丹後の地名

室(むろ)
京丹後市峰山町室


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京都府京丹後市峰山町室

京都府中郡峰山町室

室の概要


《室の概要》



町の中央部。南北に走る府道17号線(網野街道)に面して商店と住宅街がある。西の薬師山頂に昭和4年設立の「奥丹後大震災記念館」があり、その麓一帯である。
室町は、明治2~22年の町名。江戸期の城下町峰山町のうち、上中町の一部が明治2年の町名改正で改称。明治17年からは峰山15か町の1町となり峰山を冠称。同22年峰山町の大字となる。
室は、明治22年~現在の峰山町の大字名。平成16年から京丹後市の大字。

《室の人口・世帯数》 126・54

《主な社寺など》

奥丹後大震災記念館
震災記念館
↑薬師山頂上の震災記念館(左)と震災記念塔(左)。
桜の名所だそうだが、もうその季節は過ぎて若葉青葉の季節であった、誰もいない静かな手入れの行き届いた公園である、館も閉じたままであった。
記念館から市街地を見る
震災記念館前広場から市街地を見る↑
あのときは当館の建つこの丘の麓あたり市街地の死亡率が特に高かった、この写真の一帯である↑、一帯の家屋の倒壊率と焼失率はすべて100%で、呉服が死亡率43.8%(死傷率50.4%)、織元は37.0%(55.2%)、白銀は32.4%(36.7%)、御旅は27.4%(40.8%)、室は23.6%(50.4%)であったという。谷間に堆積物が溜まった地盤の悪い場所に建物が密集していた、網野-郷村から続く郷村断層線はここより1キロばかり上手、安のあたりを通っているのだが、そうした人災的な側面も強く、信じられないような大惨禍が生じたのかも知れない。
震災後9ヵ日目の峰山↓『奥丹後震災誌』より
焦土の峰山

案内板には、→
 〈 丹後震災記念館
京都府指定文化財 平成17年指定
 丹後震災記念館は鉄筋コンクリート造、地上2階、地下1階の建物である。昭和2年(1927)3月7日、丹後地域を襲った北丹後地震は死者2、992人、全焼全壊戸数6、797戸の甚大な被害をもたらした。中でも、峰山町の被割は大きく死者1、103人と巌も多く、家屋も97パーセントが損壊した。
 本建物は被害者の霊を弔い震災の教訓を活かすことを目的として、昭和4年(1929)に建設された。設計は京都府庁の旧本館にも携わった京縮府技師一井九平氏である。彼は震災直後、復興のため、丹後地方に設置された京都府峰山出張所に技術職の責任者として赴任(当時59歳)した。
 建物正面はポーチが設けられ、ポーチと2階の窓にアーチを用いたシンプルな造りが特徴的である。電災直後の建築であり鉄筋コンクリート造を採用し、窓の開口を極力小さくし耐震性能に考慮するなど細部にわたり配慮した建物となっている。
 また、武道場(元講堂)には京都市の画家伊藤快彦氏作の震災時の惨状が描かれた油絵3枚が揚げられ、丹後震災を後世に伝える記念塔として貴重な建物であり、昭和初期の鉄筋コンクリート造の建物としても価値が高く平成17年3日10日、京都府指定文化財となった。  〉 

『峰山郷土志』には、
 〈 震災記念館の建設    薬師山
 奥丹後震災に当たって、浜田京都府知事は、安田京都市長、浜岡京都商業会議所会頭とともに「義捐金品募集に関する件」を府公報にかかげ、政府、道府県、領土殖民地の各地方長官に打電し、なお各新聞、通信機関代表者に助力方を懇請した。これによって内地はもとより、朝鮮、台湾、関東州および海外諸国から寄せられた義捐金品の内、現金だけでも四百三十九万七千五百七十一円五十一銭の巨額に上った。このうち前記の四百二十万八百八十三円四十六銭を前後二回にわたって羅災者に分配し、十一万三千八百四十三円五十三銭を応急救援、救護品の購入、輸送その他諸雑費に支出し、残金八万二千八百四十四円五十二銭をもって「寄付行為財団法人」を組織して、内五万四千八百五十円を「奥丹後震災記念館」の建設に、二万七千九百九十四円五十二銭をその維持運営の基金に当てようとした。
 昭和四年六月七日、府の田中英より「財団法人丹後震災記念館」設立を文部大臣に申請、同五年一月七日認可。峰山町の中心地字室小字元薬師一、一九八の薬師山に、鉄筋コンクリートニ階および平屋建延二百一坪七四(付属建物=木造瓦葺平屋建七坪、工費二百七十円)を建設し、同五年三月七日竣工。当初は京都府社寺課がこれを主管し、役員は府の学務部長を理事長とし、理事七名(学務部長、社寺課長、震災地町村長四、社会課長)監事五名(震災出身府議)が選ばれ、建物の管理は所在地の峰山町長に委嘱した。この土地は、峰山町が買収し、無償寄付をしたもので、実測によると二百六坪七七であった。
 本館建設の目的としては、震災殉難者の尉霊祭、震災記念物の保存、地震に関する研究、その他社会教化事業に使用するためであった。なお天然記念物として保存のため、同、五年七月一日、用地として生野内ハシラヶ谷の田一畝十八歩(百二十円)、郷字小池の田一歩(五円)、郷字樋口の田二十一歩(六十三円)を理事長名義で買い上げた。しかし、その後府の財務出張所が建物の一部を事務室に使用し、つづいて、奥丹後地方事務所が、これに代わってそのほとんど全部を使用するに至って、震災記念館としての性格は消え、記念物、記念画等は一室に押しやられ、昭和十一年三月京都の伊藤快彦画伯に依頼して作製した三枚の震災面大竪額は煤けるにまかせたが、終戦後、地方事務所は山を下って現在場所に移り、記念館も維持困難から昭和二十九年十二月財団法人を解散して峰山町に無償移譲され、内外ともに大改装をして、町教育委艮会、同中央公民館、および町立図書館に活用することになった。ただ、防音装置の不完全から、折角の大広間が、講演、演劇、映画会等のための設備を有しながら使用できないことは遺憾である。  〉 

震災記念館
中を窓ごしにのぞいてみれば、何か資料がありそうなかんじである。震災が起きた日あたりには「震災展」が開かれるようである。しかし風化の印象は免れない。
過去の大惨禍を忘れてしまうことは、幸福なことなのか、それとも愚かなことなのか。長い時の流れのなかで何世代をも越えてどう伝えて残していくか、人という忘れっぽい、半分以上は死んだような様子で、実際にすぐに死んでしまう生き物には難しい話になる。自然が相手の確実に反復性を持ったものではあるが、人の命と比べれば長い長いもの、ほっておけば、けろっと忘れて、忘れたことすら忘れてまた繰り返して、未曾有のできごとでした、などと言う、どうすればいいものなのか。
どこでどれだけ亡くなったのか、そうした地図くらいは掲げておくのがいいのではなかろうか。
震災記念塔
左手には巨大な「震災記念塔」がある。丹後のあちこちに震災慰霊碑がある、近くの増長院境内や桜尾公園にも建てられているが、ここのは大きい。
『峰山郷土志』は、
 〈 【震災記念塔】震災記念会館の南側広場に震災記念塔がある。これは峰山町で建てたもので、約六メートル平方、高さ約八十センチの中央に、幅約三メートル、厚さ三十センチ余りの台石を覧き、上に幅約一メートル八、高さ四メートル三ばかりの仙台石の塔を東面に立てたもので、表面に「峯山町震災記念塔」と彫り、裏面に次の碑文が刻まれている(『峰山町誌稿』)。  〉 
碑文は実際に彫られている文面とは少し異なるが、
震災記念塔背面
峰山町震災記念塔銘
 〈  嗚呼昭和二年三月七日 うらゝかなりし春の日も霞の山にかくれ暮色漸くせまると雖も、雪解の点滴なほ軒に静かにして、或は浴槽に或は食卓に或は炉辺に、一家嬉戯談笑しつゝ一日の労を養へりしをりしも、時計正に六時二十七分、突如として起きし大鳴動は激震を伴ひ、乾坤覆り屋舎砕け、町の内外忽にして叫喚の巷と化しぬ、劫火燃え余震志きりつつ、救を呼べりし四方の声も時のまに埃烟の中に消えゆきて、骨肉隣保索ねむに由もなきに、暴風雨雪や洪水や相次いで残息の上に襲ひ来り、其の凍餒に苦しめられし状は筆舌此よく尽す所にあらざるなり。かくて死者一千百三人、傷者五百三十三人、家屋の全焼せるもの八百三十六、同全壊せるもの百四十九、建造物財貨の損害三千百十九万余円を算するに至れり。そが中に一家全滅して永く祭祀を絶しもの四十戸に及びしぞ酸鼻の極みなりける。災害の趣 天聴に達するや畏くも町民の痛苦を軫念あらせられ、九日には多くの救恤金を賜はり、十日には侍従を派して親しく慰撫せしめ給ひき。中外国民の同情もまた翕然として集まり、救援慰問至らざるなしが中にも、軍隊並新聞社の活躍とわが京都府官民の尽瘁とは、まことに人力を超えて目ざましきものありき。爾来二星霜、街区の整理店舗の新装公宇の造営皆既に成りて、戸口日に増加し隆昌昔日の殷賑を凌駕せむとするものあるは、町民がよく更生の意気を以て専念事に従ひたると、前町長中村治作、現町長太田静男初め、当事者が己を殺して公に奉じたるとの致す所なり。然れとも復興の完成は容易の業にあらず、町民心を一にして、永に不断の努力を持続し、転過為福の素志を達成して以て上は聖明の宸息に対へ奉り、下は内外の同情に報ひむ事を期せざるべからざるなり。すなはち薬師山上を卜して震災記念塔を建て、且は受難の精霊を祭り、且は後昆の鑑戒に供へむのため事蹟を録して塔背に刻すといふ
京都府帝国大学教授文学博士 吉沢義則 撰文
京都府文書課長          浜谷由太郎 書
                 京都芳村茂左衛門刻  〉 

また来るぞ油断するな、の後世への警告は文面にはあまり強くはない、現代社会に合わせたもう少しアピール性の高いものを工夫していくべきかも知れないし、一体この周辺にどれだけこうした碑があるのか、それは本当は後世へ何を訴えようとしているのか、ヨソモノでも異様な多さと大きさに気になるのであるが、町の地元のインテリ・知識階級の中学生たちにくまなく調べてもらいたいと私は願う。ここが動かないと町は決して本当にはよくはなるまい。
地震と被害そのものについては、丹後大震災の記録(中郡編)


《小字》
室  御堂上 元薬師

《交通》


《産業》


室の主な歴史記録


『中郡誌稿』
 〈 (峯山町誌稿)丹後国中郡峰山町 本市街古時何郷に属するや分明ならず往古吉原と称す峰山と改称するは何れの年間か又詳ならず(慶長七年検地以前には峯山の称見当らず其後称するならんといふ)中古町名北町表町四軒町不断町上町中町下町古殿町(丸山町又茶園場と云)田町出町等の称あり文化四丁卯年更に一ケ町を増置白銀町と唱ふ明治二己巳年町数を分合改称し吉原町(北町表町を合)織元町(中町を分つ)室町(同上)呉服町(下町を分つ)浪花町(同上)富貴屋町(田町を分つ)境町(同上)御旅町(出町を改む)泉町(白銀町の内を分つ)光明寺町(菅村地内菅峠に在る民家を峯山町に属す)四軒町不断町上町古殿町白銀町と共に十五ケ町となる(付云吉原町の内字桝形以北元北町と称する辺元和八年以前は赤坂村の農家あり今桝形と唱ふる所小峠にて赤坂村と峯山との境界のよし京極氏陣屋を建築するに際し民家を今の赤坂村へ移すと云又元田町は延宝年中組屋敷を町家とし元出町は其後に置るならんと孰れも古老の伝記にあれども詳ならず  〉 


室の小字一覧



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『峰山郷土志』
その他たくさん



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