみちのうえ) 後山(おてやま) ホスダ サカノ下向イ(さかのしたむかい) シヨジ畑(しよじばたけ) タキノ奥(たきのおく) サカ子林(さかねばやし) 愛宕山(あたごやま) 奥ホノ尾(おくほのお) 太郎ケ屋敷(たろうがやしき) クソ谷尾(くそだにお) 松山(まつやま) マツヤマ谷尻ヒラ(まつやまたにじりひラ) 向山(むかいやま) ナガレ尾ノ上(ながれおのうえ) タツボミヤマノ上(たつぼみやまのうえ) タツボヲゝナル イカリナル イカリ笠山(いかりかさやま) 堂ノ前(どうのまえ) カクノウチ トリガ谷(とりがだに) 下ミチ(したみち) 畑ケ上(はたがうえ) 恐ナル(おそれなる) 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 『丹後町史』 その他たくさん |
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