丹後の地名

森本(もりもと)
京丹後市大宮町森本


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京都府京丹後市大宮町森本

京都府中郡大宮町森本

京都府中郡三重村森本

森本の概要




《森本の概要》

森本(京丹後市)
下から三重谷に入って、三重集落の次の集落である。耕地整理された水田地帯が広がる中を竹野川が南流し、府道655号が貫通。また市村道の森本岩滝線(右坂)・森本周枳線(左坂)が東西に通る、古くは、大内峠よりも古いと思われるが、阿蘇海と丹波郡を結ぶ街道としてよく利用されていたという。右坂は車で走るのは怖いが、左坂は整備された立派な道路になっている。
森本村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領。寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降は宮津藩領。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年三重村の大字となる。
森本は、明治22年〜現在の大字名。はじめ三重村、昭和26年からは大宮町の大字。平成16年から京丹後市の大字。目下「京都縦貫自動車道」の建設が進む、古墳や山城が発掘されている。

《森本の人口・世帯数》 233・74

《主な社寺など》
注口土器(縄文晩期)
小字松山出土と伝えられる注口土器は縄文時代(晩期)に属する貴重な遺物で、内陸での出土が少ないだけに注目される。付近からは弥生後期から古墳時代の遺物が発見されている。
古墳は椿山、稲荷山、いない谷がある。

沖田遺跡

大屋神社
大屋神社(森本)

古い由緒の大屋神社。「室尾山観音寺神名帳」「丹波郡二十九前」に、「正二位 大屋明神」と見える。大宮売・若宮売に次ぐ、丹波郡ナンバー3、大宮売・若宮売は同一の神社だから、実質ナンバー2になるが、そうした神社であった。この社があるいは式内社三重神社か式内社木積神社なのかも…
寛文8年の棟札には宮の奥から奥の谷に遷したとある。この神名帳には三重神社はなく、与謝郡式内社・三重神社の比定説がある。

『大宮町誌』
   大屋神社(元村社) 森本小字当城
 祭神 木花咲耶姫命・素戔嗚命・他二座不詳
 文永七年(一二七〇)に小字宮の奥、通称荒神谷に勧請し、寛文八年(一六六八)に現在地当城、通称奥の谷に遷座したといわれる。元禄一一年(一六九八)巳寅十月一七日の社殿建造の棟札には、「三重神社大屋大明神」とあり、「丹哥府志」には「大屋大明神」とある。
 明治初年に大屋大明神を大屋神社に改め、明治六年二月村社に指定され、祭神を木花咲耶姫命とし、祭日は九月午の日であった。
 明治一七年の「中郡神社明細帳」には、祭神を木花咲耶姫命を主神として、素戔嗚命と一座を不詳とし、素戔嗚命と不詳の一座は他より移転合祀したと付記している。その他よりというのは、境内社の尾下明神の祭神の素戔嗚命と、同地主荒神の祭神不詳を合祀したものである。
 その後、大正一〇年二月の「中郡神社台帳」(三重郷土志)には、大屋神社の祭神を木花咲耶姫・素戔嗚…った谷集落(明治一七年、七戸)が、氏神の三宝荒神(谷村大明神)を明治六年に三柱神社と改め、祭神を不詳としていたのを同集落の離散がつづいたので、同四一年七月一八日に大屋神社に合祀したためである。
 なお、当社の西方の境内社には、本社に祭神を移した、前述の尾下大明神・荒神大明神・谷村大明神の三社を祀っている。
 神職 島谷旻夫 (兼)(周枳大宮売神社神職)
 明治二八年八月に本殿の上屋を再建、昭和五〇年一月の雪害に大木が倒れ、拝殿が倒壊したので、本殿の上屋と拝殿を再建し同五一年六月竣工した。
当社は丹後三の宮とも称され、現在の祭日は一〇月一〇日である。笹囃子・太刀振りを奉納している。 

『中郡誌槁』
  〈 (社誌抄)村社大屋神社
一祭神 木花開耶比売命
一由緒 当社の古書に元社宮の奥今社奥の谷大谷大明神縁式尊号木花開耶姫命也文永七年六月十一日に御造営座す時の将軍宗尊親王様と号字名宮の奥と云ふ所に鎮座す此三重谷中六ケ村の氏神也
丹後国中郡森本村氏神古き書写也
同社棟札は寛文八戌申年宮の奥より奥の谷へうつす、人皇百十四代元禄十一歳戊寅十月十七日祥日文化七年迄百十三歳に成る、建造三重神社大屋大明神、征夷大将軍内大臣正二位右近衛源綱吉公宮津城主奥平熊太郎、大工棟梁宮津富田又左衛門、又源綱公正二位内大臣征夷大将軍兼右近衛大将任御治世徳川十一代征夷大将軍源家斎公右大臣也奉建造三重庄内大谷大明神宮殿并上屋共、宮津城主松平伯耆守、大工棟梁宮津富田長五郎大和也、文化八未冬二十八日写置く者也去る明治六年二月十日村社に列せらる
一社殿間数 三間半四面
一境内坪数及地種 九百四十九坪官有地第一種
(村誌)大屋神社社格は村社(并に)社地東西十一間南北二十六間一歩、面積三百三坪、社地は除地本村中央の北方にあり延喜之時神号を式内三重神社大屋大明神と称して金像たりしが明治六年大明神を廃せられ社寺御改の際神体白幣に改められて大屋神社と称し村社に列せられ祭神木の花咲耶比売命なり祭日は毎年九月午の日なり
按、式内三重神社につき当社と字三重の三重神社と異議あり三重神社の条参照すべし 〉

『大宮町誌』式内三重神社とする石柱(大屋神社境内)
  〈 大屋神社跡  森本小字荒神谷
 森本の東方字荒神谷六八二番地を元宮と呼び、大屋神社の旧蹟と伝え、昔は老榎が茂っていたが明治四二年伐採したという。また、荒神谷三九七番地の三宝荒神所在の地に元大屋神社があったとも伝える。ただし両者とも確定する資料はない。 〉

境内には右の石柱がある。式内社三重社はここだと言っている。
森本というのは神社のすぐ麓の村の意味だろうから、あるいはこれが式内社かも知れない。
神社の向かって右の山が成吉越中守の森本城跡になる。↓

森本城趾(森本)

 森本城跡
有名な成吉(大江)越中守の居城とされる。

『大宮町誌』
  〈 森本城(当城(とうじょう)山城) 森本当城山
 森本の中央小字奥の谷と桧木谷との間の丘陵を当城山といい森本城趾である。城はおよそ三段より成り頂上の本丸は東西四一m、南北二七mの台地で中央に現在は秋葉神社を奉祀している。二の丸はその東側の一段低い台地で東西一六m、南北五○mあり杉竹等が茂っている。三の九はさらにその東の低い台地で、東西一五m、南北二六mの段丘で現在は一部畑となっている。三の丸の東は三m余の高さにけずられており、南北両側は絶壁で要害の地形である。とくに本丸の西は高さ四m、幅四mの掘割りが作られ、本丸の南北両側は絶壁をなしすこぶる要害の地である。城に登る道は桧木谷よりと南の奥の谷大屋神社側と二筋通じているが、大屋神社側よりの道が登り易い。城砦の直下に沿った地を〃保の添(ほのそえ)、その前端を〃保の先(ほのさき)と村人は呼び城砦の名残を留めている。なお、秋葉神社は記念碑によれば明治九年遠江国より火災防護のため勧請したとある。
 城主は有名な成吉越中守である。長禄三年の「丹後国田数帳」によれば、その丹後の領地を集計すると
 成吉越中     五四町七段余
 成吉三郎左衛門  八七町三段余
となり、当時の成吉一族の勢力は丹後屈指のものである。したがって森本城の近くに支城明田城を築造して堅固な守りとしていたのである。天文年中の「御檀家帳」にも「成吉係治郎殿大なる城主也 云々」と見えているから、長禄より天文に至る約百年間は成吉一族が城をかまえていたのである。森本興勝寺に成吉越中守の霊牌が二基ある。
 旧牌 一、物故前越中太守円菴大規禅定門
   (裏)天正二年甲戌七月十四日
 新牌 一、興勝寺殿前越中刺史円庵大規大居士
   (裏) 天正二年甲戌七月十四日
 この霊牌によれば成吉氏の居城の期間はさらに長く、長禄、天正間約一二○年余となる。興勝寺においては越中守の祥月の七月の行事として、その霊をまつり斎を設け供養するのを常とした。それは興勝寺の土地の施主であり開基として越中守の霊を慰め恩に報いるためであった。(同寺「年中行事」より)成吉越中守の墓は字地頭が鼻にあると伝えているが、確かなことは分らない。 〉

『丹哥府志』は、 
  〈 一色義俊の弓木に在城せし頃は今の大内峠を以て往来とせず、周枳村より森本村を通りて岩滝村へ出るなり、周枳の坂を左阪(ルビ・ささか)といひ、岩滝の坂を右阪(ルビ・おんさか・おさか)といふ、其阪に各地蔵あり、左阪の地蔵を言はざるといふ、右阪の地蔵を聞かざるといふ、内海の菩薩石を見ざるといふ、皆大江越中守の彫刻する千体仏の一なり。 〉

森本城

臨済宗南明山興勝寺 字森本 闌戸
興勝寺(森本)

『大宮町誌』
  〈 南明山興勝寺 臨済宗(妙心寺)  森本小字蘭戸
本尊 阿弥陀如来・脇侍 観世音菩薩・勢至菩薩
 当寺は永禄年中(一五五八−一五六九)、了山宗覚禅師を開祖とし、三重郷豪族成吉越中守が、寺に土地を寄進したので、その施主の菩提の恩に報いるために建立したといわれる。堂内の越中守の霊牌には、命日を天正二年(一五七四)七月一四日と明記されている。
 本尊阿弥陀如来座像の姿は端麗で、脇侍の観世音と勢至菩薩の立像も、本尊の説法を傾聴している容姿は美しい。仏前欄間は天女奏楽の彫刻で極彩色を施している。
 寛保二年(一七四二)七月一日五世令眠和尚が本堂を改造し、明治一五年六月二五日住僧由里良戒和尚が再建した。
 当寺に安置の阿弥陀如来立像は、もと奥の谷現大屋神社の北にあった充安寺の本尊であったが、この寺が廃れて円通庵がこれを受継いだ。同庵は天明年中(一七八一−一七八八)の開基であったが、明治一○年の森本の大火により廃庵となったので、当寺に納められたといわれる。
 木像地蔵尊(宮津仏師小下作)寛政一二年(一八○○)の銘がある。
 現住職 入江公庸
 〔境内仏堂〕
薬師堂
 本堂の東にあり、本尊薬師如来の左右に眷族十二神将を安置している。同神将は頭に十二支を配して、昼夜一二時の守護神である。八月一二日が祭である。
 裏山の石地蔵一体は、左坂・右坂の地蔵と同じく、成吉越中守の千体仏の一体であるといわれている。 〉

『中郡誌槁』
  〈 (村誌)興勝寺東西十三間南北十一間面積二百五十三坪寺地は有税地なり臨済宗妙心寺派なり村の北にあり永禄五戌年三月十四日当寺開山頼諡心燈妙照禅師創建す其後寛保二戌年七月一日当寺五世令 (王編の民)首座再建す後明治十五年六月十五日当寺十二世提叉長老又之を建す
(実地調査)興勝寺に成吉越中守の霊牌あり新旧二つありて古き方には物故前越中大守円菴大規禅定門霊位(裏面に天正二年甲戊七月十四日とあり)
新しき方には興勝寺殿前越中刺吏円菴大規大居士(裏に天正二年七月十四日)
新牌によれば興勝寺は成吉越中守の菩提寺たるなり棟札(後に記す)にも其趣見ゆ又成吉越中守の墓と伝ふるものは人家の西一町字地頭といふ所にあり二尺に一尺ほどの笠石頽れ落ちて台石の上にあり見る影もなく荒れ果てたり又同寺に延享再建の棟札を蔵す其文左の如し
  仏日増輝法輪常博
 再建立南明山興勝禅寺
   …略… 〉

所在地の「蘭戸」、あるいは「闌戸」と書く小字名が気になる。北隣の明田にも、乱土(らんど)という小字があるが、丹後の奥の方はあまり両墓制については聞かないが、これはラントウ墓のことではあるまいか。舞鶴や若狭には多いが丹後には少ないとか、よく書かれてるが、古くはこのあたりも両墓制ではなかっただろうか。
『舞鶴市史』によれば、
  〈 両墓の称呼は、埋め墓を「ミハカ・ミバカ」と呼ぶのがもっとも多く、その他、「ウメバカ」・ マイソウバカ」・「ミボチ」・「ホンバカ」・「サンマイ」といい、詣り墓は、ほとんどが「セキトウバカ・セキドウバカ」と称し、ほかに「マイリバカ」・「オガミバカ」・「ヒキバカ」・「ラントウ」というのもある。 〉
ラントウ、あるいはラントウバ、漢字では乱塔場・卵塔場などと書かれるようだが、愛知県では両墓制のことをムショ、またはラントというそうである。この寺の起源から考えて両墓制は中世末くらいまではさかのぼれそうに思われる。


 長上寺(長寿寺)跡
『大宮町誌』
  〈 長上寺跡   森本北端
 昔長上寺と称する真言宗の寺院があったが、文禄二年細川氏のために例の真言倒しの災難に逢って滅亡し、今は長上寺という字名のみを残している。
 「三重郷土志」は「大日本金石史」(木崎愛吉著)を引用して三重の里に長寿寺のあったことを述べ、長上寺はあるいは長寿寺ではないかという。すなわち、「大日本金石史」に、土佐の国潮江の妙国寺の鐘は正安元年鋳造のものであるが、但馬国気多郡の東楽寺に移り、さらに三重の里の榎並梅公の妻が亡父追善のため但馬の東楽寺からこの鏡を買い求め、延徳二年(一四九○)その菩提寺長寿寺に寄進したと鐘の刻銘にある。この鐘はさらに移って京都二条河原町の頂妙寺に移ったというのである。榎並は「丹後田数帳」にも見え、「丹後御檀家帳」にも「榎並殿大ない城主也」とある三重谷の城主であった。したがってその菩提寺として長寿寺のあったことは確かであろう。その寺の所在地は明田か森本辺か不明であるが「三重郷土志」は森本の長上寺をそれに擬しているのである。
 その他森本には昭和四七年大宮中学生が祭祀用土器を採取した「まんじょう寺」と称する地名がある。森本の人家の東、川向こうの小谷の名である。この谷の附近も古寺の跡と見られ多くの地蔵五輪が残り、麓の石坂の道の傍(はんにょ坂)に集め祀られている。 〉


左坂峠
左坂の森本側

左坂隧道
立派な道になった左坂。坂の頂上に「左坂隧道」があり、「左坂地蔵」は、この隧道の上あたりにありそうだが、夏草茫々で旧道が見つけられない。冬枯れするまで待とう。
山はこのような風化した花崗岩の砂である。『大宮町誌』は、
  〈 花崗岩は放射性鉱物を伴なうことが多いが、この元素の半減期の測定から、岩石のできた年代を計算すると、森本産のもので前一億二、○○○万年(峰山町大成産のものは前一億四、六○○万年)の中生代ジュラ紀から白亜紀そして新生代初頭の日本列島生成に伴なう造山活動期に池下深くで注入しててきたものと考えられる。しかし、第三紀の前半には花崗岩の上部にあった岩石は削剥され地表に現われることになった。 〉
この花崗岩はジュラシック・パークの時代より白亜紀かと思うが、長い時間の流れ中では地中深くあった岩磐は山に持ち上がり、その硬い大岩も腐り、握れば手からこぼれ落ちる砂になってしまう。人の力くらいではとうてい自然には逆らいようもない。
花崗岩中の放射性鉱物とはウランを言っているのではなかろうか、それらは風水作用で自然濃縮され、この近くにはウラン鉱石が眠っている。原爆や原発に使うのはウラン235である。ウラン238の半減期は約44億6800万年、ウラン235の半減期は約7億380万年だそうである、ウラン234の半減期は、「たったの約24万5500年程度でしかない」そうである。そうした半減期の差を利用したり、鉛に変わる比率を使って年代測定するものと思われる。
こうした鉄よりも重い物質はかつてどこかの大きな恒星が超新星爆発を起こし、その時に作られたものとか言われる、宇宙空間をただよっていたが、やがて地球になっていったものである。天文学的数値と比べると、「たったの24万年」などと人間の時間感覚との超隔絶ぶりに身の毛もよだつ話になる。人間時間で言えば「たったの24万年」でも「永遠」と言える長い時間になる。2万4000年の半減期のプルトニウム239にすら、その長さに驚いているようなことだが、福島原発からはウランも当然環境中へ放出されたと思われるが何も報道されず、半減期30年程度のセシウムくらいしか報道されない。プルトニウムなどの半減期が短い元素は人間が核分裂を起こさせて最近作ってしまったもので天然にはすでに存在しないものである、超長いものはもともと地球にあった元素で人間がつくったものではないが、それを地下の眠りから呼びさまして、わざわざ地表に撒き散らかしたことになる。
自然の物は自然の浄化能力があって、人間は何もしなくとも、勝手に処理されていくサイクルが備わっている、何億年という地球の歴史の中で作られてきた自己浄化システムである。しかし人間が作った物にはそれがなく、最後まで人間が安全に管理しなければならない。国内の原発で作られたプルトニウムはすでに170トンもあるそうだが、その1グラムは5000人に肺がんをつくる半減期2.4万年の物質である、2.4万年の後に85トンとなり、4.8万年後に42.5トン、7.2万年後に21.25トン 9.6万年後10.625トン、12万年後に5トンとなる計算となる。千分の一になるまで24万年かかる、それでも170キロも残る。プルトニウムが出すのはα線で、内部被曝するとこれが最も危険である。α線は紙でも防げる程度のものと、府の「原子力防災のしおり」など簡単なパンフなどには書かれていて、そうした程度のまあ安全なものと軽く見てしまいそうだが、外部にある場合と様相は違っていて、もし体内にあれば実は最も危険なものである、β線やγ線の20倍危険と見積もられている。簡単なパンフなどは絶対に信用してはならないことが理解されよう。またプルトニウムは核兵器が作れるのでその管理はこの面からも大変になる。
地中へ捨てるというのも10万年という長い年月ともなると安全性は極めて怪しい話になってくる。人が近づけば数秒で致死量になる高レベル放射性廃棄物をガラスやステンで固めて地下300mより下に埋めるというのだが、人間が作ったガラスやステンは千年ほどで腐食する、あとは地下の、ここにあるような花崗岩層が守るというのだが、そこで10万年経ればだいたいウラン程度の放射能になるのだが、花崗岩といえども大地震国で10万年ももつかという話になる。花崗岩にも割目があって地下水がゆるやかだが流れている、この地下水が放射能を運ぶのだが、もし周囲から強い圧縮力を受けると一気に地表に出たり地下水を汚染する危険性がある、花崗岩の中であっても10万年安全とはいいきれない。
こうした超長い物理生命を持つ放射性元素が大地震国・大津波国で超無責任な安全神話にだまされて、もし再び原発や処理場、蓄積施設で大事故が発生し、もし環境中に多量に撒き散らかされた場合はどうなるかを想像してみることは、いかに無責任民族とは言え、一度は日本人の誰もがまじめにとりくまねばならない課題になる。物理的性格であって、銅を金にできないように、無害化したり除染したりはできない。理論上はできないこともないだろうが、莫大なエネルギーと巨費が必要で発電屋や原発大賛成の経済界がすべてを負担するというなら別かも知れないが実質上はできない。除染作業などと言っているが、あれは大本営語で、そうしたことは出来ない、有害な放射性物質をA地点からB地点へ移動させるだけである。A地点は「除染」されるかも知れないが、B地点では汚染されることになる。除染ではなく移染作業とか隠染作業と呼ぶのが正解で、だからB地点となる「中間」貯蔵施設をつくろうとしている地では大反対がある。
なお、実際に核分裂に使えるウラン235はウラン全体の中ではたいへんまれで、地球ではウラン全体の約0.72%だけである。濃縮ということをして235だけを3%にまで集める作業が必要になる。20億年以前昔の地球ではこうした比率以上であったと計算され、そこでは天然の原子炉があり、あちこちで自然のメルトダウン事故や自然の原爆誤爆発事故があったようである。かつては地球は放射能だらけの星であったが、長い歳月の中で自然衰退して何とか生物が住めるレベルの環境になってきたのである。
濃縮の残りカスはほぼウラン238だが、これを劣化ウランと呼び、合金にして対戦車砲弾の先頭につけた兵器などに使われる、湾岸戦争では300トンも使われたそうで、これももちろん放射性物質で汚染問題となっている。東電福島原発と呼ぶのか日本政府福島原発と呼ぶのか、そこから放出された放射能はその20倍にもなった。国内の被災地ばかりが問題なのではもちろんないのである。不覚にも地球全体を汚染したのだという感覚と責任を深く負っていかねばなるまい。高速増殖炉「もんじゅ」
また燃えないウラン238を燃えるプルトニウム239に変換しようというのが高速増殖炉、「もんじゅ」→がそうである、プルトニウムを燃やしながら、プルトニウムも作っていくという、仮に宣伝通りなら「夢の原子炉」で、当初は1980年代には実現可能などと脳天気をいって始めたのだが、すでに1兆円も使ったが1ワットも発電できず、実現の目途が立たず、どの国もあきらめていてまあ不可能であろう。ナトリウムを冷却材に使い、緊急炉心冷却装置などが使えなく暴走しやすい、専門家が見てきわめつけにヤバすぎる炉のようである、消防車やヘリコプターから放水すれば大爆発を起こす、空気と触れれば鉄をも溶かす大火災となり、手もつけようもないのがナトリウム。ちょっと動かしては10何年も停止している。炉に装置を落としてしまい、今は運転も廃炉もできない抜き差しならぬ状況という、それにあそこはシロートが見ても断層崖だし、津波にも弱い、コイツラの頭は大丈夫かと、正気の沙汰かと疑われる場所にあり、何か起これば即破局といわれる。
増殖炉が実現できる予定でプルトニウムをため込んできたため、日本には45トンの分離したプルトニウムがある、これで長崎原爆が4000発作れる、何とか消費しなければならなくなり、ウランに混ぜて一緒に燃やそうというのがプルサーマル。福島では3号炉、近くでは高浜の3・4号炉である。ウラン用に設計されている原子炉にプルトニウムを入れるなどは決してやってはならない行為で、ジーゼルエンジンにガソリンを入れるような超危険な話である。それならプルサーマル専用炉ならよかろう、というのが大間原発で、3.11以後では初めて最近その建設工事を再開した。のど元過ぎれば…の日本人の知能欠陥丸出しで、 安全よりも何とかプルトニウムを燃やして減らそうの意図が感じられる、地元の町長は大喜びのようだが、対岸の函館市長は提訴すると大反対である。こうした原発でもし大事故が起きればウランの数十万倍の毒性、半減期2.4万年のプルトニウムだけに地球滅亡となろう。己を過信した行くも地獄戻るも地獄の、何を寝ぼけたか「アメリカより原子力技術は上ですよ」とずっと自慢してきた日本の末期状態で、背負えきれない規模の負の遺産を肩にしていてもしっかりと脱原発を決断できずにズルズルとそのまま惰性で動いている。今年の夏期に原発全停止でも電力が足りないことはないことは証明された、全原発即停止、そしてできるだけ電気やエネルギーを使わずにまた自前の発電所を各自が持つことである、かくも無茶苦茶を引き押したうえに善後策も立てられない国家と一緒になったような巨大独占からは電力はもう買わないと決めることである。

右坂地蔵 成吉越中守の彫刻した千体仏の1つという右坂の地蔵「聞かざる」→
左坂の地蔵「言わざる」↓
左坂隧道の森本側入口にあるが、これがそうだと思われる(たぶん)。摩滅していて何が何だかよくわからない。

『中郡誌稿』
  〈 (実地調査)左坂言はざる、左の手を以て口を覆ふ、像を彫みし分は三分の凹みあり又屋根形ち及下台形共一つの石也、長三尺八寸横幅一尺二寸
右坂聞かざる、手を以て耳を蔽ふ、是も屋根形ち及下台共一つの石也長さ三尺八寸横幅一尺二寸 〉

『大宮町誌』左坂地蔵
  〈 左坂・右坂の地蔵 森本
 周枳より森本に通ずる峠の道を左坂と呼び、森本より岩滝に通ずる峠の道を右坂という。左坂および右坂にはいずれも峠の頂上に地蔵尊を祀っている。この地蔵は文珠堂前にある大江越中守の等身の地蔵の背銘にある応永卅四年(一四二七)奉納された一千躰の仏像の内の地蔵である。地蔵は屋根形造り付けの地蔵で、左坂、右坂とも高さ約一m、幅三三p、左手に錫杖を持ち右手の肘をまげて四指を軽く頬に支えとした姿であり、足は左足を屈げ右膝を立てた半踟像である。右坂の地蔵は丹後林道工事のために峠を越えて岩滝側に移され、岩滝町教育委員会の手により台座をコンクリートで造り花立を立てて奉祀している。左坂の地蔵は山の土に半ば埋没しかけていたが、今回掘り出した。なお、「丹哥府志」に左坂を「言わざる」右坂を「聞かざる」内海の菩薩岩の地蔵を「見ざる」としているが、そのような三猿の姿の地蔵とは言えず同一の形である。「三重郷槌志」は左坂右坂の峠に地蔵を祀るのは賽の神として峠を守り災禍を消除する信仰によるという。地蔵が転用され賽の神として祀られたのである。 〉

地蔵
↑これは大内峠の登り口だが、地蔵さんが一杯集めてあった。こんなところがこのあたりにはあちこちにある、あるいは成吉(大江)越中守の「千体地蔵」もあるかも…
成吉はナリキチではなく、普通はナラシと読むが、国東市武蔵町に成吉(なりよし)というところがある、このあたりと関係ある人かも、あるいは成吉氏は石工、石屋、石材屋さんの総大将だったのかも知れない、このあたりの花崗岩を加工細工する技術を持っていて、石地蔵などを作って丹後各地に売り儲けていた、古くは産鉄者なのかも知れないなどと考えた。
丹後田数帳に、
〈 一 池内保 十九町二段内
  八町三段百八十歩      吉原殿
  八町四段百九十七歩     成吉越中
  □□五段        庶子分 下宮四良左衛門 〉
とあって、舞鶴と縁のない人ではなく、池内あたりを領してようである。


永禄7年(1564)の立石大逆修塔
墓としたり、万霊供養碑としたりされる。小字石ノ峠の畑に、高さ約2・4メートル、幅約1・8メートル、厚さ約0・6メートル、永禄7年(1564)刻銘の三界万霊供養碑。碑中央の上部に梵字があり、その下に「十万至□三界万雷各々等」、左右に「願主小谷対馬守」「于時永禄七甲子年二月二十六日」とあるそうである。
『中郡誌槁』
  〈 (村誌)小谷対馬守墓 本村より西の方四町を隔て字石の峠畑中に大石碑あり竪一丈三尺巾六尺にて小谷対馬守と記し永禄七年二月二十三日の文字は判然すれとも其他の文字不詳
(実地調査)石碑は高さ凡八尺巾六尺厚さ二尺以上あり丹波村行人塚と同一種の古碑なり小谷氏は河辺村黌野山砦主に其名見ゆ 〉

 谷地区
『大宮町誌』
  〈 谷地区
 森本から周枳へ通ずる「左坂道」を約三○○mほど行くと森本の端郷(はご)谷地区の集落跡がある。
 この地区も明治中期においては七戸を数えることができ、中でも陰陽家堂本山城正・桜井丹波正等の漢学者が私塾(寺小屋)を開いていたこともあり、戸数に比し相当賑やかな地域であった。
 明治の文明開化は教育や産業等に大きな影響を与え、漸次移住することとなり、大正初期において残っていた一戸もついに森本へ居を移し、今はわずかに屋敷跡が点在して残るのみである。
 谷地区の産土神は三宝荒神であったが、明治六年三柱神社と改名し境内には老杉がそびえていた。住民の移転に伴い明治四一年七月一八日付をもって三柱神社を森本の大屋神社に合祀することになった。なお、大屋神社の境内社に、「谷村大明神」として祀っている。 〉


《交通》


《産業》


三重の主な歴史記録


『丹哥府志』
  〈 ◎森本村(三重村の次)
【大屋大明神】
【南明山興勝寺】(臨済宗)
【右阪の地蔵】
【左阪の地蔵】
一色義俊の弓木に在城せし頃は今の大内峠を以て往来とせず、周枳村より森本村を通りて岩滝村へ出るなり、周枳の坂を左阪といひ、岩滝の坂を右阪といふ、其阪に各地蔵あり、左阪の地蔵を言はざるといふ、右阪の地蔵を聞かざるといふ、内海の菩薩石を見ざるといふ、皆大江越中守の彫刻する千躰仏の一なり。
【鷺草】(左阪の下、出図)
【古碑】
碑の丈一丈一尺五寸、幅六尺余、厚サ三尺、其半腹に分れたる所あり其間に小蛇の栖むあり俗に石龍といふ、碑の右に施主小谷対馬守とあり、碑の左に永禄七甲子二月廿七日とあり、碑の中央銘ありといへど読べからず僅に十方三界各々等の四五字をよむ、蓋戦士討死の者の為に建たるならんと覚ゆ。
 【付録】(大杉社、稲荷社、権現社、愛宕社) 〉

『京丹後市の考古資料』
  〈 沖田遺跡(おきたいせき)
所在地:大宮町森本小字井内口ほか
立 地:竹野川上流域左岸扇状地
時 代:縄文時代〜鎌倉時代
調査年次;1997年(府教委、大宮町教委)、
    2000年(府センター、府教委)
現 状;調査範囲は全壊(ほ場整備)
遺物保管:丹後郷土資料館、府センター、市教委
文 献:B089、C116、C127、C134、F228
遺構
 2000年調査区では、13世紀の上層遺構と弥生時代後期〜飛鳥時代前期にかけての下層遺構が検出された。上層遺構では、柵列および溝が検出されている。下層遺構では、弥生時代後期の溝のほか、古墳時代中期後葉の竪穴住居跡2棟、飛鳥時代の溝、そのほか掘立住建物跡や土坑が繰出された。土坑SK01では、網代と編み籠が出土した。
遺物
 上層遺構、包含層からは、13世紀の土師器皿、椀、甕、羽釜、東播系甕、黒色土器椀、青白磁椀、青磁椀、瓦質羽釜、鍋、木製品として人形、刀子形、小刀形、舟形といった形代のほか、墨書の痕跡のない荷札木簡状木製品、羽子板、円板、曲物、折敷、砧、箸、下強、独楽、嬢塗皿、漆塗椀などが出上している。土師器皿には、牛と思われる塁画が描かれた墨書土器が含まれる。また8〜9世紀の須恵器杯、緑釉陶器椀などが含まれる。下層遺構からは、縄文時代早期、前期、中期の縄文土器、弥生時代後期後葉の弥生土器甕、壷、蓋、鉢、台付鉢、古墳時代中期後葉〜後期前葉の土師器高杯、甕、把手、須恵器杯、提瓶が出土している。
意義
 沖田遺跡は、縄文、弥生、古墳時代中期後葉〜後期前葉にかけて断統的に集落が存在したことがうかがえる資料が検出されている。縄文、弥生時代の資料は、遺跡周辺で散発的に見られるものであり、当該期の集落が点在していたことをうかがわせる資料である。また13世紀には、土器、木製品などのまとまった量の資料が出土しており、周辺に集落の存在が推定される。 〉


案内板↓
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  〈 森本(もりもと)
森本区はどんなところ?
「森本」という地名は、江戸時代にさかのぼります。
この地区では、松山遺跡や沖田遺跡おいて縄文時代から生活をしていた痕跡がみられます。戦国時代にこの地を治めていた成吉(大江)越中守は、宮津市文珠堂境内にある等身大地蔵の銘によると応永34(1427)年に千体の地蔵を造ったと伝えています。そのうちの2体が左坂(ささか)の地蔵、右坂(うさか)の地蔵といわれています。このほか立石大逆修塔(大宮町指定史跡)は、永禄7(1564)年銘のある巨大な石塔です。
 寺は、興勝寺(臨済宗)があり、この寺では、天正2(1574)年銘のある成吉(大江)越中守の位牌を所蔵しています。また神社は、大屋神社・秋葉神社・愛宕神社・大杉社・稲荷神社があります。大屋神社の本殿は、江戸時代後期のものです。また稲荷神社には、数種の色の花をつける五色椿がある。 〉


森本の小字一覧


竹の越(たけのこし) 八反田 大下 小杉 中嶋 東方(ひがしほう) 波P替(はせがえ) 梅嶋 新川原 川流(かわながれ) 竹の内 陣取(じんどり) 下伊原(しもいはら) 伊原(いはら) 向大下 向大下川原 竹坪川原(たけつぼがわら) 竹坪(たけつぼ) フジソ 下坪(したつぼ) 星ノ内 棚田 稲荷垣 ハチ谷 井谷 右坂口 右坂(うさか) 矢の谷 カナクソ 大桑ガヘ 小大工谷(こだいくだに) 矢谷 トチマチ 右坂奥 ミヤウガ谷 ハツケ 力石 市ノ牧 掛戸(かけど) 掛戸川原 和田 和田クゴ 蛇ノ池(じゃのいけ) 安養寺 前川原 万上寺(まんじょうじ) 織戸(おりと) 荒神谷 宮ノ奥 スカ谷 桂谷(かつらだに) 本谷(ほんだに) ゼイナガ谷 石原谷 スリモ谷 滝谷 マヘラ ふやけ谷 松山 ウルシ谷 井内(いない) 井ケ谷 松葉谷 岩クラ 三良谷(さぶろうだに) 白石 小谷 市ノ小谷 臼ケ谷 寺見谷 忠兵衛見谷 井内口 シケ谷 サザイ 境谷 曲り 綱平(つなへら) 長上寺(ちょうじょうじ) 池立(いけだつ 絹屋 麻町 ラント口 ラント 内垣 内柿 糸屋 板屋 保ノ添(ほのぞえ) 桧木谷 岩井谷 奥ノ谷 保ノ崎 竹ノ腰 砂田 轟キ 六反田 茶屋 小奥垣口 小奥垣 大柳 地頭 奥垣口 奥垣 奥垣穴畑(おくがきあなばたけ) 谷阪 大苗代 長畑ケ(ながばたけ) 野田 石ノ下 石ノ谷 桜ケ坪 二階堂 風呂屋 畑ケ中 大杉 土(つち)ぶち 町田 池尻 池町 畑添(はたけぞえ) 万才寺(まんざいじ) 上ケサコ 下京名(しもきょうな) 上京名(かみきょうな) 京名(きょうな) 毘沙門 谷口 左坂谷 左坂(ささか) 左坂口 カセ綿(わた) 中ノ坪 里(さこ)の道 辻 坂の奥 谷屋敷 コブタテ 大谷 マトバ 大谷口 中之谷 桜木下 杉木谷 椙木谷 カナクワ 入谷(いりたに) 当城(とうじよう)


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『大宮町誌』
その他たくさん



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