丹後の地名

西山(にしやま)
京丹後市峰山町西山


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京都府京丹後市峰山町西山

京都府中郡峰山町西山

京都府中郡吉原村西山

西山の概要




《西山の概要》

市街地の西部で小西川の水源・来迎山(切畑権現山493m)東麓に位置する。小西村の技村で明治七年分離した。地名の由来は、吉原庄の西にあたることによるという。
西山村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、元和8年からは峰山藩領。
峯山明細記に、「御用留石之谷一ケ所西山 字さこが谷」「御用石切場所二ケ所西山 字かせが谷、川谷」とある。石切場は村の裏山にあり、石は灰色・軟質で墓石・鳥居・石垣などに用いられた。昭和二〇年頃まで切り出していた。明治4年峰山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年吉原村の大字となる。
西山は、明治22年~現在の大字名。はじめ吉原村、昭和30年からは峰山町の大字。平成16年から京丹後市の大字。


《西山の人口・世帯数》 71・26

《主な社寺など》

古墳数基と「比丘尼屋敷」がある。奥吉原城の砦跡がある。白椿の下に黄金千両が埋蔵されているとの伝説がある。

神明神社
神明神社(峰山町西山)

『峰山郷土志』
 〈 【西山、神明神社(村社、吉原、西山、祭神 天祖向日命)】
宝暦三年(『峯山明細記』)
西山分、神宮小祠、上屋 一間半四面、境内 長八間幅五間程、但し神主御座なく、村支配、神子 右同断、祭礼 九月六日。
明治二年(『峯山旧記』)
真明大明神 西山村、祭九月六日。
明治十二年(『神社調』)
中郡第二組 西山村 神明社、境内 四畝六歩、境内より峰山郷社まで里程廿五丁、上屋立 一問半四面。
右社の儀は紀州熊野よりカソ定(勧請)つかまつり、元新宮大権現と唱え候。この儀古人より聞き伝え来り候えども、明治五年改正の際、神明社と相成候…
と、惣代から郷社佐治義治宛に届け出ている。
明治十七年(『府・神礼明細帳』)
村社 神明神社……(省略)社殿 二間四面、境内 二一六坪、官有地第一種、受持社掌は、久次麻奈為の中沢義治…。
祭神は、天祖向日命とあるが、小西の神明神社と同一神で、その由来も同じであろう。西山は、小西村の枝村であり、寛文四年(一六六四)頃は、両部落を合わせて小西村と呼んでいたようであるから、分村前から、両方にまつっていたか、分村の際、西山に分霊を行なったものではなかろうか。祭神名は、時々書き変えられている。
現在・社殿は、震災後改築されたもので、間数、構造とも従前に変わりなく、本殿外陣を拝殿に流用している。
大岩 社殿のうしろに大きな神石があって、岩の上に幼児の足くらいの、くぼんだ足跡が一つある。古くから神様の足跡であるといい伝えられているが、最近その一角を欠いて、道路の石垣に使用した。従事した石工たちは神罰をおそれていたが、別にたたりはなかったという。神職は小西に同じである。  〉 

『中郡誌稿』
 〈 (丹哥府志)小西村、真明大明神、祭九月廿六日  二神大明神
     西山村、新宮大明神、祭九月六日
(峯山明細記)一社三ケ所小西村(但神主無御座候何れも村支配)内一社二神小祠 上屋一間半四面 境内長二十間程幅六間程祭礼九月六日田町神子内膳相雇神事相勤申候
一社神明小祠 上屋五尺四面 境内長五間程幅二間程山之間数難相知候 右祭礼九月二十六日 神子右同断 
一社弁財天小祠(禅定寺に記之)
一西山分 一社壹ケ所 神宮小祠 上屋壹間半四面 境内長八間程幅五間程(但神主無御座村支配) 神子右同断 祭礼九月六日
(小西村村誌)社 村社 字奥地と称する処に鎮座 神明神社(祭九月十六)祭神天疎向日命 由緒、古老口碑も伝聞の者も無之也 境内 東西十七間南北五間 面積貮坪ママ二分五厘
(西山村村誌)社 村社 字下地鎮座 神明神社 祭神天疎向日命 由緒、不詳なりと雖ども紀伊国熊野より遷座すと明治五年新宮大権現を神明神社と改め称すと云々 境内東西十三間南北八間面積四畝六歩  〉 


《交通》


《産業》


西山の主な歴史記録


『丹哥府志』
 〈 ◎西山村(安村の次)
【新宮大明神】(祭九月六日)  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【小西・西山】これ来迎山(らいこうやま)(切畑山、切畑権現山、日暮(ひぐらし)山)四百九十三・八メートル。ふもとの二つの谷に点在する部落である。郷土文化の移動経路から考えて、小西川の上流の山ずそ住みついた里人が、西山、安と川の流れに従って開拓して移動したとみられようが、その年代を解く資料はない。
『峯山旧記』によると『文明年間(一四六九~一四八七)、吉原山城の陣代遠藤左治右衛門が城を出て奥吉原に築城し(禅定寺の前方)奥の守りとし、永正四年頃(一五〇七)、同じく一色松丸(義秀または義有とも)の将、小西石見守が遠藤に代わってこの城に拠り…子孫相継いで吉原を守護していたが、天正十年吉原山落城とともに滅びた。今、この村を小西村という」とある。
また、文化七年『丹後旧事記』にも、「奥吉原城(いま、小西村という)」とあるから、この付近一帯を奥吉原と呼んでいたにちがいないが、小西石見守の姓にちなんで、小西村と改めたのであろうか。また小西山禅定寺は宝暦の頃は小盧山とよんでいる。小盧の意味がわかれば、あるいは小西となったいとぐちがつかめるかもしれないが、研究の手がとどかない。来迎の谷から城中へ水を引き入れたという溝跡は、今も山腹をぬって残っている。また、西山に残る城趾も、この奥吉原城の砦の一つであろう。白椿の下に黄金千両の伝説があるが、白椿の跡さえない。
小西村の枝郷であった西山が独立したのは、いつ頃であろうか。宝暦の『峯山明細記』でわかるように「小西村、西山村」あるいは「小西分、西山分」とあげているし、両村の耕地は今もなお盤上の碁石のように黒白いりまじって、もと、一村であったことを物語っている。西山分の耕地が小西に比べて少なかったのは、西山は石切場があって、盛んに石を切り出していたからだという。
 明治十七年の『町村沿革』(五箇村戸長役場藏)にると「西山村は小西村の支村…明治七年分離独立す」とある。事実上の独立は、この豊岡県時代であったものか。
また西山の村名は、その位置が吉原ノ庄の西にあたっているところから生まれたのではなかろうか。  〉 


西山の小字一覧


西山 アライ 石尾谷 イナバ イナシロ 芋谷 イセキ 石ノ戸 石尾谷岡 イナシロ谷 奥ヨリ 大ノ向 奥地 久田 カンシバ クハサコ 桑ザコ サブガ谷 左坂 椎ノ木 清水 白井谷 下地 清水ケ谷 セキドウ 堂ノ上 ナシモト 梨谷 中田 中尾 成滝 ハチヲ川原 花ノ木 古堂 古堂ノ上 崩ノ木 宮ノ谷 モトミヤ 桃谷 矢ノ谷 書井口 吉井 横田

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『峰山郷土志』
その他たくさん



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